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子守り男子の日向くんは帰宅が早い。  作者: 双葉三葉
【四章 結実の冬、足跡を残して。】
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今はまだ遠い二人。

 日和の手を引いて川辺を歩きながら、この生活が始まった時の事を日向は思い出していた。

 当時はまだ苦かった思い出は、数々の出会いと出来事でその形と色を変え、今も日向の心の真ん中に鎮座している。きっと、今日この日に日和へ伝える為に……そう思える程に、心が凪いでいるのが分かった。


「雅から、大体の事は聞いてると思うけど……そうだね、事の発端は、あの日かな」


「……つっつが、熱を出して倒れた日」


「うん。今にして思えば、なんであんなに思い詰めたんだろう、って自分でも笑っちゃうんだけど」


 ふっ、と日向の口元が苦笑いに歪むのを日和はじっと見ている。この話が終わった時、自分は日向に対して『大変だったね』と笑うのか、それとも憤るのか、別の事を言うのか。いずれにせよ、日和にとっては待ち焦がれた一瞬が、すぐそこまでやって来たのだ。


「時期は、そう。全国大会を控えたあの辺りだね。練習が煮詰まってて、毎日くたくたになるまで練習して、学校と練習と……その二つで、文字通り生活が忙殺されてた時。その週の日曜日だけは体調面を考えて練習を休みにする事になって家に居たんだ」


「……覚えてる。凄くきつかったけど、充実してた。どれだけ練習しても満足出来なくて……部活が終わった後も自主練とかする人が居て、先生と結城コーチが結託して一部の選手に練習禁止令を出したんだよね」


 思い出すように目を瞑って笑う日和に、日向はバツの悪そうな顔をした。言わずもがな、その一部の選手とは日向の事であって、日和を含めた選伐選手は揃ってとばっちりを受けたのだ。


「家で過ごしていたけれど、俺は練習がしたくて……正直言うと休日なんて要らなかった。ずっとコートに立っていたかった。身体を動かしてないと落ち着かなくて、でもコーチ達には休養を厳命されていたから、破る訳にもいかなくてね。多分、少し気が立ってたんだと思う」


 日和とお互いに記憶を確かめ合うように前置きをしてから、日向はゆっくりとした足取りと同じく、緩やかな口調でその過去を語り始めた。



 自室で一人、テニスの月刊誌を読み更ける日向の部屋がノックされたのは、丁度昼食の時間に差し掛かる頃だった。


「日向、母さんちょっと買い物行きたいんだけど、蕾はテレビ観てたいって言ってるから、ちょっと見ててあげてくれる?」


「いいけど……お昼は? 俺はまだ平気だけど、蕾はお腹空かせてないの?」


「先に食べるか聞いたんだけど、今は要らないの一点張りで……多分、アニメ見終わるまではこっちの声は聞こえてないわね」


 笑って言う明吏に対し、日向は内心で少し面倒な気持ちを覚えつつも了承した。どうせやる事が無いのであれば、偶には妹の子守りぐらいはしなければという自負もあっただろう。

 その後、外出用の装いをした明吏を見送り日向がリビングへ入ると、そこには明吏の言葉を体現するかのようにテレビの前で動かずに熱中する蕾の姿があった。


「……まぁ、大人しくしててくれるなら、楽なもんか」


 日向がリビングに来ても気付いていない蕾の背後、ソファーに座って自室から持って来たテニス誌を広げ、暫くはそのままの時間が続いた。

 時折、蕾が咳込むような音が聴こえたが、日向は単に唾か痰が絡んで咳払いしているのだろうと思い、特に気にする事無く雑誌に視線を戻していた。

 ニ十分程が経過した頃、ようやくアニメがひと段落したのか、蕾はテレビの前から立ち上がると部屋の中を見渡した。


「……おかぁはん」


「ん……?」


 当時の、まだ上手く発音出来ていない言葉を発しながら部屋の中をぐるぐると回った蕾は、やがてテーブルを挟んだ日向の対面に来て、日向を見上げた。


「おかぁはん、いないよ?」


「あぁ、買い物に行ったよ。蕾はテレビ観てたから一人で。兄ちゃん此処に居てやるから、そのまま観てても大丈夫だよ」


 てっきり既に認識している事実だと思ったが、テレビに夢中で何も聞こえていなかったらしい。日向の言葉を聞いた蕾は、顔をくしゃっと歪ませて再び部屋の中を歩き始めた。恐らくは明吏の姿を探して。


「……うぅ」


 台所やトイレ、洗面所、一階のあらゆる場所を捜し歩いた蕾は、母親が不在である事が気に入らないのかみるみる機嫌が悪くなっていった。


「だから、居ないよ。もう少ししたら帰ってくると思うから、もうちょっと我慢してて」


「……やらぁ」


 泣きそうな顔でふらふらとリビングを歩き回る蕾は、時折ダイニングテーブルに身体をぶつけたり、何も無い廊下で転んだりしていた。日向はそれを三歳の運動神経ならこんなものかと思っていたし、機嫌が悪くて物に当たり気味になっているのだと思い、溜息を吐くと自身も台所へ向かった。


「なんかお菓子出してあげるから、それ食べて待ってて。ほら、次はお人形さんのお芝居が始まったよ」


 テレビを指差してから、日向は電子レンジの横にある蕾用のお菓子が入った棚を漁り、動物の形を模したクッキーの箱を見付けるとそれを持って蕾の傍に跪く。そして蕾と目線を合わせると、怖がらせないように出来るだけ優しい声で蕾へと語り掛けた。


「これ、蕾のでしょ? 兄ちゃんが出してくれた、って言えば食べても怒られないから、これ食べて待ってような」


「うぅ……」


 そう言って日向が差し出したクッキーの箱を見た蕾は、しかし受け取る事無く首を横に振った。


「おかぁはんとこいきたいの……」


「だから、もうちょっとしたら帰ってくるよ。……分かった、携帯に電話掛けてみるから、それでいい?」


「うん」


 蕾を落ち着かせる為に、日向が仕方なく訊くと蕾はこくりと頷いてその場に座り込んだ。

 日向は自分のスマートフォンを操作すると明吏の番号を呼び出し、コールする。けれど、何度コール音が鳴っても明吏が出る気配は無かった。


「駄目だ、母さんバッグに携帯入れてるから、気付いてないな。……な、今きっと買い物の最中だから、もうちょっとだけ兄ちゃんとお菓子食べながら待ってような」


 スマートフォンの電話アプリを落としながら日向が蕾を見ると、蕾は納得していないように下唇を突き出して俯いていた。

 そんな表情をされてもな、と日向は蕾の手に持たせてあげようと、クッキーの箱を小さな手に乗せた時。


「やー! おかぁしゃん、いないのやー!」


「あっ……!」


 バシン、と蕾がその箱を日向の足元に叩き付けるようにして放り投げた。

 箱は角が潰れてしまい、そのまま転がると床を滑り、離れた場所で停止した。結構な強さで叩き付けられたので、恐らくは中身のクッキーも何枚かは砕けてしまっただろうか。


「ちょっ……何するんだよ、食べ物をそんな風に扱っちゃいけないだろ」


 日向は眉を顰めながらも、咄嗟に波打った感情を抑えるように一度息を整え、蕾へ諭すように言い付ける。

 はぁ、と溜息を吐いて立ち上がると床に落ちた箱を拾い、もう一度蕾の手に乗せてあげた。


「ほら、これ蕾が欲しくて買って貰ったんだろ? こんな風にしたら動物さん達が可哀想―――」


 ―――バチッ!


「……っ!」


 お菓子を渡した瞬間、今度は蕾に日向の手が箱ごと薙ぎ払われた。

 もう一度飛んで行ってしまったクッキーの箱は、まだ無事だった対角も潰れてしまい、原型からはかなり凹んでしまうのが見えた。

 その状況を確認すると、日向も今度は先程のように静かな口調を続ける事が出来なかった。


「何するんだよ」


「……うぅ」


「それは駄目だよ。そういうのは駄目だ。ちゃんと拾って」


 厳しめの声で日向が言うが、蕾は顔を俯かせたまま首を横にいやいやと振った。


「拾って。拾わないならもうあげない。それでもいいの?」


 重ねて言うものの、蕾は答えずに俯き、興奮したのか大きめの呼吸をして肩を上下に震わせていた。

 その状況でも日向は自分からは何もせず、ただじっと蕾が払い落としたクッキーの箱を自主的に拾うのを待つ。

 それから数分が経過し、その間は互いに一言も発する事無く、蕾は俯いたままで、日向は蕾を見下ろし続けた。


 埒が明かなくなった日向が時計を確認すると、明吏が出て行ってからそろそろ三十分が経過する頃合の時刻になっている。

 買い物にどれだけの時間が掛かるか正確には分からないが、近所のスーパーマーケットであれば一時間も掛からないだろうと予想が付いた。

 ならば、この後はもう蕾の好きにさせている内に帰宅するだろうし、何よりこの状況では蕾もいじけて何もしないだろう。自分が一緒に居る事で却って蕾が機嫌を損ねたままになってしまうかもしれない。

 そう判断した日向は急にやる気が無くなってしまい、蕾をリビングに残して一人で部屋を出た。


「あ……」


 か細い声が聞こえて振り返ると、蕾が泣きそうな顔で上目遣いに日向を見ている。

 けれど、日向はそのまま階段を昇る事を選択した。今の心境で蕾と接しても余計に怖がらせてしまうし、何よりこの短時間でどっと疲れた精神を落ち着けたかった。


 部屋に入ってベッドに仰向けになった日向は、大きく息を吐いてから軽く目を閉じてみる事にした。

 視界が完全に途切れる前に見たものは、部屋の壁時計だった。

子持ちの読者さんに、あるあると言って貰えそうな内容だといいなぁ。

私的にはおおいにあるあるです(笑)

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