父親達の饗宴、制裁。
気持ちを入れ替え、日向は妹達が待つ教室へと向かう。
僅か十五分に満たない程の時間だっただろうそれは、体感的な時間はより長く、ともすれば三十分近くにも及んだのではないかと錯覚する程であった。
段々と教室に近づくに従い、喧騒も次第に大きくなる。日向が異変に気付いたのは、教室まで後十メートル程の所だった。
「えぇ……?」
声が漏れてしまう程に分かり易く、自分の教室の前だけが異常な人だかりになっているのが見える。
既に列は二つに分けられ、その周囲では魔女姿の沙希が慌ただしく客に声掛けをしているのが分かった。
「鹿島さん、どうしたの、これ……」
日向が人垣を避けながら先へと近づき声を掛けると、沙希が泣きそうな顔で日向へと振り返った。
「あぁぁぁやっとかえっでぎだぁぁぁ!」
「な、何が?!」
「あらがぎぐんがぁぁあ!」
「お、落ち着いて落ち着いて! これどうしたの……?」
むしろ既に泣いているのか、じんわりと目尻に涙を溜める沙希におののきながら、日向は両手を軽く挙げて沙希を宥める。
「づ、づぼみちゃんがぁぁ!」
「……蕾が?!」
「可愛過ぎてお客さんが酷い事になっだぁ!」
「……うん?」
果たして沙希が一体何を言っているのかと理解しようとした日向の耳に、教室の中から聞き慣れた声が飛び込んで来る。
『い、いらっしゃいまーせー! ありがとう、ござい、ましたー!』
たどたどしくも元気な声に視線を向けると、そこには綺麗に膝に手を合わせてお辞儀をしながら、目の前の人物に声を掛けている蕾の姿があった。ただし、その頭には何故か猫の耳を模した作りのヘアバンドが被せられている。
そしてその周囲には、慌ただしく教室の中を動き回る悠里、そして蕾の隣で制服姿のまま何故か手伝わされている日和とひかりの姿もある。
「ひ、日向先輩、こっちこっち!」
「おにーちゃーん!」
日向が教室に入るなり、その姿を見つけた日和が日向へと手を振ると、隣の蕾も同じく手を振ってくる。並んでいる客の邪魔にならないよう、横合いから日和の傍へと駆け寄ると、蕾の頭から下の姿が日向の視界に飛び込んで来た。
「はぁー、成程。これは、随分と気合入れたね……」
蕾は悠里達と同じくエプロンドレスを着用し、衣装係が用意していたものなのか、何故か背中には小さな羽根が付いている。
天使のような妹だ、とは思った事が何度かあったが、目の前に居るそれは確かに天使そのものでもあった。
「おにーちゃん、かわいい? かわいい?」
「うん、可愛い! 凄い可愛い!」
「やったー! かわいいでしょー! れみちゃんとさきちゃんがやってくれたんだよ!」
ぐっ、と親指を立てて蕾に見せると、蕾も白い歯を見せながら親指を立てて日向へと返した。
内心で衣装係の二人に多大な感謝の念を送っていると、隣に居る日和に肩を強く掴まれてしまう。
「そうじゃなくて! つっつの可愛さに関しては同意しますが、今は置いておいて下さい!」
「そうだった……えっと、状況は……見れば分かるね。日和達も駆り出されるぐらい、忙しくなっちゃったんだ」
「そういう事です。つっつと接客練習していたら、それを見たお客さん達が面白がってどんどん来ちゃって! お邪魔にならないように帰ろうとしたら……恵那先輩に嵌められましたっ!」
どういう事かと教室の中の唯を探すと、今の会話が聴こえていたのか、唯は席についている客の注文をメモ帳に書きながら、一瞬だけ日向達の方向を向いた。
そして、にやりと笑うと、そっとポケットの中から何かを取り出す。
「随分古典的なものに引っ掛かったね……!」
「演技が迫真過ぎたんですよ! 本気で泣かれたと思いましたから! あの人、将来女優になれますって!」
再びポケットに仕舞われる唯の目薬を視線で追いながら、ざっと視線を一周させる。
とりあえず、この騒動を収める為には蕾を引っ込める必要があるだろうか。本人は楽しそうにしているのだが、如何せん状況が悪い。
「蕾、ちょっとこっちおいで。邪魔にならない場所に行こう!」
「はーい!」
「多分、さっきの衝立の後ろとかな……ら……」
―――カシャリ。カシャリ。
「……ん?」
蕾の手を引いて邪魔にならない場所を探す日向の耳に、シャッター音のようなものが聴こえてくる。
校内は原則として撮影厳禁であり、保護者と撮る場合には生徒同伴で、後は生徒同士の撮影でない限りは全て禁止となっている。
その中でのシャッター音、ともすれば盗撮かと視線を鋭くする日向は、その音の発生源を探すように教室を再び見渡し……あっさりと、その犯人が見つかった。
「日向ぁ! お前邪魔だ邪魔! 蕾が撮れねぇだろうが!」
大声で日向へと罵声を浴びせるその人物は仁であった。両手に構えているのは、蕾の出産と共に購入した一眼レフのカメラで、時折日向も蕾の行事などで持たされているものだ。
持ってきていたのかと頭を抱える日向を他所に、周囲の生徒は何事かと日向と仁を交互に眺め出す。
「あぁ……うちの蕾は本当に可愛いなぁ……母さんに似てくれたんだなぁ、俺に似なくて良かったなぁ……」
カシャリ。カシャ、カシャリ。
二枚、三枚と連続で撮り出す仁を認めると、日向は全身からどっと脱力したように手を垂らす。
とりあえず禁止事項は禁止事項なので、父親を止めようと近寄ると、仁からやや離れた位置で別の方角に向けてカメラを構える人物がもう一人居た事に気付く。
「……純基さん?」
「うちの唯ちゃんは本当に可愛いなぁ……母さんに似てくれたのかな、僕に似なくて良かったなぁ……なんだよエプロンドレスって、最高かよぉ……」
仮装した女子高生に向けて鼻息を荒くしてカメラを切るその姿は、今更説明する必要が無い程に不審者だった。
「ちょっと二人ともマズいって……! ほら、周りのお客さん完全に引いてるから、通報されかねない……!」
「止めないでくれよ日向君、僕の生き甲斐はね、唯ちゃんの生涯を鮮明に記録する事にあるんだ。長男が既に家を出て奔放な生活を始めた今、僕にとっては唯ちゃんだけが生きる希望なんだ」
「分かる、分かるぜ純基。うちもなぁ、日向が小さい頃は、そりゃまぁ可愛らしいもんだったんだが……テニス始めてからは友達とばっかり遊びに行くし球打つし、高校に入ったと思えば妹にべったりで、なーんも手が掛からん子供になっちまった。俺達には必要なんだよな、癒しの存在が……」
目線すら合わせず、カメラを構えたまま謎のやり取りをしてお互いを慰め合う中年二人に、日向は盛大な溜息が漏れるのを必死に堰き止めた。
「とりあえず二人とも、撮影は禁止されてるから、撮るなら後で本人と一緒に先生達の許可を得た上で……」
「心配無い、既に手回し済みだ」
制止する日向へと鋭い視線を向けて誇らしげな顔をした仁が、教室後方のドア付近を指差す。
そこには、眉間に指を添えて申し訳なさそうに目を瞑る小野寺教諭の姿が見えた。
「せ、先生?!」
思わず声を掛けた日向に、担任は「すまん」と口を動かし、日向を拝むように右手だけを顔の前に挙げた。
恐らく、この中年二人の勢いに飲まれてやむを得ず許可したのだろう。
「そういう事だ、俺と純基は担任公認のクラスシャッターマンになった、お前達の雄姿と可憐な姿は全て我々に任せてくれ」
「あぁ、日向君! 好きな女の子の写真とか、後で融通してあげるよ! おっと唯ちゃんのだけは高いからね、それを要求する場合、菓子折りの一つでも持って我が家を訊ねて来て欲しい。悪いようにはしないよ!」
言いながら再び教室のあちこちに向けてシャッターを切る二人に、最早何を言う気力も無くなった日向の背後から、どたどたと足音が聴こえてくる。
「くるぁ! 何してんのよパパぁ!!!」
「止めてくれ仁おじさん、純基おじさん! こんな姿の俺を撮らないでくれ……! 後生だ……!」
父親の暴走を見咎めて唯がエプロンの裾を持ちながら駆け寄る傍ら、雅が血相を変えて付いてくる。
クラスメイト二人に追い掛け回された中年二人は、どこにそんな機敏性があったのか、ひらりひらりと人混みをすり抜けながら器用にシャッターだけは切り続けていた。
「まだまだ、老いたとはいえ悪ガキ出身の俺達よ……!」
学生二人を嘲笑うかの如く焚き付けながら移動する仁に、いよいよ日向も一発、きつく叱りつけようと思った矢先、仁と純基がぴたりと動きを止める。
急に静かになった中年達に、追い掛け回していた唯と雅も一緒になって止まった、その視線の先には。
「ま、ママぁ……!」
「母さん!」
唯の感極まった声と共に、日向も同じく歓声を上げる。
氷点下の視線を互いの夫に向ける二人の女性は、それぞれ右手と左手をゆっくりと動かした。
「恥を晒す為に、此処に来たのでは無いと思うのだけれど」
「娘可愛さに我を忘れるなど、軟弱の極みよね、あなた」
底冷えのする声と共に、明吏と……恐らくは唯の母親と思われる女性が揃って目の前の夫を窘める。
声を失い、ただただ硬直する男二人に、明吏はその鳩尾付近に右の拳をゆっくりと。唯の母親はその左手で純基の顔面を覆い隠すように握り締める。
「「反省しなさい」」
「うっ……ごっ………」
「あががががが!」
今度こそ揃った声と共に、明吏が添えた拳から言い知れぬ迫力が漏れると同時に仁が崩れ落ち、純基は抗えない力に導かれるかの如く、背伸びのような状態になった。
「……寸勁、そして何という握力」
日向の視界の端で担任から感嘆とした声が漏れるが、正直聞きたくない。
自分の恩師が母親に対して武力面を評価するなど、通常の高校生活にあってはならない事だと思える。
「日向、私達は向こうでこの木偶の頭を冷やしてくるから。蕾はどうするー? お母さん達と一緒に行く?」
「い、いかない……!」
流石の蕾も、今の母親の迫力には何か感じるものがあったのか、必死に日向の服を掴んでしがみ付いてくる。
そんな愛娘の姿にも明吏は動じる事無く。
「そう……じゃあ、もう少し日向に任せてもいいかしら? 近くには居るから、呼んでくれたらすぐに来れるから」
「う、うん。大丈夫、皆良くしてくれるし」
日向の言葉に安堵した表情を見せると、明吏は唯や雅、遠目から成り行きを見守っていた悠里達へと頭を下げる。
そのままずるずると仁を引き摺るようにして教室を出ていくと、その後ろを唯の母親と純基が同じような体勢で付いて行った。
「……子を持つと、女性とはああも強くなるものなのか」
修二がそっと呟いた言葉を聞いてしまった日向は、どう答えていいのか分からず、どうか担任夫妻に元気の良い子供が産まれますように、とだけ祈るのだった。
前回が少々重めだったので、今回はコメディチックに。
唯ママの登場と、唯パパの久し振りの登場。
恐らく次回、学校祭編の最終話となります。このまま書き続けるとまた文字数多めになりそうなので、一旦区切ります、長かった……!