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子守り男子の日向くんは帰宅が早い。  作者: 双葉三葉
【四章 結実の冬、足跡を残して。】
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君が私で、俺が貴女で。

「あ……はい、そう、です」


 かろうじて声を振り絞る。自分より年上とは言っても、小さな体躯の女性を相手なのに、その存在から目を離せない。


「ふふ、そんなに畏まらないでね。私みたいなおばちゃん、じっくり眺めても面白くないよー!」


 本人はそう言うが、晴香の見た目は恐らく年齢以上に若々しい、というか実際に若い。

 童顔と身長の影響なのかとも思ったが、それよりも立ち振る舞いだろうか。

 大人としての雰囲気は確かにあるのだが、細かい部分の動作が何かに似ている、そう思った時に視界の奥に入った蕾を見て、気付く。

 晴香の表情からは、蕾と同じものを感じるのだ。


 天真爛漫で人懐っこい、内に秘めたエネルギーが見た目よりも大きい、そんなタイプだろう。

 そしてもう一つ気になる事が、やはりその面影だ。彼女に似ている、そう思うが確信が無い。

 名前を聞いてみようかと思ったが、先程担任の奥さんを公言していた事を思い出す。ならば旧姓なのだろうけど、初対面の相手に旧姓を訊ねるなど、常識の範疇ではない。


 日向が迷っている内に、逆に晴香が日向へ話し掛けてきた。


「もしかして、君が新垣君?」


「そうです……けれど」


 名乗る前から自分の名前を当てられる。このやり取りにも既視感があった。

 魔女の瞳に見据えられた時、内面そのものを覗き込まれた、あの瞬間だ。


「新垣君の事はね、主人からよく窺ってて……わー、本当に思った通りの男の子だ!」


「俺の事、ですか? 小野寺先生が?」


 笑って話す晴香の言葉に日向が驚くと、晴香は口元をバッと抑えた。


「あ、いけないいけない、これって守秘義務とかあるんだっけ!? だ、大丈夫! プライバシーに関わる事は言ってないと思うからー! しゅーちゃんね、お酒が入るとちょっとだけ悩み事を話してくれるのよ! その時に、ちょっとだけ、ちょっとだけね!」


 それはつまり、小野寺教諭が日向に関して悩んでる事がある、という事を言ってしまっているも当然なのだが、慌てふためく晴香をこれ以上悪化させてはいけないと思い、日向はこくこくと頷いた。

 同時、周囲で二人の話を漏れ聞いていた生徒達が、再びざわめき始める。


「しゅーちゃん」「しゅーちゃんだってよ」「しゅーちゃん先生」

「今度から俺等もそう呼ぶか?」「止めとけ、一瞬でリングアウトする。タオルすら投げられん」


 あの鉄仮面にして質実剛健、修験者の如く存在感を放つ小野寺教諭が、この若奥様に「しゅーちゃん」と呼ばれている状況を想像し、生徒一同は複雑な顔をした。


「でもありだな……」


 秀平が頷いて呟くと同時、周囲も賛同して頷く。

 何を馬鹿な話をしているのかと日向が苦笑いで様子を窺っている間、当の晴香は気にも留めていないような仕草でにこにこと笑っていた。


「お、おにーちゃん、ふくー……そーす……」


 控え目に自分を呼ぶ声に気付き、蕾の方を向くと、蕾は割り箸を握り締めた状態で自分の胸元を眺め、眉を顰めていた。そこには、焦げ茶色の染みが小さく一つだけくっついている。

 隣で日和があわあわとティッシュを出しているものの、果たして拭いてしまっていいものかと戸惑っている様子だった。


「あぁ、待って待って。擦っちゃ駄目だよ」


 日向は衝立の奥に持ってきていた鞄の中から、ウェットティッシュのケースを取り出すと、二枚ほど手に持って蕾の元へと駆け寄った。


「こ、こういうのって擦ると落ちなくなるんですよね?」


「うん。まぁ、家に帰ったらどっちにしろ洗濯だから、応急処置で大丈夫だよ」


 日向は屈んで蕾の襟元を覗き込みつつ、横から飛んでくる日和の質問に答える。

 幸いにして染みは他に飛び散った形跡もなく、目立たない程度には落とせるだろうと判断した。


「ウェットティッシュでいけるかなぁ」


 蕾のシャツの裏地にティッシュを当てつつ表面を観察していると、不意に背後から顔の横へ濡れたハンカチが差し出された。


「はい、どうそ。使ってー、こっちの方がいいかも」


 声の方向に振り向くと晴香が居た。いつの間にハンカチを濡らしに走ったのかと思うが、恐らくは日向が蕾へ駆け寄った直後であろう。その手際の良さに、逆に日向が驚く。


「あ、いえ……綺麗なハンカチですし」


「いいからいいから、それじゃ水気が足りないよ」


 笑顔でぐいぐいっとハンカチを押し付けてくる晴香に根負けし、ありがとう御座います、と一礼してから受け取る。

 軽く表面のソースを拭き取ると、ハンカチの水分を少しずつ与えるようにして表面をぽんぽんと叩き、裏のティッシュへとソースを染み込ませていく。

 ほんのりと石鹸の匂いが漂うのは、晴香がハンカチに微量の石鹸成分を付けてくれたのだろうか。


「……手馴れてるね」


「えっと、はい。よくあるので……」


「あはは、そうだねぇ、よくあるよねぇ!」


「こういう事、よくあったんですか?」


「うん、あった。沢山あったよー。大変だったけど、凄く楽しかったのを覚えてるよ」


 些細な会話をしながら、あらかた汚れが落ちた事を確認すると、そっとティッシュを引き抜く。

 シャツの表面についた石鹸成分をウェットティッシュで拭き取ると、完全ではなくともソースの黒い染みは大分薄くなっていた。


「ごめんなさい……」


「いいよ、洗えば落ちるから平気だって。まだ食べられる?」


 しゅん、と俯いてしまった蕾の頭を撫でると、蕾はこくりと頷く。お好み焼きはまだ半分程残っており、蕾の視線はそちらへ向けられていた。


「でも、またよごしちゃうよ……?」


「いいよ、洗えばいいんだし、そんな事気にしないで食べても」


 洗濯は大変だが、今日は折角のお祭りなのだ。蕾に楽しんで欲しくて連れて来たのに、服を気にして落ち着けないのでは意味が無い。

 けれど、蕾は浮かない表情で頷くのみだった。五歳でも女の子なのだ、衣服が汚れるのは気になるのだろう。


「あ、蕾ちゃん、これ使って! ちょっと大きいけど、襟元絞ればいけると思うよ!」


 丁度接客から戻って来た悠里が、エプロンの腰紐を解きながらやって来た。

 するりとエプロンを外し、後ろから蕾の身体へと被せる。


「エプロンは各自の自前! だから、いくら汚しちゃっても大丈夫だよ!」


 手早く紐と腰紐をつけると、小さな身体がすっぽり隠れてしまうけれど、見ようによってはテーブルナプキンを身に付けている風にも見える。


「いいのー?」

「いいの?」


 蕾が首を傾げると同時、日向も悠里に訊ねると、揃った兄妹の声に悠里が笑って答えた。


「もう私も休憩時間になるし、使わないから平気。……それより、蕾ちゃんのエプロン姿、可愛い!」


「お、ほんとだ、いいじゃんいいじゃん! 蕾ちゃん、うちで接客していったら客足増えるんじゃない?」


 一歩引いて蕾の姿を確認した悠里が顎に手を添えて真剣な表情をすると、唯が近くからその様子を覗いて黄色い声を上げた。


「つぼみもおみせやさん、していいの?!」


「え?! あ、いや、それは……」


 瞳を輝かせて訊ねてくる蕾に、日向は即答せずに考える。クラスの出し物としてやっている以上、日向の一存で決めてしまうのは少々気が引けた。


「いいんじゃないか、本人が希望するならやらせてあげても。保護者の許可下りるなら、だがな」


「そうねぇ、なら子供用に一着だけ緊急で仕上げましょっか!」


 迷っていた日向へと声を掛けたのは秀平で、傍に居る沙希が傍らに居る麗美へと振り返る。


「うん、完全には出来ないかもしれないけど、今のままじゃ、少し大き過ぎるものね。十分だけ時間頂戴!」


「え、いや、そんな事までして貰う訳には……」


 言うや否や、麗美は自分の鞄の元へと走り、ソーイングセットを取り出し始めた。


「なんだよ、ホームルームであんだけ啖呵切っておいて、いざこうなると及び腰ってのは無しだろ?」


 とんとん拍子に進む話題に日向が応答しきれずに狼狽える中、雅が日向の肩に手を載せて口角を上げて笑う。

 急に重くなった肩の辺りに視線を向けると、雅が「心配すんな」と口元を動かすのが見えた。


「それじゃ、いきなりお客さん相手にするのは蕾ちゃんも緊張しちゃうだろうから、最初は日和ちゃんとひかりちゃんにお客さん役やって貰いましょうか!」


「わ、私達ですか?! ど、どどどうする日和ちゃん?!」


「どうするって言われても……でも、つっつがやりたいなら私、手伝いたい」


 すっかりその気になっている悠里に、席に座ったまま呆然とその光景を見ていた日和とひかりは、顔を突き合わせて相談に入るが、日和が意欲を見せた事でほぼ即決してしまった。


「やったー! おにいちゃん、いい? やっていい??」


 既に食べかけのお好み焼きが頭から吹き飛んだのか、蕾が席を立って日向の元へと駆け寄る。

 そのまま腕にしがみ付かれ、期待感が満載な瞳で見詰められる。


「……皆がそう言ってくれるなら、甘えさせて貰うかな。宜しくお願いします」


「やーったー!」


 日向が周囲へ頭を下げると同時、蕾からは大きな歓声が上がる。

 あんまり騒がしくして、他の客に迷惑がられやしないかと慌てて辺りを見渡すも、幸いな事に気を悪くしている人は居なかった。むしろ、蕾の方を見て笑っている人達がほとんどだ。


「それじゃ、蕾ちゃんはちょっと寸法測らせてね。あっちでやろっか?」


「はーい!」


 そのまま悠里を含めた女子数名と共に、蕾が教室の奥へと移動し始めた。



 日向はふっと一息吐くと、手に持ったままだったソースのついたティッシュを捨てようとして、気付いた。手元にまだ、晴香から借りたままのハンカチを持っている。


「あ、すみません、これ―――あれ?」


 振り返った日向の視界に晴香が居ない。

 何処へ行ったのかと教室の中を見渡すも、既に晴香の姿はどこにも見当たらない。


「日和、さっき居た人は?」


「晴香さん、ですか? ……今しがた、教室を出ていくのが見えましたけど」


 お手洗いじゃないですか、と続く日和の声を聴きながら、日向は手元のハンカチを見た。

 ピンクと白の、女性らしい一枚のハンカチ。

 ソースの痕が付いてしまい、一部だけが茶色くなってしまっている。返すのならば、洗濯してからの方がいいだろう。相手が担任の奥さんならば、彼に渡せば最終的には彼女の元へと返るのだから。


 そう思いながら、何気なく広げてみる。広げてみて、気付いた。

 ハンカチの角に、金色の刺繍でなされた文字の列がある。


【H.Hal】


(エイチ……ハル。ハル、ハルカ?)

 ならば、だとしたら、その名字を示すHという文字は、一体なんなのか。



『うん、あった。沢山あったよー。大変だったけど、凄く楽しかったのを覚えてるよ』


『私はその中で愛情をたっぷり注がれて育てられて、自由に羽ばたく事が許された存在だ』



「……初島。初島、晴香」


 心の何処かで引っ掛かっていた単語を、その名前に当て嵌めてみる。

 確証はない、けれど、何故だか確信は持てた。


「日向先輩?」


「ごめん、ちょっとだけ行ってくる。すぐに戻るから」


 戸惑う日和を背にして、入口へと駆け出す。

 途中、教室の奥に居る女子達と共に蕾と笑い合っている悠里へと一声だけ掛けておく。


「悠里! 蕾をお願い、すぐ戻る!」


「う、うん? 分かった!」


「おにーちゃんおといれー? いってらっしゃーい!」


 蕾に手を振られ、一安心した所で教室を飛び出す。

 晴香が去ってから、まだ五分も経っていない筈だ。探せば近くに居る。


 探して、どうするのだろう。ハンカチを返すだけならば担任へ渡せば良いのだ、そんな事は頭の中では分かっていた。


 けれど、話さなければならない事がある。

 あの時、あの魔女が最後に自分に言った言葉を、自分だけに打ち明けたであろうその本心を。

 あの人は、それを聞くべきなのではないだろうか、そう思えた。


 そして、それが出来るのは、恐らくは自分だけなのだと。


「何処に……?」


 廊下は人混みで溢れており、小柄な晴香の姿は追えない。

 喧騒にざわめく廊下では、声を上げても届かない。


 ここで見失ってしまえば、今度はいつ会えるのか分からない。

 気が焦る日向の視界、窓の向こうに見える渡り廊下で、一瞬だけその姿が垣間見えて、再び駆け出す。


 何度も何度もぶつかりながら、すみませんと頭を下げて人混みを掻き分け、晴香の姿を追う。

 やがて渡り廊下に辿り着くが、晴香は更にその先へ進んでしまっている。


「晴香さん!」


 声を掛けても、周囲の喧騒が遮ってしまう。その間にも、晴香は先に先にと進んで行く。

 小柄な晴香は人混みの中でも気にせずに人の間をすり抜けるように歩く。

 それはまるで、一人でこういう場所、状況を歩く事に慣れているかのようだった。


(きっと、あの人も……あの人は、俺以上に、自分の時間を使っていた筈なんだ)


 霧子が語った幼少期からの時間、いつも傍に居てくれた勇気ある姉の話。

 全ての時間を霧子に費やし、最も想い出を重ねられる学生時代を挫いて。

 それでも笑顔を絶やさなかった彼女は、こうして一人で歩く事が日課だったのだろう。


「初島さんっっ!!」


「………え?」


 人が途切れて疎らになった廊下の先で、遂に声が届いて晴香が振り向く。

 その一瞬、日向は人混みから飛び出すようにして、晴香の前へと立った。


「新垣君? どうしたのー?」


 僅かに上がった息を整えて向き直ると、晴香は先程と変わらずにポカンとした表情で日向を見つめ返した。


「は、ハンカチ……洗って、小野寺先生に渡しておきます、から……」


 はぁ、と一度息を吐いて、掌のハンカチを見せる。


「あ、忘れてた! いいよいいよ、そんな事までしなくても、ちゃんと自分で洗えるよー!」


「でも……」


「平気平気ー、ありがとうね! さっき気付いてれば良かったね!」


 するりと日向の手からハンカチを取ると、日向が止める間も無く晴香はそれをハンドバッグに詰め込んでしまう。

 その一連の動作をぼんやりと見てから、日向は口を開いた。


「あの、俺……俺は」


 貴女の妹さんと、会ったんです。そう言おうとして、声が詰まる。

 晴香が、優しい瞳で日向を見つめていた。


「蕾ちゃん、とっても楽しそうだったね」


「あ、え……?」


「二人と見てたら、私も凄く嬉しくなっちゃって、幸せな気持ちになっちゃって。ちょっとだけ、寂しくなっちゃった」


 唐突な晴香の言葉に、日向は出掛かった声を仕舞い込む。


「皆も、とても楽しそうで、本当に良いお友達ばかりだね」


 一歩、晴香は日向の元へと寄って、そして手を伸ばす。

 ちょいちょい、と手招するような動作があって、それが屈めという指示という事に気付いた。

 戸惑いながらも日向が少しだけ膝を折ると、丁度目線が晴香と同じ高さになる。


「あれはきっと、新垣君が頑張って、ちゃんと真っ直ぐに色んなものと向き合ったからなんだよね」


 晴香の手が、日向の頭に触れて、髪を撫でた。



「頑張ったね」



 小さく囁くような声は、僅かに聞こえる喧騒の中でも、はっきりと耳に届く。


「よく、頑張ったね」


 たった一言の言葉が、心の中に入り込んで来るのが分かった。

 誰でもない、晴香の言葉だからだろうか、彼女が今までどんな人生を経てきたのか、それを魔女から聞いていたからだろうか。


「君は、よく頑張ったんだよ」


 三度目の言葉は、それだけで目の奥に熱さを灯し始めた。

 短い言葉の中に籠められた、晴香だからこそ出来る、日向への賛辞。

 晴香の言葉だからこそ、それは日向へと届いた。


「……頑張った訳じゃ、ないです」


 ぐっと目の奥から何かが溢れるのを、奥歯を噛み締めるようにして耐える。


「俺がそうしたかったから、そうしてきたんです」


「うん、そうだね。分かるよ、ちゃんと」


 同じ事を、晴香も思うのだろう。

 傍から見れば、犠牲に思えるかもしれない。自己満足に思われるかもしれない。

 それはただの欺瞞であり、献身であり、美談にも悲嘆にも思われるのかもしれない。

 けれど、そうではないのだ。


「私達の幸せは、私達が決めるんだもんね」


 最初は何かの決意だったり、後悔から始まったのかもしれないそれは、時間を経て日常へと回帰した。

 そしてそこには、当人達にしか分からない幸せもあったのだ。


「だから私には、分かるよ。私にも出来なかった事を……新垣君は、やってのけて、そして私がやってた事を、今もしてる。それが凄く頑張ってるって事は、私には分かるよ」


「……晴香さんだって!」


 あの人を、幸せにしていた筈だ。

 どのぐらいあの人が、目の前の女性に感謝していた事か。感謝してもしきれない程に膨らんでいた事か。

 口にしようとして、強く頭を撫でられた。

 頭が下を向いた拍子に、一滴だけ何か冷たいものが廊下に落ちる。


「うん、分かってるよ」


 優しい声に顔を上げると、そこには変わらず笑顔のままの晴香が居る。


「私も、ちゃんと分かってるよ」


 その表情を見て、日向はようやく気付く事が出来た。

 日向が何を言うでもなく、きっと伝わっているのだ。

 この二人には、この二人の物語がある。

 日向と蕾の時間よりもずっと長い長い物語があって、強い絆を育む事が出来たのだろう。


「俺達も……そんな風に、なれますか」


「なれるよ」


 自然と出て来た質問の言葉は、即座に晴香によって肯定された。


「大丈夫だよ、自信を持って。それは、君にしか出来ない事だよ」


 晴香が日向の頬を包み、親指でそっと目尻を拭う。

 小柄だが年上の女性にそうされても、不思議と恥ずかしい気持ちは無かった。


「さ、皆の所に戻って。新垣君達の想い出は、ここからまだまだ続くんだから」


「……はい」


 手を離し、晴香が一歩下がる。日向も同じく一歩だけ下がると、今の瞬間まで気にならなくなっていた周囲の喧騒が再びざわめき出した。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。頑張れ、新垣君! もっともっと、頑張っちゃえ!」


 ぐっ、と親指を立ててウィンクする晴香に、日向は苦笑いしてから振り返る。

 いつか必ず、同じ場所へ立ちたいと思いながら、歩き出した。



「………迷わないで、歩いて。ちゃんとその先には、素敵な幸せが待ってるから」


 遠ざかる日向の背中を見詰めながら、晴香はそっと目を閉じた。





「……それで、しゅーちゃんはいつまでそこに居るの?」


 目を閉じたまま晴香が先程よりやや大きめの声で言うと、近くの曲がり角から修二が姿を現す。


「……出辛くしたのは、君等だと思うが」


「それは私だけの責任じゃなーいもーん」


 全く悪びれる素振りのない晴香の元へと修二が歩み寄ると、晴香はそっとその腕に自分の腕を絡めた。

 重くなった腕に、修二は思わず眉を潜める。


「校内では慎んで欲しいのだが」


「なーにそれー! 折角様子を見に来た妻に向かって! しゅーちゃんの意地悪! こうか、こうがええのんか!」


「やめなさい……」


 更に腕を押し付けて来る晴香に、修二が深々と溜息を吐いた。


「……いい子だね、新垣君。それに本当に、私そっくり」


「そうか」


「しゅーちゃんが気にするのも分かるなー。あれでしょ、昔の私が重なって、何とかしなくちゃーとか考えてたんでしょ?」


 うりうり、と意地の悪い視線で見上げてくる晴香を無視し、修二は足を進めた。

 晴香は腕の力を弱めると、修二の手に自分の手を絡める。


「大丈夫だよ、そんなに心配しなくても。私にしゅーちゃんが居てくれたように、新垣君にも誰かが一緒に居てくれる。それに……私達は、傍から見るよりもずっと幸せなんだよ」


「………そうか。そうだったな」


 答えると共に、本当に僅かに口元を緩める修二の表情は、長く一緒に居た者にだけが分かる笑みを浮かべていた。


「ところで、どこに向かってるの?」


「私のクラスだ。生徒達がしっかりやっているか、確認せねばならない」


「ちょっとちょっと! 私もっかい戻る事になるじゃん! 新垣君ともっかい会っちゃうじゃん! 超かっこ悪いよそれー!」


 晴香の抗議の声は、次第に大きくなる喧騒に包まれて消えて行った。

学校祭をやろうと決めてから、ずっと書きたかったシーンです。


魔女の言葉は日向を暴き、勇者の言葉が日向の背中を押します。


大人達に見守られながら、彼等の日常は回り続ける、そんなシーン。

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