コーヒーブレイク
「撤退を表明する」
雅が片手を挙げて、その場に居る二人を見て告げた。
「あの状態の日和ちゃんはヤバい。中学から日向の傍で日和ちゃんのサンドバッグとして生きてきた俺が証明する」
「今のあんた、過去最低のキメ顔になってるけど、過去最高にカッコ悪いわ」
唯が雅を見ながら、無表情で言い放つ。
隣では悠里も何と言っていいのか分からないのか、曖昧な笑みを浮かべて立ち尽くしている。
「なんとでも言ってくれ……ここから学校まで、隠れながら尾行するのはリスクが高い。商店街までなら行けるかもしれんが、そこから先に身を隠せる場所が無い。サバンナでライオンの風上に立つ行為と同じだ。距離を置いて後から登校しよう」
「まぁ……あたし達はただ新垣君の状態確認しに来ただけで、二人の会話を盗み聞きする為に来たんじゃないもんね」
肩を竦めた唯が、遠ざかる日向達の背中に目をやると、隣で同じく二人に視線を向けている悠里が横目に入った。
「悠里、どうする?」
この出迎えは、そもそもが唯から悠里に提案して決行されたものだった。
ここ数日で日向と相当距離を詰めた親友に対する、ささやかな応援のつもりで言い出した事だから、この先の判断も唯自身がすべきだったのかもしれない。だが唯は、それを心の中で棄却した。
「ん、私達は遅れていこっか。日和ちゃんも日向君と久し振りに会えて、ちゃんと話とかしたいだろうし」
「……いいの?」
いつもの楚々とした笑顔で答える悠里に、もう一度だけ意志を確認する。
「うん。日向君の容態は分かったし、日和ちゃんが一緒に居てくれるなら安心だもの。うー……黙って立ってたら寒くなってきた、コンビニで温かいものでも買っていきましょっか」
「おお、いいな……俺もホットレモン買っていこ…」
「あ、私もあれ好き。いいよねー、私もそれにしよう!」
悠里の言う通り、木枯らしが吹く晩秋の早朝は上着を羽織っていても動かずに居ると体温が奪われていく。
そろそろ冬物のコートが必要になるのかもしれないと思いながら、唯は悠里の後ろを歩く雅の、その更に後ろから二人を追いかけた。
★
「先輩、寒いのでコンビニで何か買って行きましょう。病み上がりで身体を冷やしてはいけませんし」
隣から発せられるプレッシャーにビクビクしながら歩いていると、日和が道の先にある看板を指差しながら日向に提案する。
「そんなに心配しなくても、すぐにはぶり返さないと思うよ?」
「自分は大丈夫と思っている人ほど、自分の事に無頓着ですよね……ほら、いいから」
促されるままコンビニに入った日向は、レジ横にあるホットドリンクのケースから微糖のコーヒーを一本手に取ると、中の暖気が逃げぬように一度閉める。
「日和はどれがいい?」
「私も、同じ物で大丈夫です」
日向に答えると同時、日和がケースから同じラベルの缶を手に取ると、そのまま隣のレジに置く。
そして続けざまに日向の手から缶を奪い取ると、それもレジに乗せ、「これも一緒で」と店員に告げながら財布を取り出した。慌てて日向も財布を取り出そうとすると、日和が視線で制する。
「いいですから、私が言い出した事ですし」
「でも、せめて自分の分は自分で……」
「それ、私の分も支払おうとしてた日向先輩に同じ事を言っても、きっと聞いて貰えませんでしたよね?」
「み、見透かされてる……」
観念して財布を仕舞うと、ようやく日和は勝ち誇ったように微笑んでみせた。
コンビニの外に出て、二人で揃ってプルタブを開けると温かい内にと口を付ける。二口程飲んだ所でお互いに缶を離すと、日和の口からもほっとした息が出て、それでようやく肩の力を抜く事が出来た。
「……やっぱり、同い年って……いいですよね」
「ん?」
日和が缶のラベルを眺めながら、手元で熱を掌へと転がすように弄ぶと、日向も同じようにラベルを眺めた。
「私、お揃いが欲しくて」
「お揃い……?」
「同じ歳なら、同じ教室も、隣の席も……同じ風景も、同じ時間も……もっと、一緒居れるんです。何かあった時とかも、すぐに助けてあげたり出来るから」
そこまで言われてようやく、日和が何を言いたかったのか理解する事が出来た。
「私、それがずっと欲しくて。頑張って頑張って、隣に居ようとしても……どうしても、年齢だけは同じになってくれなくて。だから、羨ましいんです……成瀬先輩も、芹沢先輩も、恵那先輩も。鹿島先輩達だって……」
日向と同じ缶コーヒーのラベルを眺めながら呟く日和を見て、日向は一つ気が付く事があった。
日和は本来、苦みがあるものが得意ではない。コーヒーも、好んで飲む事は無かった。
いつからだろうか、彼女とこうして一緒にコーヒーを飲めるようになったのは。
「俺は、日和が年下でいてくれて、良かったと……思うよ」
「……? なんでです?」
言ってしまった手前、訊かれるだろうなとは思っていたが、理由を口にしようとして迷う。
正直に言うと酷く恥ずかしいのだ。
「……いや、だってさ。同い年の女の子に対して、あの時の俺が自分から関わろう、ってなるとは思えなくて。日和が年下だったから、なんだろう……うちには蕾も居たし、年下の女の子って割と俺にとっては馴染みがあって。兄貴面っていうのかな、そういうのをしてあげよう的な、痛々しい若さが」
言いながら気恥ずかしくなり、飲みかけのコーヒーを全て喉の奥に流し込むと、隣のゴミ箱へと投げ入れる。
「私が同い年だったら、私とは仲良くしてくれなかった、って事ですか?」
「いや、ちょっと違う……かな、そうとも言えるけど、うーん……ま、まぁほら、男子特有の病気みたいなものが……」
「え、なんですかそれ。すっごい気になるんですけど、言って下さい」
「いやぁ流石に……恥ずかしくて」
「余計に気になります。教えて下さい、言ってくれたら……まぁ今日までの事は、水に流す事を前向きに検討しても構いません」
「せ、政治的回答過ぎる……」
日向は唸ってどうにか回答を回避しようとするが、日和の視線は鋭い。いつまでも待つぞ、という意思を示すかのように、その場から動かず視線も逸らさず、飲みかけのコーヒー缶を口元に近づけた。
「あのさ、日和は、小学校の時から男の子からそんなに話し掛けられる事無かったでしょ」
「んふ?」
日和が口元に缶を添えたまま、コクりと頷いた。
「……………綺麗な子とか、そういうの、男子は普通、ほいほい話し掛けられない、と思う」
「……はい?」
「だから、日和が同級生だったとしたら、日和は年下じゃなくなる訳で。そうすると、俺の中で『蕾と接してるみたいなもの』というある種の慣れが無くなるでしょ。そうなると……可愛い女の子相手に、話し掛けるのって勇気が要るんだ」
最後は恥ずかしさを誤魔化す為に、一気に言い切る。
正面切って言うにはハードルが高かったので、見ているのはもっぱら足元の地面だった。
「だから、年下で良かったな、と。俺はそう思ってたよ。日和みたいに綺麗な子と仲良くなるのは、そのままだと俺には敷居が高かったから」
「…………はひ」
変な声が聞こえたので反射的に隣を見ると、そこに居たのは目を丸くし、ついでに顔も真っ赤にした日和だった。
「あ、はい、えっと、はい。かわいい。はー、えー、はー、んー。びじん、きれい……へぇー……」
そのままのそり、と鞄を持ち上げると空き缶をゴミ箱に落とし、フラフラとした足取りで日和が歩き始めてしまった。
「ちょ、ちょっと待って! 何その反応?! 凄い引かれてる気がするんだけど! だから言いたくなかったのに……!」
日向も慌てて鞄を持ち上げ、急ぎ日和の隣を歩く。
すると、どこか惚けた表情の日和は、空いている日向の左手を見やる。
「……日向君の、そうやって変に素直な所はずるいと思う」
「唐突に駄目出しが始まってしまった」
日和の口調が変わると同時、唇が子供のように尖っているのを見て、日向は困ったように笑う。
「ふわっとしてるのに、いっつも嬉しい事ばっかり言う……」
「正直に生きてるからね」
「でも、肝心な事はあまり言ってくれなかったりする」
「今日の日和は一段と手強いね……」
それを言われると弱るとばかりに、日向は手を挙げて降参を示す。
「学校祭終わったら、約束……守って」
「一緒に練習、って所まではね。そこから先は、俺に勝たねばならぬのです」
「まだ言ってる……日向君なんて、今の私の敵じゃないよ!」
トン、トンとステップを踏んだ日和がくるりと回転すると、彼女のさわりとした髪の毛が一瞬だけ宙を舞う。
段々と色付き始めた紅葉の下で踊る日和は、年相応に可愛らしく、そして綺麗だった。
「私を二年も放っておいた事、後悔させてあげるから!」
それは果たして、テニスの事なのか、それとも別の意味を持つのか。
今、その答えを聞く意味は無い。日向と日和が使える会話の手段は声の一つに限らない。
むしろ、お互いに緑のフィールド上で向かい合っていた時間の方が長いのだ。
「………これは、相当自信ありと見た。秘密兵器を導入しようかな」
「ん、なぁに?」
「何でも無いよ、秘密」
日向の澄ました表情に日和は無言のまま頬を膨らませ、その手に持った鞄で日向の尻を思い切り叩くのだった。
★
同時刻、コンビニ横の路地で壁に隠れるようにしていた三人は、じっと潜めていた息を吐き出した。
「あっぶねぇ……ほんと、恵那の野生に感謝するわ……」
「褒めてるように見せ掛けてなんて事言ってくれんのよ……視力と言いなさい、視力と」
悠里の提案の後、コンビニへと足を向けた三人が、いざコンビニの自動ドアを潜ろうと正面駐車場辺りへと踏み込んだ時、急に唯が片手で悠里の歩みを遮った。そして何事かと悠里が確認するよりも先、唯は悠里の手を握って店舗横の路地へと駆け込んだのだ。
「俺だけ置いて行かれるとは思ってなかったけどな……!」
「女子に簡単に手を握って貰えると思ってたの?」
その後、様子を窺っていると日向と日和が店舗の外に出て来たのを見て、これで一安心かと思えば揃って店の前でお茶を初めてしまい、出るに出られず今に至るという訳だった。
「でも、結局盗み聞きみたいになっちゃったね……」
「仕方ないって、あの状況でのこのこ出ていく方がアレだし」
申し訳なさそうに肩を縮める悠里に、唯が肩を竦めて答える。いっそ入口で遭遇してしまえば、偶然会ったという事にして全員で揃って登校という事になっていただろう。このコンビニは登校前に寄ったとしても不自然ではない立地にある。
「それにしても、日和ちゃんやっばいね。新垣君の前だとあんなに可愛い仕草するんだ、いつもより子供っぽいっていうか。女の私から見ても道を踏み外す可愛さ。私の嫁に迎えたい……」
「前向きに外道な事を言ってんじゃねぇよ……でも、そうだな。あんな態度、普通は人に見せねぇからなぁ」
「お、って事はあんた知ってたんだ。あんたよく日和ちゃんみたいな子が傍に居て平気だったわねぇ……。ん? もしかして、本当は日和ちゃんの事が……?」
目を爛々とさせ詰め寄ってくる唯に、雅は掌を顔の前で振って「ないない」と否定する。
それでも信じられないと疑いの目を向けてくる唯に、雅は溜息を吐いて鞄を置いた。
「いいか、日和ちゃんは確かに可愛い。俺が知る女子の中でもトップクラスだ、実際に相当モテる。だが、それと俺が日和ちゃんを好きになるのは別だ。何故なら」
雅は両手の掌を返し、まるでボールを持つような姿勢を取って、その手を自分の胸元へと向けた。
「おっぱいが、足り―――」「悠里、早いとこ飲み物買って行きましょ、遅刻しちゃう」「あ、うん。そうだね、開店準備しないと」
唯が悠里の手を取ってさっさと店舗の中へと駆け込むと、雅は無言で鞄を拾い直して後を追った。
「あれ、悠里。ホットレモンじゃなくて良かったの?」
通学路に戻り、学校への道半ば。飲んでから向かっては時間的に厳しそうだと判断した三人は、掌に暖かさを感じながら残りの道を歩いていた。
「……うん、なんか、こっちの気分だったの」
「そっか」
悠里の手の中にあるのは、日向と日和が買ったものと同じ微糖の缶コーヒーだ。
どういう経緯でその心境に至ったのか、聞くまでも無かった。
雅は、そんな会話をする二人をちらりと見ると、一人歩調を速める。
「わりぃ、俺ちょっと小道具で確認する事あったわ。先に行くからな」
言いながら手を振る雅へ返答する暇も無く、その背中はすぐに遠ざかった。
その仕草があまりにもわざとらし過ぎて、唯はつい苦笑いと溜息を同時に吐いた。けれど、確かにここから先は女子同士の方が話し易いので、その気遣いはありがたく受けておく事にする。
「ねぇ、唯」
「んー」
「日向君って、女の子に甘過ぎじゃない?」
「………へ?」
弱音か、もしくは決意表明でも飛んでくると思っていた唯は、悠里からの意外な言葉に一瞬だけ呆けた。
「脇が甘いというか、優しいけど、もうちょっとこう……男らしくした方が良いと思う!」
ぐっ、と悠里が缶を握り締めてうんうんと頷く。
「はーん、つまり妬いてんだ?」
「う………」
「けど日和ちゃんは可愛い後輩だから、日和ちゃんに文句は言いたくないと?」
「うう………!」
狼狽して視線を彷徨わせる悠里を見て、こんな表情を日向の前でももっと出していけばいいのに、と唯は考える。
唯からすると日和に負けず劣らず、悠里も十分に美人で女子として可愛らしい。
「まぁ分かるけどねぇ、言いたい事は。私なんか新垣君から一番雑に扱われてるし」
「えー! 唯と日向君のやり取りも十分羨ましいよ! なんか気を遣わないやり取りみたいな!」
「あたしにまで嫉妬するんじゃなーい! あ、あんたって結構面倒臭い女だったのね……」
「面倒臭いって言わないでよ! え、私って面倒臭い?!」
「知ーらない、新垣君に聞けば?」
言い捨てて歩調を速める唯の背後から、悠里の抗議の声が鳴り響いていた。
前哨戦、ですね……。