学校祭開幕~スニーキング・ミッション~
土曜日、陽が沈んで暫。時刻は七時頃で、すっかり窓の外は暗くなっている。日向が目を醒ますと、身体の重さは僅かにあるものの、少し前まで感じていた気怠さは消失していた。
昨日の帰宅後より用が無ければ部屋の外には出ず、徹底して睡眠と水分補給に努めていた成果が実を結んだのだろうか。ストイックな日向の行動は、性格的な面でのものではなく、この場合はむしろ罪悪感からの逃避にも近い。
何としてでも治さなければいけない。その想いから、こうして意識が覚醒した後は自分の体調に耳を澄ませていた。
ピークであった昨日の不調から、日を跨いだ今日になって体調が上向きになり安堵したのも束の間、ひたすらに回復させる事だけに気を配り続けて、ようやく。
「……良かった、間に合いそうだ」
ゆっくりと身体を起こすと、寝てばかりいた為だろうか、少しばかり浮遊感を感じる。
机の上に置いてある体温計を脇に挿すと、傍に置いてあったスマートフォンが通知の光を放っている。
手に取ろうとして、逡巡した。恐らくは友人達からであろうメッセージの通知の内容を見るのが怖いのだ。
自分がやってしまった失敗で、何か致命的な事に繋がっていないだろうか。それとも自分抜きでも、彼等には何の影響もないだろうか。二つの矛盾した答えは、どちらも今の日向にとっては向き合うのを躊躇させるのに十分な可能性だった。
それでも逃げ出す訳にはいかない。どんな結果であろうとも、日向は責任者として手を挙げたのだ。
ならばその責任から逃げ出す事は、友人達を裏切る事に他ならない。
ほんの僅かな合間の迷いを、体温計の音が断ち切る。表示を覗くと36,9℃という文字が浮かんでいた。
回復の兆しをしっかりと確認し、日向はスマートフォンへと手を伸ばす。
「……これ」
十件以上もある通知をタップし、内容を確認する。画面に表れたのは、数々の写真とメッセージだった。
それらを一目見て、自分の不安が杞憂だった事に気付いた。
『日向君、これ見て見て! 麗美達が皆で作った衣装! すっごい可愛いよ! ……身体はどう? ちゃんと、休めてる?』
『連絡会眠すぎてヤバい。後、ひかりちゃんだっけ、あの子に事情訊かれてゲロったから、日和ちゃんにも伝わってると思う。俺は知らん。そうだ、これお見舞いな。今日試運転で作ったお好み焼き、の写真だけな! ついでに女子のエプロン姿』
『進捗表書き込み過ぎじゃん! 見た時、失神しそうになったんだけど、新垣君って多分頭良いバカだよね?!』
悠里の気遣いを感じられるメッセージと共に、クラスの女子達が本番用の衣装に着替えて様々なポーズを取っている写真があった。
雅がボヤいた後には、若干失敗したのか少しだけ形が崩れたお好み焼きの写真と、こちらに向けて手を振っているエプロン姿のクラスメイト達が。
唯の文句の後には、日向が寝る間を惜しんで作り上げた進捗表を指差しながら、しかめっ面を浮かべる唯自身の写真が。
最後の通知は今から大体一時間前、丁度五時半を回った所だ。
「皆……」
細かく状況を知らせるメッセージの合間には、完成した教室の内装写真や、クラスメイト達がカメラに向かってポーズを取る風景。
調理班がエプロン姿でホットプレートに向かう姿など、様々な写真が送られてきている。
『前日準備が一番ある意味で盛り上がるからな、惜しい事をしたなぁ。まぁ本番でその分も楽しめばいいんじゃないかと思うぞ、俺は。とりあえずお大事に』
秀平の素直じゃない優しさが、文面から感じられる。
『新垣君用の衣装です! 何にしようか迷ったけど、多数決により吸血鬼になりました! でも顔色は良くして来て下さいね!』
麗美が黒いマントを掲げて笑顔を向ける写真があった。
『最後の一踏ん張りしておくから、代表はしっかり身体を休めておく事! 明日、皆で待ってるからね! 女子達が全員、かーわいーいぞー!』
顔に絵の具を付けている写真を送ってきたのは沙希だった。看板に何かを描きながら、片手でピースサインを向けている。誰か別の人に撮って貰ったのだろう。
誰もが皆、この時間まで学校に残り、明日に備えて頑張ってくれているのだ。
そして、日向にもこの風景を見て欲しいと、こうして繋がりを作ってくれているのだ。
土壇場で不甲斐ない自分に腹が立った事もあった。
けれど、こんな状況だからこそ、自分が周りにとってちゃんと必要とされている事が理解出来た、させられた。
思わず熱くなった目頭から、雫が零れそうになるのを必死に堪える。すぅ、っと深呼吸をすると、思考がクリアになった。
「はー……駄目だって、こういうの……」
何も心配要らなかったのだ。
日向の友人達は、日向一人が居なくなった所で何も出来なくなる者達ではなかった。同時に、日向を除け者にするような薄情では決して無かった。そんな当たり前の事を確認して、安堵している。
「雅の言う通りだよなぁ」
あの時の雅が何故あんなにも怒りを露わにしていたのか、今更になって気付いてしまう。
「一番、子供だったのは……俺だなぁ……」
心の何処かで、周囲よりも大人として生きていると思っていた。自分の我儘を通さず、やるべき事に目を向けて、そうして着実に一歩ずつ進める事が出来る自分が。
蕾の事も含めて、自分で決めた事や与えられた責任を果たすという自分の意志は、成熟したものなのだと。
だが、どうだろう。蓋を開けてみたら、自分は自分の責任を果たす事だけを考えていた。彼らのように、身内でもない他の人間の責任を分かちあう事を当たり前に考えている者の方が、よっぽど大人として生きているようにすら思えた。
「お腹、空いたな……」
きっとリビングに行けば、母親が作ってくれた夕飯があるだろう。
日向がこの家の事を出来なくなっても、それだけでこの家から食事が消える訳でも洗濯物が残り続ける訳でもない。
助け合って生きるとは、そういう事であり、それらは日向一人で背負えるものでもない。
日向は先程よりもしっかりとした足取りで部屋のドアを開けると、階段を降りて家族の元へと向かうのだった。
★
翌日になり、制服に着替えて姿を現した日向を見て、明吏は「あら」と声をあげた。
「日向、もう平気そうなの?」
「うん、さっき熱を測ったらほとんど平熱だった。大丈夫だと思う」
トーストの乗った皿をダイニングテーブルへ置く明吏に返答しつつ、日向がいつもの席に座る。その隣では、蕾が手に持ったトーストを齧りもせずに、どこか心配そうな表情で日向を見上げていた。
「おにーちゃん……かぜ、なおった?」
「大丈夫だよ、バッチリ」
蕾は明吏から、日向の風邪が治るまではと接触禁止を言い渡していた。禁止と聞くと強く言い過ぎな節があるのだが、明吏曰く、蕾の日向に対する距離の取り方は、そのぐらい言わないと意味が無いらしい。
『あんたが蕾にしてあげた事や、してあげたいと思ってる事は、蕾があんたに対しても同じ事を思ってるって自覚なさい』
そう言われてしまうと心当たりがあり過ぎる日向としては、何も言い返す事が出来ない。
胃腸炎の時こそ日向は傍に居る事が出来なかったが、恐らく事前に知っていれば感染など二の次で、蕾の看病を一番に考えてしまうのだ。
正確な対処法を知る本職の明吏から見れば危なっかしい事この上ないだろう事実に、日向は委縮して母親に頭を垂れたのを思い出す。それは絶対に蕾に真似させてはいけない事だから。
「今朝測ったら熱も平熱まで下がってたし、食欲もあるからね」
日向が蕾に置かれたトーストを手に取って見せると、蕾は顔を綻ばせて椅子を少しだけ日向の傍へと近寄らせた。
座っている状態なので密着する程では無いけれど、お互いの肘が擦り合うぐらいの距離に居る。
いじらしい距離の詰め方を見て、この二日間全く触れてなかった蕾の髪を軽く撫でると、さらさらとした感触を返してくれる。
「今日は兄ちゃん学校行った後で、母さん達と一緒においで。皆……蕾が来てくれるの、楽しみにしてるから」
「……うん! あのね、つぼみね、おにーちゃんのへんそう? たのしみ!」
そうしてようやく、前と変わらぬ屈託のない笑顔を見せてくれた。
今日は、きっといい一日になる。そう確信させてくれる、最高の笑顔だった。
★
「で、何か言う事はありますか?」
家の門を潜ると、開口一番にそう言われて日向は固まった。
「おはよう御座います、先輩?」
最高の笑顔と共に、日和がお出迎えしてくれるという予想外の出来事に、咄嗟に挨拶の言葉すら出ない。
ただ一つ言えるのは、目の前にある日和の眩い笑顔の裏に、何故か黒いオーラが龍の形を以て顕現しているかのようだと思った事だろう。
引いた筈の悪寒が再び舞い戻ってきたかのように、日向の身体がブルっと震えた。
「お、おはよう……日和。えっと、こんな所で奇遇「お迎えに来ました」……ですよね」
笑顔を絶やさず日向の言葉をすっぱりと切り裂く日和に、日向はうん、と頷く。
「学校に遅れてはいけませんし、歩きながら話しましょうか?」
くい、っと首を傾げながら朗らかに言って、日和が歩き始める。
後ろを振り向きすらしないその姿勢は、日向に拒否権など無い事を言外に示していた。
その意図を正確に察知した日向は、遅れないように日和の後に続いて足を進めると、隣におずおずと並んで日和の顔を窺う。
「………どうしましたか?」
「え! いや、何でもないよ……!」
「そうですか。私の顔色を窺っていたようだったので、もしかして自分でも気付かない内に体調が悪くなってたのでは、と思って心配してしまいました。ふふっ」
体調が、の辺りをやたらに強調しながら日和が意味深な笑い声を洩らすのを聞いて、日向は昨日の雅からのメッセージを思い出していた。
『後は知らん』
あれはどういう意味だったのか、遅ればせながらに気付いた。
「日向先輩、体調悪かったんですよね? もう大丈夫そうですけど、如何ですか?」
「あ、うん……お蔭様で、随分良くなったよ。今日の学校祭に出れるかギリギリだったけど……」
「そうですか、それは良かったです。うん、本当に……良かった」
安堵する日和の表情は先程までと打って変わって、純粋に日向の快復を喜ぶものだった。
その表情を見て、またいつもの日和に戻ったのだと思ったのも束の間、再び日和から言い様のないプレッシャーが放たれる。
「私、それ知ったの昨日だったんですよぉ。ひかりから『あ、そういえば日和ちゃん! 日向先輩がね!』って。私、ほんと驚いちゃって」
「あ、あー! そういえばひかりちゃん、クラス委員だったんだね。最初の連絡会の時に会って驚いたんだけど、なんで教えてくれなかったの?」
「日向先輩を驚かせようと思ったんです。それで日向先輩から、驚いたよ! みたいな連絡が来ると思ってわくわくしてたんです、け、ど」
くるりと振り向いて、日和が日向の顔を覗き込む。
「全然連絡来ないので、私から来ちゃいました!」
そう、昔から日和は、堪忍袋の緒が切れた時はこうして笑顔になるのだったと、日向は今更ながらに思い出すのであった。
「まさか私も、一週間以上放置されるとは思っていませんでしたので。しかも、日向先輩の病欠すら直接知らされないまま、まさか当日を迎える事になるとも、ですよ?」
ニコニコニコと、日和の笑顔が更に朗らかなものになる。
日向の頭脳は、その明晰さを全て日和への謝罪と弁解に向けて高速回転し始めた。
一方、二人が歩くその後ろ……丁度新垣家の玄関が見える道路の曲がり角に、身を隠すように頭だけを出す三名の姿があった。
「……予想外の出来事だが、どうする」
「いや、悠里と二人で朝から美女二人のお出迎えっていうサプライズしようと思ったら、まさかラスボスが既に降臨してるなんてねぇ」
「日向君、顔色悪そうだけど……まだ体調悪いのかな、朝ご飯食べてないとか?」
雅が冷や汗を垂らしながら意見を求めると、唯が冷静に状況を分析する。
悠里に至っては、割と明後日な方向の心配をしていた。
「成瀬、あんたちょっと突撃して来なさいよ。あの二人が何を話してるのか、私……気になります」
「え、嫌だよ。日和ちゃん、ドス黒いオーラ出てるだろ、あの状態で間に入ったら死ぬぞ」
「あんた普段から死んでるようなもんでしょ、ここで男見せないでいつ見せるのよ」
「あの……二人とも。早くしないと、日向君達と離れちゃうよ……?」
こうして五人の学校祭当日の朝は、尾行する者とされる者、という早朝に相応しくない状況から始まったのだった。
書影が出ましたので、↓に貼り付けておきました!
あと毎度の事ながら、お待たせして申し訳ありません……。
12月に、そろそろ学校祭編が終わるって言った奴が居るそうですよ、有罪ですね……。ここから一気にスパートを掛けます。えぇ。






