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子守り男子の日向くんは帰宅が早い。  作者: 双葉三葉
【四章 結実の冬、足跡を残して。】
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信頼という病

 朝方に目が醒めて、すぐに日向は『やってしまった』という言葉が浮かんだ。

 身体が重く、寒い。そして唾を飲み込む度に喉が痛くなる。

 間違いなく風邪の諸症状だ。


「こんなタイミングで……嘘だろ」


 今日は金曜日、つまり学校祭の本番まで今日を除けば明日しか準備期間が無いのだ。

 加えて、今日の夕方には連絡会があり、そこで全体の最終オペレーションの確認がある。

 それだけではない。日向は当日、調理班に入る。難しい料理が並ぶ訳では無いが、それでも実際に包丁を握った事のある人間というのはそう多くは無い。

 あらゆる場面で迷惑を掛けてしまう。


(嫌だ)


 今まで何の為にここまで支えて貰ってやって来たというのか。

 それが、たった一度のこんなどうしようも無いミスで泡と消えてしまう。

 皆の期待を、裏切ってしまう。


 ふらつく身体を抑え込みながら、無理矢理立ち上がる。

 熱を測ろうとも思えなかった。どうせ平熱では無いのなら、見るだけで具合が悪化しそうだった。

 寝間着を脱いで、いつもより時間を掛けて制服に着替えると、一度息を整える。

 タンスの上にある鏡で自分の顔を確認すると、よくよく見れば若干だけれど顔が赤らんでいるのが分かる。


 行かなければならない、これが終わった後なら幾ら体調が悪くなったっていい。

 でも今だけは、この状況で皆から失望される事だけは心の底から怖かった。


 日向は一階に向かうと洗面所へ行き、顔を洗った。

 冷やりとした水が火照った顔を冷ましてくれるのが気持ちよく、何度も洗う。


 それからリビングに顔を出す。


「母さん、今日は俺、ちょっとやらないといけない事があるから、もう行くよ」


 極力、声が嗄れている事がバレないように発声する。


「あら、そうなの? 忙しいなら朝ご飯、ちゃんと食べた方がいいんじゃない?」

「うん。行きがけに買えそうだったらコンビニでパンでも買うから、大丈夫」


 日向の言葉に、明吏は首を捻りながらも了承してくれた。

 今が学校祭準備という特殊な時期な事も手伝って、特に不審には思われていないようだった。


 そのまま足早に玄関に向かい、靴を履く。

 立ち上がる寸前、背後から声が聞こえてきた。


「おにーちゃん、もういくの……?」

「うん、今日はちょっと忙しくて、あんまりゆっくりしてらんないんだ。ごめんな……」


 撫でてやりたいけれど、近寄ると蕾にも風邪が遷るかもしれない。

 自分自身もそうなのだが、蕾が風邪に罹って外出不能になれば同じ事なのだ。

 けれど、そんな日向の心中とは裏腹に、蕾は日向の元へと寄ってくる。


「おにーちゃん、しゃがんで?」

「……どうして?」

「しゃがんでー!」


 いつになく強い口調の蕾に気圧され、日向は屈んで蕾と向き合った。

 蕾の小さな手が、日向のおでこをぺたりと触る。


「………んー」


 触ってみたものの、熱があるのか無いのかまでは判断出来なかったのだろう。蕾は首を傾げて困った表情をした。

 けれど熱を測るという事は、つまり蕾から見た日向は本調子ではないという事だ。

 どういう基準で、蕾が日向の容体を察しているのかは分からない。

 声色かもしれないし、ちょっとした動作かもしれない。もっとシンプルに、ただの勘なのかもしれない。


「おにいちゃん……ぐあい、わるいの?」

「大丈夫、ちょっとだけだから平気だよ」


 額から蕾の手を離しつつ、日向は頷いてみせる。

 蕾に対して嘘を吐く事は避けたい。けれど、蕾の落胆する顔を見たくは無かった。


 具合は悪い、けれど動けない程では無い。

 それが都合の良い言い訳だという事は、日向自身も気付いている。既に起床した時よりも身体は重く、真っ直ぐ立つのも難しくなっている。

 けれど、ここだけは曲げたくなかった。


「行ってきます」


 心配そうな蕾に精一杯の笑顔を向けて、日向は玄関のドアを開けた。



 いつもより多少、歩調をゆっくり目に歩き、途中のコンビニでスポーツドリンクを買った。

 同時に、まさかこの歳で使う事になるとは思わなかった栄養剤も一緒に購入すると、コンビニの外で蓋を開けて一気に飲み干す。


「まるでドラマに出てくる残業明けのサラリーマンみたいだな……」


 自嘲して、口に残る栄養剤の濃い後味をスポーツドリンクで流し、鞄に仕舞った。



 学校に着く頃にはいつもより十分程も遅く、既にクラスメイトはほぼ揃っている状態だった。

 いつも通り、入口の傍で雑談している秀平に声を掛け、次に遠くから挨拶してくれた沙希と麗美にも挨拶を返す。

 悠里と唯の二人組が悠里の席と傍で会話していたので、通りすがりに軽く手を挙げて挨拶するだけに留める。


「おはよう、雅」


 自分の席に着きながら鞄を置き、隣の席に座る雅へ声を掛ける。

 雅は漫画本を片手にページを捲っていたが、日向の挨拶が聞こえると顔を上げた。


「おう、今日は遅かったな、珍しい」

「ちょっとね、途中でコンビニに寄って飲み物買って来たから……」


 日向の返答を聞きながら、雅は片眉を上げてみせた。


「……声が変だな」


 手に持った漫画を閉じながら、雅がすっと目を細める。

 それから、日向の顔色を確認するかのように、視線をあちこちへ動かした。


「帰れ」


 突然過ぎる一言に、日向は気圧される。

 まさか、こうも容易く看破されるとは思ってもいなかった。

 丁度、悠里と共に寄ってきた唯が、慌てたように割って入る。


「ちょ、ちょっと成瀬、いきなりなんて事言ってんの?」

「かなり悪いだろ、お前」


 唯の言葉を無視して、雅が日向に向かって言い放つ。有無を言わせぬ口調に、日向は圧倒された。


「……日向君、熱でもあるの?」


 悠里が心配そうな顔で日向を見る。出来る事なら、誰にもそんな顔をさせたくはなかった。

 それがエゴだと分かっていても。

 だから今、自分がしている事は滑稽な言い訳なのだという事も自覚していた。


「いや、ちょっとだけ具合悪い所はあるけど、ちゃんとやれるよ……」

「やれるやれないの問題じゃねぇよ」


 雅の口調に、明確な怒りを感じる。

 ここまで直接雅から怒りをぶつけられる事は、日向の記憶にある中でもかなり珍しい事だった。


「お前は前に、自分で蕾ちゃん相手に言った言葉を覚えてないのか?」


 そして明確に、日向が一番突かれて痛い所を突いてくるのだ。


「そんなに俺達が信頼出来ないか?」


 違う、そうではないと言いたかった。

 出来ないなんて事はありえない、全幅の信頼を置きたいぐらいだった。


「ごめん……」

「謝って欲しくて言ってんじゃねぇ、病人相手にこれ以上説教するつもりもねぇよ。だから何か言いたい事があるなら、言ってくれ」


 日向は、本心からこの友人達を頼っていた。彼等無しでは、今の自分は無いと分かっていたから。


「信頼、して欲しかったから」


 言葉にして分かる。何故、あんなにも嫌だと思ったのか。

 日向は皆を信頼していないのではなく、皆からの信頼に応えたかった。

 クラスでの実績が無い日向にとって、これは受け入れてくれた者達に対する感謝の表明でもあったのだ。

 日向の一言を聞いた雅は苦い顔をして、押し黙った。


「……ここで日向君が一旦抜けたとしても、それで日向君が責められる事は無いし、させない」


 再び口火を切ったのは悠里だった。


「明後日、成功させる為に、今は日向君に休んでもらうの。だから日向君は、本番までに全力で身体を治して」

「悠里……。悠里?」


 日向が呆然としていると、悠里は日向の鞄を掴んで日向に押し付ける。

 そしてもう片方の手で、日向の手を掴んだ。


「だな、連絡会は……俺が出るか。後でいい、メールかなんかで訊きたい事は送っておくから、放課後までに返してくれ」


 雅が頷いて告げると、隣に居た唯も頷く。

 三人の間で、既に意志が統一された様子だった。


「あ、進捗表は小野寺先生が預かってんだっけ?」

「う……うん、開始前に取りに行ってる」

「おっけー、そんじゃそっちはあたしがやろうかね」


 唯がそう言って掌をひらひらと振ると同時、日向は悠里に手を引かれた。

 抵抗する力も出ないまま、悠里に引っ張られるままに足を進めて教室を出る。

 クラスメイトの何人かが何事かと二人を見るが、悠里は気にした様子も無い。


 廊下に出ると、丁度、朝のショートホームルームにやってきた小野寺教諭が見えて、悠里は真っ直ぐそちらへと歩み寄る。


「先生。新垣君は、今日は休ませてあげて下さい。風邪です」


 教師の手前、日向を名前ではなく苗字を呼びながら悠里はハキハキと喋る。

 対する小野寺教諭は、一瞬だけ驚いた顔を見せたが、それからすぐに日向の顔を観察し始めた。


「……新垣、熱は」

「すみません、測ってません……」

「保健室で休ませる事も出来るが……意味が無さそうだな、分かった。御両親には俺が連絡しておく」


 仮病を疑われる事が無かったのは、日々の行いの賜物だろうか。

 尤も、もし仮病だとしても、それがこの教諭相手にはとても通用するものとは思えなかったが。


「しかしお前の御両親は共働きだったか、すぐに迎えに来て貰う事は難しいか……一人で歩いて帰れそう、には無いか」


 小野寺教諭が日向の脚元を見る。

 既に朝方より体温が高くなり、段々と朦朧としてきている。


「いえ、今ならまだ、平気です。家までは二十分程度なので……」

「私が送ります、いいですか?」


 この期に及んで模範的な回答を繰り返す日向を、悠里が手で制しながら言った。


「芹沢がか? いや、幾ら新垣が病人とはいえ、お前を付き添いに出すには。成瀬の方が適任ではないか?」

「私、新垣君の彼女ですから」


 ピシャリと言い放つ悠里に、小野寺教諭も、そして日向も固まった。

 その二人に構わず悠里は続ける。


「それとも、小野寺先生は私と日向君が信用出来ませんか。それほど、素行に問題がある行いをしてきた覚えは無いのですが」

「いや、悠里……これは素行がどうとか、そういう問題では無さそうな……」


 思わず横槍を入れた日向を、悠里は軽く睨みつけて黙らせた。

 二人のやり取りを見ていた小野寺教諭は、少しだけ考える素振りを見せて……微かに笑って、頷いた。


「いいだろう。ただし、送り届けたら速やかに学校へ戻るように、()()()()以降の遅刻は許さん。それでいいな、新垣」


 そして最終確認を何故か日向へと向けてきた。


「……先生と悠里が、それでいいのなら、お願いします」


 こうなると、最早日向は何かを言える立場には無い。大人しく、病人らしく、介抱されるのが最も周りに迷惑を掛けない状況なのだと悟る。


「学科担任には俺から伝えておく」


 端的にそれだけを言うと、小野寺教諭は教室に向かって歩き始めた。


「………良い、友人を持ったな、新垣。せいぜい、尻に敷かれる事の無い様に気を付ける事だ。それと、芹沢」


 教室に入る前、振り向きざまに見えた小野寺教諭の表情は普段の鉄仮面とは違い、面白い物を見た、と笑っていた。


「その頑固者は、一度決めたらテコでも動かん事が多い。言う事を聞かせるなら、今のように強引にこちらの都合に巻き込んでしまえ。気を付けてな」


 ガラリとドアを開けて教室に入る小野寺教諭を、日向と悠里は何とも言えぬ表情で見送った。

多少展開重視です、現実的ではないなぁ、と思う部分もあるかもですが、ご容赦下さい。

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