一先ずの、約束(改稿版100話)
学校祭準備が本格的に始まる週の月曜日。
今日から本番まで、放課後は恐らく毎日作業に充てられる事になるのだが、それはつまり、期間中は日向と蕾が一緒に過ごす時間がそれだけ削られるという事でもあった。
「それで、うちのクラスはホラーミステリー系喫茶……って言うと少し怖いかもしれないけど、雰囲気程度だから本当に怖がらせたりはしないよ」
「ほらーみすてりー? ……こわくないの?」
「ちょっとだけ雰囲気は出すと思うけど、怖がらせる程では無いよ。いつもと違う雰囲気の中で、お茶とお菓子、後はお好み焼きとかやきそばとか食べて貰うんだけど……なんか改めて説明すると、凄いチグハグだなぁ。そういうのを、ちょっとしたゲームを交えながらね」
「おこのみやき! やきそばー! たのしそーう! けど……」
日向の言葉を復唱する蕾は、最初こそ元気だったものの段々とその声量が落ちてしまう。
蕾の中では、日向達が用意してくれるお祭りは楽しみなのだが、その為に日向の帰りが遅くなるのは、やはりどこか寂しいのだろう。
それでもその事を口にしないのは、幼心にも兄にとっては良い事が起きてると感じているからだろうか。
「できたら、つぼみもいけるんだよねー……?」
「うん。皆も気合入ってるから、楽しみに待っててね」
玄関で靴を履く日向の背中に、蕾が引っ付きながら「はーい……」と萎んだ声を出す。
「ちょっと遅くなるけど、ちゃんと帰るから……」
「うんー……」
言葉とは裏腹に、背中にしがみ付いた手はなかなか離れてくれなかった。
日向は一度振り返り、蕾の頭を一度だけそっと撫でる。
「かえってきたら、あそべる?」
「うん、夜更かしは出来ないけど、ちょっとだけなら遊べるよ」
「おふろはー……?」
「んー、お風呂まで待ってると遅くなっちゃうから、母さんとにしようか」
「えー……」
最後の返事に、蕾があからさまに不満な表情をする。
ついでに後ろに控えている明吏も不満そうな表情をした。
「………お父さんが日向に抱く嫉妬心の一端を理解しちゃったわよ、今」
「いい機会なので、母娘で是非とも親交を深めて貰いたい所存……」
「私は楽しみにしてたんだけどなー、平日は日向だし、休みの日はお父さんだし。蕾と一緒にお風呂入るなんて、久し振りなんだけどなー」
明吏がいじけた様子で蕾を横目でチラチラと伺うと、流石に蕾も思う所があったのか、明吏の腰元にぎゅっと抱き着いた。
「お、おかーさんとはいるよー! つぼみも、たのしみだよ! えっとね、ほんとうだよ!」
「うんうん、そうだよねそうだよね、偶には蕾もお母さんと入りたいよねー、お兄ちゃんじゃなくてもいいよね?」
「う、うん……」
「蕾が一番好きなのは、やっぱりお母さんだもんねぇ?」
段々と蕾への問い掛けが誘導尋問というか、私怨が入り始めていた。
蕾は母親からの言葉に、イエスともノーとも返せず、明吏と日向を交互に見詰めて眉を八の字にしている。
「息子として母親に一番言いたくない言葉の一つに、大人気ない、っていうのがあるんだけど」
「あら。日向だって小さい頃は、お母さんが一番好き! って言ってたのよ?」
「偶には母子水入らず、楽しむのもいいなぁと思う!」
高校生になって母親から聞かされたくないエピソードの一つ。その一部を晒されて日向は閉口する。
こんな話を友人達の前でされた日には、日向と言えど翌日からは布団に引き籠りたくなる可能性がある。
蕾にとっての第一位の座を奪い合う事に迷いは無いが、戦略的撤退も時には必要なのだ。
「それじゃあ、母さん。蕾の事を宜しくね」
「普通その言葉、言う立場が逆なんだけどね……。任せておきなさい」
明吏が苦笑いと共に頷いて、自分の腰元に寄り掛かる蕾を後ろからぎゅっと抱きしめた。
「行ってきます」
家を出る瞬間、ドアの隙間から見た蕾の口元が「いってらっしゃい」と呟くのが確かに見えた。
通学路を進み、商店街を抜ける。
まだ時刻は午前八時を丁度指した所で、予鈴までは十分に時間がある為、日向は住宅の庭や街路樹に植えられた楓が紅葉している様を鑑賞しつつ、歩みを進める。
信号を超え、校舎までの長い一本道に差し掛かろうとした時、遠くに佇む一人の女子生徒の姿が目に入った。
見覚えのあり過ぎるその姿に、日向は自然と歩調が速くなる。
「………日和?」
「日向先輩……お早うございます」
鞄を両手に持って立ち尽くしていた日和は、日向の姿を認めると、安心した様にふっと息を吐いて笑う。
「どうしたの、こんな所で……学校は?」
「ちゃんと行きますよ。制服だって着てるし、鞄もあるじゃないですか。ここからサボるほど、私は素行不良の生徒じゃありませんよ。………日向先輩が通るかな、って思って。ちょっとだけ、待ってました」
「俺を?」
「はい。日向先輩を、です」
そう真っ直ぐに言われて、日向は面食らった。
まだ冬では無いといえ、秋の朝方。気温はそこまで高くは無い。日向が日和より先にこの道を通っていたら、日和はいつまで待ち続けたのだろうか。
「………先輩? あの、御迷惑でしたか……」
思わず黙り込んでしまった日向を見て、日和が不安気に尋ねてくる。
その表情がまるで、幼い頃に日向の後ろを付いて回った日和と同じものの様に見えてしまい、日向は慌てて首を横に振る。
「まさか、迷惑だなんて。ありがとう……いつまでも此処に居ると寒いから、歩こうか」
そうして先を促す日向へ、日和も頷きを返した。
そのまま、日和の右手が日向の左腕の袖を掴む。
何事かと日和に振り返ると、日和はそのまま恥ずかしそうに顔を伏せてしまい、何も言わずにぎゅっと握る力を強くした。
「あ、あの、御免なさい……つい」
いつも通りの日和だと思っていたが、その顔は少しだけ昏く……日向は先日の帰り道で雅と話していた内容を思い出す。
二年前の日向が直面した出来事の一端を知ったであろう、日和。
そして先日には、昔に戻ったみたいに二人でボールを打ち合い、子供の様にわんわんと泣き出した日和。
羞恥よりも何よりも不安と後悔と、他にも言葉にならない感情が日和の中で渦巻いているのだろう。
日和が裾を握るその手は、僅かに震えていた。
大事な人だと言いながら、日和の優しさと我慢に甘えて。
想いを告げられていながら、答えを返す事すらせずにいる。それも、二度。
多くの物が、日向の手に戻って来た。再び学校生活の思い出を積み重ねる事が出来た。
今日から始まる学校祭も、これから忘れられない出来事の一つになるだろう。
けれど、そうやって一歩ずつ先へ先へと進むだけでは、解決しない事もあったのだ。
日和はかつて日向に言った。日向が自身のやるべき事を見据えて、それを終えたら答えが欲しいと。
今ならば日向にも分かるのだ、日和がすぐに答えを欲しがらなかった、その理由が。
距離が近過ぎて、存在が大き過ぎて、お互いに自分の人生を捻じ曲げてしまう程の相手だからこそ。
全てを曝け出して、そしてどんな関係を築いて行くのか、それを見極めなければいけないのだろう。
「最近、歩く時に日和に掴まえられている事が多い気がする」
夏の終わりにあった試合の日、あの日も日和はこうして日向を離さない様に、泣きながら歩いていた。
そんな事を思い出しながら日向が笑うと、日和の顔がさっと赤くなる。
「それはっ……だって、こうしないと……」
―――また、日向先輩がどっか行っちゃうかもしれなくて。
囁く様に零れた言葉は日向の耳には届かなかったけれど、口元は確かにそう言っているのが見えた。
拗ねた様な日和を先導する様にして日向が歩き出すと、日和は遅れない様に、そして掴んだ手を離さない様に握りしめたまま付いて来る。
「学校祭、終わったらさ」
前を向いたまま日向が口を開いた。
「練習しようか。前みたいにボレーだけじゃなくて、思いっきり試合形式で」
「え、いいんですか?」
「あんな小手調べみたいな事で、日和が満足するとは思って無かったんだけど、そうでもなかった?」
少しだけ意地の悪そうな顔を日向が見せると、日和は慌てた様に首を横に振った。
「う、ううん! そんな事無い! 全然そんな事無い!」
「言葉遣いが戻ってる」
興奮したのか、顔を紅潮させた日和が思わず砕けた口調で返事をするのを聞いて、思わず笑ってしまいそうになる。
本当はもっと、優しい言葉と言い方で、ちゃんとした話をすべきなのは自覚していたけれど。
きっと自分達には、こういうやり方の方が合っているのでは無いかと思った。
「……試合形式とかで、日向先輩をボコボコにしたら、あの日の事を全部、話してくれますか?」
ほら、やっぱり……と。
日向は、切り返してくる日和の言葉と表情に、今度こそ笑いを堪えきれずに噴出した。
上月日和には、沈んだ表情は似合わない。美しいけれど、似合わない。
彼女にはいつも、太陽の如く力強く輝いている存在で居て欲しい。それは日向の本心からの願いでもあった。例え、今彼女を翳らせているのが自分自身だとしても。
「随分と舐められちゃったなぁ……」
「二年もブランクある人なんかに、今の私が敗けると思いませんからね。私は私なりに頑張ってたので」
「すっごい嫌味を感じた……」
「このぐらいで済むのなら、安いものだと思って欲しいです」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く日和だけれど、相変わらず右手は日向の袖を握っている。
この程度の約束では、とても離してくれる気にはならないらしい。
「それに、学校祭を優先させてあげている私の寛大さにも、そろそろ気付いて欲しいぐらいなのですが」
御尤もな意見である。
「ちなみに、今日の日向先輩は、やけに察しが良いと言いますか。……まるで私が何を思ってるのか、分かってるみたいに感じるのですけれど」
「あ、いや、それは」
「どうやら、情報を洩らした馬鹿な人が居るみたいですね」
日和の双眸に剣呑な光が宿り、日向は親友の顔が青空に浮かぶのを幻視した。
「それはほら、俺に対しての筋を通しただけであって……」
「お認めになられましたね。有罪です。……まぁ、この行事が終わるまでは、曲がりなりにも日向先輩の片腕として働くそうですし。負傷して使い物にならないと困るので、執行猶予という事にしておきましょうか。……お節介なんですから、ほんと」
およそ通学中に語る言葉とは思えない、物騒な単語が飛び出す。
兎にも角にも、日向と日和は僅かな犠牲を払いつつ、近い日に言葉を交わす約束をしたのだった。
大変お待たせしております。100話の改稿になります。
何が足りないのかと熟考した結果、必要なのは道筋の変更ではなく、丁寧な繋ぎなのではと(今更)
日和の話が一旦途切れてそのままになっていて、後々にそれをどこかで挿入するとしても唐突過ぎて。
こうして、一つどこかで区切りを付けておく必要があったので……。
大まかな流れは、以前までのものと変わりません。(嘘です、多分変わります)
色々必要な作業も終わり、一気にやるぞー!と思っていたのですが……
特典用SSを幾つか書かせて頂ける事になり、そちらの期日もあまり猶予が無く、投稿は数日置きになりそうな予感です、すみません!
また、発売日共々、正式に発表されたのでこちらにて告知致します。
角川スニーカー文庫より、2月1日に発売。
イラストレーターは『なたーしゃ』様になります!ようやく発表出来たー!
口絵、キャラクターデザイン等を見せて頂きましたが、可愛い!凄い!
こちらのカバーイラスト等も、発表出来る段階になれば告知させて頂きます。
色々とお待たせしてしまって読者様にはご迷惑をお掛けしておりますが、何卒応援を宜しくお願い致します。