子守り男子、スーパーへ行く。
処女作であり習作になる予定ですので、生温かい目で見て頂けたらと思います。
表現方法や文体についてなど、様々なアドバイスお待ちしております。
※角川スニーカー様より書籍化が決定致しました。
改稿作業に伴い、あまりにも『ちょっとここは酷いなぁ』という部分はweb版も改稿していきます。
『先輩……日向先輩、起きて下さい』
懐かしい声に名前を呼ばれた気がして、新垣日向はゆっくりと瞼を開けた。
どうやら授業の合間にある休み時間の合間でうとうとしていたらしい。
季節は六月の半ば過ぎ。夏を控えたこの季節の陽気は日増しに強くなっている。
日向は大きく深呼吸をすると、次の授業に向けて机の中から教科書を取り出す。
「昨日のワールドカップの試合、微妙だったよなぁ」
「あ、沙希! 佐伯君と春日さんが付き合ってるって噂聞いた? あれほんとなの??」
「明日休みかぁ……徹麻してぇなぁ、メンツ集めようぜ、メンツ!」
試合の批評をするサッカー部の声、クラス内ゴシップを話す女子の声……これからの予定を相談する男子生徒の声。日向の周囲からは様々な会話が聞こえてくる。
けれど、日向がその輪に加わる事は無い。
日向は友人が皆無という訳でもないが、数少ない友人は運動部に所属しており、普段は練習に明け暮れているので放課後や休日に遊びに行く事はほとんど無い。
日向も周りの学生と同じく、普通に友達と遊んで、普通に恋愛もして、そういう高校生活を送ってみたい気持ちが無い訳ではなかった。ただ、自分の場合は少しばかり、その優先度が他と比べて低いのだろうと、日向は考えている。
(どこかに行くにしても、蕾と一緒に行ける場所と、蕾の事を知っている人じゃないと……だし)
言葉にしてから、日向はその『蕾』が今は恐らく幼稚園で友人達と走り回ってる姿を想像し破顔する。
日向には五歳になる妹が居る。名前は新垣蕾。
新垣家の両親は共働きで、母親は看護師、父親は商社勤めのサラリーマンだ。
どちらも平日は忙しく、基本的に夜は大分遅い帰宅になる。その為、日向が高校に入ってからは家での蕾の世話と家事は日向が一身に引き受けている。
日向にとって、今の生活の全ては蕾を中心として動いている。学校で勉強する事は将来的に良い会社に入り、生活を安定させて蕾が大きくなっても家族としてサポートする為。そして蕾との時間を過ごす事は、日向にとって何よりも優先するべき事となっている。
だからこの日も、いつも通りに学校での出来事は日向にとって別世界の出来事でもあり、他人事の様に『楽しそうだな』と感じる事はあっても、今の自分の状況を不遇と嘆く事も無い。
当然、周りと関わる時間も作れない日向は、このクラスは元より学校の生徒達大半にとって、ほとんど関わり愛の無い存在として影の様に扱われている。
(まぁ、影というより、背景の様な存在というべきか……)
ノートと向き合いそんな風に考えていた時、日向が座る席の後方から、女子生徒達の会話が聞こえてきた。
「おぉ……悠里、あたしの悠里……疲労困憊のあたしをその胸の膨らみで癒しておくれ……」
「ちょっと唯! や、やだ、くっつかないでってば!」
「いいじゃんいいじゃんー、勉強し過ぎて疲れたよー! 五限始まる前に悠里成分を補給させてよぉー!」
「ちょっと! や、やめてってば……そんなに押さないで……あっ!」
ドンッ、と日向は背中に何かがぶつかる衝撃を感じ、何事かと振り返る。
誰だろう、と確認しようと視線を上げると、そこにはぶつけた拍子に何処かを痛めたのか、片目を閉じる様にして顔を顰めている女生徒が居た。
「ご、ごめんッ! 新垣君、痛くなかった?」
「あ…うん、平気だよ、気にしないで。芹沢さんこそ平気?」
「うん、大丈夫。ごめんね? もう……唯がふざけ過ぎたせいで新垣君にぶつかっちゃったじゃない!」
芹沢と呼ばれた女子生徒は、日向へと申し訳無さそうな顔で謝罪すると、反対側を向いて別の女子生徒へと憤慨してみせた。
「ごめんってばー。でも流石のカタブツ新垣君も、きっと悠里に触れられてラッキーって思ってるんじゃない?」
「こら、唯……ほんっと怒るよ、迷惑掛けたのにそういう事言わないの! ……新垣君、ほんとゴメンね、今度から気を付けるね」
「うん、こっちは本当に大丈夫だから。それよりほら、授業始まるよ」
そう言って日向が教室のドアを指差すと、丁度教師の顔がガラスの向こうに見えており、それに気付いた女子生徒は長い髪を靡かせながら、慌てて自分の席へと戻って行った。
日向は一瞬だけ騒がしくなった自分の周囲に動揺する事無く、机から次の授業で使う教科書とノートを引っ張り出す。ふと、その途中で視線を感じて振り返ると、件の女子生徒が両手を合わせて『ごめんね』のポーズを取って日向を見ていた。
彼女の名前は芹沢悠里。
誰に対しても明るく友好的な性格で、容姿は十分に美人と言える。けれどその事を鼻に掛けない親しみ易い性格をしており、彼女の周りには常に同性の友人達が集まるので華やかな雰囲気を周りに振り撒いている。つまり、日向とは正反対の位置に居る女子生徒だ。
日向も何度か挨拶程度の会話はした事があるが、事務的というか、連絡事項みたいなものばかりだった。異性はもとより、同性とすら接点の薄い日向にとっては、別世界の住人と言っても過言ではない。
日向は悠里へ軽い笑みと共に首を横に振る。『気にしないで』という意思表示だったが、それは正しく伝わったらしく、悠里は安堵した顔で頷いた。
放課後になると、日向はすぐさま荷物を纏めて教室から出て、まだ人も疎らな廊下を下駄箱に向かって歩き出す。
(今日は家に帰る前に、蕾とスーパーに買い出しに行かないとな。冷蔵庫の中、あんまり食材が無いや)
校舎に背中を向けて歩く道に、まだ下校する生徒もほとんどおらず、買い物途中の主婦や散歩中の高齢者、外回りをしているらしきスーツ姿の会社員とすれ違いながら日向は祖父母の家を目指して歩く。妹を迎えに行く為だ。
蕾の幼稚園が午後二時前には終わり、本来ならば幼稚園のバスが家まで送り届けてくれるのだが、その時間に家には誰も居ない。両親、日向共に昼間は不在なので、普段は自宅の近所に住む祖父母宅に送って貰っているのだ。だからこうして、学校が終わると祖父母の家に寄って蕾と一緒に自宅に帰るのが、日向にとっての放課後の過ごし方だった。
やがて見えてきた祖父母宅の門を潜って玄関を開ける。中に入ると、足元には子供用の小さな靴が片方逆さまの状態で放置されていた。
靴の状態がまるで持ち主の奔放さを表している様で、日向は思わず笑ってしまいながら、丁寧に揃えて並べた。
「祖母ちゃん、祖父ちゃん、ただいまー。つぼみー! 帰ったよー!」
自身も靴を脱ぎ、並べながら廊下の先に向けて声を張り上げると、ひと呼吸置いたタイミングの後に『ダダダダッ!』と音が聞こえてくる。
その音を聞くと、無意識に顔が綻び、腰を屈める姿勢を取ってしまう。
「おにいちゃん、おかえり!」
日向の視界に天使が飛び込んで来た。
ようやく肩ぐらいまで届くまでに伸びた髪の毛を、頭の横で軽く結び、赤いパーカーと半ズボンを履いた天使。
両手を万歳の状態にして、加速がついたまま飛び込んでくる蕾を素早く、ケガをしないよう注意しながら受け止める。
「ただいま、蕾。いい子にしてたかー!」
「うん、おじいちゃんとね、おばあちゃんとね、ちょこれーとたべてた!」
ちょっと舌足らずな言葉で必死に伝えてくる姿の愛くるしさに、思わずぎゅっと抱きしめる力を強めてしまう。衣服越しでも伝わる子供の体温に、日向は気持ちが解されていくのを感じる。
「あはは、いたいよおにいちゃん。いたいいたい! つぼみ、つぶれちゃうよ!」
笑いながらじゃれついてくる妹を存分に愛でた後、ゆっくりと降ろす。蕾はそのまま後ろを振り返り、廊下に向かって大きな声を張り上げた。
「おじーちゃん! おばーちゃん! おにーちゃん、きたよー!」
その声が聴こえたのか、直後に足音が廊下に響き、祖父母が姿を見せた。
「日向、おかえり。早かったな」
「うん、ただいま。やる事も特にないからね、蕾と買い出しにでも行こうと思って」
「そうか、すぐ出るのか? 少し休んでいったらどうだ?」
「そうしようかな、ちょっと喉が渇いたから麦茶でも飲ませて」
祖父の提案に、日向は軽く頷いて靴を脱ぎ、廊下に上がる。
蕾と手を繋ぎながらリビングに入ると、そこには蕾が散らかしたであろうオモチャが散乱していた。
「あーあー、やってるやってる……。こーら、蕾! これ片付けちゃうよ、出したままだと爺ちゃん
婆ちゃん踏みつけて足をケガしちゃうからね。蕾も踏むと痛いぞー!」
「はーい!」
元気な返事を聞いて、日向と蕾は二人で散らかったオモチャを片付ける。
それが終わると、祖母が出してくれた麦茶をゆっくりと飲みながら、一緒に出された饅頭の様な菓子を食べて小腹を満たした。
「日向は本当、蕾のお父さんみたいになってきたね」
「そうかな、まぁ親父達が忙しいからね。ちゃんと叱る所や躾る所はやっておかないと。我儘を聞いてあげるだけが可愛がるって事にはならないしさ」
「だってさー蕾ちゃん。 お兄ちゃん、蕾ちゃんが悪い事すると怖いお兄ちゃんになるんだってー!」
「きゃー! きゃー!」
祖母が蕾とじゃれ合う姿を見て、日向はまた顔を綻ばせるのだった。
それから、一時間弱ほど祖父母の家に滞在し、遅くなり過ぎる前に帰路につくべく日向は蕾を連れて玄関へ向かった。
「それじゃ、俺と蕾は商店街寄って行くから。また明日お願いね」
「はい、気を付けてね。あまり遅くならないようにするんだよ。お母さん達は早目に帰ってくるの?」
「どうかな、夕飯だけお願いされたから、それまでは戻らないと思うけど。まぁ何かあったら連絡するから、じゃあね」
祖父母に別れを告げて玄関を開けると、夕陽で赤く染まった街並みが顔を覗かせる。
右手には蕾の小さな手が握られており、二人でゆっくりと商店街へ歩き出す。
「蕾、今日はお母さん帰宅が遅い日だから、ご飯とお風呂はお兄ちゃんとな。何か食べたいものはあるか?」
「んー、と。んー、おむらいす! おむらいすたべたい!」
「オムライスか、分かった。卵が少ないから、買い物行ってからな。後はお風呂上りにアイス食べようか」
「あいす!食べたい!」
ぴょんぴょんと跳ねる妹を離さないよう、しっかりと手を繋いで二人は歩き出した。
10分程歩くと商店街にあるスーパー『はとや』に着く。
ここは駅前にある大型ショッピングモール併設のスーパーよりも小振りだが、鮮度がよくて値段も安く、更にポイントカード特典も充実と隠れた名店なのである。
店内に入ると、エアコンの涼しい空気を感じられた。初夏に入り、少し蒸し暑さで汗ばむ身体には気持ちがいい。
「蕾、寒くないか?」
「さむくないよ。すずし!」
ぎゅっと握った手が一度強く握られる。
日向は蕾を子供用のカートに載せ、店内を歩き始めた。
時折、蕾がキャラクターの駄菓子や試食品に釣られてしまいそうになるが、日向は巧みな誘導で蕾の興味を逸らしていった。
「あら、蕾ちゃんお兄ちゃんと一緒に買い物? いいねー! 晩御飯の買い物かな? 今日は何を食べるのかなー?」
「おむらいす!」
「オムライス美味しいもんねー! 沢山食べるのよぉ」
馴染みのパートのおばさんも蕾に話し掛けてくる。ここには二人で何度も来ているので、すっかり有名人だ。
「今日は豚バラが特売かぁ……」
「ぶたさん、つぼみすきー」
「そっかぁ。なら、今度はあれ作ろうか。豚肉と白菜のミルフィーユ鍋」
「みゆふぃーゆ」
「惜しい、ミルフィーユね」
そんな風に雑談を重ねながら和気藹々と二人で買い物を進めていると、傍にあった商品棚のコーナーから不意に人影が出て来て危うく衝突してしまいそうになる。
「っと……! すみません。不注意でした」
慌てて日向がカートを引いて謝罪をすると、相手も驚いたのかすぐに頭を下げてくる
「あ、いえ……こちらこそ……」
お互いに謝罪しつつ、一歩ずつ下がる。
ふと相手の姿に既視感を覚えた、というか毎日見慣れている制服だった事に気付く。
ウチの学校の生徒だったのか、と思い日向が相手の顔を確認しようとすると、先に相手方から声を掛けられた。
「……あら、え? 新垣君? え……何してるの?」
日向が相手の姿を確認すると、その人物はクラスメイトの芹沢悠里だった。
悠里の手には幾つかの菓子と飲料が入った籠が携えられており、買い物の途中だった事が伺える。思い掛けない相手との遭遇に、日向は内心の動揺を抑えながら会話に応じた。
「あれ、芹沢さん? ……びっくりした。芹沢さんもここ使うんだ」
「うん、というか私の方がびっくりだよ。子供用のカートを引いているのが、まさか同級生なんて普通思わないもの……あら?」
笑いながらそう言った悠里が、日向の押しているカートに目を向けると、その中から可愛らしい瞳が二つ、悠里を見上げている。
「こんにちわ!」
びょこんと、カートから蕾が顔を出す。
「あ、え……? こ、こんにちは……っ?!」
突然現れた幼い女の子の姿に、悠里は驚き、思わずその姿をまじまじと観察する。そして少女の容姿に再び驚き、心臓が跳ねた。
柔らかそうな頬、ほわーっと開いてしまっている小さい唇、ちょっと背伸びしてオシャレをしているような、片方だけ結んでいる髪の毛。もしも自分に妹が出来るなら、こんな子にして欲しい。そう思ってしまいそうな程に愛らしい少女だった。
悠里が呆然と見惚れていると、蕾は悠里を見上げ、白い歯を見せて満面の笑みを浮かべてみせる。
思わず『にっこり』という擬音が聞こえてきそうな笑顔に、悠里は心臓をギュッと掴まれてしまう錯覚を覚える。反則級な天使の笑顔に、身を捩りたくなる衝動を抑えながら悠里は日向へと振り向いた。
「こ、この子、この子は一体……」
悠里はロボットのようにぎこちない動きになりながらも、何とか首だけを日向に向ける。
「俺の妹だよ。ごめんね、あんまり人見知りしなくてさ……」
そう言って笑う日向の雰囲気がどことなく柔らかいのは、妹と居るからだろうか。
教室での印象と随分違う日向に、悠里は一瞬呆けてしまいそうになるが、すぐに表情を取り繕う。
「え、えぇ……。と、とても。とても可愛い妹さんね……お名前はなんていうのかなー?」
視線を再び蕾に戻すと、蕾はえっちらおっちらとカートから出てきて、そのまま悠里の足に抱きついた。
突然の行動に悠里が完全に固まってしまう中、蕾は気にせずに笑顔のまま悠里を見上げ……
「あらがきつぼみです、ごさいです!」
と元気よく挨拶した。。
「こら蕾、お姉ちゃんの足に捕まっちゃダメだよ。お姉ちゃん、動けなくなっちゃうだろ」
「そ、そうね、別の意味で動けなくなっちゃうからね……。つ、つぼみちゃんかー可愛いね。……思わず連れ帰ってしまいたくなるんだけど……」
「御免だけど、この妹は非売品だから……」
手をワキワキと謎に動かす悠里に日向が苦笑いで返す。そして二人で蕾に視線を戻すと、蕾は悠里が持つ籠を指差し、瞳を輝かせながら驚嘆の声を上げた。
「これ、てれびでみたことあるちょこれーとだぁ……!」
蕾の視線が捉えているのは、悠里の籠に入っているチョコレート菓子だった。スポンジケーキの上にチョコレートをコーティングし、スポンジの合間にも板チョコがサンドされており、ふわふわした食感とパリっとした食感が楽しめると好評でロングセラーになっている人気商品だった。日向は蕾がこのチョコレート菓子のテレビコマーシャルが入ると、いつも目を輝かせて見入っていた事を思い出す。いつか買ってあげたいとは思って居たものの、子供のおやつには少々お高い値段設定なので、なかなかに買う機会が無かったのだ。
「あ、これ知ってるの? お姉ちゃん、これ大好きなの。だから偶に買いに来るんだぁ。蕾ちゃんもこれ好きなの?」
「………うぅん、つぼみ、まだたべたことないの……」
悠里からの問い掛けに、蕾は小さい口で頑張って答えるが視線は悠里の籠にあるお菓子に固定されて、気もそぞろという感じだ。蕾は一瞬迷った風に視線を彷徨わせ、日向を見た。
「おにいちゃん……つぼみも、あれほしい……」
懇願する蕾に、日向は困ったような顔をした後、視線を合わせるように屈みこむ。
「蕾、チョコレートはさっき婆ちゃんの家で食べたろ? それに帰ったらご飯もある。お菓子食べ過ぎて晩御飯食べられなくなるのは嫌だろ?」
日向が諭すように蕾へ語りかけると、蕾は小さな拳をぎゅっと握り、こくりと頷いた。
「……うん」
「その内ちゃんと買ってあげるから、今は我慢しような」
「………うん」
そう答えているが、目尻には少しだけ涙が浮かんでいる。
「きょうはもうおかし、たべたから。がまんする……」
その言葉を聞いた日向は、親指の腹で蕾の目尻を拭う。
蕾は涙を誤魔化すように、顔を日向の肩へぶつけて擦り付けた。
横でその光景を見ていた悠里は、なんだかとても居た堪れなくなり、つい自分も腰を屈めて蕾と視線を合わせてしまう。
「蕾ちゃん、ごめんね……お姉ちゃんが見せちゃったから、食べたくなっちゃったんだよね……」
申し訳無さそうな表情を浮かべながら、悠里は蕾の顔を覗き込む。悠里の視線の先では、欲求を抑えようとして必死に涙を堪えた蕾が、悠里は悪くないと主張する様に首を横に振っていた。
「だいじょうぶだよ……つぼみはね、おにいちゃんがこまるほうがいやだから……だいじょうぶ」
「……蕾ちゃん」
悠里にだけ聴こえるぐらいの声量で囁かれた声に、悠里は胸が詰まる想いがした。健気で、素直で、ちゃんと誰かを思いやれる優しい子なのだろう。
日向の言う事にも一言で頷き、我慢して、あまつさえ兄を困らせたくないと言い切る。本当にいい子だ。そしてその子を泣かせてしまっている原因が、間接的にとは言え自分にある。そう思った悠里は、蕾の笑顔が見たいという一心で口を開いた。
「蕾ちゃん! なら、明日! 明日、私と一緒にこれ食べよう! 私ね、今日は他にお菓子あるから、これ食べなくても大丈夫なの。だから、蕾ちゃんと半分こして食べたいな!」
悠里の言葉を聞いた蕾は、ぱっと顔を上げる。泣き顔に沈んだ顔が、徐々に明るくなった。
「……うん! あした、おねえちゃんとおかしたべる! たべたいー!」
そう言うなり悠里にしがみついてくる蕾に、悠里は恍惚とした表情を浮かべていたが、ふと我に返り日向の方へ申し訳無さそうな表情を浮かべる。
「ご、ごめん新垣君……勝手に約束しちゃって……。ま、マズかったかな…よね。でも蕾ちゃんが可哀想で…つい……」
今日で何度、悠里から謝られるのだろうかと思いながら、日向は突然の悠里の申し出に呆然としながら返事をしようと口を開いた。
「いや、それは大丈夫というか……逆に迷惑掛けてしまって……御免なさい……」
「わ、私は平気だよ。ほら、蕾ちゃんにダイエット手伝って貰うと思えばいいんだし……ダイエット考えてるなら、最初からお菓子なんて食べるな! って話なんだけどね」
言いながら照れた顔で自分のお腹の辺りを擦る悠里に、日向は思わず彼女の身体を上から下まで眺めてしまう。ほっそりとしたウェストに、綺麗に伸びた足はダイエットの必要性などまるで感じさせず、むしろ健康的な色香を纏っている様に思える。
「ちょ、ちょっと新垣君……冗談、冗談だから、あんまり見ないでよ…」
恥ずかしそうに悠里が身を捩って身体のラインを隠すと、日向は慌てて目線を逸らす。
「あぁぁ御免、御免なさい! つい……」
「う、ううん……私も変な事言ってゴメン……」
そして二人はお互いに頭を下げ合うと、どちらからともなく顔を上げて視線を交わらせる。
「今日はなんか、お互いに何度も謝られる日だね」
日向がそう言うと、悠里も日中の事を思い出したのか、口元に掌を当てて笑い声を上げた。
「あはは! 確かに、今日は新垣君に迷惑掛けっぱなしだね」
そして二人でひときしり笑い合った。
「あ、時間使わせちゃって御免ね。俺達もう行かないとだ」
「うん、私もだ! それじゃ新垣君、蕾ちゃん、またね」
「おねーちゃん、またねー! またあしたねー!」
その言葉を最後にして、三人は手を振り合って、それぞれ別方向に別れた。
学校帰り、妹と二人で向かった近所のスーパーでの一幕。
いつもと変わらぬ風景、そんな中で起きた、学校外でのクラスメイトとの思い掛けない出会いがあった日。
これが、日向にとって、遅めの高校生活が本当の意味で始まった日だった。
※12/22 本文改稿致しました。恐らく最終形態がこんな感じです。