手紙
(杏子の父)「これでひと安心だ。杏子は、小学校の5年生
の頃から日記をつけ始めました。ちょうど息子が亡くなって
からの事だと思います。それからほぼ毎日、死の1週間前まで
書かれています。私も何回となく読み返しました。特にあなた
に関する記述の所は赤い糸ヒモを目印にしておきました。後半
あなたのことが増えてきています。特に急性骨髄性白血病が
発症してからの3ヶ月間は、狂おしいまでにあなたのことが
つづられています。私も後わずかの命ですから、この日記と
手紙を持っていても仕方がありません。どうか必ず一読なさ
って、用が無くなれば焼却してください。
よろしくお願いします」
(若林)「はい、かしこまりました。必ず最後まで
じっくりと読ませていただきます」
(若林のN)「この時初めて杏子の父はかすかに笑みを浮かべた」
カモメの群れる声。
遠くでポンポン船の音。
(駅のアナウンス)「広電宮島。広電宮島。松大船乗換え」
砂利をゆっくり歩む音。
(若林のN)「実家の自室で包みを広げた」
包みを広げる音。
(若林のN)「20冊の大学ノート。一番下は古めかしく
一番上は真新しい。赤い糸紐が上のほうに集中している。
若林治様と書かれた封筒3通と柴山杏子様と書かれた封筒2通。
海外からの航空便が1通。なつかしいなあ。あのあと大変だった。
あれっ、あの時のだ。出発前のもちゃんと届いていたんだ。なに
も知らずに俺は。返事もきちんと書いてあるじゃあないか?何故
出さなかったのだろう?切手も貼ってあるのに」
手紙を開ける音。
(若林のN)「若林さん遅くなりましたが」
杏子のナレーションが重なってくる。
(杏子のN)「念願の合格おめでとうございます。去年の暮れ、
桃山御陵の坂道を歩きながら、若林さんは一生懸命話してました。
今の僕には君に合う資格がないんだとか、世界に必ず飛び出すんだ
とか、自分の使命は何なのかとか、とても難しいお話を何度も繰り
返しておられました。下宿に上がってもらってから、卒業したら
どうするの?と聞かれて、登町小学校の先生になろうと思うのと
答えた時、若林君はとても喜んでくださいました。その後が変で
したよ。君のテニスは天使のようだ、涙が出るほど美しい、て
言われたのを憶えてますか?思わず私が吹き出したので気分を
害されたのでしょうか?すぐ帰られましたね。ごめんなさい」