桃山南口
テニスの音が続く。
(若林のN)「一度だけ秋の夕暮れ時にテニスコートで柴山を見かけ
たことがあった。それはことのほか美しかったが、タブーな物を
そっと眺めるようにコートの陰に隠れて見つめていた」
テニスの音遠のき消える。
(若林のN)「12月にはいって追い込みに没頭していたある日、
図書館で背後に人の気配を感じた」
(杏子)「ひょっとして、あ、やっぱり若林君?」
(若林)「あ、柴山さん。ひ、久しぶり」
(若林のN)「あのときの慌てようったらなかった。平静を装いつつ
心臓は高鳴り心は動揺していた」
(若林)「あ、とにかく外へ出よう」
本をたたむ音。立ち上がる音。
サッカー部の練習の声が近づく。
(若林)「きょうは?図書館?」
(杏子)「ううん、もういいの。ちょっと調べ物。もう帰るとこ」
(若林)「下宿は?」
(杏子)「桃山南口」
(若林)「桃山南口か。桃山御陵を越えてか。ちょっと歩こうか」
(杏子)「ええ、いいわよ」
サッカー部の声遠のく。
遠くで踏み切りの音。
(若林)「残念ながらまた不合格だった。今の僕には君と話せる資格がないよ」
(杏子)「また来年も受けるのね」
(若林)「ああ、親との約束なんだ。最後のチャンス、もうほんとに疲れきったよ」
(杏子)「どうしても、そこじゃなきゃだめなのね?」
(若林)「男の意地って奴。一度決めたことだから。
男のプライドって厄介なものだ」
(杏子)「ほんとね」
時々車の通る音。
(若林のN)「あの日は心の動揺を隠すべく一方的に一人でしゃべり
続けていた。杏子にはさぞかし迷惑だっただろう」
近くで踏み切りの音。
(若林のN)「とうとう日が暮れて、下宿の前まで来てしまった。
それでもしゃべり続けていた。突然玄関の戸が開いて」
玄関の戸が開く音。
(下宿のおばさん)「中に入って二階のお部屋でお話なさい。
お茶もって行ってあげるから」
(杏子)「ありがとう、おばさん」
階段を上がる音。
(若林のN)「清潔で簡素な部屋だった。小さなテーブルを挟んで
さしむかい、正座して足がしびれてきた。来年、受かっても落ちても
日本を飛び出して海外放浪の旅へ出る決意を述べて、あとは何を話たか
さっぱり憶えていない。足が限界に達し、意を決して部屋を出た。
なんとも気恥ずかしい思いしか残っていない。それから3ヶ月が過ぎて」