ブラインド・マリオネット
その当時私は五歳で、テレビ画面にはいつもニュース番組が映し出されていた。
子ども向けのアニメ番組が見たいと言ってみたこともある。そのたびに父親から「そんなものに価値はない」と怒られたものだ。
パリの一等地に立つ豪邸が私の住まう屋敷だった。
お腹が空いたと言えば給仕係は即座におやつを用意したし、海で泳ぎたいと言えば父親は専属ヘリをチャーターして、私と共に南の海へとひとっ跳びした。
望むものはすべて与えられた。
父親がふさわしいと思ったものならばなんだって。
やがて八歳になった私は、もうアニメ番組が見たいなどとは思わなくなっていた。その頃のテレビはやけに同じような内容のニュースを流してばかりいた。たぶんこの国だけではない。隣も、その隣も、海を越えた向こうの国のテレビでもそうだっただろう。それはたとえば大人たちが険しい顔をして議論しあったり、中継を繋いでどこかの国――おそらく中東あたりの――をバックにリポーターが声を荒げる映像であったりした。
同じ頃、巷では停電が頻発するようになった。
ただし私の家は例外だ。お金を余分に払っているから、優先的に電気を流してもらえるのだ。
父親の教えにならって私は大変な勤勉家になった。勉強くらいしか趣味が無かったからだ。
だからこそ、幼いなりに世の中で何が起こっているのかを、おぼろげながら理解することができた。
世界は急激に変わり始めていた。
『どうして今まで黙っていたのですか!』
『こんなはずでは……代替エネルギーは用意できていた。我々は、裏切られたのだ!』
どこかの国の言葉で男はまくし立てる。そこにマイクを突き立てて詰め寄るリポーター。
私は窓の外を見澄ました。かつてあんなにも賑わいを見せていたパリのメインストリートは、今や閑散としている。曇っている訳ではないのに、この街に立ち込める空気はひどく重たい。いや、この街だけではない。人の力では払いのけられないほど重たくてどす黒い空気は、世界全体を光化学スモッグのように覆い隠してしまっている。
『机上の空論を繰り返してもらちがあかないでしょう。無いものは無いんだ』
『ではどうすれば良いと言うのですか』
『だからそれを話し合わなければならないと言っておるんですよ』
立派なスーツに身を包んだ男たちのくだらない議論がテレビから垂れ流される中で、私は悟った。
人類は助からないんだ、と。
地球に埋蔵されたエネルギー源が枯渇するまで、秒読み段階に入った。人間が馬鹿みたいにエネルギーを消費したせいだ。
はじまりがあればいつか終わりが来ると分かっていたはずなのに。
とうとう開発が間に合わなかったのだ。人類の脳みそは『時間』に敗れたのだ。
それらはやがて、人間の心をも貧しくしていった。
「大統領、国内の電力の数十パーセントを独占しているというのは本当ですか!」
「あなたの妻の治療に必要な装置への電力だというお話が出ていますが、どうなんですか!」
「国民に対する謝罪の言葉はないのですか?」
父親は、私の顔がテレビカメラに映らないようにコートで覆い隠して、ヘリに乗り込みフランスを脱した。
降り立ったのは地中海に浮かぶ島。滅びゆく世界から切り離されたような、美しい島だった。
頭上に広がる大空を仰ぎ見て、私は顔がぐずぐずになるくらい涙を流した。
死ぬのが怖かった。
雲の流れはいつもとなんら変わりないのに、世界は確実に死の闇に侵され始めている。
ちっぽけな私はただ父親にすがって涙を流し、嗚咽を漏らすことしかできない。
しばらく浜辺でぐずぐずとやっている時だった。
小麦粉のようなサラサラの砂地をゆっくりと踏みしめて、こちらに近付く影があった。
男は細身の黒いスーツに身を包み、シルクハットを目深に被った出で立ちをしていた。
目の前までやって来ると、男はばか丁寧にハットを外して仰々しく頭を下げた。ふさふさとした白髪が頭の動きに合わせて揺れる。
「代替エネルギーを使用した、新たなる発電装置がようやく完成いたしました。大統領」
「待っていたよ。すまないが悠長にお喋りしている時間もなさそうだ。きっとすぐに追っ手がやって来る」
「確かにその通り。世界にはびこる腐乱臭がこの島にまで漂ってきて、ひどく不快でしたよ」
では早速お見せしましょう。男は踊るように歩き始めた。私は訳も分からず、ただ父親に肩を抱かれて歩くしかなかった。
白亜の絶壁の上に作られた街を歩く。そこに人の気配は無い。もう誰も住んでいないのだろうか。
ゆるやかな坂道を上った先には、骨組みだけの焼け焦げた家の跡があった。それも広大な敷地だ。きっとこの街で一番大きな豪邸だったに違いない。
焼け焦げた骨組みの隣に円柱状の、レンガ造りの建物があった。シルクハットの男は迷うことなくその扉を開き、私たちを中へ入るよう促した。
「あまり催促はしたくないが、なるべく早くしてくれないか」
父親は指先を小刻みに太ももに打ち鳴らした。イラついている時に無意識に出る癖だ。
「気の早いお方だ。分かりましたよ。それでは早速お見せしましょう」
男はそう言ってさっそうと装置の元へ歩いていった。
薄暗くてよく分からないが、そこにあるのはただの鉄の箱のように見える。一体何が始まるのだろうと、一心に目を凝らす。男が側のテーブルに置かれていた何かを抱えて、装置をかちゃかちゃといじり始めた。準備を終えた男は抱えていたあるものを装置にセットした。
それは一枚の絵画だった。
「私が開発したのは、絵画の持つ美しさをエネルギーに変換する装置です」
男はスイッチに手をかける。にたりと口が三日月のように曲がったのがひどく不気味だった。
「あと三秒数えてスイッチを押しますが……なにしろ発電量がもの凄いので、カウントが〇になった時には、目を瞑ることをオススメします。失明してしまうかもしれませんよ」
私は恐ろしくなって、まだカウントも始まってやしないのにぎゅっと両目を瞑った。
父親の服の裾をきつく握りしめながら、四つのカウントを聞いた。
三、二、一、――……
*
暗闇の中で聞いた男の声が、やけに興奮気味だったことだけは今でもよく覚えている。
いや、男だけではなかった。私もそうだった。目を瞑った瞬間に聞こえたのは、早鐘のように鳴る己の心臓の音だった。興奮していたのだ。その時、世界が変わると心のどこかで確信していたに違いない。
事実、シルクハットを被った一人の男によって世界は救われた。
どこから湧いて出てきたのかも分からない、素性の知れない男だ。しかし彼にはどこかカリスマ性がある。あの日あの島で彼に出会っていなければ、私も、父も母も、人類も生き延びてはいなかっただろう。
「すまない。そろそろ行く時間だ」
「出会った時はあんなに小さかったのに、ご立派になられて」
「よしてくれ。昔の話だよ」
「そうですね。あなたはきっと父親のように――いや、父親よりも偉大な人間になる」
「サンジェルマン伯爵。そうおだてないでくれ」
むず痒さと誇らしげな気持ちが腹の底から湧いてくる。この人の前だと、四十歳を過ぎてなお、大人に褒められる子どものような気分を抱くのだから不思議なものだ。
「しかしあなたにそう言ってもらえると、なぜだかやる気がみなぎってくるな」
「それはあなたのポテンシャルが高い証拠ですよ」
「当選おめでとうございます、大統領」
にこりと笑う男に軽く会釈をし、私は民の待つ広場への扉を開け放った。
彼は私の命の恩人であり、世界のヒーローであり、現代の救世主だ。