愛の片道切符
後ろから迫ってくる大きな影。右手には雑誌を丸めて作った凶器。
僕は必死に逃げていた。
「くそっ、ちょこまかと。逃がしたら倍になって来る。逃がすわけにはいかない」
迫る影からはそう聞こえてきた。突然のことで分からなかったがよく見るとそれは巨人だった。巨人は僕を見失ったようで顔に焦りを浮かべて周りをきょろきょろと見回していた。
今のうちにあの台所の隙間まで逃げなくては。僕は音をたてないようカサカサと歩いた。
そのとき、後ろから殺気を感じ、振り返ると巨人が僕のいる位置とは全く違う方向に凶器を振り上げながら走って行った。
最初何が起きたか全く分からず呆然としていたが、助かったと分かり緊張の糸が途切れその場に座り込んでしまった。
遠くの方から床を殴るような音が聞こえてくる。一体何をしているのだろうと考え、気づいてしまった。僕の他に巨人に見つかり逃げ遅れた仲間が居るということに。
僕は急ぎ巨人が暴れる場所へと向かった。このときばかりは自分も見つかり、殺されるかもしれないという可能性は頭から離れ、仲間の安否ばかりを気にしていた。
そして着いた先では巨人が大量のティッシュで何かを拾い上げようとしていた。それは黒光りする体で二本の触覚、合計六本の手足を持つ僕の仲間だった。僕の仲間はそのまま巨人に捕まれゴミ箱の中に放り投げられてしまった。あの凶器で殴られてはもう命は無いだろう。僕は仲間の死を受け止め絶望した。
しかし僕は巨人を憎んだりはしない。なぜならば巨人の顔を見上げると標的を始末した今でも、恐怖の色を浮かべていたからだ。
僕は知っている。この巨人は人間と呼ばれていて、僕たちはゴキブリと呼ばれていることに。
僕たちは人間を恐れ、人間も僕たちを恐れる。それは僕たちを気持ち悪いだとか汚いだとか色々な理由があるのだろう。だが確実に人間も僕たちを恐怖しているのだ。
そして僕たちは昔分かれた種と違い、人間の下で生きていく事を望んだ。
なぜならば人間の住処は暖かくそして、ご飯がたくさんあるからだ。
僕たちは寒さに弱い。僕たちは残飯や動植物の遺骸は勿論、人間の垢や毛髪、何だって食べられる。人間の住処『家』はそういったものがたくさんある。だから凄く住みやすいのだ。
僕たちは人間の『家』でこっそりと暮らす存在、見つかったら殺される。それは仕方の無いこと。人間だって僕たちを恐れているのだから。僕たちゴキブリは人間に遭遇したら必死で逃げるそして捕まったら最後、殺される。昔からそうして生きてきた。そこに憎しみは無い。むしろ僕たちゴキブリは人間という『存在』を愛してさえいる。だから気を使ってなるべくこっそりと見つからない様に生活しているのだ。
僕は人間との本当に意味での共存を望んでいる。でも難しいのだろう。人間は違うものを恐れるからだ。
そんなことを考えていたので僕は足元に巨大な影が出来、細長い影が僕の体に迫ってくるまで目の前にいた人間の事をすっかりと忘れていた。
「くそっ、もう一匹いたのか。こいつも逃がす前に叩く!」
まさに間一髪。頭上から声が聞こえてきたと同時、半ば反射のようにその場から影の無い方向へ跳ぶと、凶器が僕の体を掠めながら地面へと振り下ろされた。
あと少し反応が遅れていたらあの凶器に潰されていたと思うと恐怖で体が竦みそうになる。だが、生き残ろうとする本能なのか足は勝手に動いてくれた。しかし凶器が体を掠めた衝撃は無視できず、決して小さくない負担を足腰に与えた。まるで地震のように振動と轟音を轟かせながら追ってくる人間。力が入らず速度の落ちる脚。凶器に潰されるのも時間の問題かと諦めようと思ったそのとき、前方にある隙間から二つの黒い影が飛び出してきた。
「随分とピンチのようだからこの前の借りを返しに来たぜ」
「早く逃げなよー。親友」
その声、そして顔。僕の親友達、双子の兄弟だった。二匹は僕の体を挟むようにして通り過ぎていった。僕は走る足を止めなかった。二匹同時であれば人間も焦り混乱して凶器をぶつけることは出来ないだろうと思ったし、なにより親友達を信じていたからだ。人間は僕一匹より二匹を優先したのだろう足音が次第に離れていった。ようやくひと安心して振り返ると親友達も隙間に逃げ込もうとするところだった。親友達の無事も確認し帰路へとつこうとしたそのとき、人間が凶器を持つ方とは別の手から今まで見たことも無いような缶のようなモノを親友達に向けているのを見た。
それはいかなるモノなのか。缶のようなモノから白い霧が噴出し、それを全身に浴びた親友達はたちまちの内に動きを止めていた。
僕は悲しみも怒りも忘れ、ただ恐怖で全身がいっぱいになった。もう振り返ることせず僕は全力でその場から逃げだした。
だがその恐怖は終わらなかった。一度にたくさんの僕の仲間を見たせいか、人間が本気を出したのだ。次の日に目が覚めると大勢の仲間が倒れていた。そして自分自身も命が尽きようとしていた。必死にあたり一面を確認しようと這いずる様に外に出ると、それは一体いかなるモノなのか昨日見た白い霧の様なものが部屋中に溢れていた。
体はいよいよ動かなくなり、自分の命が尽きようとするその瞬間もやはり人間を憎むことは出来なかった。
今度生まれ変わったら、人間と分かり合えている世界だといいな。そう思いながら僕は目を閉じた。
ふと浮かんだアイデアで30分ほどで大本を書きました。
自信作です。