名〜All don't know her name〜
この小説は「小説家になろう秘密基地」のテーマ小説です。お題は「名」。どうぞ、お楽しみください。
ゆっくりと、瞼を開いた。
眼下は全て紅い景色。
何が紅いかと問われると、紅に染まっていない物を見つける方が難しいぐらい、全てが紅かった。
かつてそこにあったであろう活気のある街は、今はそこに在ったという事実さえ疑わせるほど変わり果て、破壊しつくされていた。
鼻に纏りつくのは、劣化した鉄の腐臭。目の前にある、いや、この景色全てを埋め尽くしている、死したガラクタから、この臭いは放たれているのだろう。
景色が紅いのは、流れる血潮の所行。埋め尽くされるほどの死体は、あたしの遊びに付き合わされたナレノハテ。
それらは全て見慣れた光景。自らが起こした事象であろうとも、幾度も同じ光景を、見慣れるほど過ごしたならばいずれ飽きる。
あたしの舌打ちの音だけが響き渡る。目の前に溢れた臓腑の光景が、人々の惨状が、たまらなく退屈になってきた。
道を塞ぐガラクタを蹴り飛ばし、その場を後にした。
でも、その間。ずっとあたしの口許は歪み続けていた。まるで、次の戯れには既に目星がついているとでも言いたげに。
これは遠い遠い過去の話。でもそんな過去の話は私が知るはずもなく、故に『あたし』は『私』ではない。そのことに安心しつつ、ジリリと五月蠅くいつまでも叫び続けている時計を黙らせるとしよう――
ジリリリリ。ジリリリリ。
……うるさい。うるさすぎて、なんかさっき変な夢を見たような気がするけど、忘れちゃったじゃないか。
淡いピンクのカーテンから、これから強くなるであろう、夏の朝の柔らかな陽光が漏れ出している。私は計算尽くでセットされた、日差しがモロに直撃するベットの上でまどろんでいた。
低血圧な私は毎朝布団の上でしばらく気合いを入れないと、そりゃもう寝ぼけたまま行動して酷いことになってしまうのだ。 でも時計はそんなことお構いなく、自らの仕事を果たそうと内部音源器をフル作動。
不機嫌を力に、目覚まし時計を壊さんばかりの勢いで叩き付ける。
「……うぅ」
時刻は七時。毎日時間ギリギリまで眠っているので、こんな風に布団の上で燻っている猶予など全くなく、むしろ急がなければならないのだが、悲しいかな、低血圧が邪魔をする。
それに、私が朝に弱いのは、起こしてくれる人の存在がいないのも原因の一つなのかもしれない。
私の両親は、二人とも海外に出ている。 政略結婚とか訳の分からない結婚をした二人には、私はただの重荷でしかなく、二人はかわいい娘をおいて、海外へ旅立ちましたとさ。
既に高校二年になる今ごろにはすっかりそんな状況にも慣れたと思ったのだが、突発的に寂しくなる時があるのだ。なんとなくホームシックに似たようなものだけど、家にいながらホームシックというのもおかしい。
つーか、こんなことしてる場合じゃなかったんだっけ。
「はぁ。朝から何思い出してんだろ」
自嘲気味に愚痴りながら、私はベットから起き上がり、風呂場へ向かう。
まずは冷たい水でも被って、無理矢理にでも頭を覚醒させるとしますか。
「あーつーいー」
朝食を食べずに家を出て、真夏の太陽を一身に浴びながら、私は全然元気ではなかった。 コンクリートは朝早いにも関わらず、とっくの昔に灼けつき、太陽光はオゾン層の防御膜を突き破り、核融合全快とばかりに降り注いでいる。
つまり、とにかく暑かった。
それに加えて、私は暑いのが苦手なのだ。私の両親は雪国出身であり、暑さよりもむしろ寒さに強い。私にもその遺伝子が受け継がれているのかしらないが、暑いよりは寒い方が幾分過ごしやすいと思うし、実際にそうだ。しかし、こんな暑い盆地に住んでいるのなら、根付いた土地には順応しなければならないのだろう。郷に入っては郷に従え。まさしくこの状況だ。
でも、なんだって朝からこんなアホみたいな長い坂を上らなければならないのか。
視線を上へ。すると、目の前にはあたかも行方を妨げるかのように反り立ったアスファルトの壁が、いや、実際には傾斜が少し高く、実に頂上まで十五分かかる超難所な坂なのだが、今の状況ではエベレストとかチョモランマとか、そこらへんの山にも匹敵してしまうのが恐ろしい。
ガックリと首をうなだれ、歩みを再開する。
「■■ー!」
そんな私の背中から、朝なのに無駄にテンションが高い声が聞こえてきた。
「おはよぅ■■!」
「あぁ……おはよう彩子。今日も時間問わずに元気なのね。それとも、何かいいことあった?」
この朝からテンション高めの女は羽根田彩子。私の同級生で、家が近いから自然と仲良くなり、今こうしているように一緒に登校するような仲なのだ。
「ふっふっん。ボクにとっての幸せに該当する事項は睡眠とその他諸々だけなのだ。勉強とかは死ぬ程嫌いだけど、睡眠さえとっておけば万事オーケー」
「そう。じゃあ貴女の体の構造はすごく単純なのね」
「ううん。それは違うのだよ■■。ボクだけじゃなく、人間という生き物はハートの持ちようで体の調子は変わるものさ」
……む。なにか彩子が哲学者のようなこと言ってる。なんだったっけ、プラシーボ効果とか、なんかそんな感じの。
「ま、要は朝から辛気臭い顔をしないで欲しいということ。ボクは■■の笑ってる顔がみたいのだ」
何故かエッヘンと胸を張る彩子。でもまあ、確かに少し元気が沸いた気がする。
「ありがとう。じゃ、早い所学校行きましょ。遅刻するわよ」
「む?なんでボクはお礼を言われたのだ?わからないまま、ボクは置いていかれないようについて行くのだった」
彩子はすいっと私の横に来ると、意味もなくニコッと笑った。この子は笑う時、八重歯を見せるのが特徴的なのだ。彩子の笑顔につられて、私も自然と口端を緩めてしまう。
それから、しばらく二人でとりとめない話をしながら、長い坂を上っていった。
「そういえば■■」
長い坂をようやく上りきり、体中が汗だくになったころ。だらしなくスカートを持って風をバタバタと送り込みながら、彩子が口を開いた。
「昨日だったか一昨日だったか、なんかストーカーがいるって話してなかった?」
「……ああ」
その話は、もう決着がついたから忘れてた。
「そのストーカーさんね。あんまりしつこかったから警察にお願いしたの」
成果はあったと言えばあったが、なかったと言えばなかったのかもしれない。
警察が張り込みを始めて三日後、ついに不審な人物を発見。
職務質問と言う名の強制連行を実行しようとした所、その人物は人間らしからぬ速度で走り去ったとかなんとか。
「おおう。抑止力による強制排除?おそろしや、我が仇敵はこんな近くにいたのか……!」
「彩子。貴女なかなか面白いことするわね。人の話聞くわけでもなく、横槍どころかミサイル打ち込んでくるなんて」
私のただならぬオーラに気付いたのか、彩子は露骨に顔を引きつらせている。
「こ、怖すぎる……!もしかしてボクは禁忌に触れてしまったのだろうか!?ついに魔王■■は生まれてしまうのか!?くそう、ボクは負けない!食らえ■■!約束された勝利の――」
「ちょっと待った彩子」
なんか……さっきから。妙な違和感が。
「彩子。私の名前。ちょっと呼んでみて」
「……む?なにそれ?新しい愛情表現?」
「いいから。早く」
「ふむう。■■。■■■■。これでいいの?」 ■■。それが、私の名前なのか。
そんな筈はない。私には、ちゃんと、■■という名前が……
「名前が……言えない?」
おかしい。確かに私は■■という名前だ。それなのに、自分の名前は知っていて、口にも出しているはずなのに、口からは■■なんて意味の分からない言葉が、いや、これは言葉なのだろうか。まるで、私の言葉になにかが上塗りされたよう。
「■■……どうした?顔色が悪いけど……」
「……なんでもない。遅刻するわ。急ぎましょう」
彩子を置き、さっさと歩き始めた。なんでもないはずはない。けど、こんなの、どうすれば。
私は、いったい、どうなるのだろう……?
学校でも、この現象は続いていた。
朝のホームルームでの出欠も、私だけ■■だし、プリントの名前も黒く塗りつぶされていた。自分で書いた名前に至っては、指がどのように動けばいいか忘れてしまったらしく、ただ何もない所を黒く塗りつぶしただけで提出した。
私の名前は、■■■■だ。それなのに、何故言えないのだろう。
何か私が名前を知ると、困るようなことがあるのだろうか。でも、そんなのはきっと無い。
だって、私はただの一介の女子校生にすぎないのだから。
カツン
「……う……ん」
学校から帰って、ベットに横になっていると、いつの間にか寝てしまったらしかった。そのままだったらきっと朝まで寝ていただろう。そうでない今は、何か音が聞こえた気がしたから、自然と目が覚めた。
カツン
また聞こえる。質の悪い悪戯かと思い、カーテンも閉めていない窓の外にいるであろう誰かを睨んだ。
「……彩子?」
我が家の門の少し奥、彩子は街灯に照らされ、ひらひらとこちらに手を振っていた。
「あの娘……あんなところで何してるんだろ」
まあ、手を振っているということは、何かしらの用があるのだろう。中途半端に眠り、重くなった体に鞭打ちながら、私は玄関の扉を開けた。
「やっほ〜。元気かな?■■?」
屈託のない笑顔から、また■■という異質が聞こえる。どうやら眠った程度ではこの現象は治まってくれないらしい。
「彩子……こんな時間に出歩くと危ないわよ」
「うん。かよわいボクは百も承知なんだけど、ちょっと学校で■■の様子がおかしかったから、心配していろいろと食べ物を買ってきてあげたのだ」
「食べ物……?」
彩子は暗がりに手を突っ込むとパンパンに膨れ上がった白いビニール袋を引っ張り出した。
「さ、これらでも食べて、早く元気になりなさい。■■が暗い顔してると、ボクまで悲しくなるからさ」
「彩子……でもこれ、高いんじゃ」
袋からはワインのラベルや高そうなお菓子の銘柄などが透けて見えている。彩子はそれを誇らしげに抱えると、
「大丈夫。お金なら腐るほどあるから!」
今までのかっこよさが全て台無しになる言葉を言い放った。
……なんか、ちょっと感動した自分がすごく損していた気分。
「ん?どうしたのだ?」
「……なんでもないわ。こんな所にずっと立ってるのも何だし、家の中でゆっくりと話しましょ」
「うむ。ボクもいい加減腕が疲れてきたから、そろそろ入れて欲しかったのだ」
なにやら勝手な物言いが聞こえてくるけど、心頭滅却。とりあえず気にせずに、私は玄関の扉を開けた。
とりあえず、ワインでも飲めば、嫌な事ぐらいは飛んで行ってくれるだろう。
「あふー、ねーねー■■。アンタさ、好きなおろこいるの?」
晩酌も進み、時計の針が翌日を示し始めた。床は食べ散らかしたお菓子のクズや、空のボトル。だらしなく投げ捨てられた上着等で、足の踏み場も無い。
「ふふ〜。敵に弱みをみせてろうすんの。あ、でも彩子がいうならいいわよ」
呂律が回らないなんて体験初めてだ。それになんか体もポヤポヤするし、ボーっとして思考能力が完全メルトダウン。きちんと働いているのはアルコールを摂取するためにせわしなく動いている腕と手と、必死に悪玉を分解し続けている肝臓ぐらい。
「ボクにはそんなひろひないのら。あれ?■■太った?」
「酔っていると思って悪口吐いただろうけど、残念ね」
「グボッ!硬く握られた拳がボクの鳩尾に!?」
彩子はドサリと倒れると、恨めしそうにこちらを睨んでいる。
知ったことか、女の子に同性同士だからといって、体型のことを言うのは少しばかりデリカシーに欠ける。
「そういうこと言うから余計に太っているって思われ」
「とう」
私の流れるような動作で放ったローキックは彩子のお腹に直撃、悲鳴を上げることも叶わず、その場でのた打ち回っている。さっきのはやりすぎたかな……つま先めり込んでたし。
「軽いジョークなのに……自覚症状があるとやはり口よりも先に手が出るのか」
「あらあら、絶対的優位に立っているのは私なのに、よくそんな減らず口が叩けるわね。もういっそのこと息の根を止めてあげようかしら」
笑顔での私の発言に、彩子は顔を凍りつかせる。まったく……
「嘘よ。嘘。そんなに私って怖いのかな」
「うん。とっても、少なからずボクを含めクラスの女子は心のどこかで脅えているのさ」
……まさかそこまでとは。明日からもう少し愛想よくしよう、うん。さすがに顔を確認するたびに目を細めるというのは評判が悪いようだ。打開策として眼鏡でもかけようか。
「まあ、■■はどことなく近づきがたいオーラが体から発生してるんだから、その吊り目だけはどうにかしないとね。あ、そういえば学校で思い出したんだけど、学校で調子悪かったみたいだけど、何か悩み事かい?」
……それは。
「……まあ、悩み事といえば悩み事なんだけど……」 けれど、名前が聞こえないなんて、そんなことを、他人に信じろというのか。
「それ変だよ。悩み事以外に悩み事はないんだから、悩んでいるならボクに相談すれば一瞬で解決さ」
彩子は好意でこう言ってくれている。その好意を無駄にするのは、すごく失礼だ。
私は――
「例えばの、話だけど、もし、自分の名前が聞こえなくなったらどうする?」
彩子に話してみることにした。とりあえず、今は機会があれば、誰にでも相談したい気分だった。
「自分の名前が?よくわからないけど、それって、聞こえないの?」
「聞こえはするのよ。聞こえるんだけど、聞き取れないって言うのかな。言葉が文字だとしたら、その文字の上を黒く塗りつぶされてるみたいな感じ」
「うーん。やっぱりよくわからないな。つまり、■■は自分の名前が言えないの?」
「言える。言えるんだけど、自分で何て言っているのかがわからない」
唐突な話だ、しかも現実味がない。そんな話を、彩子が理解できるわけが――
「うん。でも、ボクは信じるよ」
「……え?」
「まず■■はこんな性質の悪い嘘は言わないし、本気で困ってる顔してる。友達だったら助けるのは当然。これからも困ったことがあったらどんどんボクに言うといいのさ」
「彩子……」
一瞬じわりと来るものがあったが、それをなんとか押しとどめる。今の和やかなムードを、私の涙で壊したくなかった。いや、正確には私の涙を見た彩子の反応で壊したくない、が正しいか。
「ありがとう彩子。お礼に、今日は朝まで付き合うわ」
「ふふふ。いまさら気づいたのかい。元より今日はオールナイトのつもりで買い込んで来たのさ。ほら、実は玄関にまだ二袋ほど」
どうやら、明日は学校を休まなければならないらしい。
けれどまあ、彩子に話しただけでずいぶんと心が軽くなったから、そんなので済むのなら安いものかもしれない。
ワインをグラスに注ぐと、一気に飲み干した。その間、口には出さずに、もう一度彩子にお礼を述べた。
「……トイレ」
起床第一声がこれというのはどうかと思うけど、いまだに体に残っているアルコールが脳を侵しているのだからしょうがない。
時刻は深夜四時。どうやらあれから三時間ぐらいで二人とも酔いつぶれたらしい。
フラフラと、トイレを目指す。その途中、
「……はい。ええ、どうやらもう気づかれたみたいです」
どこからか、彩子の声が聞こえた気がした。
「彩子……?いるの?」
返事は返ってこない。気のせいだったのだろうか。
「そもそも、稀代の魔女を被験体につかうのが無謀なんです。抗体なんてほんの数日で出来るに決まっているのに、データにないことは推論で満足できない連中なんかあてにするからこういうことになるんですよ」
やはり、気のせいではなかった。声は、すぐ近くの和室から聞こえている。しかも丁寧に襖まで締めて、外から見ただけではわからないようにしている。私は足音を忍ばせ、聞き耳を立てた。
「推論ですが、やはり呪による縛りでは限界があります。今後は、手遅れになる前に物理的な拘束を施したほうがいいのではないでしょうか」
私の頭が機能していないせいか、彩子の言っていることが、いまいちよく理解できない。ただ、家族以外と話しているということは分かった。
「大丈夫です。必ず仕留めます。……例え、ボクの命に変えても」
何やら電話が白熱している模様。私なんかが居て、電話の邪魔になるといけないので、また眠りに入るとしよう。
歩をリビングへ向ける。
「ええ、わかっています。聖銀に具現結晶、全てを賭して――」
このまま彩子のその言葉に気付かずに、部屋まで辿り着けていたら、どれだけ救われただろう。
「――■■■■を、滅殺します」
頭から、血の気が引いていく。酔いはどこかに飛んでいってしまった。
それは、無関係だと言い切るには、あまりにも心当たりがありすぎる話だった。
■■■■を殺す?何故?
私を殺して何の得が、
「誰だ!」
襖の向こうから、殺意が込められた叫び声が飛んできた。
私は迷わずに玄関に駆け出した。震える手で鍵を開け、門を右に曲がり、何かに弾き飛ばされた。
「痛――」
転んだ表紙に腰を強く打ってしまったらしい。鈍痛に顔を歪めながら、目の前の障害物を確認した。
どうやら私は人にぶつかったらしい。謝ろうとして、私はその人の背後に在る物に、愕然とした。
紅い、朱い、月だった。
物理的に有り得ない色。蒼ならば、まだ多少なりは現実味があっただろう。
しかし、月は紅かった。月に住んでいる住民が一斉に惨殺でもされたのだろうか。
「どこに逃げるつもり?」
私の前に立っている人は、私に現実逃避すら許さなかった。
分かっている。私の前に立っている人は、月の逆光で顔は見えないけれど、髪型も、背丈も、何もかもあの娘に似過ぎている。
「彩――」
「黙れ。殺戮者」
「さつ、りくしゃ?」
「覚えてないのは言い訳にすぎない。起きた過去は忘れることも、消す事もできない。胸に刻まれた悲しみや怒りは消えない。それと同時に、当事者の心にも、怨念の烙印を焼き付ける!」
「彩子……何を」
「父さんは腕をもがれて生きながら焼かれた!母さんは張り付けにされて、三日間体に剣を刺され続け発狂した!」
それは、今朝の夢の、体現ではないか。
「血の川を見た!臓物の山を超えた!屍の道を通った!」
地獄がフラッシュバックする。
でも、それは『私』ではなく『あたし』の記憶。一体、『あたし』って誰のことなんだろう。
「ねえ、彩子。一体これはな」
パン
突然の破裂音。周囲に異変が見られないところをみると、どうやら私に対して何かが起こったわけではなさそう……
体が、後ろに倒れた気がした。
体は、頭がついてくる前に、冷たくなったアスファルトの上に倒れ込んだ。
自分の状況が理解できたのは、しばらく自分の体をまさぐってからのことで、私の首は、半分ほどを残して、ごっそりと抉られていた。
「か――はァ」
声が出ない。
息ができない。
口には血が溜まっていくけど、吐きだす力すら残ってなかった。
「覚えてないのは言い訳にすぎない。そう言ったはず。■■■■。貴女が、ボクの両親を殺したの」
私が……殺した?
いつ、どこで、だれを?
「だからこれは仇討ち。大義なんて関係ない。ボクは、ただ私怨のために生きて、ようやくそれが叶った」
彩子は死に体の私の上に跨がると、中空から一振りの銀の短剣を取り出した。でも、もう、思考が――おい――つかな、い。
「それじゃあね。貴女と過ごしたのは、ほんの数日だけだったけど、楽しかった。って、親の敵に楽しかったって言うのも変か」
彩子は短剣を振り上げる。
「じゃあね。天城穿子。私の、いや、世界のために、死になさい!」
短剣が、振り下ろされる。
途端、刻は止まったように静かになった。
そう、それは、最後の手向けにしては、あまりにも不似合いで、あまりにも価値があるものだった。
天城穿子。
それが私の名前。
彩子が、最後の最後で伝えてくれた、『あたし』の生きる希望。
彩子には感謝をしなければなるまい。そう、何もかも思い出したのだ。あたしが稀代の魔女と呼ばれていたことも、世界で殺戮の限りを尽くしていたということも。
そうなると、今の私にすることは、一つしかない。
さてさて、心やさしい『私』は捨て去って、足りない体を補いますか。
「な――!」
彩子は、どうやら死にかけたあたしが短剣を掴む事が想定できていなかったらしい。あまい。マイナス二十点。
ついでに無防備な腹に空いた手でボディブロー。彩子は血を吐きながら派手に吹っ飛ぶ。マイナス四十。
「なん――で、なんで、動けるの?」
彩子は上体だけを起こすと、あたしに訊いた。いまさら何を聞くかと思えば、そんな事。
「彩子。名前には力があるの。例えば恐怖政治を強いていた当主の名前を聞けば、住人は震えかえるし、記憶喪失患者に名前を呼び掛けて、記憶を取り戻したりとか」
話を聞く彩子の顔はみるみる青ざめていく。やっと自分がしたことの重さを理解したらしい。
「あたしの場合は後者の方、あらかた、貴女たちの上の連中がセコい方法でも使ってあたしをハメたんでしょうけど、あたしは記憶を失った。そして、名前で自らを思い出さないように、名前を封印した」
「そんな……そんなの聞いてない!」
「あんたバカ?上は情報が漏れるのを嫌う。だから、きっと『余計な事はするな』って言っているはずよ」
心当たりがあるのか、彩子は俯いて、肩を震わせていた。無知、マイナス二十点。
「さて、すっかり忘れてたけど、あたし首がないの。貴女の魔力で補うから、とっとと体寄越しな――」
「わああああぁぁぁぁあぁぁぁ!!」
怒声と共に、彩子の体が爆ぜる。スピード、狙い、ともに問題なし、ただ、
たてついたので、マイナス二十点。合計ゼロポイントで、ご愁傷様です。
貴女は、あたしが、いただきます。
刹那、彩子の体はかき消え、あたしの抉られた首は、元通りに戻っていた。
首の調子を確認する。バキバキと音を奏でるところを見る限り、調子は万全のようだ。
とりあえず、まずすることは――
目を閉じて、合掌する。
家の庭先、そこに、形だけの、彩子の墓を作った。
この墓は、死者を追悼するためのものではなく、一時でもそこに在ったという事実を忘れないため。
これは、『あたし』の考えではなく、先程消え去ったと思っていた『私』がはらったせめてもの敬意。
あたしはゆっくりと立ち上がり、歩きだした。
場所は、あたしを殺そうとし、あんな小さな娘を送り込んできた、クズな組織。
正義ではない。あたしは悪だ、故に、同族に、容赦をすることはない。
それに、こういう殺しなら、『私』だって許してくれるはずだ。これは、彼女にとっての仇討ちなのだから。
一際強い夜風が吹く。
あたしはその風に乗り、この街を後にした。
あたしの名前は天城穿子。
両親の仇討ちをするために自らを鍛え、復讐の後に、人を殺すことでしか生きられなかった、一人の少女――
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