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真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜  作者: パラレル・ゲーマー


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第5話 真祖吸血鬼、石鹸代金の回収で植民地通貨にキレる

 季節が巡り、一七六三年が終わりを告げようとしていた。


 凍てつくような寒風が吹きすさぶフィラデルフィアの街角には、うっすらと雪が積もり始めている。


 だが、ハンター支部の地下室に設けられた『ヴァレンタイン衛生用品商会』の仮設事務所は、別の意味で熱気に——あるいは殺気に——包まれていた。


 石鹸の販売事業そのものは、控えめに言っても大成功を収めていた。


 富裕層や高級宿屋に向けて売り出した香り高い『白箱石鹸』は、ステータスシンボルとして飛ぶように売れている。


 利益度外視で供給している簡素な『港用石鹸』も、港湾労働者や診療所、産婆たちの間で着実に消費されていた。


 さらに、ジョージ・ワシントンという強力なコネクションを得たことで、ヴァージニア方面の農園や、彼が関わる民兵組織への販路も開拓されつつある。現在、携帯に便利な小型サイズの試作を急いでいるところだ。


 俺は部屋の隅の長椅子で、ぬくぬくと毛布に包まりながら上機嫌だった。


「いやー、順調順調。新規事業の立ち上げ期としては、これ以上ないくらい完璧な滑り出しなんじゃないの? やっぱり公衆衛生は裏切らないね」


 鼻歌交じりにそう言うと、執務机に覆い被さるようにして分厚い帳簿と睨み合っていたギデオンが、ギシリと首だけでこちらを振り向いた。


 その目の下には、見事なまでに濃い隈が刻まれている。


「……順調に見える時ほど、帳簿というものは残酷な嘘をつくのだ」


 怨念すらこもっていそうな低い声だった。


 俺は首を傾げた。


「あれ? 売れてるよね?」


「売れている。品物は飛ぶように出ているし、注文も捌ききれないほどだ」


「なのに、もしかして金がない?」


「ない」


「……なんで?」


 ギデオンは深く、血を吐くようなため息をついた。


「ここが、イギリスの植民地だからだ」


 *


 ギデオンは机の上に、商会の『売上』として回収されたものを種類別に積み上げていった。


 それは大きく分けて、五つの束になっていた。


「よく見ろ、ヴァレンシュタイン卿。これが我々の商会の現実だ」


 まず一つ目の束。


 机の端にちょこんと置かれた、小さな革袋。


「これが金貨と銀貨。つまり、まともな現金だ」


「少なっ! 全体の売上の数パーセントしかないじゃん!」


「そうだ。そして、手元にある確かな価値はこれだけだ」


 次に二つ目の束。


 分厚く積まれた、色も大きさもバラバラの汚い紙の束。


「これが各植民地が独自に発行している紙幣だ。ペンシルベニア、ヴァージニア、マサチューセッツ……それぞれ発行元が違う」


「へえ、お札があるならいいじゃん。かさばらないし」


「素人はそう言う。だがな、これらは発行元の財政状況や、使う地域によって価値が乱高下するのだ。フィラデルフィアで額面通りに使える紙が、ヴァージニアに行けばただの紙切れ同然に扱われることもある。受け取る相手次第で価値が変わる代物だ」


「……地方自治体のプレミアム商品券みたいなもんか」


「また未来の奇妙な比喩か。だが、そんな生易しいものではない」


 三つ目の束。


 これも紙だが、誰かのサインが書かれている。


「これが商人同士の信用手形だ。『後日、この額面を支払う』という約束が書かれた紙切れだな。信用のある大商人の手形なら現金に近い扱いを受けるが、そいつの商売が傾けば一瞬で無価値になる」


「それ、現金じゃないよね?」


「ああ。ただの『払うよ』という約束だ」


「怖っ」


 四つ目の束。


 机の上には乗り切らないため、部屋の隅に積まれている木箱や麻袋の山。


「これが物納だ。タバコの葉、小麦、乾燥させた魚、毛皮、ラム酒」


「……石鹸の代金が、タバコと魚になって返ってきたんだけど。うちは石鹸屋であって、物々交換の拠点じゃないよ?」


「だが、農園主や地方の小商人は『現金がないからこれで払う』と平然と言ってくる。ヴァージニアではタバコが通貨の代わりとして流通しているからな。受け取らなければ、品物は売れん」


 そして最後、五つ目の束。


 それはただの分厚い帳簿だった。


「これが一番厄介だ。ロンドン商人への債務との相殺だ」


「……ごめん、全然意味が分からない。なんで俺の石鹸の代金が、海の向こうのロンドンにいる知らない商人の借金と関係してくるの?」


 ギデオンは胃の辺りを押さえながら説明した。


 植民地の経済は、常にイギリス本国からの輸入に依存している。


 現地の商人や大農園主は、ロンドンの商人から品物を信用買いし、後から収穫した作物などを送って帳尻を合わせているのだ。


 その巨大なツケのネットワークの中に、ヴァレンタイン商会の石鹸代金も組み込まれ、「あっちの帳簿のマイナスと、こっちの石鹸のプラスを相殺して、最終的にロンドン経由で決済しよう」という訳の分からない連鎖が起きているらしい。


「植民地の信用取引は、大西洋を越えた帳簿の蜘蛛の巣で繋がっているのだよ。その糸を辿って現金を回収するなど、至難の業だ」


「最悪のネットワークじゃん……」


 俺は頭を抱えた。


 前世の社畜時代、経理部と営業部が怒鳴り合っていた光景がフラッシュバックする。


『売上は立ってるんです!』


『でも入金されてないだろ! 黒字倒産する気か!』


 売上計上。


 請求。


 未入金。


 売掛金の肥大化。


 貸倒れ。


 キャッシュフローの悪化。


 現代のビジネスマンを死に追いやる地獄のワードが、まさか十八世紀のアメリカ植民地で、さらに悪化した形でお出しされるとは夢にも思わなかった。


「つまり……数字の上では大儲けしてるのに、実際には手元に現金がないから、仕入れの支払いや活動資金に困るってことだよね……」


「よく理解できるではないか」


「前世の職場で見た。手元のキャッシュが尽きて、中小企業が黒字のまま首を吊るやつだ……」


「不老不死の吸血鬼が、なぜ商会の資金繰りに怯えて顔を青くしているのだ」


「真祖だって資金繰りは怖いんだよ!」


 実を言えば、俺個人の倉庫から金貨を追加すれば、目先の穴を埋めること自体はできる。


 だが、それをやりすぎれば、ヴァレンタイン商会の帳簿は現実から浮き上がる。


 出所不明の金貨が市場に流れ、原料の買い付け価格を歪め、ギデオンが必死で整えている製造偽装の帳尻も破綻する。


 それは事業ではない。


 吸血鬼の財宝を燃料にした、雑な焼畑だ。


「……つまり、俺が無限に金を足せば解決、とはいかないわけか」


「当然だ。お前の財宝で帳簿の穴を塞ぐたびに、私の胃に別の穴が開く」


「ギデオンの胃、社会実装の犠牲になりがちだな」


「笑い事ではない」


 *


 とはいえ、石鹸を配ること自体には確かな手応えがあった。


 港湾労働者向けの無料配布所。


 最初は「石鹸で手を洗うなんて女子供のやることだ」と鼻で笑っていた屈強な船乗りや荷揚げ人夫たちだったが、いざ使ってみると、こびりついたロープのタールや魚の腐ったような悪臭がスッキリ落ちることに驚いていた。


「おう、これを使うようになってから、女房に『臭いから近寄るな』って怒鳴られる回数が減ったぜ」


 そんなふうに笑い合う男たちの姿を遠巻きに眺めながら、俺は感心した。


「手洗いの医学的意義を啓発するより、家庭内の評価が上がるって実利の方が普及には効くんだな……」


 産婆たちのネットワークでも、変化は起きていた。


 彼女たちは「こんな上等なもの、高すぎて普段使いにはできないよ」と文句を言いながらも、いざ出産に立ち会う前には、必ず小さな紙包みから石鹸を取り出し、祈るように丁寧に手を洗うようになっていた。


 赤子に触れる前に、手を清潔にする。


 その小さな習慣が、少しずつだが確実に根付き始めている。


「……これは、ちゃんと意味があるな」


 命が生まれる現場を見て、俺は少しだけ真面目な顔になった。


 だが、すぐに照れ隠しで口元を歪める。


「まあ、健康な血液供給源を確保するための、数十年スパンの未来投資なんだけどね!」


 背後の影からアーサーが冷たく突っ込む。


「そこでわざわざ台無しにするな。素直に公共の善だと言っておけ」


 高級宿屋では、ヴァレンタイン商会の『白箱』を客室に置いていること自体が、ステータスとして宣伝文句に使われるようになっていた。


 当然、人気が出れば粗悪な偽物も出回る。


「……私はいつから怪異狩りではなく、偽石鹸を摘発する石鹸警察になったのだ」


 部下からの報告書を受け取りながら、ギデオンがまた虚無の顔になっていた。


 そして、ヴァージニアのワシントン経由で受注した、民兵向けの小型石鹸。


 これに添付する『使用指示書』の文面をめぐっては、フランクリンとワシントンの意見をすり合わせる必要があった。


 フランクリンは「なぜ手を洗うべきか、理由を簡潔に読ませるべきだ」と主張したが、ワシントンからの手紙には「兵士は能書きを読まない。命令として箇条書きにせよ」と強い要望が書かれていた。


 結果として完成した指示書は、こうなった。


『一、食事前に手を洗え。


 一、傷に触れる前に手を洗え。


 一、不浄な用の後に手を洗え。


 一、支給された石鹸を酒代のために勝手に売るな。


 一、分隊長は石鹸の残数を厳格に帳簿に記せ。』


「……最後の方、急に軍隊の補給マニュアルになってるんだけど」


「それが彼らの現場の現実なのだろう」


 ギデオンは淡々と石鹸を箱詰めさせながら言った。


「補給品というものは、命と同じくらい重いのだ」


 *


 石鹸事業の現場が少しずつ回り始めた頃、フィラデルフィアの街に一つの重い知らせが届いた。


 一七六三年十月にイギリス本国で発布された『王室宣言線』の噂が、年末になって、港や酒場、新聞を通じてついにこの街にも広がってきたのだ。


 内容は単純。


 アパラチア山脈より西側の広大な土地への、植民地人の新たな入植を禁じるというものだった。


 表向きの理由は、先住民との新たな衝突を避け、戦後の治安を維持するため。


 だが、植民地側の受け取り方は全く違った。


「冗談じゃない! フランス人を追い払ったと思えば、今度は我らが王様が『西へ行くな』と仰るのか!」


 酒場のテーブルを叩き割らんばかりの勢いで、商人が怒鳴っている。


「なら、我々は何のために血を流して戦ったんだ! 土地こそが褒美だったはずだ!」


「本国の連中は、地図の上に線を一本引けば、人間の未来を止められるとでも思っているのか!」


 怒りの声は、土地投機家、フレンチ・インディアン戦争を戦い抜いた元兵士、そして農園主たちの間で急速に膨れ上がっていた。


 俺は酒場の隅で薄いエールを舐めながら、ヴァージニアで会ったワシントンの言葉を思い出していた。


『土地は我々の財産であり、信用であり、未来そのものです』


 俺は心の中で呟いた。


 歴史、着実に進んでるなぁ……。


 隣に座るギデオンが、グラスを傾けながら俺を見た。


「何かするつもりか?」


「できることなんて何もないよ。見てるだけー!!!」


「その割には、お前の顔は死んでいるぞ」


 当然だ。


 俺は未来の知識を持っているが、だからといって万能の神ではない。


 この西部土地問題に中途半端に介入しようものなら、先住民、土地を求める入植者、イギリス駐屯軍、本国の王室、激怒するワシントンたち、さらにはその裏で動くハンター組織まで、すべてを同時に相手にすることになる。


 そんなの、吸血鬼の力をもってしても物理的に処理しきれない。


 俺は宿に戻ると、ノートに書き殴った。


【王室宣言線メモ】


 ・本国視点:先住民との戦争回避。戦後統治。軍の駐屯費を節約したい。


 ・植民地視点:命懸けで戦ったのに、褒美の土地をロンドンの机の上で奪われた。


 ・ワシントン:たぶん、静かにブチギレている。


 ・俺:今のところ石鹸しか売れない。


 ・結論:手出し無用。見てるだけ。


 *


 同じ頃、大西洋の向こう側。


 霧の都ロンドンでは、重厚なマホガニーの机が並ぶ官庁の一室で、北米植民地についての会議が開かれていた。


 温かい紅茶の香りが漂う中で、財務の担当者、商務関係の官僚、そして議会の有力者たちが、北米植民地についての資料を前にしている。


 その空気は、どこまでも冷徹で、理路整然としていた。


「七年戦争の莫大な戦費により、我が国の国庫は深く傷んでいる」


 白髪の財務官僚が、帳簿を指で叩きながら言った。


「北米植民地をフランスの脅威から守るため、我々は一万人もの正規軍を駐屯させ続けねばならん。その莫大な維持費を、なぜ本国の納税者だけが負担せねばならないのだ?」


「全くその通りだ。植民地の者どもは、陛下の軍隊の保護の下で商売を謳歌している」


 別の議員が同意して頷く。


「それなのに、奴らはどうだ。少しでも安い外国の糖蜜を求めて平然と密輸に手を染め、正当な税を納めようとしない。さらには、勝手に価値の怪しい紙幣を刷り、本国の商人に対する債務を不当に軽くしようと目論んでいる」


「彼らは土地を欲しがり、自分たちの権利ばかりを主張する。まるで、親の財布の事情を顧みないわがままな子供のようだ」


「ならば、親がしっかりと財布の紐を管理し、規律を教えねばなるまい」


 彼らの理屈は、国家運営の論理としては全く間違っていない。


 借金がある。


 防衛費がかかる。


 だから受益者である植民地からも税を取る。


 信用秩序を守るために勝手な紙幣発行を禁じる。


 だが、彼らの目には『遠く離れた現場で生きる人間の生活』が全く見えていなかった。


 冷たい帳簿の数字と、法的な権限。


 それだけで新大陸を統制しようとするその傲慢さこそが、やがて大英帝国を分断する最大の引き金となるのだ。


 *


 そして一七六四年。


 本国の冷徹な方針は、『砂糖法』という形でフィラデルフィアの港に直撃した。


 港湾はかつてないほどの荒れ模様を見せていた。


 砂糖、糖蜜、ラム酒、コーヒー、ワイン。


 これまで『暗黙の了解』として見逃されてきた密輸品に対し、イギリス海軍と税関が本気で取り締まりと徴税に乗り出したのだ。


「冗談じゃない! これまで見逃されてきたものを全部きっちり取られたら、俺たちの商売は干上がっちまう!」


 船長が唾を飛ばして怒鳴っている。


 俺は港の隅からその様子を見つめていた。


「……今まで払ってなかった税金を払えって言われてるだけなんだから、現代の感覚だとただの脱税の取り締まりなんだけどな」


「密輸と言え。彼らにとっては死活問題だ」


 護衛のギデオンが訂正する。


「言い換えても犯罪は犯罪じゃん」


「犯罪だと? 本国が現場を無視した無茶な徴税を押しつけるから、港は生き残るために抜け道を探しているだけだ」


 この時代の植民地経済において、密輸は単なる悪事ではなく、重商主義の締め付けから逃れるための『生活インフラ』として機能してしまっているのだ。


 そして、この砂糖法の余波は、無関係に思える俺の石鹸事業にも容赦なく襲いかかってきた。


 税関の検査が厳しくなったことで、港湾の物流が滞る。


 石鹸の包装に使う材料や、香料の仕入れが遅れ始めたのだ。


 さらに最悪なことに、現金が回らなくなった港湾商人が、石鹸の支払いを無理やり別の物で代用しようとしてきた。


「だから、石鹸の代金をラム酒の樽で払おうとするな!」


 俺は商会の裏口で、樽を転がしてきた商人に抗議した。


「港じゃ現金よりラム酒の方がよっぽど信用があって回るんだよ! 受け取ってくれ!」


「うちは石鹸屋であって、酒場じゃないんだけど!」


 商人が去った後、ギデオンが冷静に言った。


「受け取っておけ。ラム酒なら他の業者に売れる」


「売るの誰? ギデオン?」


「……お前の商会だ」


「俺、石鹸を売りに来たはずなのに、なんで雑貨と酒の卸売業者に進化しそうになってるの。社会、接続しすぎでは?」


 だが、本当の地獄はこれだけでは終わらなかった。


 同年、『通貨法』の知らせがフィラデルフィアを直撃した。


 植民地独自の紙幣や、信用貨幣の発行と使用を厳しく制限する法律。


 本国からすれば、信用秩序を守り、ロンドン商人を不良債権から保護するためのまっとうな政策だ。


 しかし、金銀貨が常に不足している植民地からすれば、経済の血流を強制的に絞る止血帯のようなものだった。


 その知らせを聞いた瞬間、執務室のギデオンは帳簿を抱えたまま、幽鬼のように青ざめた。


「……まずい」


「どうしたの? 胃薬ならあるよ」


「それどころではない。支払いの多くが、各植民地の紙幣と信用手形で構成されているのは知っているな」


「まあね、金貨少ないし」


「その紙と信用の扱いが、この法によって根底から揺らぐ」


「……つまり?」


 ギデオンは震える指で帳簿を叩いた。


「売掛金の価値が揺らぐ。回収できるはずだった石鹸の代金が、額面通りには受け取れない紙に変わる可能性があるということだ」


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


 俺の口から、悲鳴とも絶叫ともつかない声が漏れた。


 前世の社畜トラウマが、限界を突破して発動する。


 請求書を出した。


 商品は納品した。


 客先は「払う」と言っている。


 なのに、法律の変更で額面通りに入金されない!


 上司は「なんとかして回収しろ」と無茶を言う。


 経理は「未回収リストに入れます」と冷たく告げる。


 営業は「でも売上は立ってます!」と泣き叫ぶ。


「売上は! 現金では! ありません!!」


 俺は執務室の中心で、血の涙を流す勢いで叫んだ。


「……急にどうしたのだ、お前は」


「ごめん、前世の魂が叫んだ。資金繰りの恐怖は時空を超えるんだよ……!」


 *


 パニックに陥っても事態は好転しない。


 俺とギデオンは、藁にもすがる思いでベンジャミン・フランクリンの印刷所を訪ねた。


 インクと油の匂いが立ち込める室内で、フランクリンは笑う余裕すらなく、深く重い息を吐いていた。


 彼もまた、印刷業者であり商人として、この通貨法がもたらす破壊力を痛いほど理解しているのだ。


「植民地では、金銀貨は常に不足している。輸入超過だからだ」


 フランクリンは書きかけの原稿を置き、諭すように言った。


「だから我々は、信用で経済を回してきた。紙幣で補い、手形で繋ぎ、物納で隙間を埋めてきたのだ。それを本国は、ロンドンの秩序という名目で縛り上げようとしている」


「本国の連中は、こっちの現場の惨状を見てないの?」


「見ているつもりなのだよ。大西洋の向こう側、安全なロンドンの執務室からね」


「一番駄目なパターンの見方じゃん……」


 フランクリンは、決して感情だけで本国を非難しているわけではない。


「理屈は分かる。彼らも戦争の莫大な借金を抱え、軍の駐屯費を捻出し、自国の商人を保護し、帝国全体の統一的な信用秩序を作りたいのだろう」


 彼は少しだけ目を伏せた。


「しかしな、ヴァレンシュタイン卿。どれほど正しい理屈であっても、それが現地の生活の現実を一切無視して振り下ろされた時、それは圧政と見分けがつかなくなるのだよ」


「……名言やめて。最近、俺の周りの大人がみんな渋い顔で名言を吐くから胃が痛い」


 横に立つギデオンがぼそりと言った。


「それだけ、状況が絶望的に重いということだ」


 支部に戻った俺は、長椅子に寝転がりながら一つの結論に達した。


「分かった。これ、完全に『カス上司』のムーブだ」


「また未来の言葉か。どういう意味だ」


「現場の実態を一回も見に来ないくせに、上の会議室だけで『コスト削減』『統制強化』『不正防止』とか立派なスローガンを掲げて、いきなり仕事の仕様を変更してくる本社の偉い人のこと」


 俺は天井を指差して力説した。


「現場はルール変更で回らなくなる。客は怒る。俺たちみたいな下請けの帳簿は死ぬ。でも、上のカス上司は『なぜお前たちは指示通りに正しく運用できないのか。反抗的だな』って首を傾げるんだ。完全にイギリス本国と同じじゃん!」


 ギデオンは遠い目をして、しばらく沈黙した。


「……言葉は下品だが、否定しづらいのが腹立たしい」


 アーサーが少しだけ本国を擁護しようとする。


「本国にも、国を維持するためのっぴきならない事情があるのでしょう」


「あるよ。あるけどさ、アーサー。『自分には事情があって、自分のやっていることは法的に正しい』と固く信じ込んでいるカス上司が、一番説得不可能で厄介なんだよ」


「……」


 アーサーも黙り込んだ。


 俺は別に、ここで華々しく反英独立運動の旗手になりたいわけではない。


「いや、俺は別に政治的な思想でイギリスと戦いたいわけじゃないんだ。俺はただ! 真っ当に石鹸の代金を回収して、健やかな血液供給体制を作りたいだけなんだよ!」


「だが、お前のそのささやかな石鹸代金の回収が、すでに植民地の政治と経済の根幹に接続してしまっている」


「なんで石鹸代金が政治に繋がるのさ!」


 ギデオンは、静かに、しかし冷酷な事実を告げた。


「この国がまだ、存在していないからだ」


 法も、通貨も、国境も。


 すべてが未確定で揺れ動いているからこそ、石鹸一個の取引ですら大帝国の波に飲まれるのだ。


 *


 嘆いていても帳簿は埋まらない。


 俺たちは生き残るための商会対策会議を開いた。


 対策その一、支払い能力による顧客の階級分け。


「客ごとに支払い条件を厳格に変えよう」


 俺の提案にギデオンが頷く。


 富裕層や高級宿からは、現金または絶対の信用がある手形のみを受け付ける。


 逆に、医師や産婆、港湾向けの石鹸は、赤字覚悟で一部補助を入れ、現物払いも限定的に許容する。


「客を信用ランクで分類するの、めちゃくちゃ現代の金融社会っぽくて嫌な気分になるな……」


「信用スコア社会の始まりだな。だが、背に腹は代えられん」


 対策その二、物納処理部門の設立。


 タバコや木材で支払われたものを換金するルートを作る。


 魚は腐るから絶対に断る。


「健康な血液供給源が欲しいのに、タバコの商流に関わって肺を汚す手伝いをするの、倫理的にすごく複雑なんだけど」


「贅沢を言うな。売れるものは売れ」


 対策その三、標準換算表の作成。


 フランクリンの印刷所に頼み、『ヴァレンタイン商会・各種通貨および物納換算表』を刷ってもらう。


「これ、もう石鹸屋のやることじゃないよね? 完全に両替商か金融屋じゃん」


「商売の手を広げた者の宿命だ。諦めろ」


 対策その四、前払い割引の導入。


 数少ない現金を引っ張ってくるため、金銀貨で即金払いをする客には石鹸を割引する。


「現金が枯渇している植民地でそれをやると、足元を見ていると客が怒るぞ」


「でも現金がないと、うちの商会が黒字倒産して俺の胃が死ぬ」


 対策その五。


 これは俺の意地だった。


「港用と産婆向けの普及品ラインは、どんだけ赤字になっても絶対に切らない。数量は管理するけど、供給は続ける」


 ギデオンが少し驚いた顔をした。


「お前、あれだけキャッシュフローだの現金だのと騒いでいたのに、そこは切らないのだな」


「ここを切ったら、俺が欧州からわざわざこの街に来た意味がなくなるからね。合法的な血液供給インフラへの投資だし」


「……」


「それに、まあ……不衛生が原因で人がバタバタ死ぬのを見るのは、普通に気分が悪いし」


 俺がそっぽを向いて言うと、ギデオンは少しだけ黙り、やがて小さく息を吐いた。


「……奇妙な吸血鬼だ」


 *


 夜。


 冷え込む宿の部屋で、俺は一人でノートを開いていた。


 歴史は、俺の意志とは無関係に勝手に進んでいる。


 俺はこの先の未来を知っている。


 来年の一七六五年には『印紙法』という最悪の爆弾が投下され、その後もタウンゼンド諸法、ボストン虐殺事件、ボストン茶会事件と、独立戦争へのカウントダウンが止まらなくなる。


 でも、今の俺にできることは何もない。


 砂糖法を止める?


 無理だ。


 通貨法を撤回させる?


 不可能だ。


 ロンドンに飛んで議会を説得する?


 吸血鬼が?


 魔女裁判にかけられて灰になるだけだ。


 できることは、石鹸事業を意地でも継続し、支払い条件を整え、現場の実態をこのノートに記録し続けることだけ。


 俺はペンを走らせる。


【ヴァレンタイン衛生用品商会・1764年初期報告】


 ・石鹸は売れている。白箱は富裕層に好調。港用も衛生習慣として定着しつつある。


 ・問題:現金が全くない。


 ・支払い手段:金貨、銀貨、紙幣、手形、タバコ、魚、借金帳簿、口約束。


 ・ギデオンの胃:絶滅危惧種レベルで危険。


 ・砂糖法:港湾の物流が荒れ、密輸商人が殺気立っている。


 ・通貨法:植民地の信用経済が揺らぎ、うちの帳簿が死にかけている。


 ・王室宣言線:ワシントンら西部土地勢力の怒りが蓄積中。


 ・イギリス本国:現場の惨状を見ずに仕様変更を繰り返す、典型的なカス上司ムーブ。


 ・俺:見てるだけ。つらい。


 最後に、ページの真ん中に太字で大書きした。


【結論:石鹸は売れた。金はない。歴史は勝手に燃えている】


 俺はペンを放り投げ、ベッドに倒れ込んだ。


「未来の超大国、建国する前からキャッシュフローが完全に終わってるじゃん……」


 ドアが開き、報告書を持ったギデオンが入ってきた。


「そして、その終わっている帳簿を徹夜で処理しているのは私だぞ」


「……お疲れ様。石鹸、いる?」


「石鹸で胃痛は治らん。胃薬を出せ」


 俺は万能トランクに手を伸ばし、現代のよく効く胃薬を出そうとして、ふと手を止めた。


「……待てよ。これ出しちゃうと、今度は『未知の医療用品』の社会実装と運用リスク管理が始まっちゃうな。説明書も作らなきゃいけないし、医師への根回しも……」


「……ならば、出すな。これ以上私の仕事を増やすな」


「でも、支部長の胃が死んじゃう」


「私の胃を人質にして、未来の医療用品を持ち込もうとするな!」


 こうして、ヴァレンタイン衛生用品商会は、石鹸を売りさばきながら、植民地経済という名の巨大な未整備システムにずぶずぶと片足を突っ込んでいった。


 俺はまだ、歴史を変えるような大層なことは何一つしていない。


 ただ、帳簿の数字を合わせ、石鹸を配り、手洗いを教え、なんとか支払いを回収しようと足掻いているだけだ。


 それだけなのに、なぜか大帝国の税制と通貨政策に全力で殴られ、資金繰りに苦しんでいる。


 国家の運用と保守というものは、不老不死の真祖吸血鬼の想像すらも絶するほどに、理不尽で厄介な代物であった。


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― 新着の感想 ―
通貨すら確立されていなくて植民地なので自由に動けない。困りますね。
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