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真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜  作者: パラレル・ゲーマー


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第39話 真祖吸血鬼、救援物資に愛国証明を付けさせない

 一七七四年六月一日。


 夜明けのボストン港。


 本来ならば、この時間は港が最も騒がしくなる時間帯だ。


 重い滑車が軋み、大きな樽が石畳を転がり、荷車が土煙を上げ、船員や荷役たちの粗野な怒鳴り声、船大工の鎚の音が絶え間なく響き渡る。


 だが、今日のボストン港は、不気味なほどに静かだった。


 昨日まで港を満たしていた荷役の音が、嘘のように少なくなっていた。


 法律が発効したのだ。


『ボストン港法』。


 通常の商業貨物は、原則として船から降ろすことも、新たに船へ積み込むこともできなくなった。


 例外として認められた食料や燃料、施行前から港内にいた一部の船を除けば、これまで当たり前だった商業荷役は止められた。


 俺は波止場の外れに立ち、動きを失った港を見つめていた。


 去年の冬、この同じ場所で、煤で顔を隠した百五十人の人間が、斧と鉈を振るって三百四十二箱の茶を海の底へ叩き落とした。


 今回は違う。


 誰も斧を振るっていない。


 誰も叫んでいない。


 それでも、目に見えない強大な力が、確実にこの港から仕事を奪っていた。


「……今回は、紙切れ一枚で港が死んだな」


 隣に立つギデオンが、動く船も荷役も大きく減った海面を見て呟いた。


 商会のボストン臨時支部へ戻ると、アーサーが現在の状況を報告してきた。


「旦那様。今朝の時点での市内の確認です。昨日までに町へ入っていた食料在庫は残っております。地元の小売店も通常通り開いており、市場も機能しています。餓死者は……当然ですがゼロです」


 報告を聞いていた急進派の男が、鼻で笑った。


「ほら見ろ! 英国の脅しなど大したことはない! 港を閉じられたところで、我々はすぐに飢え死になどしないのだ!」


 俺は彼を冷ややかな目で見た。


「違う。今日一日腹一杯食えることと、一か月後も今日と同じように食えることは、全く同じじゃない」


 俺は、先日作成した《港湾停止影響連鎖表》を壁に貼り出した。


「今はまだ、この表の一番最初の【船が止まる】という現象が起きただけだ。問題はここからだ。次に来るのは【仕事が止まる】だ」


 その日の昼前。


 数十年、港で生計を立ててきた荷役労働者が、いつものように波止場へやってきた。


 だが、動かせる荷はほとんどない。


「親方、今日の仕事はどこだ?」


「仕事はない。許可のない荷を動かせば船ごと没収されるんだ」


「明日は?」


「分からない」


「明後日は?」


「……分からない」


 俺たちが事前に用意していた救援雇用の受付窓口には、仕事を求める者たちが次々と訪れ始めていた。


 マーブルヘッド港での食料の荷下ろし。


 セイラムからの陸路運送。


 救援物資を保管する倉庫の改修。


 だが、当然ながら全員分の仕事があるわけではない。


 港の停止によって生じた巨大な失業の穴を、俺たちの一商会が用意した救援の仕事だけで全て埋めることなど不可能なのだ。


 余る者。


 取りこぼされる者。


 遠方の港まで移動できない者が必ず出る。


 さらに、俺の想定の甘さを思い知らされる出来事もあった。


 屈強な港湾労働者へ、道路の整備や排水路の清掃、公衆便所の清掃といった公共の仕事を提示した時のことだ。


 男は顔を真っ赤にして怒鳴った。


「ふざけるな! 俺は二十年間、重い船荷を誰よりも早く安全に下ろすことで家族を養ってきたんだ! ただ食うための銅貨が欲しいからって、お前らの慈善仕事で他人の糞や溝の泥を攫うために生きてきたんじゃない!」


 俺は言葉を失った。


「賃金さえ同じだけ払えば、生き延びるために仕事の内容は何でも同じだと思っていた。俺が間違ってた……」


 アーサーが静かに言った。


「人間は、財布の中身だけで仕事をしているわけではありませんから。彼らには、職業上の誇りがあるのです」


 仕事を用意したからといって、彼らの尊厳の問題までもが綺麗に解決するわけではないのだ。


 俺は急遽、《失業職能・代替業務対応表》を作成し直した。


 単なる土木作業ではなく、なるべく元の技能を生かせる仕事へ割り振る。


 船大工なら、傷んだ荷車の修理や、救援用の木箱の修繕、倉庫の雨漏り補修。


 綱職人なら、陸送用の荷締めロープの作成や倉庫設備の強化。


 水先案内人なら、近海で操業する救援食料船の誘導や沿岸輸送の指揮。


 完全な尊厳の回復にはならない。


 それでも、彼らの技術に対して賃金を払う仕組みへ修正した。


 六月の上旬。


 事前に俺たちがフィラデルフィア側で手配していた最初の食料が、マーブルヘッド港に到着した。


 法に従い、マーブルヘッドで税関検査を受け、必要な手続きを経た上で、ようやくボストンへの沿岸輸送が許可される。


 俺は、横柄な態度で検査を行う税関吏を見て苛立ちを覚えたが、決して妨害はしなかった。


 一方、陸路による輸送便も動き出していた。


 ここで、俺たちが机上で作った手順が、現実の泥濘の中でどう機能するかが試された。


 税関の長時間の検査待ち。


 マーブルヘッドでの荷役作業の遅れ。


 荷馬車の深刻な不足。


 悪路による馬車の車輪の破損。


 穀物袋の破れ。


 到着予定の大幅なずれ。


「……作戦は完璧でも、現実はそう簡単に動いてくれないな」


 俺は泥だらけになりながら、荷車の車輪を押し上げた。


 そんな中、他植民地の町から、大量の穀物を積んだ荷馬車が到着した。


 だが、その穀物の樽や袋には、極太の文字でこう大書されていた。


【自由のために苦しむボストンの愛国者へ!】


 俺はそれを見て、固まった。


「……おい。なんか、すごく見覚えがあるぞ、この問題」


「茶葉騒動の時と同じですね」


 アーサーが答える。


「今回は、お茶じゃなくて食わなきゃ死ぬ食料な分、あの時より何倍も面倒だぞ」


 ギデオンが溜息をつく。


 危惧した通り、すぐに問題が起きた。


 町の一部の住民たちが、配給所の前で騒ぎ始めたのだ。


「私たちに自由の小麦をください!」


「英国に媚びへつらった奴らの家へは、絶対に渡すな!」


「そういう名前の小麦じゃないって言ってるだろ!」


 俺は頭を抱えた。


「旦那様。かつて茶の由来証明を作った時も、全く同じことを仰っていましたよ」


 俺は、袋に書かれた政治的なスローガンを全部剥がしてしまおうと手を伸ばした。


 ギデオンがその腕を掴んで止めた。


「待て。寄付者が自分の意思で書いた言葉まで、お前が勝手に検閲して消すのか?」


 俺の動きが止まる。


「以前、お前は『商品の由来証明の中に、お前たちの政治的な思想を混ぜるな』と言った。だが今回、この穀物の袋に書かれているのは、商品の由来証明ではなく、寄付者自身の政治的声明そのものだ」


 俺は手を下ろした。


「……そうだな。彼らがボストンを支援する理由に、政治的な意味を付ける自由まで奪う権限は、俺にはない」


 寄付する理由は彼らの自由だ。


 自由のためでも、姉妹植民地への友情のためでも、宗教心でも、あるいは自分たちの町の政治的宣伝のためでも構わない。


「旦那様。ならば、入口と出口を完全に分ければよいのではありませんか?」


 アーサーが、二枚の全く別の帳簿を俺の前に置いた。


 一枚の表紙には、


【なぜ送られたか――寄付者記録】


 もう一枚には、


【誰へ配るか――配給先記録】


 俺は手を打った。


「それだ!」


 俺たちは《救援物資二層記録票》を作成した。


 第一層は寄付側記録。


 寄付地。


 寄付者名。


 物資。


 数量。


 そして、


【寄付者からの指定】


【添付された手紙・決議の写し】


【政治的・宗教的声明の有無】


 寄付者が「自由のために」と書いていれば、俺たちはそれを勝手に消したりはしない。


 事実としてそのまま第一層の帳簿に記録する。


 第二層は配分側記録。


 世帯人数。


 就労可能者数。


 就労不能者。


 現在収入。


 食料購入可能日数。


 病人・乳幼児の有無。


 受領量。


 ここには、


【王党派】


【愛国派】


【茶会支持】


【茶会反対】


【英国兵の家族】


 といった、政治的思想や忠誠心を問う項目自体を作らないことにした。


 だが、現実はさらに厄介な問題を投げかけてきた。


 ある町の有志から、数十袋の穀物とともにこんな手紙が届いたのだ。


『この穀物は、ボストンの自由を命懸けで守る者だけに配ること』


 明確な愛国者限定という条件付きの寄付だった。


 配給所の担当者が困り顔で言った。


「ヴァレンタイン様。せっかくの食べ物なのですから、黙って受け取っておけばよいのではありませんか?」


「駄目だ」


 俺は即座に拒否した。


「捨てるのですか?」


「捨てない。まず別倉庫へ移して、通常の救援在庫とは完全に分けて封印する。その上で、条件を外してくれと寄付した連中へ手紙で確認する」


「条件を外さないと言われた場合は?」


「返送できるなら返す。向こうの許可もなく、勝手に条件だけ踏み倒して使うこともしない」


 俺は寄付者へ返信を送った。


『ボストンへの寛大な支援に深く感謝する。ただし、当方の配給所において、政治的立場による受領者の選別を行うことはできない。ボストン港法で職を失い飢えている者への救援として、立場を問わずに配ってよいのであれば、ありがたく受領する』


 相手からは案の定、激しい怒りの返信が来た。


『我々の血と汗の結晶である穀物を、自由の敵である王党派へ食わせる気か!』


「寄付するかどうかは、向こうの自由だ」


 俺は担当者へ言った。


「でも、俺たちの配給の条件を、食料と引き換えに安売りする気はない」


 具体的な事例が、配給所で次々と起きた。


 一人の初老の男が、無償支援の窓口へ並んでいた。


 彼は港の船具職人だが、以前から茶の破壊事件を、


「他人の財産を壊す暴徒の仕業だ」


 と公然と批判していた男だった。


 港の閉鎖で完全に仕事を失い、妻と子供を抱え、貯蓄もほとんどない。


 俺の帳簿の基準では、明確な無償支援の対象世帯だ。


 だが、急進派の若者が彼を指差して怒鳴りつけた。


「おい! こいつはボストンの誇り高き抵抗を非難した裏切り者だぞ!」


「だから?」


 俺が冷たく聞き返す。


「自由のために送られた食料を、こいつが食う資格はない!」


 その騒ぎの横へ、今度は茶会事件へ参加したと噂される若い男が堂々とやってきた。


 彼は街では英雄扱いされている。


 しかし、彼は港の仕事以外に別の副業を持っており、まだ十分に収入があった。


 食料を買う金も、貯蓄もある。


 俺の帳簿の基準では、無償配給の対象外だ。


 俺が彼への無料の食料配布を断ると、群衆が逆に怒り狂った。


「自由のために戦った愛国者を冷遇するのか!」


「逆だ」


 俺は全く動じずに答えた。


「金に困ってない人へ、限られた救援物資をタダで渡さないだけだ」


 茶会事件を批判した貧困世帯には、支援の食料を渡す。


 茶会へ参加したが現在困窮していない世帯には、無償支援はしない。


 俺は、この二つの事例を群衆の前で明確な対比として見せつけた。


 急進派のリーダー格が、俺に一枚の紙を突きつけてきた。


「ならば、基準を明確にするべきだ。茶会への支持、不買運動への参加、英国商品の不使用、集会への参加回数、過去の寄付実績。これらを点数化し、貢献度の高い愛国的な家から優先して救援するべきだ!」


 愛国点数表の提案だ。


「却下だ」


 俺は紙を突き返した。


「……以前の茶の証明票と、発想がほぼ同じだな」


 ギデオンが呆れる。


「今度はただの値札じゃない。人間の生きる順番を、政治の点数で書き換える狂気の札になる」


 六月十八日。


 俺たちがボストンで食料の配給と格闘している頃、フィラデルフィアでは大規模な市民集会が開かれていた。


 アーサーからの急使がもたらした報告には、こう書かれていた。


『ボストン港法により生活手段を失う貧民を救援するため、フィラデルフィアにおいて直ちに大規模な募金活動を開始することが決議されました』


「よし! これで公式の大きな募金経路が確保できるぞ」


 俺は喜んだ。


 だが、報告書には続きがあった。


『なお、同会議において、各植民地が代表を送り、共通の権利問題を協議するための会議を開く方法について検討することも、同時に決議されました』


 俺は固まった。


「……どういうことだ?」


 俺は決議文の写しを何度も読み返した。


「……ボストンへの救援募金と、各植民地が代表を送り、共通の権利問題を一緒に協議するための準備が、同じ日に、同じ集会の、同じ決議で決まってるじゃないか」


 ギデオンが、面白そうに目を細めた。


「お前は、救援活動を政治から完全に切り離すと言っていなかったか?」


「無理だこれ! 根本から一体化してるじゃないか!」


 俺は頭を抱えた。


 俺がどれほど配給所で政治を排除しようとしても、支援を送る側の出発点において、すでに救援と植民地間の政治的連帯が同じ一つの決議として動き始めているのだ。


「旦那様。では、フィラデルフィアからの救援を受け取るのをやめますか?」


 アーサーの代理として来ていた店員が尋ねる。


「やめるわけないだろ。ボストンは食料が必要なんだ」


「なら、お前はここで何を守るのだ?」


 ギデオンが問う。


 俺は考えた。


 救援物資が、巨大な政治的意味を持つこと自体は、もう止められない。


 だが、救援が政治的意味を持つことと、配給所で政治思想を理由に受給者を選別することは、全く別の問題だ。


「俺が、寄付する理由まで中立にしようとしてたのが間違いだったんだ」


 俺は顔を上げた。


「英国の横暴に怒って送る奴もいる。姉妹植民地への友情で送る奴もいる。自由のために送る奴もいる。教会の純粋な慈善で送る奴もいる。……それは、送る側の完全な自由だ」


 俺は言葉を区切った。


「でも、ここで腹を減らして並んでいる人へパンを渡す時に、お前も同じ思想を持てと強要することは絶対に許さない」


 俺は《寄付意思・受給資格分離規程》を確定させた。


 一、寄付者は寄付理由を自由に表明できる。


 二、寄付者の手紙や政治的声明は改竄せず保存する。


 三、ただし、受給者へ同じ政治的立場を要求しない。


 四、受給者へ署名、反英の宣誓、政治集会への参加を求めない。


 五、愛国者限定などの条件付き寄付は、条件の撤回を求める。同意しない場合は、通常在庫と分離して保管し、返送可能なら返送する。


 六、感謝状は寄付という行為そのものへ対して出し、政治的忠誠を誓い返すものにはしない。


 七、救援を受けた事実から、いかなる政治的義務も発生させない。


 フィラデルフィアでは、四十三人の委員が選出された。


 ジョン・ディキンソン、ロバート・モリス、トマス・ミフリンなど、錚々たる顔ぶれだ。


 その名簿に、俺の名前はなかった。


「ヴァレンタイン氏も委員に入るべきではないか」


 という提案もあったらしいが、俺は即座に辞退した。


「俺の商会は、あくまで物資の輸送と帳簿の管理という実務だけを手伝う。政治の代表は、町が自分たちで選ぶべきだ」


 作った者が署名欄の一番上にいなくてもいい。


 あのポリー号の帰航の時と同じだ。


 だが、四十三人委員会から、


「救援物資の数量、輸送経路、受領確認の管理に、あのヴァレンタイン式の共通確認票を使わせてほしい」


 という正式な申し出があった。


「俺の名前は外していいから、勝手に使ってくれ」


「もう皆様、ヴァレンタイン式帳簿と呼んで定着しております」


「……諦めるよ」


 七月下旬。


 ボストンの町でも、各地からの寄付を正式に受け取り、配分するための委員会が整備された。


 七月二十六日には、ジョン・アダムズも寄付受領委員として加わった。


 俺は彼が来たのを見て溜息をついた。


「アダムズ先生、裁判の次はまた面倒な帳簿仕事ですか」


「誰かが確実にやらなければならない仕事ですからね」


「あんた、本職は弁護士ですよね?」


「あなたにだけは言われたくありませんね」


 正式なボストン側の委員会ができた以上、俺の商会がいつまでも全配給の権限を握り続けるべきではない。


 俺は、在庫表、輸送予定、世帯票の様式、品質検査の手順、そして雇用記録のすべてを委員会へと引き渡した。


 俺たちは今後、物流の確保、品質管理、そして物資が不足した時の側面支援へと一歩退くことにした。


 これが、俺なりの自立の促し方だ。


 引継ぎの際、俺はジョンに念を押した。


「アダムズ先生なら、政治思想の違いで配給対象を差別したりはしないですよね?」


「当然です。飢えている者に思想は問いません」


 俺はホッと胸を撫で下ろした。


 しかし、ジョンの目は極めて政治的だった。


「ただし、この各地からの救援が政治的意味を持たないとは全く考えていませんよ」


「ですよねぇ……」


「英国議会が一つの都市を力で処罰した。その結果、他植民地の町々から、その都市を支えるための物資が次々と流れ込んでいる。……この巨大な物資の流れの事実そのものが、英国に対する政治的な回答なのです」


 彼は、中立な配分と、政治的意味のない救援は全くの別物だと完全に理解していた。


 八月初頭。


 マーブルヘッドから、大量の魚、オリーブ油、そして現金がボストンの救援委員会へと届いた。


 サミュエル・アダムズの側から、正式な感謝状が送られる。


 俺は裏方に徹し、荷物の検査だけを行った。


 政治スローガンが書かれていても気にしない。


 ただ、


【魚】


【重量】


【腐敗の有無】


【輸送者】


【受領日】


 だけを黙々と確認する。


 続いて、コネティカットのファーミントンから、ライ麦とインディアン・コーンが大量に届けられた。


 手紙には当然、英国への怒りと、ボストンへの熱烈な政治的連帯の言葉が綴られていた。


 俺はそれを削らず、別紙の第一層の記録として丁寧に保存した。


 そして穀物の袋そのものには、


【ファーミントンより】


【数量確認済み】


【品質検査済み】


 という実務的な札だけを貼り付けた。


 市場では、住民たちがその穀物を勝手に、


『自由の穀物』


『姉妹植民地のパン』


 と呼び始めていた。


「旦那様。また勝手に名前を付けられていますよ。止めないのですか?」


 臨時で雇った店員が聞く。


「もう止めない」


「諦めましたか?」


「違う。彼らが食べ物に呼び名を付けることまで、俺が支配する必要はないって分かったからだ」


 昔なら、袋に極太の文字で注意書きを書き足していただろう。


 だが今は、人がそこに政治的意味を読み取ること自体は否定しない。


 ただし、俺が絶対に譲らない線は一つだけある。


 ある急進派が、配給所の前へ政治的な札を持ち込んできた。


【自由の友】


【王の友】


 という札を立て、受給者の列を二つに分けようとしたのだ。


 俺は無言で歩み寄り、その札を根本から蹴り折って即座に撤去した。


「呼びたいなら、穀物を自由の穀物と呼べ。でも、腹を空かせた人間には、絶対にその札を貼るな」


 俺の静かだが絶対的な怒気に、急進派の男は言葉を失って後退りした。


「食べ物に政治的な名前を付けるのは、お前たちの自由だ。だが、食べる人間に政治的な値札を付けることだけは、俺が絶対に許さない」


 夜。


 配給所の裏で、俺とギデオンは積み上げられた一袋の小麦を見つめていた。


 この同じ一袋の小麦でも、見る者によって全く違う意味になる。


 送った町から見れば、ボストンとの固い政治的連帯。


 受け取った委員会から見れば、町を維持するための救援物資。


 受け取った家族から見れば、今日と明日の夕食。


 そして、英国政府から見れば、植民地同士が結束を強めつつあるという危険な兆候。


「どれが正しいのだ?」


 ギデオンが問う。


「……全部だろ」


 壁に貼られた十三植民地の比較表。


 以前は、そこには破壊や帰航などの文字が並んでいた。


 今はその横に、


【救援申出】


【発送済み】


【到着】


【未着】


 という新しい欄が書き加えられている。


「同じ質問への答えはバラバラだったのにな。今度は、送ってくる物までバラバラだ」


 穀物。


 魚。


 米。


 家畜。


 薪。


 現金。


「お前が十三植民地を統一したのか?」


「してない」


「ボストンのサミュエル・アダムズが命令したのか?」


「してない」


「では、なぜこれほどの物が自発的に集まってくる?」


「……閉じられたボストンの港が、他の植民地からもはっきりと見えたからだ」


 彼らは、これがボストンだけの問題ではないと、少しずつ考え始めているのだ。


 フィラデルフィアのアーサーから、新しい報告が届いた。


『九月に各植民地の代表を集める会議を開く案が、各地で急速に具体化しております』


 俺は、六月十八日のフィラデルフィアの決議文をもう一度見た。


 救援募金。


 代表会議。


 同じ一枚の紙。


「……ボストンへ食料を送るために作った物流の道と、代表をフィラデルフィアの会議へ送るための政治の道が、全く同じ方向へ向かって伸びてる」


 俺は、この事実を素直に喜べなかった。


 未来では、この結束がアメリカ独立という結果へと繋がる。


 だが、その独立へ至る途中には、血みどろの戦争が待っているのだ。


 今の俺は、その結束の先に、どれほど多くの人間が死ぬかを知っている。


「止めたいのか?」


 ギデオンの問いが鋭く突き刺さる。


「……分からない」


「では、何をする?」


「少なくとも……腹を減らしてパンを受け取りに来た奴に、思想試験だけは受けさせない。それだけだ」


 配給所。


 最後の一袋の穀物。


 袋には、


【コネティカットより、苦しむボストンへ】


 という文字が力強く書かれている。


 それを受け取りに来たのは、茶会事件を暴徒だと批判し、急進派から嫌がらせを受けていた、あの船具職人の妻だった。


 彼女は、申し訳なさそうに、不安げに尋ねてきた。


「ヴァレンタイン様。これを受け取ったら……私は、あの夜に茶を壊した人たちや、これを送ってくれた急進派の人たちと、同じ考えだと認めたことになるのでしょうか?」


 俺は彼女の目を見て、はっきりと答えた。


「ならない」


「でも……これは、自由のために送られた穀物なのでしょう?」


「送った人にとってはな」


「では、あなたにとっては?」


 俺は穀物袋を指で叩いた。


「今日、あんたの子供が食べるパンだよ」


 ボストンへ届いた食料には、色々な意味が付いていた。


 自由のための穀物。


 姉妹植民地からの友情。


 英国議会への抗議。


 共通の権利を守るための寄付。


 俺には、その意味を消す権利はなかった。


 寄付した人間が何を願ったのかも、記録へ残した。


 ただ一つだけ、別の帳簿にした。


 誰が食べていいのか。


 そこには、愛国者という欄を作らなかった。


 王党派という欄も作らなかった。


 茶を壊したかどうかも、英国を愛しているかどうかも書かなかった。


 書いたのは、家族の人数と、収入と、あと何日食べられるかだけだった。


 食べ物に政治的な意味を付けるのは、人間の自由だ。


 だが、食べる人間に政治的な値札を付けることだけは、最後まで許さなかった。


 六月十八日。


 フィラデルフィアでは、ボストン救援のための募金と、各植民地が代表を送り、共通の権利問題を協議するための準備が、同じ集会で決められた。


 俺が政治から切り離そうとした救援物資は、結局、政治を運んでいた。


 そして、その政治を載せた穀物と魚と薪が、閉じられたボストンへ向かっていた。


 俺はもう、それを止めようとは思わなかった。


 ただ、その荷物を受け取るために、人間が愛国者であることだけは要求させなかった。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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