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真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜  作者: パラレル・ゲーマー


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第35話 真祖吸血鬼、三百四十二箱の茶を止められない

 旧南集会所から流れ出した人々の波は、最初は怒りに身を任せた無秩序な群衆に見えた。


 だが、俺が吸血鬼の身体能力を使って密かに速度を上げ、その先頭近くへ追いついた時、明確な異変に気づいた。


 顔に真っ黒な煤を塗りたくり、古い毛布を被り、先住民の風体を装った男たちは、ただやみくもに走っているのではなかった。


 彼らは交差点を曲がるたび、迷うことなく見事な手際で人数を分けていく。


 第一の茶船、ダートマス号へ向かう集団。


 第二の茶船、エレノア号へ向かう集団。


 新たに合流したばかりのビーバー号へ向かう集団。


 波止場の入口へ先回りし、見物人を制御しようとする集団。


 港の小舟を押さえ、海上からの接近を警戒する集団。


 少なくとも俺には、そうした役割分担が事前に決められているように見えた。


 誰か一人の指揮官が大声で指示を出しているわけではない。それなのに、百人を優に超える実行部隊の動きは、明らかに統制されていた。


「これ、今さっき集会で思いついて決めた動きじゃないぞ」


 走りながら俺が呟くと、並走するギデオンが目を細めた。


「合法的な交渉をギリギリまで続けながら、裏では『交渉が決裂した瞬間に発動する破壊計画』を準備していた者たちがいたらしいな」


 ギデオンは、港へ流れていく人波を眺めた。


「壁を壊すための斧は、扉が閉まるよりずっと前から鋭く研がれていたというわけだ」


     ◆


 グリフィンズ・ワーフへ続く細い桟橋の入口。


 俺は一度だけ、仮装した男たちの集団の前に立ちはだかった。


 不意に現れた俺に驚き、斧や鉈を握りしめた男たちが足を止める。


「船員を傷つけるつもりはあるか?」


 俺は短く、冷徹な声で問うた。


 先頭にいた、煤で顔を隠した男が答える。


「……ない」


「船を燃やすか?」


「燃やさない」


「茶以外の荷を壊すか?」


「触れない」


「船員の私物を奪うか?」


「奪わない」


「では、茶を自分の家へ持ち帰ろうとする者がいたら?」


「絶対に許さない」


 男は斧を握ったまま、はっきりと言い切った。


「俺たちは、茶をこの世から消しに来たんだ。船を奪いに来たわけでも、人を殺しに来たわけでも、強盗をしに来たわけでもない」


 男の目は、狂乱ではなく、冷たい決意に満ちていた。


 俺は道を譲らないまま、最後通告として告げた。


「その線を越えた瞬間、俺がお前たち全員を力で止める」


「……お前の許可を求めているわけではない」


「俺も、お前たちに許可は出してない」


「では、我々の邪魔をするのか?」


 俺は答えなかった。


 数秒の重い沈黙の後、俺は無言で一歩だけ脇へ退いた。


 これは、彼らの財産破壊を正義だと承認したわけではない。


 しかし実行者たちには、「茶だけを狙うなら、この謎の男は力で止めには入らない」という明確な回答として受け取られた。


 俺は、その曖昧な態度の重さを、自分自身の胃の底で嫌というほど感じていた。


 俺はギデオンへ、《港湾緊急被害防止線》を書き留めた紙を渡した。


「波止場の入口で群衆を整理しろ。子供や年寄りを前列から下げろ。火を持った見物人を船から遠ざけろ。夜警や船側の人間を見つけたら、この最低線を伝えて安心させろ。怪我人が出た時や、船から物を持ち出そうとする奴がいたら俺に合図しろ」


「お前は?」


「俺は三隻の間を移動する。船員への暴行阻止、船体への破壊阻止、海への転落者の救助、茶以外の貨物の保護だ」


 ギデオンが、渡された紙の項目をざっと目で追い、鋭く問いかけてきた。


「……ルカ。一番肝心な『茶箱を守る役』が、どこにも書いてないぞ。書き忘れたのか?」


「書けなかったんだよ」


 俺は短く答え、暗い波止場へと駆け出した。


     ◆


 実行隊の第一陣が、ダートマス号の甲板へと乗り込んだ。


 甲板にいた船員たちは武器を手に身構えたが、先頭の男が両手を広げて言った。


「我々は、君たちに危害を加えるつもりはない。ただ、船倉を開ける鍵と、滑車と綱を貸してほしいだけだ」


 ジェームズ・ホール船長は、突然の事態に怒りと恐怖を押し殺し、震える声で尋ねた。


「茶以外には、絶対に手を触れないと約束できるのか?」


「茶だけだ」


 仮装した男が応じる。


 俺も横から口を挟んだ。


「その約束を破る奴が一人でも出たら、俺が全力で止める」


 船長は俺を見て、困惑したように目を瞬かせた。


「お前は……彼らの仲間なのか?」


「違う」


「では、我々船側の味方か?」


「それも違う」


「一体何者なんだ!」


「人を死なせないために、ここへ来た」


 船長にとって、それは何の慰めにもならない答えだっただろう。


 だが、彼は抵抗すれば流血が起きることを悟り、重々しく鍵を引き渡した。


 船倉が開かれた。


 実行者数人がランタンを手にして暗い底へ降りていく。別の者が滑車を操作し、太い綱が張られた。


 やがて、一箱目の茶箱が、重い音を立てて甲板へと引き上げられた。


 斧を持った男が、大きくそれを振りかぶる。


 俺の身体は、反射的に前へ出かかった。


 今なら止められる。


 斧が振り下ろされる前に、俺の速度なら男の腕を掴み、綱を切られる前に箱を奪い取って、誰にも触れられないマストの上まで運ぶことすら容易い。


 だが、俺は動かなかった。


 斧が箱へ食い込む。


 乾いた木材が悲鳴を上げて割れる音。


 中から、高級な茶葉がどっと溢れ出す。


 実行者たちは箱ごと傾け、その中身を真っ暗な冬の海へと投げ捨てた。


 一箱目。


 俺は止めなかった。


 少し離れた波止場から、ギデオンが静かにこちらを見ていた。


 彼との間に言葉はなかった。


 一箱目を止めなかった時点で、残り三百四十一箱についても、俺は同じ判断を繰り返すことになる。


 俺は自分自身へ、そう言い聞かせた。


     ◆


 二箱目から、作業の速度は恐ろしいほど急速に効率化していった。


 怒りに任せた暴動ではない。


 完全な分業体制だ。


 船倉の中で茶箱を探し、綱へ掛ける班。


 滑車で甲板へ引き上げる班。


 斧や鉈で箱の蓋と側面を叩き割る班。


 茶葉と壊した箱材を海へ捨てる班。


 こぼれた茶葉を掃き集める班。


 船員や見物人、火気を監視する班。


「暴動じゃないな」


 近づいてきたギデオンに俺が言う。


「では何だ?」


「無許可の、極めて効率的な荷役作業だ」


 東インド会社の茶を港へ降ろすはずだった荷役の技術そのものが、今夜は「茶を港へ絶対に降ろさないための破壊作業」へと見事に反転して使われているのだ。


 見物人が波止場へ押し寄せ、船へ渡る板の近くで人々が危険なほど密集し始めた。


「押すな! 見えないぞ!」


 後ろから強く押された若い見物人が足を滑らせ、凍りつくような暗い海へ落ちかけた。


 俺は人間の目には単なる偶然の奇跡としか見えない速度で身を翻し、若者の腕を力強く掴み、波止場へと引き戻した。


「船へ近づくな!」


 俺は周囲の群衆へ向かって、凄まじい声で怒鳴りつけた。


「ここは見世物小屋じゃない! 後ろの奴は絶対に前へ押すな!」


 俺が間に入って見物人を下げ、安全な通路を確保したことで、海へ落ちて凍死する者や、押し潰される怪我人が出る危険は激減した。


 だが、それと同時に、実行者たちが甲板と波止場を行き来する移動経路が完全に確保され、茶箱破壊の作業速度はさらに上がってしまった。


「お前が人を助けた結果、茶を壊す作業が随分と進みやすくなったぞ」


 ギデオンが冷徹に指摘する。


「分かってるよ」


「なら、通路を塞いだままにして群衆の混乱を放置するか?」


「それで誰かが圧死したら、もっと駄目だろ」


 被害を軽減するための介入には、完全に無垢で神聖な立ち位置など存在しないのだ。


     ◆


 甲板では、若い船員の一人が血気盛んに積荷を守ろうと前へ出かけた。


 ホール船長がその腕を強く掴んで止める。


「動くな」


「でも、船長! 俺たちが預かった大切な荷です!」


「馬鹿野郎。ここで斧を奪おうとすれば、お前一人で斧を持った百人を相手にすることになるんだぞ」


「黙って見ていろと?」


「そうだ。私はお前たちの命を守る」


 俺は船長のその判断を、愛国者への屈服だとか、卑怯だとは微塵も思わなかった。


 彼は、預かった茶を守る責任と、部下の命を守る責任のうち、迷わず後者を選んだのだ。


「茶を守れなかったお前たちの責任と、今日ここで無駄に死ななかったことは、絶対に別々に記録されるべきだ」


 俺は若い船員に声をかけた。


 船倉には、東インド会社の茶以外にも、他の商人から預かった無関係な貨物が積まれていた。


 暗い船内での作業だ。


 興奮状態で斧を振り回せば、別の箱を誤って壊してしまう危険がある。


 実行者の一人が、茶箱とよく似た別の木箱へ斧を振り上げかけた。


「待て! それは茶じゃない!」


 別の実行者が叫んで止める。


 俺も船倉へ素早く降り、貨物目録と箱の焼印を照合した。


 ただし俺は、「この箱は茶だ、壊せ」と彼らの破壊作業を直接手伝うような真似はしなかった。


 確認したのは、「彼らが今壊そうとしている箱が本当に茶なのか」「無関係な財産へ誤って手を出していないか」だけだ。


「それも破壊のための品質管理ではないか?」


 ギデオンが問う。


「違うと言い切れない。でも、全く関係のない別人の荷物まで壊されるのを見逃すよりはマシだ」


     ◆


 甲板で、信じられない光景を目にした。


 破壊作業を見ていた見物人の男が、こぼれた高級茶葉を両手で掬い集め、自分の外套の内側へ隠そうとしたのだ。


 近くで見張りをしていた実行者が即座に見つける。


「おい! 何をしている!」


 男は青ざめながら言い返す。


「どうせ海へ捨てる茶じゃないか! 少しくらい持って帰っても構わないだろ!」


「ふざけるな!」


 実行者たちが怒り狂い、男を囲んで袋叩きにしようと拳を振り上げた。


 俺は瞬時に間へ入り、男の外套の襟首を掴んだ。


「茶を出せ」


 男が拒む。


 俺は僅かに指の力を込め、彼が絶対に逃げられない状態にした。


「今ここで茶を持ち帰ったら、お前たちの行動は『課税権への政治的な抗議』ではなく、ただの強盗と略奪に成り下がるんだぞ」


 男が震えながら、茶を甲板へ落とした。


 実行者の一人が息巻きながら叫ぶ。


「こいつを海へ放り込んで罰を――」


「茶は戻した」


 俺は冷たく遮った。


「顔と名前を記録して、船から降ろせばいい」


「殴らないのか!」


「盗みを止めることと、お前たちが寄ってたかって私刑をすることは別だ」


 こぼれた茶葉は、再び無情に海へと掃き捨てられた。


 俺はここで、「東インド会社の財産を守らない」一方で、「個人が茶を盗むことも許さず」、さらに「窃盗犯への私刑も許さない」という、極めて矛盾した三方向の線を死守していた。


「海へ捨てれば正義の抵抗で、懐へ入れれば卑劣な窃盗なのか?」


 ギデオンが根源的な問いを投げかける。


「海へ捨てるのも、立派な違法な財産破壊だ」


 俺は答える。


「では、違いはなんだ?」


「自分の懐を潤す、私的な利益に変えるかどうかだ」


 彼らは、自分たちが儲けるために茶を奪っているのではない。


 誰にもその茶を売らせず、英国へ一ペンスの税も取らせないためだけに、膨大な価値を虚無へ還しているのだ。


 だからといって、彼らの行為が無罪の正義になるとは思わない。


 しかし、商売敵の荷を奪って自分で売ることや、高級品を無料で持ち帰るという卑しい略奪とは、目的も性質も異なる。


     ◆


 船倉から大きな茶箱を運び出す途中、実行者が誤って船の小さな錠前を壊してしまった。


「おい! それは茶じゃないぞ!」


 ホール船長が強い声で抗議する。


 その瞬間、周囲の作業がピタリと止まった。


 まとめ役らしい男が、壊れた錠前の欠片を拾い上げる。


「すまない。同じ物を用意して、後日必ず弁償する」


「口約束だけでは困る!」


 船長が食い下がる。


 俺は懐から紙とペンを出した。


【破損備品:小型錠前一個】


【茶貨物以外の損傷:現時点では確認されず】


【同等の交換品を後日、船長へ引き渡す】


「お前たちの名前は要らない。交換品を誰へ渡すのかだけ決めろ」


 実行者側の立会人は名を記さず、確認の印だけを付けた。


 船側からは船員一人が署名し、俺が双方のやり取りを見届けた者として記録へ名を入れた。


「とうとう、財産破壊者のための弁償票まで作ったな」


 ギデオンが呆れる。


「茶以外のものまで壊すのを許し始めたら、俺が引いた最低線が一気に崩壊する」


 冬の夜の船倉は漆黒の闇だ。


 作業にはランタンが必要不可欠だった。


 だが、乾いた木箱、無数の綱、油の染みた帆布に囲まれた船上で、裸火を乱暴に扱えば一瞬で大火災になる。


 興奮した見物人の一人が、燃え盛る松明を高く掲げて船へ近づこうとした。


 俺は即座にその前へ立ち塞がり、松明を叩き落とした。


「松明を船へ持ち込むな!」


「暗くて作業が見えないんだ!」


「見えなくていい! 固定したランタンと蝋燭だけにしろ。火を持って走り回るな!」


 俺は船員側へ指示を飛ばし、甲板に水桶、濡らした帆布、火消し用の砂を準備させた。


 船長が、皮肉げに言う。


「俺たちの茶を壊している連中の、火の安全まで守ってやるのか?」


「ここで船が燃えちまったら、茶の被害どころじゃ済まなくなるからな」


     ◆


 ダートマス号だけではない。


 エレノア号、隔離が解除されたばかりのビーバー号でも、全く同じ作業が同時進行していた。


 俺は、一隻の秩序が保たれているからといって安心はしなかった。


 真祖の速度を人間たちに悟られないギリギリの範囲で、暗がりと群衆の波を利用し、三隻の間を絶え間なく往復し続けた。


「ルカ。一隻だけなら、お前の力で止められるのではないか?」


 ギデオンが、飛び回る俺に並走しながら問う。


「……できる」


「なら、なぜ止めない?」


 俺は走りながら答えを整理した。


「一隻だけ守れば、残り二隻の茶は結局壊される。しかも、守られた一隻に怒り狂った群衆が集中し、そこが凄惨な戦場になる。その船の船員だけが命の危険に晒されるんだ。群衆は俺を突破するために、より大きな武器や銃、火を持ち出してくるかもしれない」


「では、三隻とも守れ」


「そのためには、百人を超える実行者を力で排除して、数千人の群衆を押し返さなきゃならない」


「お前ならできるはずだ」


「できる。だからこそ、やっていいことにはならないんだよ!」


 作業開始から時間が経つにつれ、見物人たちの歓声は徐々に消えていった。


 実行者たちも無言になった。


 彼らは汗を流し、ただ黙々と箱を壊し続ける。


 斧を振るう手が痛み始める。


 衣服は細かい茶葉と木の破片でひどく汚れ、冬の寒さの中で荒い呼吸が白く濁る。


 これは、一瞬の爽快な怒りの爆発ではない。


 総重量九万二千ポンド――およそ四十六トンもの貨物を、純粋な人力だけで持ち上げ、割り、捨て続けるという、果てしなく過酷な重労働なのだ。


「お前は、ただ見ているわけではない」


 ギデオンが、再び重い告発を口にした。


「分かってる」


「通路を開けた。人が潰れないためだ。火を管理した。船を燃やさないためだ。茶以外の箱を見分けた。無関係な財産を壊さないためだ。盗人を止めた。略奪にしないためだ」


 ギデオンは、甲板で続く作業を見つめた。


「その全てが、彼らの破壊作業を極めて秩序正しく進めさせている」


 俺は反論できなかった。


「俺がいなければ、もっと凄惨で酷い事件になっていたかもしれない」


「お前がいるから、彼らは後ろの安全を気にする必要がなくなり、安心して三百四十二箱を壊せるのかもしれないぞ」


「……どっちも否定できない」


 俺は、被害軽減をしたから自分は無罪だとも、破壊を止めなかったから共犯だとも、どちらか一方の都合のいい言い訳に逃げることはしなかった。


 実行者側の男の一人が、俺たちの会話を聞いていた。


「お前がいなくても、俺たちは船員には手を出さない」


「本当に全員へ守らせられるのか?」


「守らせる」


 男は断言した。


「人を殴れば、英国の議会は茶法の問題をすり替え、我々をただの血に飢えた暴徒として扱う。船を燃やせば、我々の町が焼ける。茶以外を盗めば、我々は自由を守る者ではなくなる」


 彼らは彼らなりに、自分たちの行為を政治的抵抗として成立させるための、冷酷なまでの最低線を持っていたのだ。


 俺が彼らに倫理を教えているわけではない。


 俺はただ、その線から外れそうになった者を物理的に止めているにすぎない。


     ◆


 箱が次々と割られる。


 海面は、真っ黒な茶葉で覆い尽くされていた。


 高級品として、家庭の小さな茶匙で少しずつ大切に量られるはずだった茶。


 マーサ・ヘイルがなけなしの銅貨で買うかどうかを真剣に悩んだ、あの茶。


 その何万世帯分もの量が、文字どおり海の藻屑となっていく。


 俺の頭の中に、かつて黒板へ書いた《一杯の茶の勘定書》が浮かんだ。


 東インド会社の在庫。


 英国の税。


 商人の利益。


 消費者にとっての安さ。


 それらが全て、虚無の海へ溶けていく。


 マーサが一杯の茶を買った時、急進派は彼女を「自由を売った裏切り者」と呼んだ。


 今、彼らは三百四十二箱を海へ捨てている。


 マーサには、自分の金で茶を買う権利があった。


 東インド会社には、自分の財産を壊されない権利があった。


 住民には、同意しない税を受け入れない意思があった。


 船員には、政治的争いで殴られない権利があった。


 どれか一つだけを絶対の正義だと決めつければ、ほかの全ての権利が残酷に消し飛ぶのだ。


 三隻それぞれの船員には、貨物目録へ破壊済みの箱を記入してもらっていた。


 ギデオンが波止場を回り、それぞれの残数を照合していく。


 やがて、エレノア号とビーバー号から作業終了の合図が届いた。


 残っているのは、ダートマス号の船倉から引き上げられる一箱だけだった。


 最後の茶箱が、軋む音とともに甲板へ現れる。


 俺は、その箱を静かに見つめた。


 最初の箱と同じように、止めることはできる。


 今回は百人を相手にする必要もない。


 ただ、目の前の一箱だけを奪い取れば済む。


 だが、一箱だけ守っても、町側の目的は変わらない。


 一箱だけ残った茶を巡って、明日また同じ衝突が起きるだけだ。


 税関がその一箱を差し押さえれば、危機は終わらない。


 俺が個人的な満足のために、象徴的な戦利品を一つ作るだけだ。


 斧が振り下ろされた。


 三百四十二箱目。


 俺は止めなかった。


     ◆


 全ての箱を捨て終わった後も、実行者たちは終わりの宴を開かなかった。


 彼らは船倉を確認し、甲板へ残った茶葉を一粒残らず丁寧に海へ掃き落とした。


 綱と滑車を元の位置へ戻し、火を消し、誰が指揮したかも発表せず、互いの名前を大声で呼ぶこともなく、少人数に分かれて暗い町へと静かに消えていった。


 三時間の重労働を終えた後のボストン港は、不気味なほどの静寂に包まれた。


 残ったのは、むせ返るような強烈な茶の匂いと、海面を漂う茶葉、壊れた箱の木材、空になった船倉、そして呆然と立ち尽くす船員たちだけだった。


 俺は船長たちへ確認して回った。


【船員の重大な負傷:なし】


【船体への意図的破壊:なし】


【火災:なし】


【茶以外の貨物損傷:なし】


【窃盗:未遂一件を阻止】


【備品破損:小型錠前一個】


【茶箱:貨物目録上の全箱が破壊された】


 ホール船長が、虚ろな目で俺を見た。


「お前は、茶を守らなかったな」


「守らなかった」


「だが……船は守った。船員もな」


「ああ」


「それで、自分は正しいことをしたと思っているのか?」


 俺は言い訳をしなかった。


「俺が選んだのは、正しいことじゃない。今夜、ここをこれ以上悪くしないことだけだ」


     ◆


 夜が明けた。


 十二月十七日の朝。


 港の海面には、茶葉が分厚い絨毯のように浮き、潮に乗って遠くまで広がっていた。


 すると、どこからともなく何艘かの小舟が沖へ漕ぎ出していった。


 乗っている者たちは、海面に浮く茶葉を棒や長い櫂を使って、執拗に水中深くへと沈めていく。


 乾かして密かに回収し、売り捌こうとする者を出さないための、徹底的な回収防止と破壊の完遂だった。


「昨夜の破壊は、見せかけの演技じゃなかったんだな」


 俺は呟いた。


 ジョン・アダムズが、俺の横で港を見下ろしながら言った。


「人は死ななかった」


「それは大きい」


「では、彼らの行為を認めるのか?」


「認めるって言葉の中に、何を入れるかによる」


 俺は茶色く染まった海面を見つめた。


「茶法への抵抗として効果があったことは認める。人を傷つけず、茶以外へ手を出さなかったことも認める。でも、他人の財産を完全に破壊したという事実は、どう言い繕っても消えない」


 ジョンは重々しく頷いた。


「君は、この夜をどう書く?」


「三隻、三百四十二箱破壊。船員の死者なし。ほかの貨物被害なし。壊れた錠前一個」


 俺は手元の記録へ視線を落とした。


「……まずは、事実だけだ」


     ◆


 俺が一人で港に残っていると、ギデオンが最後に問うてきた。


「結局、お前は本当に止められなかったのか?」


「一箱なら止められた。十箱でも止められた」


「三百四十二箱は?」


「物理的には、止められた」


「なら、なぜ止めなかった?」


 俺は、茶色く染まった海を見ながら答えた。


「人が死ぬなら止める。船が燃えるなら止める。誰かが自分の利益のために盗むなら止める」


 それが、俺が今夜引いた最低線だった。


「でも、どちらの政治的な結論を採用するかまで、不死身の俺が腕力で決めることはできない」


 ギデオンは黙って俺の続きを待った。


「全部止めるには、茶箱を守るだけじゃ足りない。百人を超える実行者を力で倒して、数千人の住民の意思を俺一人で押し返して、船と港と法律の結末を、不死身の俺が決める必要があった」


 俺は拳を握った。


「それをやった瞬間、俺は守った茶箱よりも遥かに大きなものを壊すことになる」


「何を?」


「人間が、自分たちで歴史を間違える権利だよ」


 俺はジョンへ《ボストン港茶貨物破壊確認票》の写しを預け、休む間もなくフィラデルフィアへの帰路についた。


 ボストンでは、帰り道がなくなった後に壁が壊された。


 だがフィラデルフィアには、まだ帰り道が残っている。


 俺は、その道までが閉じられる前に、次の茶船を迎えるため南へと馬を走らせた。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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