↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜  作者: パラレル・ゲーマー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/39

第27話 真祖吸血鬼、腐らない肉を作る


 不審な遺体をめぐる一連の騒動が、ようやく落ち着きを見せ始めた数日後。


 ヴァレンタイン商会本店の周辺からは、奇跡の死者蘇生を求める異様な行列も消え去っていた。


 とはいえ、街の噂というものは、一度火がつくとなかなか鎮火しない。


「生き返らせたわけではない」


 と何度説明しても、客たちの目には、どこか期待に満ちた好奇の光が残っていた。


 その日の午前。


 商会へ上等な獣脂を卸している馴染みの肉屋が、店用の石鹸を買い求めにやって来た。


 彼はカウンターへ銅貨を置きながら、にやにやと笑って俺へ話しかけた。


「いやあ、ヴァレンタインさん。あんた、死んだ人間は無理でも、腐っちまった肉くらいなら、元の新鮮な肉に戻せるんじゃないか?」


 冗談半分のその問いに、俺は肩をすくめた。


「戻せないよ。一度腐ったものは、どうやっても腐ったままだ」


「なんだ。巷で噂の真祖様でも、死んだ牛の肉までは救えないってわけか。そいつは残念だ」


「腐った後に時間を巻き戻す魔法はない。でも……」


 俺は、ふと思いついて言葉を継いだ。


「肉が腐る前に、その時間を止めることならできるかもしれないな」


 その瞬間、商会の帳場周辺にいた従業員たちが、ぴたりと手を止めた。


 アーサーが羽ペンをインク壺へ置き、静かに尋ねてくる。


「旦那様。今度は、何を始めるおつもりですか」


「肉を何週間も、いや、何か月にもわたって腐らせずに保存する技術を作る」


 俺の宣言に、肉屋が吹き出した。


「なんだ。塩漬け肉の話か? それとも冬に向けて、燻製でも大量に作るってのかい」


「どっちでもない。鍋でおいしく煮込んだ料理を、その味と柔らかさを保ったまま保存するんだよ」


 ここから、俺の本格的な発明が幕を開けた。


     ◆


 まずは、既存の保存食の現実を直視する必要があった。


 俺はアーサーに指示し、商会の倉庫から、長距離航海用の船員食をいくつか持ってこさせた。


 机の上へ並べられたのは、岩のように硬く乾燥した塩漬け牛肉、虫が這い出した跡のある乾パン、塩を吹き出した魚の干物、石ころのような乾燥豆、そして強烈な酸味を放つ酢漬けの野菜だ。


 ギデオンが、試しに塩漬け牛肉を短剣で切り裂こうとした。


 しかし、刃は表面で滑り、甲高い音を立てた。


「……これは食料というより、防具か打撃用の武器だな」


「水へ何日も浸して塩を抜き、さらに何度も煮こぼして、ようやく噛み切れる程度になります」


 アーサーが補足する。


「そこまで手間をかけて、ようやく塩辛くてぱさぱさの肉を胃へ流し込めるだけだろ?」


 俺は硬い肉の塊を指で弾いた。


 航海へ生肉を積めば、数日のうちに腐敗する。


 だから大量の塩を使って保存するが、出来上がった肉は硬く、塩辛い。


 長期航海では食事も単調になり、病に倒れた者が食べられるような柔らかい料理はほとんどない。


 おまけに、積み込んだ食料の少なくない割合が、航海の途中で腐敗や虫害によって失われる。


「俺がこれから作るのは、厨房で料理した時の味と柔らかさを、そのまま船倉まで持っていく仕組みだ」


 俺の言葉に、ギデオンもアーサーも半信半疑の目を向けていた。


     ◆


 俺は、ちょうど商会を訪れていたベンジャミン・ラッシュを厨房へ招き入れた。


 調理台の上で、切り分けた生肉を三つの皿へ分ける。


 一つはそのまま空気へさらす。


 一つには蓋を被せる。


 最後の一つは火を通してから蓋をする。


「ラッシュ。人間は、肉が腐るのは淀んだ悪い空気そのものが肉へ変化を起こすからだと考えてる。でも、正確には違う」


「では、何が腐敗を引き起こすのですか?」


「人間の目には見えないほど小さな生き物だ。肉の中にいたり、手や容器へ付着していたり、空気と一緒に入り込んだりする。そいつらが増えることで、肉は腐る」


 この時代の医学において、目に見えない微小な生物という考えは、簡単には受け入れられない。


 ラッシュは眉をひそめたが、俺は真祖としての権威を使い、無理やり信じ込ませるような真似はしなかった。


「今すぐ信じなくていい。腐敗を防ぐには、どの工程が必要なのかを、これから比較して確かめる」


 俺は保存の原理を、三段階に分けて紙へ書き出した。


 一、食品や容器へ十分な熱を加える。


 二、処理後に外から新たな汚れが入り込まないよう、容器を密封する。


 三、容器の中心まで、あらかじめ定めた温度と時間で加熱する。


「どれか一つだけでは足りない。特に肉は危険だ。果物を湯へ浸す程度の加熱では、生き残るものがいる」


「それほど強い熱が必要なのですか?」


「必要だ。それに、ただ長く煮ればいいわけでもない」


 俺は、使用する容器の大きさを一種類へ限定した。


 肉はすべて同じ大きさに切る。


 一つの容器へ入れる肉と汁の重量も固定。


 煮汁へ小麦粉などのとろみはつけない。


 豆も、最初の試験品からは外す。


「肉の大きさや、汁の濃さや、詰め込む量が変われば、中心まで熱が届く時間も変わる。勝手な目分量は許可しない」


 ラッシュが紙へ書き留める。


「では、試験の目的は、目に見えない生物の存在そのものを証明することではない?」


「そうだ。今やるのは、誰が作業しても同じ結果を再現できる工程を、この土地の道具で確立するための試験だ」


     ◆


 数日後。


 俺は商会へ、各分野の熟練職人たちを招集した。


 ガラス職人、錫細工職人、鍛冶職人、そして頑丈な釜を作れる銅細工職人だ。


 俺はガラス職人へ、広口で底の厚いガラス瓶の図面を見せた。


「普通の瓶より、ずいぶんと分厚く無骨ですな」


「高い温度と圧力へ耐えさせる。薄い瓶では割れる」


 瓶の口には、専用の金属蓋と留め具を使う。


 蓋の下には、煮沸して清潔にした薄い革と、食品へ触れても害のない封止材を挟む。


 加熱中は、内部で膨張した空気と蒸気だけが僅かに外へ逃げる。


 だが、冷却時には外の空気を戻さない。


 冷えれば、外気の圧力によって蓋が瓶へ強く押しつけられ、密封が完成する仕組みだ。


「完全に塞いだ瓶を最初から加熱したら、中の空気が膨らんで瓶を壊す。熱いうちは余分な空気を外へ出し、冷える時には戻さない形にする」


 次に、錫細工職人へ、錫引き鉄板で作る円筒形の金属容器の図面を見せた。


「こちらの鉄の筒には、何を入れられるので?」


「牛肉の煮込みだ」


「肉を鉄の箱へ? 蓋はどうされるのです」


「肉を詰めた後、小さな排気穴だけを残して閉じる。中の空気と余分な蒸気を追い出した後で、その穴も塞ぐ」


 職人たちは顔を見合わせた。


「ヴァレンタイン様。それでは、中身を取り出せなくなってしまいますぞ」


「食べる時は、小刀や鑿で容器の上部を切って開ける」


「一度しか使えない容器を、わざわざ手間をかけて作るのですか?」


 この時代において、容器は洗って何度も使うのが常識だ。


 使い捨ての金属容器など、狂気の沙汰に思えたのだろう。


「中の食べ物を何か月も守れるなら、容器一個の値段なんて安いものだ」


 俺は鉄板の継ぎ目を指した。


「ただし、板同士を接合材の強度だけで留めるな。端を折り返して噛み合わせ、金属そのものの形で強度を持たせる。接合材は、その隙間を塞ぐためにだけ使え」


「鉛を混ぜれば、安く簡単に作れますが」


「食品へ触れる内側には、鉛を一切出すな。長く触れれば、中の食べ物へ毒が移る。錫を主体にして、外側から隙間だけを封じろ」


 職人は材料費に顔をしかめたが、俺は譲らなかった。


     ◆


 さらに銅細工職人には、俺が設計した大型の加圧加熱釜の図面を渡した。


 ただの巨大な煮込み鍋ではない。


 分厚い蓋を頑丈な金属の留め具で固定し、内部へ高温の蒸気を閉じ込める構造になっている。


 釜には、内部の温度を測る温度計と、圧力を確認する計器を取りつける。


 内部の空気を追い出すための排気口。


 圧力を調整する弁。


 さらに、圧力が上がりすぎた場合に自動で開く安全弁を二つ設ける。


 アーサーが図面を覗き込み、表情を硬くした。


「旦那様。密閉した頑丈な釜を、そのまま火へかけるのですか?」


「そうだよ」


「爆発しませんか?」


「安全弁も排気工程もなければ、木っ端微塵に吹き飛ぶだろうね」


 集まっていた職人たちが、一斉に作業台から数歩離れた。


「だから、圧力が一定以上へ上がった時に蒸気を逃がす安全弁を二つつける。一つが詰まっても、もう一つが開くようにする」


「肉を保存するために、厨房の中央へ爆弾を設置するのか」


 ギデオンが呆れたように言う。


「爆弾にならないように作ってるんだよ!」


 俺は装置を稼働させるための規則も、その場で定めた。


 一、責任者以外は弁や留め具へ触れない。


 二、加熱中は釜の正面へ立たない。


 三、圧力が残っている間は、絶対に蓋を開けない。


 四、二つの安全弁と排気口を、毎回稼働前に確認する。


 五、使用する容器の大きさ、中身の重量、肉片の大きさを変えない。


 六、規定の温度、圧力、処理時間を一つでも外れた製品は、すべて不合格とする。


 七、担当者と開始時刻、温度、圧力、終了時刻を記録する。


     ◆


 装置と容器の準備が整うと、中身の料理の製作に入った。


 これにはアビゲイルの手を借りることにした。


「どれだけ長く保存できても、食べた時にまずかったら、誰も買ってくれないからな」


 彼女の指揮のもと、一定の大きさに切り揃えた牛肉、玉葱、人参を、塩と香辛料で柔らかく煮込んだ。


 煮汁はさらりとしたままにする。


 とろみをつければ中心へ熱が届きにくくなり、決めた処理時間が使えなくなるからだ。


 俺たちは、完成した煮込みを、重量を量りながらガラス瓶へ詰めていった。


 瓶の口いっぱいには入れない。


 上部へ、あらかじめ定めた空間を残す。


「なぜ、そこまでで止めるのですか?」


 ラッシュが尋ねる。


「加熱すれば、中身が膨張する。満杯まで詰め込めば、液体が蓋を押し上げたり、封止部分へ入り込んだりする」


 瓶の口へ料理の汁が付着した場合は、清潔な布で完全に拭き取らせた。


 封止面へ肉片や野菜の繊維が挟まれば、そこから外気が入り込む可能性がある。


     ◆


 俺は、同じ鍋で作った牛肉煮込みを、四つの試験群へ分けるよう指示した。


 第一群。


 開いたままの普通の壺へ入れる。


 第二群。


 加熱した後、木の蓋だけを被せる。


 第三群。


 専用瓶へ詰めて蓋を密着させるが、容器ごとの加圧加熱は行わない。


 第四群。


 専用瓶へ詰めた後、加圧加熱釜へ入れ、定められた温度、圧力、時間で処理する。


「第四群の完全な工程だけを作ればよいのではありませんか?」


 アーサーが言う。


「他と比較しなきゃ、どの工程を省いた時に、どういう失敗が起きるのか分からないだろ。成功品の作り方だけじゃなく、失敗品の見分け方も全員に覚えてもらう」


 それぞれの容器には、


* 製造日

* 中身の重量

* 容器番号

* 肉片の寸法

* 加熱条件

* 担当者


 を記した木札を括りつけた。


     ◆


 いよいよ、加圧加熱釜の初稼働だ。


 釜の中へ金属籠を沈め、第四群のガラス瓶を並べる。


 分厚い蓋を被せ、留め具を締め上げ、下から火を入れた。


 ただし、最初から内部へ圧力を閉じ込めることはしない。


 主排気口を開いたまま加熱を始める。


 しばらくすると、排気口から、空気の混じった不規則な蒸気が吹き出し始めた。


「まだ圧力を上げないのですか?」


 職人が尋ねる。


「釜の中に空気が残っている。空気が混じったままだと、同じ圧力を示していても、予定した温度まで上がらない場合がある」


 やがて、排気口から出るものが、途切れのない安定した蒸気へ変わった。


 俺は、それでもすぐには弁を閉じさせず、決めた時間だけ蒸気を流し続けた。


 釜の内部から空気を十分に追い出してから、初めて排気を絞る。


 圧力と温度が、定めた基準まで上昇する。


 安全弁が、


「シュウウウウウッ!」


 と、耳をつんざくような音を立てて蒸気を噴き上げた。


「ひっ!」


 店員の一人が悲鳴を上げて逃げようとする。


「正常だから! 設計どおりだから逃げるな!」


「正常な料理用の釜が、あのような恐ろしい音を立てるものか?」


 ギデオンが剣の柄へ手をかけながら言う。


「立てるんだよ! 必要以上の圧力を逃がしてる音なんだから!」


 温度、圧力、時間を記録する。


 規定値を下回った場合は、その時点までの時間を数えない。


 再び必要な温度と圧力へ戻ってから、処理時間を最初から測り直す。


 処理が終わっても、急に火から下ろしたり、冷水をかけたりはしない。


 内部の圧力を自然に下げる。


 完全に圧力が抜けたことを計器と弁の両方で確認してから、重い蓋を開けた。


     ◆


 蒸気が晴れた後、金属籠の中を確認する。


 大部分の瓶は無事だった。


 しかし一本だけ、ガラス瓶の底へ大きな亀裂が入り、中身が漏れ出している。


 ガラス職人が青ざめた。


 だが、俺は職人を責めなかった。


「失敗した一本を隠すな。どうして割れたか分かれば、次の瓶を強くできる」


 割れた瓶と周囲の状況を調べる。


 原因は一つではなかった。


 瓶底の厚さが均一ではなかった。


 瓶が金属籠の底へ直接触れていた。


 さらに、釜へ入れる前の瓶が冷たすぎた。


 俺は改善策を定めた。


 瓶底の厚さを規格化する。


 籠との間へ、熱と衝撃を和らげる仕切りを敷く。


 処理前には瓶を一定の温度まで温める。


 目に見える傷、歪み、内部の大きな気泡がある瓶は使用しない。


 次の試験では、瓶の破損はゼロになった。


     ◆


 瓶が完全に冷えた後、蓋の状態を確認する。


 蓋は、瓶の口へ強く吸いついていた。


 アーサーが留め具を外し、蓋を持ち上げようとするが、簡単には外れない。


「中の空気と蒸気が加熱中に外へ抜け、冷えた後で内部の圧力が下がった。外の空気が、蓋を瓶へ押しつけている」


 これを密封成功の確認項目へ加える。


* 蓋が内側へ引かれている

* 指で押しても動かない

* 封止部分に隙間がない

* 液体が漏れていない

* 瓶へ亀裂がない

* 製造記録に必要な温度、圧力、時間が残っている


 最後の項目が最も重要だ。


 見た目が正常だから、安全なのではない。


 正しい工程を通った記録があり、そのうえで容器にも異常がない物だけを合格とする。


 出来上がった瓶詰めを見て、肉屋や店員たちが興奮気味に尋ねてきた。


「ヴァレンタインさん! これで、この肉は永久に腐らなくなったのかい?」


「永久じゃない。正しい工程で作り、容器が無傷のまま、定めた保存期限まで腐りにくくするだけだ」


 アーサーが真面目な顔で提案する。


「では、新商品の名を、ヴァレンタイン式不死肉としては?」


「絶対にやめろ! また牧師が飛んできて、死者蘇生の騒ぎに逆戻りするだろ!」


「真祖が製法を編み出した不死肉。よく売れそうだがな」


 ギデオンまで便乗する。


「だからやめろってば!」


 俺は強権を発動し、正式な試作品名を、


【密封保存牛肉煮込み・第一試験品】


 という、極めて実務的な名前に決定した。


     ◆


 保存環境による差を確かめるため、瓶を複数の場所へ分けて保管した。


 日中に暑くなる屋根裏部屋。


 通常の倉庫。


 船倉に近い湿った部屋。


 涼しい地下室。


「涼しい地下室に置いて長持ちしただけなら、技術が効いたのか、寒さが効いたのか分からないからな」


 ここから数週間にわたる経過観察が始まった。


 七日後。


 第一群の開いた壺へ入れた肉は、見るも無惨に腐敗していた。


 強烈な悪臭。


 表面の変色。


 湧いた小虫。


 第二群の、木の蓋だけを被せた肉も同様だ。


 第三群の、密封に近い状態へしただけで加圧加熱を行わなかった瓶は、内部で発生した気体によって蓋を押し上げていた。


 ラッシュが興味深そうに手を伸ばす。


「中身を確認しなければ、何が起きたか正確には――」


「開けるな!」


 俺は鋭く制止した。


「膨らんだ密封容器は、絶対に顔の近くで開けるな。中で何が作られているか分からない」


「離れた場所で防護して開け、内容物を調べることも?」


「今は必要ない。腐敗していることは外から分かる。好奇心のために危険物を開くな」


 第三群は隔離し、容器ごと処分させた。


 第四群には、目に見える変化はない。


 しかし、それだけで安全とは判断しない。


     ◆


 三週間後。


 俺たちは、第四群の瓶を複数本選び、製造記録を確認した。


 すべてが、


* 同じ大きさの容器

* 同じ重量の中身

* 同じ肉片の寸法

* 同じ温度

* 同じ圧力

* 同じ処理時間


 を通っている。


 密封状態にも異常はない。


 瓶を開けた瞬間、


「ポンッ」


 と小さな音を立て、外の空気が中へ入った。


 腐敗臭はない。


 代わりに、牛肉と香辛料の匂いが広がる。


 ラッシュが、色、肉汁、沈殿、不自然な泡、容器の内側を確認した。


 そして鍋へ移し、十分に再加熱する。


 俺が匙へ手を伸ばすと、アーサーが止めた。


「旦那様は真祖吸血鬼です。旦那様が無事でも、人間に安全である証明にはなりません」


「……正論だな」


 俺は従業員へ試食を命じなかった。


 未来知識として定めた加熱条件を通している。


 それでも、食べる者は危険性の説明を受けた健康な成人の希望者に限る。


 少量を口にし、その後の体調を記録する。


 異常はなかった。


 だが、俺は全員へ念を押した。


「誰も倒れなかったから安全だと証明されたわけじゃない。安全性を支えるのは、定めた処理条件を一度も外さなかったという記録だ。今回確かめているのは、味と食感と、容器の状態が保たれているかどうかだ」


     ◆


 製造から六週間後。


 俺はヴァレンタイン商会の応接室へ、馴染みの肉屋、取引のある船長、海運商人、ガラス職人、錫細工職人、ラッシュ、ハンター支部の関係者を招集し、公開実演を行った。


 大きな長机へ、二つの皿を並べる。


 一つは、アビゲイルが当日の朝に作った牛肉煮込み。


 もう一つは、六週間前に瓶へ詰め、定めた工程で処理し、今日開けて再加熱した保存肉だ。


 どちらが古いものかは教えない。


 皆が匙を取り、両方の皿の肉を口へ運ぶ。


 誰も、明確な違いを見分けられなかった。


 屈強な体格の船長が、口元を拭いながら言った。


「右の方が、肉と野菜に味が馴染んでいる気はする。だが、どちらも今日か、せいぜい昨日の夜に作った料理だろう」


 俺は、ゆっくりと口を開いた。


「右の皿は、六週間前に作った」


 部屋の中が、水を打ったように静まり返った。


 船長が匙を空中で止める。


「……今、何と言った?」


「六週間前だ」


 肉屋が立ち上がった。


「そんな馬鹿な。六週間前の煮込みなら、塩漬けでもない限り、今頃は臭いだけで人が倒れるぞ!」


 俺は、


* 製造記録

* 容器番号

* 処理温度

* 処理圧力

* 処理時間

* 保管場所

* 定期点検記録


 を机へ並べた。


 偶然残った肉ではない。


 決められた工程によって保存された食品だ。


     ◆


 次に、通常の船員用塩漬け牛肉を出す。


 何度も水へ浸して塩を抜き、長時間煮こぼしたものだ。


 それでも繊維は硬く、強烈に塩辛い。


 その隣に、保存瓶から出した柔らかな牛肉煮込みを並べる。


 船長と海運商人の目の色が変わった。


「……ヴァレンタイン氏。これを、大量に船倉へ積めるのか?」


 船長が身を乗り出す。


「容器を傷つけず、製造記録が正しく、俺が定めた保存期限を守るなら」


「食べる前の調理は?」


「容器を開け、必ず鍋へ移して、十分に沸騰させてから食べる。試験販売中は、この手順を省くな」


「水へ一晩浸して、塩を抜く必要は?」


「ない」


「何度も煮こぼすために、貴重な真水を使う必要も?」


「ない」


 船長が椅子から立ち上がった。


「何箱作れる?」


 未来の知識がもたらす価値を、海に生きる男たちが一瞬で理解した瞬間だった。


     ◆


「ガラス瓶は重いし、揺れる船の上では割れる危険がある。船へ積むための本命は、こっちだ」


 俺は、第二の試作品である錫引き鉄板製の金属密封容器を机へ置いた。


 海運商人が目を丸くする。


「金属の箱へ、料理を入れたのか?」


「瓶より軽くて積み重ねやすい。ガラスのように、落としただけで砕けることもない」


 容器の上部には、小さな封止跡がある。


 ギデオンが専用の鑿を使い、上部を切り開いた。


 中から、ガラス瓶と同じ牛肉煮込みが現れる。


 嫌な金属臭もない。


 俺は錫細工職人を振り返った。


「板の継ぎ目は折り返して噛み合わせる。封止材は隙間を埋めるために使う。安く仕上げようとして、食品へ触れる内側へ鉛を出すな」


 職人は材料費に顔をしかめた。


 だが、海運商人は即座に言った。


「航海の途中で食料が腐らず、塩漬け肉ばかりで船員が衰弱するのを減らせるなら、錫の代金など安いものだ!」


 缶詰の牛肉だけで壊血病を防げるわけではない。


 それには、新鮮な野菜や果物、酸味のある保存食を別に用意する必要がある。


 しかし、食料の腐敗と、塩漬け肉だけに依存する苦痛を減らせるだけでも、その価値は計り知れない。


     ◆


 アーサーが帳面を開き、この技術の用途を読み上げた。


「長期航海の船員食。冬を越すための備蓄。遠隔地への交易品。洪水や火災後の救援物資。開拓地への補給。収穫不良時の備蓄……将来的には、製造の安定を確認した後、病人向けの柔らかい食事にも使えるでしょう」


「今すぐ患者へ使わないのですか?」


 ラッシュが不満そうに尋ねる。


「病人は実験台じゃない。健康な成人向けの製造を何度も安定させてからだ」


「……分かりました」


 アーサーが、最後の用途を読み上げる。


「そして、軍隊の携行食」


 俺は、その言葉で一瞬だけ沈黙した。


 ギデオンが俺の顔を見た。


「気づいたか」


「何に?」


「これは商人へ富をもたらす商品であると同時に、戦争の形を変える道具にもなる」


 兵士は、気力や武器だけでは進軍できない。


 食料が尽きれば、軍は崩壊する。


 腐りにくく、調理済みで、前線まで運びやすい肉。


 それは何万人もの軍隊を、これまでより遠くへ、長く進ませる可能性を持つ。


「……だからといって、この技術を隠し、船員や市民の食料を腐らせ続ける理由にはならない」


 俺は答えた。


「作ることと、誰へどれだけ売るかは別だ。使い方については、俺が責任を持って判断する」


     ◆


 公開実演が終わると同時に、参加者たちは我先にと注文を始めた。


「次の航海へ二百個頼む!」


 船長が叫ぶ。


「ロンドン航路用に五百個用意してくれ!」


 海運商人が身を乗り出す。


「うちの店で余った肉を買い取って、保存品へ加工してくれないか!」


 肉屋も続く。


「製造が安定した後は、鶏肉のスープも作ってください!」


 ラッシュまで迫ってきた。


「旦那様! 果物の砂糖煮なら、肉より低い温度でも保存できるのではありませんか?」


 アビゲイルも目を輝かせる。


「待て待て待て! まだ第一段階の試験品だから!」


 俺が制止しても、熱狂は止まらない。


 アーサーはすでに、必要な鉄板、錫、肉、香辛料、燃料、職人の数、新しい倉庫の候補を計算し始めていた。


 俺は全員の注文を、その場では受けなかった。


 ただし、完全に販売を止めることもしない。


「最初の生産数は、三百個へ限定する」


 内訳はこうだ。


 百個。


 健康な成人船員が乗る近距離航路への試験搭載。


 五十個。


 通常の倉庫での長期保存試験。


 五十個。


 高温多湿環境を想定した耐久試験。


 五十個。


 船倉の揺れと振動を再現する輸送試験。


 残る五十個。


 一定間隔で無作為に開封し、味、密封状態、容器の腐食を確認する検査用。


「最初から一万個作って、半年後に海の真ん中で全部腐ってましたじゃ済まない。成功したからこそ、規模の拡大を間違えちゃいけない」


 これは臆病だからではない。


 量産という怪物を、確実に制御するためだ。


     ◆


 俺は、商品へ添付する注意書きの内容も定めた。


 まず、容器へ刻まれた製造番号が、商会の台帳に存在すること。


 次に、その製造群が、定められた温度、圧力、時間の処理を通過していること。


 そのうえで、以下の条件が一つでもある場合は、開けずに使用を中止する。


* 容器が膨らんでいる

* 液体が漏れている

* 蓋や封止部分が浮いている

* 錆による深い腐食がある

* 穴や裂け目がある

* 開封時に液体が不自然に噴き出す

* 悪臭がある

* 不自然な泡がある

* 中身が大きく変色している


「あの、ヴァレンタイン氏」


 船長が尋ねた。


「容器が膨らんでいても、開けてみて腐った臭いがしなければ、火を通して食べてもいいのでは?」


「絶対に駄目だ」


 俺は声を低くして警告した。


「肉の密封保存に失敗すると、臭いも見た目も味も変わらないのに、人間の神経を麻痺させて殺す毒ができる場合がある」


 全員の表情が強張る。


「だから、見た目が正常だから安全だと思うな。正しい工程を通った記録があり、容器にも異常がない物だけを使う。それでも試験販売中は、開封後に必ず十分加熱する」


「少しでも怪しければ?」


「食料一個を惜しんで、人間を一人失うな。使用を中止し、容器番号を商会へ報告しろ。同じ製造群の商品を全部止める」


     ◆


 量産へ向け、石鹸工場の一角を借りて製造する案が出た。


 だが、俺は即座に却下した。


「石鹸の原料である灰、苛性液、香料、廃油脂と、人間の口へ入る食品を同じ場所で扱うなんて正気じゃない」


 俺は港の近くへ、小規模な食品専用製造所を設けることにした。


 内部は、工程ごとに分ける。


 一、生肉の受入場所。


 二、洗浄と切り分け。


 三、調理。


 四、瓶と金属容器の洗浄。


 五、重量を量って充填する場所。


 六、密封。


 七、加圧加熱。


 八、冷却。


 九、外観と記録の検査。


 十、合格品の保管。


 人の流れも一方向とする。


 生肉を扱った者が、手や服を洗わず、加熱後の容器へ触れることを禁止する。


 製造所の中を行ったり来たりし、汚れを完成品側へ持ち込むことも許さない。


 俺は新産業を、一つの料理法としてではなく、工場全体の仕組みとして設計した。


     ◆


 各容器には、小さな番号を刻印する。


 容器そのものへ記すのは、


* 製造所の印

* 製品の種類

* 製造月

* 製造群の番号

* 個別番号


 詳細は、すべて帳簿で管理する。


【牛肉煮込み・第一製造・第十二群・三十七番】


 といった具合だ。


「同じ製造群の容器から一つでも異常が出た場合、その群の製品は全部、使用を中止する」


「たった一個の異常で、同じ日に作った品をすべて止めるのですか?」


 アーサーが尋ねる。


「同じ肉、同じ釜、同じ作業、同じ時間を通ってるんだ。原因が一個だけじゃなく、その群全体にあるかもしれない。調べ終わるまで、全部止める」


     ◆


 ここから数週間は、怒濤の準備期間となった。


 職人が金属容器を作る。


 新鮮な牛肉が運び込まれる。


 作業員が肉を同じ大きさへ切り揃える。


 アビゲイルが味を調整する。


 ラッシュが手洗いと作業場所の清潔さへ目を光らせる。


 アーサーが費用と製造番号を管理する。


 釜から白い蒸気が上がる。


 担当者が温度、圧力、時間を読み上げる。


 別の者がそれを帳簿へ記す。


 冷却された容器を一つずつ検査する。


 工程記録が足りない物は、見た目が正常でも不合格。


 封止に異常がある物も不合格。


 合格した容器だけが、頑丈な木箱へ詰められた。


 木箱の側面には、大きくこう記されている。


【ヴァレンタイン式密封保存牛肉】


【製造番号を確認すること】


【膨張・漏れ・封止異常のある容器は、開封・喫食を固く禁ず】


 ついに、最初の三百個が完成した。


     ◆


 デラウェア川の港。


 近距離の試験航海へ出る商船へ、保存肉を詰めた木箱百個が慎重に積み込まれていく。


 見慣れた巨大な塩漬け肉の樽の横へ、真新しい金属容器の箱が整然と並ぶ。


 屈強な船員たちが興味深そうに取り囲んでいた。


「この小さな鉄の箱一つに、本当に一食分の肉が入ってるのか?」


 一人の船員が尋ねる。


「航海へ出てから開ければ分かる。でも、腹が減ったからって、出港前に勝手に開けるなよ」


「味見に一個くらい、くすねても分からねえだろ」


 船員が手を伸ばしかける。


 俺は笑わずに言った。


「どの船へ、何番から何番までを、何個積んだか、全部帳簿に残してある。一つでも数が合わなければ、その船への次の販売は止める」


 船員が手を引っ込めた。


「肉一箱にも、細かな番号をつけるとはな」


 ギデオンが呆れる。


「盗難防止のためじゃない。不良品が出た時に、それがいつ、どの釜で作られた物か追えるようにするためだよ」


「結果的には、盗難防止にもよく効いているようだがな」


     ◆


 船が風を受け、ゆっくりと港を離れていく。


 俺は木箱を積んだ船影を、港から見送った。


 背後では、アーサーが、すでに注文予定を書き込んだ帳簿を抱えている。


「旦那様。今回の試験航海が成功すれば、ロンドン、カリブ海諸島、ボストン、南部植民地から、到底さばききれないほどの注文が来るでしょう」


「まだ、味と容器が六週間保ったことしか確認できてないんだぜ?」


「それでも、調理済みの肉が六週間後まで食べられる状態を保ったこと自体が、この時代の常識から見れば十分に異常です」


 ギデオンが、潮風に吹かれながら海を眺める。


「船だけではない。雪に閉ざされて冬を越す町にも、遠征する開拓者にも、そして軍隊にも使える」


 俺は、少しだけ表情を曇らせた。


 未来では、密封保存食品は市民の食卓を豊かにした。


 同時に、何十万人もの兵士を遠くまで進ませ、戦線を維持する兵站も支えた。


 だが、戦争へ使われる可能性があるからといって、目の前で食料を腐らせ、船員や市民を飢えさせ続ける理由にはならない。


 誰へ売るのか。


 どれだけ売るのか。


 それは、この先、俺が責任を持って決める。


 まずは、飢えと腐敗という理不尽から、人間を少しだけ遠ざけるのだ。


「旦那様。すでに噂を聞きつけた各方面から、仮注文が千二百個分、届いております」


 アーサーの無慈悲な報告に、俺は素っ頓狂な声を上げた。


「はあ!? まだ最初の試験航海に出たばかりなのに!?」


 どうやら、俺が腐敗を止めた肉よりも先に、商会の注文書の方が爆発的な増殖を始めてしまったらしい。


最後までお付き合いいただき感謝します。


もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
缶詰の話になると缶詰が発明されて缶切りができるまで50年待たないといけなかったという話が思い浮かんでしまう。
ようやく未来知識的な物が作れるように!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。