第21話 真祖吸血鬼、ようやくフィラデルフィアへ帰る
まだ日の出前の、冷たく暗い時間。
ヴァレンタイン衛生用品商会・ボストン仮出張所の寝室で、俺は分厚い羽毛布団に深く潜り込んでいた。
兵士たちの裁判が終わってから、すでに何週間かが過ぎていた。
そして昨日、ジェフリーズ医師との果てしない医療問答にも、強引に一区切りをつけた。
今日こそは。
今日という日だけは、絶対に昼過ぎまで目を覚まさない。
そう固く決意し、心地よい眠りの淵へ沈みかけた、その瞬間だった。
ドンドンドンドンッ!
「……またかよ」
俺は布団の中で、絶望的な声を上げた。
扉の向こうから、溌剌としたジェフリーズの声が響き渡る。
「ヴァレンタイン氏! 尿の量が減少する理由について、昨日のご説明ではまだ不明な点があります!」
俺は布団を跳ね除け、寝室の扉越しに怒鳴り返した。
「その話なんだけどさ! 俺、フィラデルフィアへ帰るから!」
ピタリ、とノックの音が止まった。
数秒の、奇妙な沈黙。
やがて、ジェフリーズの少し戸惑ったような声が聞こえてきた。
「……ええと。いつ頃、ボストンへ戻られるのです?」
「違う。フィラデルフィアへ『戻る』って意味だよ。ここでの出張を終わらせて、本来の拠点へ帰還するんだ」
再び、短い沈黙。
「……では、質問を急がなければなりませんね」
ドンドンドンドンドンドンッ!
先ほどよりもさらに激しく、そして切羽詰まった速度でノックが再開された。
「そういう意味じゃないっての!」
俺は頭を抱えた。
だが結局のところ、この熱心すぎる若い医師を冷たい玄関前へ放置するわけにもいかず、渋々応接室へ通すことになった。
ジェフリーズは、俺との別れを感傷的に惜しむより先に、質問可能な残り日数を真剣な顔で計算し始めた。
「ご出発は、具体的に何日後です?」
「出張所の引き継ぎが終わったらだよ。年明けくらいには出たいかな」
「ならば、年明けまで毎朝伺います。一日も無駄にはできませんからね」
「なんで俺の予定に、お前の朝活が確定事項みたいに組み込まれてるんだよ!」
ジェフリーズの来訪を適当にあしらって帰らせた後、俺は仮出張所の応接室に、ギデオン、アーサー、そして現地の留守居役を務める商会員を集めた。
俺は机の上へ、数か月前にボストン出張を開始した際、自分が書いた目的のメモ用紙を置いた。
【当初の目的】
・ボストン税関委員会の実態調査
・フィラデルフィア側で行われる税関監査への対策
・港湾商人との取引関係構築
・衛生用品と石鹸の販路拡大
・ジョン・ハンコックとの接触
・北部植民地における長期的な連絡拠点の確保
俺は、その項目を指差しながら一つずつ確認していく。
「税関実態調査。完了。監査対策に必要な帳簿と書類形式。作成済み。ハンコックとの接点。確立。石鹸の販路。軍や市民からすでに継続注文あり。ボストン出張所の現地運用。可能」
俺はメモから顔を上げ、深い溜息をついた。
「……おい。これ、本来の仕事、全部終わってるじゃないか」
「かなり前にな」
ギデオンが冷たく即答する。
「じゃあなんで俺、何か月もこんな極寒の街に足止めを食らって帰ってないの?」
「路上の小競り合いから兵士と市民が本格的に衝突し、死傷者が発生し、旦那様がそのど真ん中へ物理的に介入し、政治的な版画が作られ、二つの巨大な裁判が始まり、ついでに好奇心旺盛な医師に捕まって長期間拘束されたからでしょう」
アーサーが、これまで起きた惨状を淀みなく並べ立てる。
「最後の一つだけ、明らかに事件の種類が違うよね!」
すると、商会の留守居役が帳簿をめくりながら淡々と報告した。
「ちなみにですが、ここ一か月のジェフリーズ医師の来訪回数が、税関関係者の来訪回数を優に超えました」
「そんな不名誉なデータは集計しなくていい!」
俺は改めて姿勢を正し、宣言した。
「とにかく、年が明けたら、俺たちはフィラデルフィアへ帰還する」
ただし、このボストン出張所を閉鎖するつもりはなかった。
「いいか。帰還と撤退は違う。俺がいなくなっても、この商会がこれまで通りに回らなければ、わざわざ拠点を作った意味がない」
俺は、現地で継続させる業務を明確に振り分けた。
石鹸と衛生用品の販売。
ハンコック商会との取引。
ジェフリーズら医師への、清潔な布、石鹸、金属容器の供給。
そして、情報収集の網だ。
税関動向の記録。
英国軍と市民の間の緊張に関する報告。
港湾労働者や船員の動向。
英国本国から届く法令と通達の写しの収集。
不審な怪異事件の報告。
そして、パトリック・カーやトマスを含む関係者からの緊急連絡の受け付け。
「俺がフィラデルフィアへ帰った後、俺本人が直接処理すべき案件は以下の通りだ」
俺は羊皮紙に条件を書き出す。
『英国政府や植民地議会に関わる重大な法令変更』
『軍の大規模移動』
『税関による一斉摘発』
『人命に関わる大規模な衝突』
『怪異や上位存在が関与する事件』
『ハンコック、サミュエル、ジョン、ジェフリーズからの重要書簡』
「これ以外のことは、すべて現地で判断して処理しろ」
俺は留守居役の肩を叩いた。
「毎日の石鹸の売上個数まで、いちいちフィラデルフィアへ送る必要はない。週単位でまとめろ。石鹸一個の返品で緊急便を出すな。英国兵が酒場で喧嘩した程度の小競り合いなら、まず現地で対応しろ。……ただし、兵営がまた市街地のど真ん中へ移されるような暴挙があれば、即座に報告だ。分かったな?」
ギデオンが腕を組み、尋ねてきた。
「また大きな事件が起きれば、お前はボストンへ戻ってくるのか」
「必要ならね」
「お前にとっての、その必要の基準とは何だ?」
俺は少し考え込んだ。
今までの自分なら、
人が死にそうだから。
歴史が変わりそうだから。
知人が危険だから。
自分が気になるから。
そんな曖昧で感情的な理由で居残っていた。
しかし、それでは永遠にどこかの土地へ縛り付けられ、一つの街から離れられなくなってしまう。
真祖吸血鬼としての無限の時間と、十三植民地全体へ合法的な寄生基盤を築くという本来の目的からも逸脱する。
そこで俺は初めて、ボストンへ再介入するための条件を明文化することにした。
【ボストン再介入条件】
一、現地代理人では到底処理できない事態。
二、複数人の生命が、差し迫って危険な状態にある。
三、十三植民地全体へ波及するような、重大な政治的事件。
四、俺の過去の介入が、直接の原因となって発生した問題。
五、怪異や超常的な上位存在が関わっている。
「……一人だけが危険な場合はどうするのだ?」
ギデオンの鋭い問いに、俺の思考が止まった。
三月五日の夜。
雪の上に倒れていたパトリック・カーの姿が、脳裏をよぎる。
「……その時は、俺がその一人の顔を知っているかどうかで、判断が揺れると思う」
「それでは、規則になっていないな」
「分かってるよ。でも、命の重さの全部を、完全に冷たい数字や規則にはできないんだ。そこは残させてくれ」
俺は、自分自身の甘さを認めつつも、運用保守の規則を定めた。
数日後。
俺はジョン・ハンコックの商館を訪れ、帰還の報告をした。
ハンコックは、俺の言葉を聞いても特に驚いた様子を見せなかった。
「ようやく帰る気になったのか」
「冷たいな。もうちょっと惜しんでくれてもよくないか?」
「当初の出張予定期間を、どれほど超過していると思っているのだ」
「俺だって、好きで延長したわけじゃないんだよ!」
「そうか?」
ハンコックは優雅に紅茶を口へ運びながら、意地悪く微笑んだ。
「ボストンへ来て、税関の監査対策と商売の話だけをして帰るはずだった外国の商人が、気づけば凄惨な流血事件の負傷者を助け回り、歴史的な裁判を最前列で傍聴し、地元の医師に高度な医術を教えている。……私から見れば、随分と好き勝手にこの街を動き回っているように見えたがね」
「外から見ると、俺って最悪なくらい出しゃばりだな……」
俺は、出張所は閉鎖せず、彼との取引も継続することを説明した。
定期船で商品を送ること。
支払いと受け取りは月単位で精算すること。
税関の異常な検査や押収があれば、すぐに報告すること。
俺の商会名を利用した偽物が出た場合は、現地で対処すること。
「お前がいない間に、このボストンの商人たちが、お前の商会の利益を好き勝手に食い物にしないという保証はどこにある?」
ハンコックが、からかうように言う。
「その抜け駆けの筆頭がお前だろうが!」
俺が即座に突っ込むと、彼は愉快そうに笑った。
会話の最後、ハンコックは少しだけ真面目な顔になった。
「最初にこの商館で会った時、お前は税関の監査を何よりも恐れる、妙に几帳面で臆病な商人だった」
「今でも監査は死ぬほど怖いけど」
「だが今は……このボストンの人間の誰よりも、あの夜の銃撃と裁判について、多くの重い記録を抱えて帰ろうとしているように見える」
「俺だって、わざわざ重い荷物を持って帰りたいわけじゃないさ」
「だが、捨てる気もないのだろう?」
俺は答えなかった。
ハンコックは机の下から小さな木箱を取り出し、俺へ差し出した。
中には、事件の当初に街で配られた反英派の過激なビラ。
王党派側が出した反論文の写し。
ポール・リヴィアの、あの四人しか描かれていない版画。
裁判の評決後に出回った各紙の新聞。
プレストン大尉の無罪を痛烈に批判する文書。
兵士裁判の判決を、法的な勝利として評価する文書。
一つの事件について、互いに完全に矛盾し、衝突し合う複数の物語が、乱雑にまとめられた箱だった。
「お前は、一枚の綺麗な絵だけを信用したりはしないのだろう?」
「だから、全部の資料を持っていけって?」
「片方の一枚だけを持って帰って分かった気になるよりは、両方持って帰る方がはるかにましだ」
俺は、その木箱をしっかりと受け取った。
これは、フィラデルフィアへ持ち帰る、壊し合える物語の箱になるはずだ。
次に、俺はサミュエル・アダムズのもとを訪ねた。
彼もまた、俺がフィラデルフィアへ戻ることを引き止めはしなかった。
「どうぞ、お気をつけてお戻りください」
「即答だな。もうちょっと引き止める素振りとかないの?」
「ボストンだけが、十三植民地ではありませんからね」
サミュエルは、俺がフィラデルフィアや他の植民地へ戻ることで、このボストンで何が起きたのかを伝える役割を期待していた。
英軍の不当な駐留の危険性。
市民と軍が同じ街で暮らすことの絶え間ない緊張。
裁判を成立させたことの法的な意味。
「……それ、俺を反英派の便利な宣伝役にしようとしてないか?」
俺が警戒して尋ねると、彼は静かに首を振った。
「事実をお伝えください。それだけで十分です」
「でもさ、その事実をどの順番で並べるかによって、まったく別の物語が完成するってこと、俺はもう、あんたのやり方を見て知ってるんだけど」
サミュエルは、少しだけ口角を上げた。
「ならば、あなた自身が見た順序で語ればよいのです」
「俺が、間違った見方をしていたらどうする?」
「訂正する者がいる場所で、語りなさい」
先日の法廷でジョン・アダムズが示した、物語を作らないのではなく、壊され得る場所へ置くという考えが、サミュエルの口からも奇妙な形で反復された。
サミュエルは続けた。
「来春、あの凄惨な事件から一年を迎えた時、犠牲者を決して忘れないための演説会を開くつもりです」
「演説会?」
「ええ。事件を、一時の怒りや新聞記事だけで終わらせないために」
「毎年やるのか?」
「必要であれば」
「裁判も終わって、法的な決着はついたのに?」
「裁判が終わったことと、あの夜の流血を忘れてよいことは、同じではありません」
「誰が演説するんだ?」
「ジェームズ・ラヴェルへ依頼するつもりです。彼ならば、事件を忘れさせないための言葉を、ボストンの人々へ届けられるでしょう」
彼の中で、事件はすでに追悼の儀式という記念行事へ変わりつつあった。
「その頃、あなたがフィラデルフィアにいても、演説の記録を印刷したものは必ず送ります」
「いや、送らなくてもいいよ」
「必ず送ります」
ジェフリーズからの医療質問状だけでなく、サミュエルからも定期的に重い政治文書の束が送られてくることが確定した瞬間だった。
「……ボストンから届く郵便物、絶対にめちゃくちゃ重くなるな」
サミュエルは、最後に一つだけ俺へ頼み事をした。
「フィラデルフィアで、ボストンの兵士裁判について尋ねられたなら、六人が無罪となり、二人が故殺となったことを、絶対に隠さないでください」
「……反英派にとって、都合が悪くても?」
少し意外な言葉だった。
「ええ。四人が死んだことも、兵士たちが激しい攻撃を受けたことも、大尉への命令が証明されなかったことも、二人が有罪になったことも、すべてです」
「一つの、綺麗な虐殺の物語にしないのか?」
「私は、人々を動かすための強い物語を作ります。ですが……あなたにまで、私と同じ役割を求めるつもりはありません」
俺とサミュエルは、最後まで完全に理解し合うことはなかった。
しかし彼もまた、俺が自分とは違う記録者として必要であることを認識していたのだ。
俺はジョン・アダムズの事務所を訪ねた。
彼は裁判後の膨大な書類整理に追われており、机の上は証言記録の山で埋め尽くされていた。
「フィラデルフィアへ帰ることにしたよ」
「そうですか」
「……反応薄くないか?」
「あなたの本来の拠点は、最初からフィラデルフィアだったのでしょう。いつかは帰るものと思っていました」
「引き止めたりしないの?」
「なぜ私が?」
「少しくらい寂しがれよ!」
「あなたがいなくても、法廷は続きますよ」
俺は一瞬、言葉を止めた。
「……うん。そうであってほしい」
それが、俺とジョンの関係に最もふさわしい別れだった。
俺のような真祖吸血鬼の超常的な力や、未来の知識がなければ成立しない法廷では意味がない。
制度というものは、特別な超越者が常駐しなくても、自立して動かなければならないのだ。
ジョンは机の上の書類の束から、二つの裁判の記録をまとめた分厚い写しを俺へ渡した。
「全部?」
「すべてではありません。現存する証言、弁論の要旨、評決、そして私自身の整理をまとめたものです」
「これを俺にくれるの?」
「あなたは、記録を残すことの危険と必要性の両方を理解している」
「それ、褒めてる?」
「半分は警戒です」
「残り半分は?」
「フィラデルフィアで、この事件を単純な虐殺か、単純な自衛のどちらか一極に染めようとする者が現れた時、それに反論するための材料を持つ者が、そこにも必要なのです」
俺は、その重い記録の束を受け取った。
友情の記念品ではない。
これは俺が今後、判断に迷った時に読み返すための、手続きの記録なのだ。
「フィラデルフィアでも、分からないことを分かったことにしないでください」
ジョンからの最後の言葉だった。
「それ、別れの言葉?」
「忠告です」
「もっとこう、世話になったとか、また会おうとか、そういう温かい言葉はないの?」
「あなたは私の家族を警護し、そして何より、裁判の手続きを力ずくで邪魔しなかった。それには感謝しています」
「邪魔しなかったことが、感謝の対象になるのかよ」
「あなたほどの力を持つ者が、未来の答えを知っているつもりになって、法廷へ無用な介入をしなかった。それは極めて重要なことです」
ジョンから見れば、俺の最大の功績は、吸血鬼としての力で判決を強引に捻じ曲げなかったことだったらしい。
「またお会いするでしょう」
ジョンが最後に言った。
「どうして分かるんだよ」
「あなたは、問題がある場所へ自分から近づいていく性分ですからね」
「否定できないのが本気で腹立つな!」
ジョンだけでなく、アビゲイルにも別れの挨拶をした。
彼女は、裁判中に家族の安全へ配慮したことへ、丁寧に礼を言ってくれた。
「夫の仕事を守ってくださったことではなく、子供たちをこの騒動へ巻き込ませなかったことに、深く感謝します」
「ジョン本人より、アビゲイルさんの方が何倍も素直で優しいな」
「私は十分に感謝を伝えましたよ」
ジョンが横から口を挟む。
「全然足りないっての!」
アビゲイルは、小さな布の包みを俺に手渡してくれた。
中には、日持ちのする手作りの焼き菓子が入っていた。
吸血鬼の俺にとって、人間の食べ物は必須ではない。
だが、俺は断らずに受け取った。
「旅の途中で、ギデオンさんたちと一緒に召し上がってくださいね」
ギデオンが、珍しく深々と丁寧に頭を下げて礼を言った。
「俺の分は?」
俺が聞く。
「あなたも召し上がれるのでしょう?」
「味は分かるよ!」
重い裁判を終えたジョンの家庭に、一度だけ穏やかな日常の空気が戻った瞬間だった。
ジェフリーズへの引き継ぎは、最も難航した。
俺が用意した書簡規則を突きつける。
「いいか。通常報告は月に一度だ。記録した患者数、瀉血を行った人数と行わなかった人数の比較、大量出血患者の経過、傷の腐敗の有無、死亡例。それから、手洗いと器具洗浄を行った場合の変化だ」
「緊急報告の場合は?」
「同じ処置をしたのに複数人が急死した時。不明な症状が集団発生した時。俺が教えた薬を適当に真似た危険な偽薬が出回った時。……そして、お前本人が未知の危険な処置を、許可なく人間へ試そうとしている時だ」
「最後の項目は何です?」
「好奇心旺盛なお前を監視するためだよ!」
「私は医師です。安全は第一に考えています」
「気球で海を渡る予定の医師だろ!」
「気球?」
「何でもない!」
「では、今後の医学的な質問は書簡で送ります」
「一通にまとめろよ!」
「一つの封筒へ、まったく別の複数の医学的問題を混在させるのは、情報の整理として望ましくありません」
「じゃあ一週間に一通だ!」
「問題が発生した時だけ送ります」
「お前の場合、毎日新しい問題を見つけるだろ!」
最終的に、通常質問は月一回にまとめること。
緊急の患者の件のみ即時対応すること。
俺が回答しない項目を、翌月もう一度しつこく聞かないこと。
そして、真祖吸血鬼の身体構造について質問しないこと。
以上の条件で妥協した。
「最後の規則だけは同意できません」
「同意しなくても禁止だ!」
ジェフリーズは、まだ書き込みが始まったばかりの観察帳の写しを俺へ渡してくれた。
最初の頁には、
【著しく血を失い、脈が弱く、四肢が冷たい外傷患者への追加瀉血は、回復を妨げる可能性がある?】
という疑問が書かれている。
「まだ、比較する患者数がほとんどいないじゃないか?」
「カー氏が貴重な一例目です」
「一人だけで結論を出すなよ」
「ですから、末尾に疑問符を付けています」
俺から教わった言葉をそのまま返され、俺は何も言い返せなかった。
出発の前日。
経過観察のため商会を訪れていたパトリック・カーにも、帰還を伝えた。
「……帰るのか」
「うん」
「そうか」
「反応、それだけ?」
俺は拍子抜けして言った。
「俺に泣きついて引き止めろっていうのか?」
「そこまでは言ってないけど、一応、あんたの命の恩人が帰るんだぞ」
「命を救われたからといって、お前の信者になるつもりはないからな」
「知ってるよ!」
カーは、大袈裟で派手な感謝を口にすることはなかった。
ただ帰りがけ、背中越しに、
「世話になった」
と一言だけ言った。
俺も、それ以上の言葉を彼に求めなかった。
俺は、彼が今後困った場合の連絡先を記した紙を渡した。
傷が悪化したら、ジェフリーズへ。
生活費が尽きたら、商会出張所へ。
反英派や王党派から都合のよい証言を強要されたら、相談すること。
版画や見世物の材料にされそうなら、連絡すること。
「結局、最後まで俺を管理するつもりか」
「再発防止のための、運用保守だよ」
「人間へ使う言葉じゃないな」
「放置して、また勝手に倒れられるよりいいだろ」
カーは連絡先を受け取ったが、
「必要にならなければ、絶対に使わない」
と宣言した。
「それでいいよ」
俺は彼を、フィラデルフィアへ来るかとは誘わなかった。
救った人間を自分の管理しやすい場所へ集めることは、保護と支配の境界線を越えることだ。
カーは、このボストンで自分の人生を独立して生きるべきなのだ。
英軍の施設近くで、トマスとも会った。
彼は部隊とともに、ボストン周辺の要塞か、別の任地へ移動する準備をしていた。
「お前も帰るのか」
「フィラデルフィアへね」
トマスは、自分の右手を見つめた。
「俺は……あの夜に銃を撃たなかったことを、まだ自分の功績だと思えないんだ」
「功績じゃなくてもいいさ」
「お前が銃身を叩き落として止めなければ、俺は間違いなく引き金を引いていた」
「でも、撃ってない」
「その、撃っていたかもしれない可能性を忘れろと?」
「逆だよ。一生覚えておけばいい。でも、その可能性を起きた事実にするな」
俺は、法廷で学んだ区別を彼にそのまま伝えた。
「次に同じような極限の状況になった時、撃つ前に一度だけ考えろ」
「戦場で、そんな悠長な暇があるか」
「ないかもしれない。でも、一度、物理的にでも止まれたことがある人間は、次も止まれる可能性があるんだ」
トマスは何も答えなかった。
俺も、彼に明確な答えは与えなかった。
それは今後、彼が自力で選ぶ課題として残した。
港湾地区で働くイライジャのもとへも行った。
「わざわざ別れを言いに来たのか」
「一応ね」
「俺はお前の友人じゃないぞ」
「知ってるよ。ただ、これだけは言っておく。赤服全員を、一つの赤い塊へ戻すなよ」
イライジャは顔をしかめた。
「俺が何を憎むかまで、お前に決められたくない」
「決めないさ。ただ、撃ってない奴まで撃ったことにするなって、お前自身が言ったんだろ」
イライジャは黙り込んだ。
和解も友情もない。
だが、裁判の過程で彼が得た区別の視点は、確かに残っていた。
「フィラデルフィアでも、赤服と取引するのか?」
イライジャが背中から尋ねる。
「必要ならね」
「反英派ともか?」
「必要なら」
「結局、どっちの味方なんだよ」
「どっちか一つだけにならないために、両方と話してるんだ」
イライジャは鼻を鳴らした。
「そんな立場、いつまで続けられると思ってる」
「思ってないよ」
俺は即答した。
「続けられなくなる日までは、続けるだけだ」
冬の朝。
馬車と荷車が、商会出張所の前に並んだ。
空は曇り、石畳には薄く霜が降りている。
大勢の華々しい見送りはない。
商会員。
ジェフリーズ。
カー。
ハンコックの使い。
数人の知人だけだ。
ジョンやサミュエルとは、すでに別れを済ませている。
ジェフリーズが最後に、分厚い封筒を渡してきた。
「道中で読んでください」
「医学の質問?」
「三十一問あります」
「多すぎるだろ!」
カーが横から口を挟む。
「帰るまでに全部答えれば、馬車の中で暇を持て余さずに済むな」
「お前までジェフリーズ側につくなよ!」
ジェフリーズは真剣な表情で俺を見た。
「ヴァレンタイン氏」
「何?」
「あなたの言葉を、そのまま真理として扱わないことを約束します」
俺は少しだけ驚いた。
「記録し、比較し、誤りであると分かれば否定します」
「うん。それでいい」
「ですが、正しいと確認できた場合は、広く公表します」
「俺の名前は出すなよ」
「そこは引き続き検討します」
「約束しただろ!」
最後まで、好奇心と行動力に満ちた医師だった。
馬車へ乗る直前、カーが俺へ近づいた。
「俺は、お前に救われたことを忘れない」
珍しく素直な言葉に、俺は少し驚いた。
しかしカーは続ける。
「だが、それでお前が何をしても正しいと思うつもりはない」
「急にカーらしくなったな」
「それでいいんだろ?」
俺は笑った。
「うん。それがいい」
俺が欲しいのは信者ではない。
必要なら、俺の介入を批判できる生存者だった。
馬車が動き出す。
俺は窓から、冬のボストンの街並みを振り返った。
税関。
港。
商会出張所。
事件が起きたキング・ストリート。
裁判所。
リヴィアの版画が貼られた、レンガの壁。
どこも、俺が最初に来た時と同じように見える。
だが、死者が一人減った。
生存者が一人増えた。
トマスの銃から、弾が出なかった。
起訴状が一件減った。
医師の帳面に、疑問符が増えた。
目に見えない確かな違いが、この街には残っている。
「……街は、何も変わってないように見えるな」
「お前が変えたものは、目に見える石畳ではないからな」
ギデオンの言葉に、俺は静かに頷いた。
帰路の馬車の中で、俺はジェフリーズから渡された三十一問の一覧を開いた。
一問目。
【大量出血した患者の尿量が減少する理由について】
二問目。
【血液が身体の各部へ運ばれる具体的な仕組みについて】
三問目。
【傷の腐敗と全身の発熱の関係について】
「これ、フィラデルフィアへ着くまでに絶対に終わらないよ!」
「暇つぶしになってよかったな」
俺は文句を言いながらも、一問目への回答をペンで書き始めた。
ボストンとの関係が、物理的な移動によって切れたわけではない証拠だった。
数日間の過酷な旅の終盤。
ついに、フィラデルフィアの街並みが見えてきた。
俺にとっての、本来の商会と生活の拠点だ。
「帰ってきた……」
俺は座席へ深く背中を預け、安堵の息を吐いた。
「今度こそ、しばらく政治も裁判も大事件もなしだ。普通に石鹸を売って、帳簿を整理して、平和な吸血鬼として暮らすんだ」
「本当にそうなると思うか」
「思わせてくれよ!」
商会本店の前へ到着すると、留守を預けていた番頭や従業員たちが、一斉に出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ヴァレンタイン様!」
「ただいま! 留守中、大きな問題はなかった?」
俺が笑顔で尋ねると、従業員たち全員が、一瞬だけピタリと沈黙した。
俺の笑顔が引き攣る。
「……なんでそこで黙るの?」
留守居役が一歩前へ出て、咳払いをした。
「大きな問題は、ございません」
「その言い方が一番信用できないやつだ!」
応接室へ入ると、俺の机の上には、絶望的な量の書類が塔のように積まれていた。
税関監査への追加回答書。
石鹸の粗悪な模倣品への対応。
新規取引の申請書。
ドイツ系移民商人からの販路要請。
港湾倉庫の賃貸問題。
原料価格の変動報告。
教会関係者からの面会依頼。
西部交易商からの相談。
ハンター支部からの不審事例報告。
留守中に保留されていた各種契約書。
そして、膨大なボストン出張費の精算書。
さらに、番頭が別の重そうな箱を運んできた。
「こちらは、至急ご判断いただきたい案件の束です」
「……全部?」
「すべてです」
俺は天井を仰いだ。
「……やっぱり、ボストンへ戻ろうかな」
「馬車は、まだ荷を解き終えておりません。すぐに手配しましょうか」
アーサーが真顔で言う。
「冗談だから! 本当に戻す準備をするな!」
ボストンでは、歴史と裁判に追われた。
フィラデルフィアでは、通常業務の滞留に追われる。
だが、この忙しさは、今すぐ人が死ぬかもしれないという緊急事態ではない。
俺は山積みの書類を見て、むしろ少しだけ安心していた。
「……ただの商売上の問題なんだよな」
「現時点では、な」
ギデオンが余計な一言を添える。
「最後に不穏な言葉を足すな!」
俺は、ボストンから持ち帰った重要資料だけを自室へ運ばせた。
机の左には、商業資料。
机の右には、事件と裁判の記録。
棚には、ジェフリーズの医療記録の写し。
そして最も頑丈な金庫の中へ、四人しか描かれていない版画と、カーの生存を示す記録、トマスが発砲しなかったことの私的なメモをしまった。
フィラデルフィアへ戻った最初の夜。
俺は、ボストン出張の総括をノートへ書き込んだ。
【一七七〇年・ボストン出張終了報告】
【当初の目的】
・ボストン税関委員会の実態調査
・フィラデルフィア側での監査対策
・石鹸販路の構築
・ジョン・ハンコックとの接触
・北部植民地における商業拠点の確保
【達成状況】
税関実務記録、確保。
監査対策資料、作成済み。
ハンコックとの取引関係、確立。
ボストン出張所、継続運用可能。
衛生用品販路、確立。
現地報告経路、整備。
【結論:当初目的、達成】
だが、予定外に発生した案件の方が、圧倒的に多かった。
【予定外に発生した案件】
英軍と市民の衝突。
死者四人。
負傷者多数。
パトリック・カー救命。
トマスの発砲阻止。
リヴィア版画の変化。
プレストン裁判。
兵士八人の裁判。
六人無罪。
二人故殺。
焼印二件。
ジェフリーズ医師への医療問答。
俺は筆を止めた。
「予定外の方が多いな……」
さらに書き続ける。
【ボストンへ残したもの】
商会出張所。
ハンコックとの連絡経路。
サミュエルからの政治情報。
ジョンとの法的相談経路。
ジェフリーズの観察帳。
カーという生存者。
撃たなかったトマス。
撃った者と撃たなかった者を分け始めたイライジャ。
事件を記憶し続ける街。
【フィラデルフィアへ持ち帰ったもの】
税関情報。
商業契約。
裁判記録。
互いに矛盾する政治文書。
四人しか描かれていない版画。
一人の生存によって変化した起訴状。
人間の証言は信用できるが、無条件には信頼できないという教訓。
答えより、確かめる手順を残す方が長く影響するという教訓。
最後に大きく書く。
【結論:出張は終了した】
その下へ追記。
【ただし、ボストンとの接続は終了していない】
さらに小さく。
【今後、長期出張には開始条件と終了条件を厳格に設定する】
「守れるのか」
ギデオンが背後から覗き込む。
「次からは守るよ」
「信用できないな」
「俺も少しそう思う!」
深夜。
俺は机へ広げた十三植民地の地図を見た。
ボストン。
フィラデルフィア。
ニューヨーク。
ロードアイランド。
ヴァージニア。
カロライナ。
まだ深く関わっていない地域が、山のようにある。
ボストン一つで、これほどの未処理案件が出たのだ。
十三すべてを管理するなど、想像しただけで胃が痛くなる。
「一つの街で、こんなに問題が起きるのか」
「十三あるのだろう?」
「数えるな。胃が痛くなる」
「吸血鬼にも胃痛があるのか」
「精神的なやつ!」
翌朝。
俺は久しぶりに、フィラデルフィア本店の自分の机へ座った。
目の前には、留守中に溜まった通常業務の書類。
横には、ボストンから持ち帰った裁判記録。
さらに、ジェフリーズの三十一問の医学質問。
俺はまず、一番上の商業書類を手にした。
【石鹸模倣品に関する苦情】
「よし。今日は人が死なない問題から片づけよう」
すると、アーサーが静かに別の報告書を机へ置いた。
「その次は、ハンター支部の方から届いた、不審な遺体についての報告です」
俺の手が止まる。
「……人が死んでるじゃん」
「正確には、人間かどうか確認できない遺体です」
「もっと悪い!」
ギデオンが地図を見ながら言った。
「ボストンは終わった。フィラデルフィアが始まっただけだ」
俺は机へ額を打ちつけた。
ボストンへ来た時、俺はまだ、歴史を遠くから眺める観測者のつもりだった。
だが、フィラデルフィアへ帰った今、荷台から降ろされたものは、俺が触れたために未来と形を変えた物ばかりだった。
四人しか描かれていない版画。
生きた男の証言。
撃たなかった兵士の記録。
若い医師の観察帳。
俺はもう、何も持ち帰らない観測者には戻れない。
それでも、十三植民地はボストンだけではない。
次に管理すべき未処理案件は、フィラデルフィアの机の上で、すでに山になって待っている。
俺は一番上の書類を開いた。
「……よし。まずは、偽物の石鹸からだ」
「それが終わりましたら、こちらを」
アーサーが遺体報告書を寄せる。
「せめて今日一日くらい、普通の商人をやらせてくれよ!」
裁判と医療を終えて帰還した真祖吸血鬼の新しい日常は、積み残された商会業務と、正体不明の新たな未処理案件によって、慌ただしく幕を開けたのだった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。




