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真祖吸血鬼、まだ存在しないアメリカに寄生する 〜合法的な血液供給のため、建国前から国家運用保守を始めました〜  作者: パラレル・ゲーマー


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13/20

第13話 真祖吸血鬼、占領軍にも生活費が必要だと知る

 一七六八年十一月末。


 ボストンの冷たい海風が、ヴァレンタイン衛生用品商会の仮出張所の窓をガタガタと揺らしていた。


 机の中央には、英国軍の補給部門から届いた一枚の分厚い羊皮紙が鎮座している。


 それは、ボストンに駐留する部隊への、石鹸の継続的な納入を打診する見積依頼書だった。


 単発の注文ではない。


 千人を超える兵士たちの身体洗浄から始まり、軍服の洗濯、調理器具の洗浄、さらには軍医施設での処置用など、軍という巨大な組織を維持するための莫大な需要がそこに記されていた。


「……これ、どう転んでも地獄行きが確定してる依頼書なんだけど」


 俺は両手で頭を抱え、羊皮紙を睨みつけた。


「この大口契約を受ければ、間違いなく反英派の連中から『占領軍に尻尾を振った協力者』って石を投げられる。かといって断れば、不潔を極めた兵営の中で疫病が爆発的に広がり、それが確実に街中に溢れ出す。どっちのルートを選んでも、好感度ダダ下がり確定の最悪な選択肢しかない」


 部屋の隅で短剣の刃先を研いでいたアーサーが、冷たい声で口を挟む。


「卿。我々が軍隊に石鹸を売らなかったからといって、病の責任まで問われる謂れはありません」


「病原菌ってのはね、律儀に契約書や政治的スタンスを確認してから感染先を選んでくれたりはしないんだよ。兵士たちの間で病が流行れば、非番の彼らが通う酒場や市場、洗濯女たちの手を経由して、最終的にはボストンの市民に直撃するんだ」


「お前が守りたいのは、本国の兵士か。それともボストンの市民か」


 ギデオンが、机の向かい側から静かに問いかけてきた。


「ボストンの街全体だよ。というか、俺が心血を注いで構築してる『合法で清潔な血液供給インフラ』を守るためだね」


「最後の一言で、いとも簡単に高邁な思想が崩れ去るな」


 ギデオンが呆れたように息を吐く。


 俺の基本方針は決まっている。


 これは、占領軍への協力や政治的な加担ではない。


 ボストンの市街地に突如として出現した『巨大な集団生活施設』に対する、純粋な公衆衛生対策として処理するのだ。


 だが、そんな「政治的に中立な衛生管理」という理屈が、熱狂しつつあるこの街で通用するとは、俺自身もこれっぽっちも思っていなかった。


 *


 軍の注文を受けるにあたって、一つ大きな問題があった。


 万能トランクから引き寄せた未来製の高品質な石鹸を、そのまま大量に軍へ流すわけにはいかない。


 軍の補給部門は、大口契約を結ぶ前に、生産量、原料の出所、保管場所、品質、継続的な供給能力、そして価格の妥当性を、冷徹な官僚の目で確認してくるからだ。


 ここで予想外の役に立ったのが、税関監査の目を誤魔化すために、フィラデルフィアの近郊に作った『小規模な実在工房』だった。


 最初はただのダミー施設のつもりだった。


 だが今では、実際に現地で買い付けた油脂を巨大な釜で煮込み、灰汁を混ぜ、石鹸を固めて切り分け、包装するという工程を、地元の人間を雇って本当に稼働させている。


「……ただの税関対策の偽装工房が、大口の軍需注文を受けるための本物の工場に進化しちゃってるよ」


 報告書を見ながら俺が呟くと、ギデオンが皮肉げに口角を上げた。


「嘘の帳簿を維持するために始めた事業が、いつの間にか本物の実体を持ってしまったわけだな」


「こうなると、もう偽装じゃないよね。立派な現地産業だよ」


「最初にどういう姑息な目的で作ったかを思い返せ。十分に偽装と呼べる代物だ」


 とはいえ、あの小規模な現地工房の生産量だけでは、ボストンに駐留する全兵営の需要を完全に満たすことは難しい。


 そこで俺は、契約内容を現実的な範囲へ絞り込むことにした。


 軍への納入は、現地工房で製造した洗濯用・雑用石鹸を主力とする。


 軍医施設や傷病兵の収容場所へ回す身体用石鹸についても、万能トランクから完成品を取り出すのではなく、未来の知識を使って油脂の配合や精製方法を改善し、現地の原料と設備だけで作れる比較的刺激の少ない石鹸を限定的に製造する。


 一度に大量の供給を約束せず、工房の生産能力の限界に合わせた分割納入とする。


 そして、原料の仕入れと製造の記録を、完全に帳簿へ残す。


「なるほど。軍に納入したという確固たる公式記録が残れば、我々が原料を仕入れ、製品を製造し、売り捌いているという帳尻が合わせやすくなる」


 ギデオンが、感心したように頷く。


「そう。占領軍への納入っていう事実が、皮肉なことにうちの商会の帳簿を『合法的に』分厚く補強してくれるんだよ」


「喜んでよい事態なのでしょうか、それは」


 アーサーの眉間の皺が深くなる。


「全然よくないよ。胃に穴が開きそう」


 *


 数日後、軍の補給担当将校と軍医補が、俺たちの仮出張所へと審査にやってきた。


 彼らの目は、あからさまな疑念に満ちていた。


 無理もない。


 軍の側から見れば、ヴァレンタイン商会は極めて怪しい存在だ。


 反英感情の渦巻く植民地で急速に勢力を伸ばし、港湾労働者や貧困層に無料で石鹸を配って支持を集め、あのジョン・ハンコックやフランクリンとも繋がりを持つ。


 商品の品質は異常に安定しているのに、代表者である俺の素性はやたらと曖昧なのだ。


「率直にお聞きする。ヴァレンタイン氏。あなた方はなぜ、我々王の軍隊へ商品を納入したいと考えるのですか」


 補給担当将校が、値踏みするような視線で探りを入れてきた。


「理由は単純です。兵営の衛生状態が悪化すれば、不潔な環境から広がった疫病が、あっという間に市民へ波及するからです」


「つまり、王の軍隊への忠誠心からではない、と?」


「むしろ俺の本音としては、互いに衛生的な距離感を保って、さっさと仲良く揉めずに済ませてほしいだけですよ」


「私は、あなたの政治的な立場をお聞きしているのですが」


「病原菌という存在に、政治的な立場や思想はありませんからね」


 のらりくらりとかわす俺の態度に、将校は苛立ちを隠さなかった。


 さらに軍側は、大口の継続契約を結ぶ条件として、商会帳簿の広範な確認、工房の検査、軍側の監督者の配置、そして軍への優先供給契約を求めてきた。


 怪しい商会から大量の物資を継続的に買い入れる以上、軍側が契約上の危険を減らそうとするのは当然ではある。


 だが、それをすべて受け入れれば、商会全体が軍の管理下へ置かれかねない。


 俺は笑顔のまま、認める範囲を冷静に切り分けた。


「工房の通常製造区域の見学なら、いつでも歓迎します。納入分に関係する原料の仕入れ記録、製造記録、保管記録も提出します。ですが、商会の私有帳簿すべての閲覧はお断りします。軍側の人間を商会へ常駐させることも、独占契約や軍への無条件の優先供給もお受けできません」


「我々に商品を売る一方で、反抗的な市民たちへも売り続けるおつもりか」


「当然です。兵士の身体を洗うために市民の分の石鹸を減らしたら、それこそ街の公衆衛生が崩壊して、新たな暴動の火種になりますからね」


 将校たちは顔を見合わせた。


 俺が本国への忠誠心など微塵も持ち合わせておらず、ただ狂気的なまでの『衛生管理』と『商売の論理』だけで動いていると判断したのだろう。


 完全には信用されなかったが、深刻な兵営の衛生事情もあり、契約交渉はそのまま継続されることになった。


 *


 契約前の衛生環境の確認という名目で、俺とアーサー、そして軍医補の三人は、ボストン・コモンに広がる兵営の一部へと足を踏み入れた。


 そこは、俺が想像していた「男たちだけの殺伐とした野営地」とは少し様子が違っていた。


 整然と並ぶテントの隙間には、冷たい水で軍服を洗う女性の姿があった。


 破れた衣服を必死に縫い合わせている妻。


 炊事用の大きな鍋の火の番を手伝う者。


 熱を出して寝込む兵士の額を拭う者。


 狭い片隅で、粗末な布に包まって眠る子供たち。


 そして、軍人相手に細々とした品物を売って歩く地元の行商人の姿。


 兵営は、単なる武装した暴力装置の集積地ではなく、一つの巨大で雑然とした『生活圏』として機能していたのだ。


「……家族まで、連れてきているのか」


 俺が思わず呟くと、横から声がした。


「置いてくる場所なんて、どこにもありませんでしたからね」


 振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。


 上陸直後に俺から石鹸と布を買った、あの青白い顔の若い兵士だ。


 彼は軽く敬礼し、自ら名乗った。


「第二十九連隊所属、トマス・ベルです。先日は、清潔な石鹸を譲っていただき助かりました」


 彼の視線の先では、みすぼらしい服を着た若い女性――彼の妻であるメアリーが、冷たい水と粗悪な灰汁で、兵士たちの衣服を何着も必死に洗っていた。


 その足元では、エミリーという名の幼い娘が、寒さを凌ぐように丸くなって眠っている。


 メアリーの手は、強烈なアルカリ成分のせいで赤くひび割れ、痛々しいほどに荒れ果てていた。


 俺は彼らを見て、ひどく当たり前で、しかし残酷な事実に気づかされた。


 占領軍として街を威圧している彼らにも、養うべき家族がいる。


 軍隊が移動すれば、彼らのささやかな生活も一緒に移動してくる。


 しかし、本国から支給されるわずかな給金や食糧だけで、家族全員が腹を満たして暮らしていけるわけではないのだ。


「軍人って、当然軍から給料をもらってるんだよね?」


 俺の問いに、トマスは疲れたように笑った。


「ええ。ですから、飢え死にしない程度には何とか」


 明るく振る舞おうとするその声に、余裕は一切感じられなかった。


 メアリーは他の兵士の洗濯や裁縫を請け負ってわずかな小銭を稼ぎ、トマス自身も、非番の日には市内の港へ出て、なんとか日雇いの仕事を探しているのだという。


 *


 翌朝。


 俺はボストンの港で、赤い軍服の上着を脱ぎ、古い作業着姿で歩くトマスの姿を見つけた。


 彼はイングランド西部の港町出身らしく、船から重い荷物を降ろしたり、ロープの結び目を補修したり、木箱を組み立てたりといった、港特有の力仕事に慣れていた。


「休みの日くらい、少しは身体を休めたらどうだい?」


 俺が声をかけると、彼は荷物を縛る縄を弄りながら答えた。


「休んでいるだけで、妻と娘の食べるパンが勝手に増えるなら、喜んでそうしますよ」


 その時、波止場の近くにある倉庫の主人が、大きな声で荷役作業員を数名募集し始めた。


 その声を聞きつけ、地元の労働者たちがわらわらと集まってくる。


 その集団の先頭にいたのは、イライジャ・ホルトという名の、ボストン生まれの筋骨隆々とした日雇い労働者だった。


 彼には特定の雇用主がおらず、毎朝こうして埠頭や倉庫の前に立ち、その日の仕事を探しては妻と二人の子供を養っているのだ。


 トマスたち非番の英国兵も、その募集の輪に加わった。


 倉庫の主人は、集まった男たちの顔ぶれを見回し、そして――地元労働者よりもはるかに安い日当を提示したトマスたち兵士を、迷わず選んだ。


「おい、ちょっと待てよ!」


 イライジャが血相を変えて前に進み出た。


「俺たちは昨日からずっと、その荷下ろしの仕事を待ってたんだぞ!」


 だが、倉庫の主人は冷たく言い放った。


「同じ仕事をより安く、確実にやってくれる者を雇って、一体何が悪い」


「ふざけるな! そいつらは俺たちの血税で飯を食ってる王の軍隊だろうが! 寝床も飯も王様からただで貰っておきながら、さらに俺たちから安い金で仕事を奪うっていうのか!」


 イライジャの怒鳴り声に、トマスの表情が硬くなった。


「俺の妻と娘は、王様の財布から直接パンを与えられているわけじゃない。生きるために働いているんだ」


「知るか! お前ら赤服がこの街に来る前は、俺がその仕事で家族を養ってたんだよ!」


 互いの拳が固く握られ、今にも殴り合いが始まりそうな一触即発の空気になった。


 だが、倉庫の主人が兵士たちだけを素早く倉庫の中へ入れ、重い木製の門をぴしゃりと閉ざしてしまった。


 イライジャは閉ざされた門を力任せに蹴り上げ、怒りの呪詛を吐き捨てて帰っていった。


 トマスは仕事を得た。


 だが、決して勝者の顔はしていなかった。


 門の向こうで重い木箱を担ぎ上げながら、彼は自分が仕事を奪った相手の背中を、苦しげな目で見つめていた。


 *


 俺はギデオンの情報網を使い、仕事にあぶれたイライジャの生活の様子を調べさせた。


 彼は決して、熱狂的な革命思想に染まった政治運動家ではない。


 酒場で反英の演説をぶつわけでも、息子たちに小難しい権利の主張を教え込んでいるわけでもない。


 ただ毎朝仕事を探し、働けた日の日当でその日の食料を買う、ごく普通の労働者だ。


 その日の夕方。


 薄暗い路地裏の長屋に、イライジャは手ぶらで帰宅した。


 妻のルースは、何も言わずに暖炉の火をかき混ぜ、鍋の底に残った塩気ばかりが強い薄いスープを、家族四人の器に均等に取り分けた。


 小さな子供が、空っぽの器を見つめながら「パンはないの?」とせがむ。


「……明日は、きっと仕事があるわよね?」


 ルースが不安げに尋ねると、イライジャはテーブルを強く叩いた。


「赤服の連中が、俺たちの仕事を全部持っていかなければな」


 彼にとって、英国軍への激しい憎悪は、議会主権だの、海事裁判所の不当性だの、代表なき課税だのといった抽象的な議論から生まれたものではなかった。


 赤服がこの街に来たせいで、家にパンを持ち帰れなくなった。


 たったそれだけの、しかし絶対に妥協できない『生活の実感』によって、彼は軍隊を憎むようになったのだ。


 俺は遠くの屋根の上から、その寒々しい食卓を見下ろしていた。


「……どちらが正しいと思う」


 横に立つギデオンが、静かに問うた。


「そんな意地の悪いこと聞かないでよ」


「兵士は、家族を食わせるために労働力を安く売った。地元の労働者は、その仕事がなければ家族を食わせられない。どちらの理屈も間違ってはいない」


「どっちも正しいさ。でも、目の前にある『今日の仕事』は一つしかないんだよ」


「ならば、正しさの議論ではこの問題は絶対に解決せんということだ」


 ギデオンの言葉は冷徹だった。


 対比するように、トマスの家庭の様子も俺たちの耳に入ってきた。


 トマスは一日中重い荷物を運び、その安い賃金でパンとわずかな肉を買い、メアリーとエミリーの待つ兵営の片隅へと帰っていった。


「今日は仕事があったのですね」


 メアリーが安堵の息をつく。


「ああ。地元の男たちには、殺してやりたいって顔で睨まれたがな」


 トマスが自嘲気味に言うと、メアリーは彼の荒れた手を優しく包み込んだ。


「あなたが泥に塗れて働いてくれなければ、この子が明日食べるものがありません」


 二つの家庭に、決定的な違いなど何一つない。


 疲弊しきった父親。


 少しでも家計をやり繰りしようとする妻。


 そして、ただ無邪気に食事を待つ子供。


 同じ一個のパンがトマスの家族の胃に収まれば、イライジャの家族の胃は空っぽになる。


 ただそれだけの物理的な事実が、そこにあった。


 俺は手元のノートに、感情を殺して書き込んだ。


『問題は、兵士が暴虐な怪物だからではない。彼らが普通の人間であり、ごく普通に生活費を必要としているからこそ、互いの生存権が衝突しているのだ』


 *


 俺は、兵士を安く雇ったあの倉庫の主人にも話を聞きに行った。


 彼は批判されることなど意に介さず、商売人としての合理性を悪びれずに語った。


「重い荷物を右から左へ運ぶだけの仕事に、高尚な政治思想が必要だとでも言うのかね?」


「でも、地元の労働者を差し置いて赤服ばかり雇ってたら、街の連中から反感を買って商売しにくくなるよ」


「反感や愛国心で、うちの帳簿の赤字が消えるのか?」


 倉庫の主人は鼻で笑った。


 彼からすれば、兵士たちは最高の労働力だ。


 軍隊の厳しい規律があるから時間を守るし、体力も十分にある。


 何より、地元労働者よりも圧倒的に安い賃金で喜んで働くのだ。


 商人からすれば、彼らを使わない理由は一つもなかった。


「俺だって、本国が押し付けてきた理不尽な税関は心底嫌いだ。だがな、より安く文句も言わずに働く者が目の前の門に立っているのに、わざわざ高い日当を払えというのか? それは商売人に対する背信行為だ」


「本国嫌いの反英派のくせに、赤服の安い労働力は平気で利用するんだな」


「政治の信念と、日々の商売の計算は別物だ」


 ジョン・ハンコックとは全く別の方向で、政治的信念と経済的利益が見事に矛盾している男だった。


 彼は兵士を嫌いながら兵士を利用し、地元労働者からは「裏切り者」と陰口を叩かれている。


 だが本人は、自分はただ自らの商売と生活を守っただけだと信じて疑っていなかった。


 仮出張所に戻った俺は、ボストンの地図の上に、最近の労働市場の状況を可視化していった。


 船員。


 港湾労働者。


 ロープ製造所の職人。


 靴修理。


 木工職人。


 荷車引き。


 薪運び。


 洗濯女。


 裁縫。


 酒場の雑役。


 赤い印が、兵士やその家族が非番の日に働き始めた場所。


 黒い印が、地元の労働者から「仕事を奪われた」と苦情が出ている場所。


 見事なまでに、赤と黒の印が地図の至る所で重なり合っていた。


「……兵士たちは、確かにこの街に新しい需要も作ってるんだよ。彼らが飲む酒、食うパン、直す服。でも、その消費のための金を得るために、今度は市民の仕事の領域にずかずかと入り込んでくる」


「兵士がただの消費者として金を落としている間は歓迎し、彼らが労働者となって仕事の椅子を奪い始めた瞬間に、激しく憎悪するわけか」


 ギデオンが嘆息する。


「人間って、自分の中にある『消費者としての利益』と『労働者としての立場』を、そんなに綺麗に分離して考えられないからね」


「軍隊が、兵士とその家族の生活費のすべてを完全に保証してやれば、彼らも休日に働かずに済むのではないですか?」


 アーサーの素朴な疑問に、俺は首を振った。


「じゃあ、その莫大な生活費の財源を誰が払うんだ? 本国が払えばイギリス国内の税金が増えて国民が暴れる。植民地に負担させれば『占領軍の維持費を俺たちに払わせるのか』って言って、ボストンが完全に火の海になる」


 どこへ費用を移しても、最終的には政治の爆発に行き着くのだ。


 *


 ヴァレンタイン商会が、駐留軍との間で石鹸の大口納入契約を交渉しているという噂は、あっという間にフィラデルフィアとボストンの双方に広がった。


 ジョン・ハンコックの商館の奥深く。


 重苦しい空気の中で、俺、ハンコック、そしてサミュエル・アダムズとジョン・アダムズの又従兄弟同士が顔を突き合わせていた。


 最も強硬な姿勢を示したのは、やはりサミュエルだった。


「ヴァレンタイン氏。王の軍隊へ物資を大量に提供するということは、彼らの不当な駐留を経済的に支えることに他なりません。それは植民地への明確な裏切りです」


「提供を拒否して、兵営の中で不衛生による疫病が爆発的に流行ったら、真っ先に巻き添えを食って死ぬのは街の市民ですよ?」


 俺が反論すると、サミュエルは冷ややかに言い放った。


「軍隊が不潔な環境に耐えられないというのなら、さっさとこの街から出ていけばよいだけの話です」


「彼らは病気になったからといって、大人しく船に乗って帰ってくれたりはしませんよ。確実に、病の種だけをこの街に置き土産にしていくんです」


 感情論がぶつかり合う中、ハンコックが商人としての冷徹な顔で口を開いた。


「……実際のところ、軍との契約は、あなたの商会にどれほどの利益をもたらすのですか?」


「利益率はぎりぎりまで低く設定する予定です。大口契約だから長期的な継続収入にはなりますけど、軍向けだけ不当に価格を釣り上げたら、結果的に市民から搾り取られた税金から儲けを出していることになりますからね」


「利益が少なければ、それは軍への協力ではないとでも言うつもりですか」


 サミュエルが追及の手を緩めない。


「だから、俺は最初から政治的に中立で潔白だなんて一言も言ってませんよ。どっちの選択肢を選んでも、必ず誰かから石を投げられる最悪の仕事をしてるって言ってるんです」


 ジョン・アダムズが、法的な観点から冷静に整理した。


「軍へ合法的な商品を販売すること自体は、何ら違法な行為ではありません。しかし、法的に合法であるということと、今のこの政治的状況下で賢明な選択であるかどうかは、全く別の問題です」


「法律家のくせに、こういう時は全然庇ってくれないのな!」


「法が解決できる問題の範疇を超えているからです」


 サミュエルも、俺の商売そのものを力ずくで止める権利はないことは理解していた。


 ただし、彼は厳しい条件を突きつけてきた。


「軍との契約を完全に秘密裏に行わないこと。軍へだけ物資を優先供給しないこと。そして、軍の分の補填として市民用石鹸の価格を不当に釣り上げないこと」


「全部受け入れますよ。俺の目的は最初から公衆衛生の維持ですからね」


 俺が即答すると、サミュエルは決して賛成はしなかったものの、深くため息をついた。


「……白日の下にさらされた公の過ちの方が、闇夜で行われる秘密の裏切りよりは、まだ幾分かましでしょうからね」


 *


 数日後、俺は軍の補給担当将校を呼び出し、最終的な契約条件を提示した。


「軍専用の独占契約には絶対にしません。民間向け石鹸の供給ラインを優先的に維持します。軍用は現地工房で製造した低価格の洗濯用石鹸を主力とします。納入数量と代金は、いつでも公開可能な表の帳簿に記録します。当然ですが、武器、弾薬、軍装品など、武力に関する取引は一切行いません。商会の人間は兵営の内部へ自由に立ち入らず、指定された外門で商品を引き渡します」


 ここまでは将校も渋々頷いていた。


 だが、最後の一項に目を剥いた。


「そして、運搬には必ず地元の労働者を標準的な賃金で雇います。軍の非番の兵士を、商会の運搬要員として安く使うようなことは認めません」


「待て。兵士に荷物を運ばせれば、商会側の費用も我々の負担も大幅に削減できるはずだ」


「その削減した費用の分だけ、ボストンの地元労働者が今日のパンを買うための仕事を失うことになります。俺は石鹸を売るために、これ以上街の暴動の燃料を追加したくないんです」


「たかが商人が、帝国の軍隊の雇用にまで口を出すというのですか」


 将校が威圧的に凄むが、俺は一歩も引かなかった。


「軍全体の雇用政策に口を出すつもりはありません。うちの商会が誰を雇って商品を運ぶかを決めているだけです。商会の門が怒り狂った群衆に焼き討ちされないための、最低限の危機管理ですよ」


 軍側は不満を隠さなかったが、深刻化する兵営の衛生事情に背に腹は代えられず、結局この条件を受け入れた。


 こうしてヴァレンタイン商会は、『英国軍へ石鹸を売るが、その配送作業では必ず地元の労働者を雇って金を落とす』という、とてつもなく中途半端で胃の痛くなる折衷案を実行に移すことになった。


 *


 最初の軍用石鹸の納入日。


 大量の木箱を積んだ荷車が、兵営の門へと向かっていく。


 その重い荷車を引く労働者の中には、イライジャの姿もあった。


 彼は商会から安定した運搬の仕事が得られたことには心から感謝していたが、荷物の届け先が『憎き英国軍の兵営』であることを知り、不満を隠しきれないでいた。


「……俺たちの血税で食ってる赤服どもに売る石鹸を、なんで俺たちの手で運ばなきゃならねえんだ」


「でも、その運搬の賃金で、今日は奥さんと子供に温かいパンを買って帰れるだろ」


 俺が宥めるように言うと、イライジャは顔を歪めた。


「そういう問題じゃねえんだよ」


「でも、家族のためにパンは必要だろう」


 イライジャは、それ以上反論できなかった。


 兵営の外門に到着すると、そこには荷受けの担当として、あのトマスが立っていた。


 イライジャとトマスの視線が交差する。


 互いに、数日前に倉庫の前で仕事を奪い合った相手であることをすぐに認識した。


「……今度は、俺が運んできた荷物を受け取る側に回るのかよ」


 イライジャが吐き捨てるように言う。


「軍務として配属されているだけだ」


「便利でいい身分だな。軍務でも威張って働けて、休みの日には俺たちの仕事をかすめ取れるんだからな」


 その言葉に、温厚なトマスもさすがに怒りの色を見せた。


「軍務で得たはした金だけじゃ、家族を養えないから泥に塗れてるんだろうが!」


 互いの手が拳の形に握られる。


 俺は慌てて二人の間に割って入った。


「はい、そこまで! 二人ともやめろ! 石鹸の引き渡し現場で流血騒ぎを起こして、俺の商会の評判を下げる気か!」


 二人は舌打ちをし、かろうじて殴り合いには至らなかった。


 だが、当然ながら和解もしなかった。


 分厚い憎悪の壁は、そこに残ったままだ。


 納入が開始されてから数日後。


 仮出張所の壁に、赤い塗料で汚い落書きがされた。


『王の犬を洗う裏切り商人』


『赤服の血を綺麗にする吸血鬼』


『占領軍御用達の泥棒』


 窓ガラスには泥が投げつけられ、毎朝それを掃除するのがアーサーの日課になっていた。


 一方で、軍側からも執拗な疑いの目を向けられていた。


「お前の商会は、反英派の顔色を窺いすぎだ」


「なぜ軍向けの供給をもっと優先しない」


「石鹸の納入を口実に、兵営の内部構造を調べようとしているのではないか」


「そもそも、あのハンコックと親しくしている商人を、我々が本気で信用するとでも思っているのか」


 俺は仮出張所の机に突っ伏した。


「……必死に中立を目指してバランスを取った結果、見事に両方から『裏切り者の敵』認定されたんだけど」


「中立というものは、両陣営から味方だと見なされる安全な立場のことではない。両陣営から敵だと見なされる、最も過酷で危険な立場のことを言うのだ」


 ギデオンが、冷ややかに真理を突く。


「軍との契約を破棄しますか、卿」


 アーサーが短剣を弄りながら提案してきた。


 俺は、兵営の片隅でメアリーがうちの石鹸を使って娘のエミリーの身体を優しく洗っていた光景と、市内へ帰っていくイライジャが、賃金の入った袋を大事そうに握り締めていた姿を思い出した。


「……続けるよ。誰からも気に入られなくても、この街が病気で死なないためには、絶対に必要な仕事だからさ」


 *


 季節は移り変わり、一七六九年。


 ジョン・アダムズは、毎日疲労困憊の顔で裁判所と事務所を行き来していた。


 ジョン・ハンコック個人に対する海事裁判が、いよいよ本格的に始まっていたのだ。


 王室側は、密輸に関与した罰として、ハンコックに『九千ポンド』という天文学的な罰金を要求してきた。


 しかもそれは、地元の人間が参加する陪審裁判ではなく、王室側が任命した裁判官だけで審理される『海事裁判所』という舞台で行われていた。


 俺がアダムズの事務所を訪ねると、彼の机の上は狂気的な量の書類で埋め尽くされていた。


 証言書の山。


 尋問事項の一覧。


 リバティ号の積載量の計算書。


 過去のワイン申告記録。


 税関吏の矛盾を含む報告書。


 分厚い法律書。


 そして過去数十年分の海事裁判の記録。


「……こいつ、軍隊が街に雪崩れ込んでこんなにバチバチやってるのに、普通にずっとハンコックの弁護士の仕事やってるな」


「軍隊が街へ入り、本国と植民地の対立が激化している今だからこそ、法と権利を説く法律家が必要なのです!」


 アダムズが血走った目で吼えた。


「毎朝、軍隊のやかましい太鼓の音で起こされて、その後に裁判所の鐘の音で呼び出されてるの?」


「毎朝です。私の神経は摩耗しきっています」


「歴史的事件に愛されすぎでしょ、あんた……」


 アダムズの主張は一貫していた。


 彼は決して「ハンコックは民衆の英雄だから無罪にしてやれ」などという感情論は口にしない。


 また、未来から来た俺のように「密輸なんてなかったんだ」と神の視点から断言するつもりもない。


 彼が法廷で徹底的に攻撃したのは、『陪審裁判の機会を与えず、曖昧で不完全な証言だけを根拠にして、一人の英国臣民から巨額の財産を一方的に奪おうとする制度そのものの危うさ』だった。


「政治的にどれほど憎まれている立場の人間であっても、法的な手続きの正当性は絶対に守られなければならないのです」


 彼のそのぶれない原則に、俺は改めて感心するしかなかった。


 裁判所の中では法律と証言を巡る高度な知的争いが繰り広げられていたが、一歩外に出れば、兵士と労働者による泥臭い『日雇い仕事を巡る生存競争』が日常の風景と化していた。


 冬。


 凍えるような寒さの中、兵士が非番の日に薪運びの仕事を相場より安く引き受けた。


 激怒した地元労働者たちが、兵士の荷車を路地で塞いで罵声を浴びせる。


 早春。


 軍人の妻たちが、わずかな小銭を得るために市民の洗濯仕事を引き受けた。


 地元の寡婦たちが「私たちの客を奪った泥棒猫」と非難の声を上げ、井戸端で小競り合いが起きる。


 春。


 兵士が靴修理の親方の手伝いを始めたところ、同業の親方や職人たちが「正規の徒弟修業を経ていないよそ者が仕事をするな」と店に押しかけ、兵士を追い出した。


 夏。


 非番の兵士が船の荷降ろしを安く引き受けた結果、仕事を奪われた港湾労働者と本格的な殴り合いに発展し、双方が顔を血まみれにして当局に拘束された。


 秋。


 ロープ製造所で臨時雇用を求めた数人の兵士が、地元の職人たちから汚物を投げつけられて追い返された。


『次に赤服の野郎どもが仕事を取りに来たら、全員太い棍棒を持って迎えてやる』


 そんな物騒な言葉が、労働者たちの間で公然と交わされるようになっていた。


 この時点ではまだ、歴史に残るような大規模な流血には至っていない。


 だが、後のボストン虐殺事件の直前に起きる、ロープ製造所での決定的な大乱闘へと確実に繋がっていく『真っ黒な感情のヘドロ』が、街の底にどろどろと蓄積していくのを感じた。


 俺はヴァレンタイン商会の利益を削り、地元労働者の追加雇用を少しでも増やそうと足掻いた。


 石鹸の運搬。


 原料の整理。


 木箱の組み立て。


 倉庫の清掃。


 包装作業。


 イライジャも、以前よりは定期的にうちの商会で仕事を得られるようになり、彼の家の食卓からパンが消える日は減った。


 しかし、一介の商会が雇える人数には当然限界がある。


 港には、今日一日生きるための仕事を血眼で求める労働者が、まだ山のように溢れていた。


「卿。商会の規模をもっと強引に拡大すれば、さらに多くの人間を雇用できるのでは?」


 アーサーが問うが、俺は首を振った。


「無理だ。実需がないのに雇用だけを無理やり増やしたら、商会の資金繰りが死んで潰れる。うちが潰れたら、今雇ってる連中まで全員路頭に迷うことになるんだ」


「未来の画期的な物資を大量に市場へ流して、新たな産業を作れば?」


「それをやったら、税関の監査が入って一発で俺たちが縛り首だよ!」


 ギデオンが静かに言った。


「……お前の人知を超えた異能をもってしても、この街全体の雇用と貧困を救うことはできんか」


「作れるとしてもさ……それはもう、ただの石鹸商会の仕事じゃなくて、『国家の運営』そのものなんだよ。一個の企業が背負える規模じゃない」


 俺は、今すぐ国家を作ろうと決意したわけではない。


 ただ、目の前の問題が、一商会の努力で解決できる規模を完全に超えていることだけは、嫌というほど理解してしまった。


 *


 ある冬の凍てつく朝。


 俺はたまたま通りかかった倉庫の前で、絶望的な光景を目撃してしまった。


 倉庫の主人が、日雇いの荷役作業員を「二人だけ」募集したのだ。


 そこに集まってきた数十人の候補の中に、トマスとイライジャの姿があった。


 倉庫の主人は、いつもどおり、最も安い日当を提示したトマスと、もう一人の兵士を選ぼうとした。


 その瞬間、イライジャの堪忍袋の緒が切れた。


 彼はトマスの胸倉を力任せに掴み上げた。


「ふざけるな! お前は軍から給料をもらってるだろうが! なぜ俺たちの仕事まで奪う!」


「その給料だけで娘が腹一杯食えるなら、わざわざ非番の日にこんな所まで働きに来ない!」


 トマスも負けじとイライジャの腕を掴み返す。


「俺の子供はどうなるんだ! 今日パンが買えなきゃ、あいつらは腹を空かせて泣くんだぞ!」


「そんなこと、俺に聞くな!」


 互いの拳が振り上げられ、今度こそ本気の殴り合いが始まろうとしたその時、俺は人間には見えない速度で二人の間に割り込み、その両腕を強引に弾き飛ばした。


「二人ともやめろ!!」


 俺の気迫に押され、二人は体勢を崩した。


「倉庫の主人が、商売の論理で安い方を選んだだけだ。お互いを血が出るまで殴り合ったところで、明日のボストンの仕事が一つでも増えるのか!?」


 イライジャが、血走った目で俺を睨みつけた。


「じゃあ……どうすれば俺たちの仕事は増えるんだよ! 教えてくれよ!」


 俺は、何も答えられなかった。


 未来の歴史の知識も、真祖吸血鬼としての圧倒的な力も、目の前で今日を生きるための仕事を奪い合う彼らに、今すぐ新しい仕事を生み出して与える魔法にはならない。


 結局、俺はその日の追加の倉庫整理作業をヴァレンタイン商会から発注するという名目で、イライジャにも一日分の仕事と賃金を用意した。


 イライジャは複雑な顔でそれを受け入れ、トマスも気まずそうに目を伏せたまま仕事に戻っていった。


 だが、俺自身が一番よく分かっていた。


 これは今日一日だけの、ただの応急処置にすぎない。


 明日も明後日も、同じように彼らへ仕事を与えられる保証など、どこにもないのだ。


「……金で、今日一日の流血の喧嘩は止められたな」


 背後から歩み寄ってきたギデオンが、冷たく言った。


「一日だけね」


「明日はどうする」


「……知らないよ」


 俺は銀貨の入っていた空のポケットを握り締め、目を閉じた。


 *


 一七六九年三月二十五日。


 ジョン・ハンコックに対する海事裁判が、突如としてあっけない結末を迎えた。


 王室側が明確な理由を公に示さないまま、


『国王は、これ以上この件を訴追しない』


 として、訴えの取り下げを申し立てたのだ。


 明確な有罪判決でも、完全なる無罪判決でもない。


 ただ、王室側が追及を打ち切る形での終了だった。


 だが、ハンコックと反英派はこれを『完全な政治的勝利』として大々的に喧伝した。


 反英派の新聞はこぞって、


『税関委員会の邪悪な陰謀が、法廷の光の下で完全に崩壊した!』


 と書き立てた。


 一方で、税関側は、


『訴追が終了したことは、ハンコックの密輸がなかったことを意味するものではない』


 と主張し続けた。


「……まただ。事実と、法廷で確定したことと、政治的な物語が、それぞれ完全に別の方向へ走っていった」


 俺がアダムズの事務所を訪ねると、彼は精根尽き果てた顔で、山のような書類の束の上に突っ伏していた。


「……お疲れ様。勝ったんだよね?」


「……訴追は、終わりました」


「ハンコックが密輸してなかったって、法廷で完璧に証明できたの?」


「……いいえ」


「じゃあ、税関側が完全に間違ってたって証明できた?」


「……いいえ」


「王室側が取り下げた理由は?」


「正式には、明確に示されていません」


「最後まで分からないのかよ! じゃあ、一体何に勝ったのさ」


 アダムズはゆっくりと顔を上げ、充血した目で俺を見た。


「王室側が……陪審員を置かない裁判所で、極めて曖昧な証言だけを根拠として、一人の英国臣民から九千ポンドもの巨額の財産を奪い取ろうとする試みを……阻止しました。法律家としては、それで十分な成果です」


「こいつ、やっぱり根っからの弁護士だわ……」


 ハンコックは、本国の不当な訴追を跳ね除けた『反英運動の英雄』として、さらにその名声を高めていった。


 だが、市民と兵士による日々の泥臭い雇用の奪い合いは、華々しい裁判の終了とは何の関係もなく、その後も延々とボストンの街で続いていた。


 一七六九年後半。


 駐留していた英国軍部隊の一部が、ボストンの街から離れることになった。


 しかし、街の人々の緊張が解けることはなかった。


 残った部隊、とりわけ第二十九連隊の兵士たちは、すでにボストンの市内生活の奥深くまで入り込み、複雑な利害関係の中に組み込まれてしまっていたからだ。


 兵士の数が減っても、仕事を巡る摩擦、夜間の巡回、酒場での喧嘩、侮辱の言葉の応酬は少しも消えなかった。


「奴らの数が減ったからって、俺たちが奪われた仕事の枠がそのまま戻ってくるわけじゃねえ」


 イライジャは酒場でそう吐き捨てた。


「我々の数が減ったからといって、残った者の給料が増えるわけでもない。働くしかない」


 トマスもまた、重い荷物を運びながらそう呟いていた。


 両者は、上陸した当初よりも、互いの生活や立場をよく知っている。


 相手にも愛する家族がいて、今日を生きるために必死なのだと知っている。


 それでも、仲良くはなれない。


 むしろ、『相手にも守るべき家族がいると分かっているのに、それでも自分たちの生存のために仕事を譲れない』という凄惨な事実が、互いへの憎悪をさらに苦く、煮詰まった泥のように変質させていくのだ。


 *


 夜。


 俺は一年分の労働記録と、ヴァレンタイン商会の分厚い帳簿を机に並べ、ノートを開いた。


【英国軍駐留・生活費および雇用摩擦確認メモ】


 ・兵士の現状:軍から給料は出ているが、それだけで本人と同行する家族が十分に暮らしていけるとは限らない。


 ・兵士の副業:非番の日に、荷役、木箱修理、薪運び、靴修理、ロープ関連作業などの雑役を安価で引き受ける。


 ・商人側の判断:同じ作業なら、安くて規律のある兵士を雇った方が合理的。政治と商売は別。


 ・地元労働者側の認識:俺たちの税金と軍事費で養われている占領軍が、俺たちより安い賃金で働き、俺たちの生活基盤まで奪っている。


 ・兵士側の認識:軍務以外の時間で働かなければ、妻と子供を養って生きていけない。


 ・結論:両方とも、ただ『生活のために』働いている。だからこそ、絶対に譲れない。


 ・ヴァレンタイン商会:英国軍へ、現地工房で製造した低価格石鹸の納入を開始。


 ・契約条件:軍の独占なし、民間供給優先、納入関係帳簿の公開可能化、そして運搬は地元労働者を標準賃金で雇用することを徹底。


 ・反英派からの評価:占領軍に尻尾を振る協力者。


 ・軍側からの評価:反英派に配慮しすぎる怪しい商人。


 ・商会の現状:見事なまでに両陣営から嫌われながら、兵士の泥と市民の泥の両方を石鹸で洗い流している。


 ・ジョン・ハンコック裁判:王室側が九千ポンドの莫大な罰金を要求。ジョン・アダムズが弁護。一七六九年三月、王室側が明確な理由を示さないまま訴追を取り下げ。


 ・裁判で確定しなかったこと:密輸の真実。王室側が訴追を取り下げた本当の理由。


 ・裁判で守られたこと:曖昧な証拠と陪審なしの不透明な手続きで、個人の巨額の財産を奪われないという権利。


 ・現在のボストンの火種:議会主権でも代表なき課税でもない。


 仕事。


 賃金。


 パン。


 家賃。


 妻。


 子供。


 酒。


 侮辱。


 赤い軍服。


 そして、太い棍棒。


 最後に、ページの下部に太字で大きく書き込んだ。


【結論:兵士を街に入れたら、銃を撃ち合うより先に、雇用市場が凄惨な戦場になった】


 *


 早朝。


 まだ太陽が昇りきらない、底冷えのする港。


 海風が吹き付ける倉庫の重い門の前に、今日一日の日雇い仕事を求める男たちが、肩をすぼめて列を作っていた。


 その列の中ほどには、イライジャの姿がある。


 そして少し離れた場所には、赤い上着を脱いだ非番のトマスの姿もあった。


 二人は互いの存在に気づいている。


 だが、もはや挨拶はしない。


 汚い言葉で罵り合うことすらしない。


 ただ冷たい無表情のまま、倉庫の扉が開き、今日『生存を許される者』の名前が呼ばれるのを、じっと待っている。


 イライジャの隙間風の吹く家では、妻と二人の子供が、彼が持ち帰るはずのパンを待っている。


 トマスの狭く不潔な兵営の片隅でも、妻と幼い娘が、彼が持ち帰るはずのパンを待っているのだ。


 やがて、ぎいっと音を立てて倉庫の扉が開いた。


 主人が気怠そうに顔を出し、無情な言葉を告げる。


「今日は、三人だけだ」


 その瞬間、十人以上の男たちが、血走った目で一斉に前へ出た。


 兵士。


 船員。


 港湾労働者。


 失業した職人。


 立場の違いも、政治的な信条も関係ない。


 全員が、今日を生き延びるための『同じ一日の仕事』へ向かって、必死に手を伸ばした。


 俺は、少し離れた建物の陰から、その光景を静かに見下ろしていた。


 この群衆の中に、ボストンという街を武力で征服したいと願う狂人は一人もいない。


 英国議会の絶対的な権威を証明するために、重い荷物を運びたい者もいない。


 植民地の崇高な自由を守るために、泥まみれの木箱を担ぎたい者もいない。


 全員が、ただ今日の夕食のパンを買うための金が欲しいだけだった。


 だが、残酷なことに、仕事は三人分しかない。


 倉庫の主人が一瞥し、最も安い日当を提示したトマスと、もう一人の兵士を指差した。


 選ばれなかったイライジャの拳が、白くなるほど固く握り締められるのが見えた。


 俺は、数か月後に血で染まるキング・ストリートの光景ではなく、今、目の前で確実に膨張しつつある小さな、しかし致命的な火種を見つめていた。


 戦争というものは、最初から華々しく大砲を撃ち合って始まるわけではないのだ。


 隣の男に奪われた、たった一日分の賃金と、手に入らなかった一個のパン。


 そこから始まることもある。


 遠くのロープ製造所から、縄を打ち据える重く規則的な音が響いてくる。


 まだ、誰も太い棍棒を持ってはいない。


 まだ、誰も引き金に指をかけてはいない。


 だが、ボストンという街ではすでに、兵士と市民が同じ仕事と生存権を奪い合っていた。


 そして双方が、相手のことこそ『自分たちの大切な生活を壊す侵略者だ』と、心の底から信じ始めていた。


最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
イギリス側の兵士が血も涙もない狂信者だけだったら、こんな悩みもなかったけどそうでもないという・・・。
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