閉ざされた扉
第1話 鍵の音
白百合荘は、名前のわりに真っ白ではなかった。外壁は雨染みで斑にくすみ、階段は一段ごとに傾きの角度が違う。春の雨がやむと、廊下の古いワックスがぬるりと湿りを含み、誰かの足跡が薄茶色に浮く。私はそこを避けて歩く。避けた先に別の汚れが待っているのを知りつつ、毎晩同じように。
カチャリ。
その音が初めて聞こえたのは、引っ越して三日目の夜だった。腕時計の針は一時十三分を示していた。眠りかけたまぶたを押しあげ、私は布団から体を起こす。廊下の向こう、共用の消火器ケースのあたりで金属が触れ合う小さな音。鍵の音に似ていた。だが、鍵穴に差し込むにしては軽く、取り落とすにしては固い規則があった。カチャリ。……カチャリ。二拍目がいつも半拍遅れる。誰かがためらっているときの心臓の打ち方だ。
私は扉の覗き穴を覗き、すぐにその行為を後悔した。視界が自分の部屋のドアに貼りついたまま離れなくなる。覗き穴のガラスは曇り、廊下は薄緑色の非常灯で歪んで見える。影は、いない。なのに音だけはしている。どこからともなく、そこにだけ存在している。どうせ風のいたずらだ、と自分に言い聞かせて、私は目を閉じる。焦げた匂いが鼻に沁みる。
焦げた匂いは、白百合荘に付属している。大家の牧野さんはそう笑った。「古い建物ですからねえ、配線も古いまま。でも危なくはないですよ。毎年点検してますから。……あ、そうそう、二階の突き当たりの扉だけは開けないでくださいね」初日に鍵を受け取るとき、立ち話の最後にさらっと加えられた注意。理由を尋ねる前に、牧野さんは私の手の中の鍵束を握り、一本一本の銀色の歯を親指でなぞって見せた。「一〇二、一〇三、郵便受け、ゴミ置き場。ほら、色のリングで覚えると良いですよ。赤は一〇二、青は一〇三。黄色は……忘れても大丈夫。黄色は使わないから」
「使わない?」
「使わない鍵は、だいたい忘れてもらったほうが、色々と良いんです」
その言い回しがしばらく耳に残った。色々。言葉というものは便利で、都合の悪い詳細を滑らせてくれる。引っ越しの段ボールから、カップ麺とケトルだけを取り出し、簡易テーブルで湯気を眺めると、私は少しだけ泣いた。ここで暮らすことの意味を、湯気の向こうに仮置きして保留する。
翌日、住人のグループチャットに招待された。貼ってある紙のQRコードを読み込む。「白百合荘の会」。アイコンは白い花のイラスト。参加者は九名。既読がつくのがやけに速い。最初のメッセージは、私を迎える絵文字の連なりだった。
——ようこそ。一〇二の結衣さんですね。私は一〇一の葵。子どもがいるので夜うるさいかもしれないけど、ごめんなさいね。
——二〇三の田島です。古い建物ですが、音は意外と通りにくいですよ。いいところです。
——二〇一の海斗です。大学生。夜、音楽流すときはイヤホンします。よろしく。
誰もが自分の騒音の可能性を先に謝る。防音より先に、罪悪感のマットを敷く。グループの固定メッセージには、ルールが五つ。
一、廊下に私物を出さないこと。
二、匂いの強い調理は窓を閉めて行うこと。
三、夜十時以降の洗濯機は控えること。
四、火の元に注意すること。
五、二階突き当たりの扉には近づかないこと。
五つ目は、他より太字だった。大家の牧野さんが固定したのだろう。コメント欄にスタンプが押されている。OKの手、合掌、鍵の絵文字。過剰な了解ほど、現実には守られていないことを、私は知っている。人は「守る」より「守っていると言い続ける」ほうに慣れてしまうのだ。
カチャリ。
四日目の夜も、音は同じ時間に鳴った。私は布団の中で呼吸を浅くし、数を数える。十まで数えてから起き上がると、覗き穴の向こうはやはり薄い緑の廊下だった。しかし今度は、緑の中に、黒い細い線が立っていた。線は足で、足の上には脚が、脚の上には……私は覗き穴から目を離し、耳を澄ました。嗚咽が混ざる。低く押し殺した泣き声。男のものか女のものか、年配か若いか、それすら判然としない。声は、誰でもありえ、誰でもない。
翌朝、ゴミ置き場で葵さんに会った。髪を後ろでぎゅっと結び、片手に分別表、片手に赤ちゃんを抱いている。赤ちゃんは眠っていた。眠っているのに、小さな眉間に皺がある。「夜、眠れました?」と聞かれた。「少し。鍵の音がして」
「ああ、あれ」
葵さんは、ため息の代わりに微笑んだ。「慣れますよ」
「慣れるものなんですか」
「慣れるしか、ないって言ったほうが近いかな。ここで暮らすって、そういうことだから」
彼女は、ゴミ袋の結び目を指先で確かめながら続けた。「ねえ、結衣さん。もしこの建物で困ったら、すぐチャットに書くといいですよ。みんなで考えるから」。それは優しい提案に聞こえたが、同時に、私の困りごとが「みんな」のものに変換されることの生ぬるさを想像させた。私は曖昧に頷いた。
昼、郵便受けに白い封筒が入っていた。差出人はなし。中には、黄色のリングがついた鍵が一本。メモが一枚。「出る時、返して」。字は、几帳面過ぎて、人間の癖が削ぎ落とされている。「黄色は使わない」と言われた鍵。私は指の腹でその歯先を触れる。冷たい。昼下がりの光を受けて、鍵は鈍く光り、私の顔色を硬くして映す。その鍵で、どの扉が開くのだろう。
夜、また音。カチャリ。私は意を決し、扉を開けた。チェーンはしたまま、隙間ほどの幅。廊下は相変わらず薄緑だが、昨日よりも湿っている。雨は降っていないのに、壁紙が汗をかいている。二階へ通じる階段の途中、一段目の右端に、黒い煤のような汚れがあった。伸びた指で触れようとして、やめた。触ってしまうと、何かが始まってしまう気がした。誰かの足音が上の階で止まり、再び嗚咽が混ざる。泣き声は、通り雨みたいに、私の頭をかすめて流れていく。
五日目の朝、二〇一の海斗がチャットに投稿した。「誰か、昨夜、二階の廊下に石鹸撒いた?」既読が並び、十秒ほどの沈黙のあと、葵さんが「子どもがイタズラするような時間じゃないから、うちは違うよ」と返す。「石鹸じゃない。滑って転ぶ感じが、ぬめってて。すみません、うまく言えないです」と海斗。「掃除します」と大家の牧野さんが入ってくる。文章は短く、句点で閉じられている。「二階の突き当たりの扉には、近づかないように」
チャットを閉じると、胸の奥で小さな火がぱちりと弾けた。好奇心という名の火。他人が「近づくな」と言えば言うほど、私の足はそちらへ向く。誰もが誰かを疑いはじめるとき、疑う対象の不在が、もっとも疑わしい。昨夜、私は隙間からしか廊下を見なかった。私がいないところで、住人たちは何を見ているのだろう。
その日の夕方、誰とも目を合わせないように階段を上がり、私は二階の突き当たりに立った。扉は、他の部屋のドアよりも古い。白かったはずの塗料が黄変して、指の跡のような筋が縦にいくつも走っている。ドアノブは丸い。鍵穴がある。黄色のリングが、ポケットの中で、やけに存在を主張していた。私は左手でポケットを押さえ、右手でドアノブを握る。ただ握るだけで、汗が出た。ドアノブは汗を吸い取らず、手のひらの湿りを正直に返してくる。私はノブから手を離し、深呼吸を一つ。代わりに、耳を扉に当てた。中は、空っぽの音がした。空っぽというのは、家財がない音ではなく、存在が居ない音だ。呼吸の湿り気も、埃が舞う気配もない。空っぽは、逆に形がある。
「何してるの」
背後から声がして、心臓が踊った。葵さんだった。赤ちゃんは抱いていない。買い物袋を提げている。「ごめんなさい、気になって」「気になって当然だよ。でも、やめておいたほうがいい」彼女は小さく笑い、目だけが笑っていなかった。「私達は、ここで暮らすって決めたでしょう。暮らすことって、知らないふりを上手にすることだよ」
「知りたいことを、知らないふり?」
「そう。ねえ、結衣さん。もしどうしても開けたいなら、鍵は使わないほうがいい。鍵で開けるってことは、開けていいって思ってる証拠になるから」
「じゃあ、どうやって」
「叩くの。叩いて、返事がなければ、そのまま帰る。返事があれば、それはそれで、何も聞かなかったことにする」
私は扉を見つめ、軽く拳で二度叩いた。返事は、なかった。葵さんが満足そうに頷く。「良かった」何が良かったのかは、教えてくれなかった。
夜。カチャリ。嗚咽。焦げた匂い。すべてが、夜の決まった時刻に出席する儀式のように揃う。私は耐えかねてチャットに書いた。「夜、一時十三分に、鍵の音がします。みなさん、聞こえていますか」。既読はすぐに並ぶ。最初の返事は、二〇三の田島さんだった。「私は聞こえませんでした」。続いて海斗。「聞こえなかったです」。葵さん。「私は、聞こえた。二回。二回目のほうが近かった」牧野さん。「心配をかけてすみません。明日、業者に点検させます」。点検で何が分かるの、と思った。音の主は電気でも水道でもなく、私の耳にだけ差し込まれた針ではないか。
翌日、点検の男が来た。ヘルメットをかぶり、白い手袋でスイッチを撫で、壁の中を覗き、何も見つけないことを見つけた顔をして帰っていった。牧野さんは、申し訳なさそうに私の部屋の前で頭を下げる。謝られると、こちらが悪いことをした気持ちになる。「配線は問題ないみたいです。でも、匂いは気になりますね。油の焼ける匂いに似ている。どなたか、夜中に揚げ物でも?」私が首を振ると、彼は視線を廊下の突き当たりへ滑らせた。「扉のこと、くれぐれも。……ああ、黄色の鍵のこと、気にしないでください。あれは、昔のものです」
「昔のもの?」
「誰も、もう、開けない扉のための」
夜。私は布団の中で、黄色の鍵を胸に乗せた。体温で少し温かくなった金属は、意思を持つ生き物のように肌に張りつき、「使え」と囁く。私の中で、二つの声が争っていた。私に慎重さを教えた母の声と、私に背伸びを教えた友人の声。慎重さは、私に生き延びる方法をくれた。背伸びは、私にここまで来る勇気をくれた。鍵は、どちらにも似ていない、第三の声で鳴る。カチャリ。……カチャリ。
その晩、私は夢を見た。白百合荘の廊下が、長すぎる。突き当たりの扉まで、何歩歩いても届かない。私は歩きながら、扉の下から染みてくる黒い影を見た。影は、水より重く、油より軽く、煙より濃い何か。影は私の足首に絡み、匂いを乗せて喉に上がる。焦げた匂いは、食べ物の焦げではなく、何か生き物が焼ける匂いに寸前で似さない匂い。嗚咽は、私のものだった。目が覚めたとき、枕が湿っていた。
朝、郵便受けにもうひとつ封筒が入っていた。差出人はやはりなし。中身は、紙が一枚。「夜になる前に、家具をずらしてください」。私は部屋を見回した。家具と呼べるものは、今のところ少ない。簡易テーブル、衣装ラック、カラーボックス、そして、引っ越してから動かしていない、古いクローゼット。前の住人が置いていったものだ。重くて、ひとりでは動かせないと思っていた。私は手をかけ、思いきり力を込めた。意外にも、クローゼットはわずかに動いた。床と底の間から、見たことのない細長い粉がこぼれた。灰でも埃でもなく、白くて軽い粒。指先に取ると、ぱらぱらと崩れた。塩に似ていた。塩は、誰かが撒いたものだ。何かから守るために。何かを閉じ込めるために。
クローゼットをさらにずらすと、その裏に、線が見えた。壁紙が一部分だけ四角く切り取られ、紙の継ぎ目のような線がある。指先の爪でなぞると、指にざらつきがついた。そこは、扉だった。小さな扉。壁の裏側、つまりこの部屋の中にもうひとつ、隠されるように。私は呼吸を整え、耳を当てた。何も聞こえなかった。安堵と失望が同時に湧いた。不意に、胸の上の黄色の鍵が熱を帯びた気がした。鍵をその線に当てる。もちろん鍵穴はない。滑稽な儀式。私は自分を笑いながら、次の瞬間、笑いを忘れた。
カチャリ。
鍵は、どこにも触れていないのに、音だけがして、扉の線がわずかに浮いた。誰かが、内側から指をかけたみたいに。私は飛び退くこともできず、その場に座り込んだ。耳の奥で、自分の鼓動が乱れ、嗚咽が混ざる。私は、嗚咽の主が私だけではないことに気づいた。音は、私の部屋の中と廊下の外と、二箇所で鳴っている。内と外。開けてはいけない扉は、二枚あったのだ。ひとつは誰もが見ている突き当たりの扉。もうひとつは、誰も見ていない私の部屋の壁の中。
夕方、私はグループチャットに投稿した。「部屋の中で、鍵の音がします」。すぐに返信が来た。田島さん。「気のせいでは?」海斗。「夢じゃないですか」葵さん。「すぐに部屋を出て」牧野さん。「今から行きます」。私は返信しなかった。返信している間に、もう一度音がしたからだ。
カチャリ。……カチャリ。
今度は、扉の線がもっとはっきりと浮かび、壁紙が、指の形にへこむ。壁の向こう側から、誰かが押している。私はとっさにクローゼットを押し戻した。重かった。底で塩の粒が滑る。クローゼットが半分戻ったところで、ドアベルが鳴った。私は表のドアを開ける。牧野さんが立っていた。息が上がっている。「すみません、走ってきまして。……中、見ても?」私は頷いた。彼は靴を脱ぎ、部屋に入るなり目を細めた。「塩、動かしましたか」「クローゼットが、動いて」「動かしちゃいけないものを、動かすのがいちばん早いんですよ、こういうのは」彼は嘆息し、クローゼットの横に膝をついた。「見てしまったんですね」
「何を、ですか」
牧野さんは、私を見上げた。その目は、謝罪よりも先に、諦めの色をしていた。「ここには、開けてはいけない扉がある。——それを、あなたはもう知ってしまった」
彼は壁の線を指でなぞり、耳を当てた。何も言わない。私は言葉を待ったが、彼は別の行動をした。ポケットから、小さな袋を取り出し、塩を扉の周りに撒いた。撒き方は、無駄がない。慣れた手つき。塩の輪が新しく描かれる。部屋の匂いがわずかに変わった。焦げた匂いが、息を潜めた。私の胸の上の鍵は、冷たく戻る。
「これは、何の扉なんですか」
「説明して信じてもらえるなら、私は家具屋になっていましたよ」自嘲ぎみの微笑。「昔、ここで火事があったんです。ニュースにもならない、小さな火。誰も死なずに済んだ。でも——誰も死ななかったから、残ってしまったものがある」
「残ってしまったもの?」
「匂いは、消えない。音も。嗚咽も。人が流したものは、お湯では流れない。だから、閉じ込める。扉で。塩で。時間で」
「じゃあ、突き当たりの扉は」
「表の理由は物置。裏の理由は……今のあなたの壁と同じです」
私は、足元の塩を見つめた。粒は光を弾き、小さなミルキーウェイのように床に散っている。その上で、私は立っていた。立っていること自体が、誰かの足跡を踏むことになる。私は、これ以上何かを聞かないほうが楽だと分かっていたが、口は勝手に動く。「鍵の音は、誰が鳴らしているんですか」
牧野さんは、壁から耳を離し、私の胸にちらりと視線を落とした。「その鍵、どこで」
「郵便受けに」
「返してください。——出る時でなく、今」
私は鍵を見つめ、指を開いた。金属は掌から離れず、吸い込まれていた。私は力を入れて、ようやくそれを剥がす。彼の手に渡る瞬間、カチャリ、と音がした。私の部屋の中で。牧野さんの口元が、短く固くなった。「今日は、ここまで。クローゼットは戻しておきます。今夜は、できれば——」
その先を彼が言う前に、ドアベルが鳴った。廊下から葵さんの声。「結衣さん。大丈夫?」私はドアを半分だけ開ける。葵さんは、買い物袋を下ろし、私と牧野さんの顔を交互に見た。「塩、足りる?」普通の会話のように聞こえるのに、普段の会話より心臓に悪い。私は頷いた。葵さんは、少しほっとしたように笑う。「みんな、知ってるから。知らないふりが上手なだけで」
夜。私はもう覗き穴を覗かなかった。代わりに、耳を塞いだ。塞いでも、音は骨を通ってくる。カチャリ。……カチャリ。規則のズレた二拍目。私の心臓は、同じズレ方で打つ。嗚咽は、私の喉に引っかかり、出てこない。焦げた匂いは、いったん遠ざかり、また戻ってくる。塩の輪の内側で、私は眠気の輪郭を掴めず、まぶたの縁で夜を往復する。
朝。チャットに新しい投稿があった。海斗が夜中、二階の突き当たりの前で足を滑らせ、膝を打ったという。「血は出ていないです。でも、扉の下から風が出ていました。外、風なかったのに」。田島さんが、「気のせいだ」と書く。葵さんが、「病院行って」と書く。牧野さんは、「扉には近づかないように」と繰り返す。私は何も書かなかった。書けなかった。昨日から、言葉が私の中に落ちていく速度が、遅くなっている。
その日の午後、私は仕事から戻ると、クローゼットがぴたりと壁に戻されているのを見た。塩は新しい輪になり、欠けた箇所は丁寧に足されている。床のミルキーウェイは、軌道を整えられていた。安堵するはずなのに、私は胸の中で別の何かが目を覚ますのを感じた。守られることは、同時に、何かに包囲されることでもある。私は狭い台所に立ち、湯を沸かした。ケトルが鳴く。笛の音は、鍵の音に似ていた。似ているものが多すぎる世界で、私は何かの違いを見つけたかった。
夜。カチャリ。……カチャリ。私は枕を頭に載せ、耳を塞ぐことをやめた。無力な抵抗より、無力さを受け入れるほうが、わずかに楽だと学んだからだ。音の後、嗚咽の前に、ごく短い沈黙が生まれる。その沈黙の長さが、昨夜より少しだけ伸びていた。沈黙は、何かがためらっているしるしだ。ためらう何かは、こちらの気配をうかがっている。私はその気配に向けて、心の中で話しかけた。
——私はここで暮らす。あなたが何であれ、私はここで毎晩、寝て起きて、ゴミを出し、洗濯をする。あなたもそこにいるなら、そこにいればいい。扉は開けない。開けないけれど、閉めもしない。塩の輪は保つ。保ちながら、忘れる練習をする。忘れるふりを、上手になる。
返事は、なかった。あるいは、沈黙が返事だった。私は、その夜、初めて少し眠れた。
翌朝、郵便受けに三つ目の封筒があった。中身は、紙ではなく、写真。古い、色の褪せたスナップ。白百合荘の前で、女の人が笑っている。手には赤ちゃん。女の人の横に、大家らしい若い男。背後には、今より白い壁。写真の裏に、細い字で書いてある。「忘れたら、出られる」。私は写真を表に返し、女の人の目を見た。笑っているのに、目の奥に、鍵の音がした。
私は写真を封筒に戻し、封筒を引き出しにしまった。閉めるとき、引き出しの中で、何かがカチャリと鳴った。私はゆっくりと引き出しを開け、ゆっくりと閉める。そのたびに、同じ音がする。音は、鍵ではなく、私がこの部屋に持ち込んだ安物の金具が立てる音かもしれない。けれど、金具の音と鍵の音の違いを、私は説明できない。説明できないことが増える。増えたものは、やがて、日常の中に沈殿する。沈殿は、誰かの嗚咽と混ざり、白百合荘の色になる。
夜。カチャリ。私は耳を澄ますことも、塞ぐこともしない。ただ、呼吸を合わせる。二拍目のズレに、呼吸を合わせる。規則の不在に、規則を持ち込まない。嗚咽は、今夜は少し遠い。焦げた匂いは、雨の匂いと和解していた。
翌日、グループチャットに新しい固定メッセージが追加されていた。牧野さん。「六、忘れられない人に、忘れる練習を教えること」。私は画面を見つめ、笑ってしまい、すぐに笑えない顔に戻った。笑うことは、相手がいる行為だ。相手のいない笑いは、扉の前の空気に似ている。私はスマホを置き、部屋の真ん中に立った。床の塩は、今日も白い。クローゼットは、壁にぴたりと寄り添う。私は扉に耳を当てない。当てようとする手を、止めないことだけを選ぶ。止めないでいると、手は、勝手に落ち着く。
その夜、鍵の音は、しなかった。
代わりに、私の部屋のポストが、カチャリと鳴った。扉の向こうではなく、部屋の中でもなく、中間のどこか。私は立ち上がり、玄関に向かった。ポストの小さな蓋を開ける。中に、黄色いリングの鍵が戻っていた。メモはない。私は鍵を掌に乗せ、重さを確かめ、ポストに戻し、蓋を閉めた。カチャリ。音は、形のない挨拶に聞こえた。私はそれを受け取ったふりをして、部屋に戻った。
白百合荘の朝は、いつもと同じに始まる。足跡は薄茶色で、壁は薄緑で、塩は白い。私は仕事に行き、帰ってきて、湯を沸かし、チャットに既読をつける。忘れる練習は、少しずつ上達する。上達するほどに、忘れたくないものが何か、輪郭を持ちはじめる。輪郭の向こうに、扉がある。開けない扉。開けなくても、開いてしまう扉。開かないままで、こちらを見続ける扉。
カチャリ、と聞こえなくなってから三日目の夜、私は目を覚ます。自分の泣き声で。喉がひどく渇いている。水を飲んで、窓を開ける。外は雨。廊下の湿りは、雨のせいだけではない気がする。私は窓を閉め、部屋の真ん中に座る。静けさが、耳の奥で伸びをしている。
——ここには、開けてはいけない扉がある。
初日に聞いた大家の言葉が、今は違う音色で響く。開けてはいけない扉を知っていることと、開けないでいられることは、別の能力だ。私は、その能力を練習している。練習の終わりは、ない。終わりがないことに、終わりを感じたくなる夜もある。そういう夜は、鍵の音が恋しい。私は布団に潜り、目を閉じる。耳の奥に、誰かの足音がする。誰かは、私かもしれないし、あなたかもしれない。白百合荘は、名前のわりに真っ白ではない。けれど、白でなければ見えないものも、ここでは見える気がする。
翌朝、郵便受けに四つ目の封筒があった。中には、一枚のコピー用紙。白百合荘の入居者名簿。名前は黒く塗りつぶされ、部屋番号だけが残されている。その端に、小さく書き足された部屋番号がひとつ。「二〇四」。白百合荘に、二〇四はない。二階は三戸で終わりだ。私は紙をひっくり返し、明かりに透かした。透けて見えるものは、何もない。でも、何もないことが、何かに見える朝もある。私は名簿を引き出しに戻し、引き出しを閉めた。カチャリ。鍵の音に似ている。しかしこれは、ただの金具の音だ。私はそう思い込むことにして、靴を履く。玄関を出ると、廊下の突き当たりの扉の前に、塩の輪が新しく描かれていた。輪の中に、小さな足跡がひとつ。子どもの足跡に見える。葵さんの子どもだろうか。足跡は、輪の縁で止まっていた。輪の中に入っていない。止まることを知っている足跡。
私は階段を降り、外に出た。雨は小降り。傘に落ちる音は、鍵の音とは違う。違うのに、似ていると思えば似てくる。私はそれを放っておいて、駅へ向かった。背中に、白百合荘が立っている。振り返らない。振り返ると、扉が、こちらを見ている気がするから。
夜。鍵の音は、しなかった。代わりに、隣の部屋から、赤ちゃんの泣き声がした。泣き声は、嗚咽に似ていた。嗚咽は、鍵の音に似ていた。似ているものは、多すぎる。でも、多すぎる似ているの中で、私が選ぶ音はひとつでいい。私は、選ばないことを選ぶ。選ばないでいると、音は遠ざかる。遠ざかった音は、いつか、戻ってくる。戻ってきたとき、私はまた練習を始める。
白百合荘は、今日も白くない。けれど、白くないまま、そこにある。そこにある限り、私たちは暮らす。暮らす限り、鍵の音は——いつか、また、するのだろう。すると思っているあいだは、しないのだろう。しないと思った瞬間に、するのだろう。生活は、そういうふうに、私を試す。試されることに、少しだけ、感謝している。
最後に、私はメモを一枚書いた。「出る時、返して」。書きながら、誰に向けて書いているのか、自分でも曖昧だった。ポストにそれを入れると、カチャリ、と、小さな音がした。私は耳を澄まさず、部屋に戻った。塩の輪は、今日も白い。扉は、今日も開かない。私は、今日も暮らす。ここで。白百合荘で。鍵の音が、ない夜に。
第2話 隣の声
白百合荘の二階、二〇二号室に越してきてから、僕は壁紙の柄を細かく覚えるようになった。安物の花模様が、湿気でところどころ膨らみ、縁が剥がれている。剥がれた箇所は、濃い影をつくって、目玉のようにこちらを見る。夜、明かりを消すと、その目玉は膨張し、耳の奥にさわる。耳が、壁の輪郭と同じ形に伸びる気がする。
最初に泣き声を聞いたのは、越して二週間ほど経った頃だ。時刻はたぶん一時すぎ。斜め上の部屋の学生がシャワーを止める音がやんで、廊下の非常灯だけが白緑に光る時間帯。眠りに落ちきれない神経の表面を、細い針で軽くなぞるように、湿った嗚咽が壁からしみ出てきた。
女の泣き声だ、と直感した。いや、直感というより、そう決めてしまいたい何かが、先に僕の頭の中で名札をつくって貼った。長く続かない。ひゅう、と吸って、途切れ、喉の奥で丸くなる。ひと息置いて、また。呼吸が速い。焦げた匂いのような、油の古い匂いが混ざる。台所の換気扇は止めたはずだ。僕は壁に手の甲を当て、耳を寄せた。冷たさが皮膚に移る。体温が奪われるのに、耳だけが熱い。
隣は老女のはずだった。入居の手続きの時、大家の牧野さんが「二〇三には昔からの方が住んでます」と言った。昔から、というのは便利な言い方だ。年齢も、性格も、すべてを丸めて遠ざける。玄関で一度見かけた時、背丈の小さな、白髪をまとめた人が、布袋を抱えていた。口元を結ぶ力が強く、こちらを見るようで見ない。挨拶しなかったのは、僕のほうだ。目を合わせる前に、視線を落とす癖が出た。
翌朝、僕は管理人室に顔を出した。白百合荘の一階、郵便受けの並びの奥に、小さな机と湯沸かしポットが置いてある。書類棚の上に、黄いろい輪が付いた古い鍵が置いてあるのを見て、指の腹がむずむずした。
「夜中に人の声がするんです」
言った瞬間、言ってしまったことを悔やんだ。声にすると、曖昧なものは形を与えられ、こちらの意図とは別の筋道を歩き始める。牧野さんは、「そんな人いませんよ」と笑った。笑い方は、優しいのに、どこか上のほうに置かれている。僕の訴えが、机の天板に当たって跳ね返る。
「二〇三は?」
「二〇三は、昔からの方です。夜は早い。お年ですし。——それとも、もしかして、テレビの音とか、外の車の音とか」
「違います。泣いていました。女の人が」
「この建物には女性、いますよ。お子さん連れも。ただ、夜中に泣く人はいない。ここは静かですから」
静かという言葉が、僕の耳に粉砂糖みたいに貼りつく。静かの中で聞こえたものを、どう呼んだらいいのだろう。
僕は、大学を出てから働き口を転々とした。編集プロダクション、コールセンター、期間工。どれも半年と続かなかった。電話口で人の怒鳴り声を受け止めると、耳の内側が痺れる。痺れの残響が、夜、壁に移る。誰かの声が嫌いというより、誰かの声に含まれる自分の役割が嫌いだった。相手の言葉に合わせてこちらを削る作業は、刃を当てる場所を間違えると、減るのが相手でなく自分になる。僕は削りくずみたいになって、ここに来た。ここは、静かだと噂で聞いた。静かに暮らせる、と。
泣き声は、翌夜もその次の夜も、続いたり途切れたりした。一定ではないのに、同じ場所から聞こえる。壁の、花模様の茎が歪んでいるあたり。時計を見ると、一時十三分を少しすぎていることが多い。数字に意味を求める癖がある。意味は、こちらが勝手に作る。作ってしまうと、捕まる。そういう時間帯に、僕は捕まりやすい。
録音しよう、と考えた。頭の中だけのものではないと証明したかった。僕自身に向けて。千円で買った小さなICレコーダーを、壁寄りの棚の上に置く。感度を上げる。録音ボタンを押す。赤い小さな点が光る。僕は布団に戻った。眠らない。呼吸を浅くして、ひたすら待つ。やがて、カチャリと、遠くで金属の音がした。鍵の音。白百合荘に越してきてから、しばしば聞く音だ。二拍目が半拍遅れる。鍵の音のあと、泣き声が始まった。マイクが拾っているはずだ。心臓の速さを、指で止めるみたいに、胸を押さえる。終わると、僕はゆっくり起きて、録音を止めた。夜の台所で、再生する。冷蔵庫のモーター音が、耳にぶつかる。
最初に再生されたのは、僕の息遣いだった。返ってくる音が、自分の体の内部から聞こえてくるような不快さを連れてくる。寝返りの音。布団が擦れる。壁時計の秒針。遠くの車。鍵の音。——そして、泣き声。……ではなかった。僕の声が、防波堤に当たって砕けるみたいに、いくつもの断片になっていた。「聞こえるか」「そこにいるのか」「返事をしろよ」。覚えのない囁き。僕はそんな言葉を発していない。眠っていた。眠っていたと、思っていた。録音の中の僕は、声を潜め、壁に向けて話しかけている。相手の声はない。自分だけが、相槌と問いかけを一人でやっている。滑稽で、怖い。
レコーダーの背に、メモが貼りついていた。いつ貼られたのか分からない。細くて硬い線で書かれた字。「録音機を仕掛けたあなたの声です」。貼ったのは誰だ。僕の指は、文字の端を撫でて、紙の繊維の毛羽立ちを拾う。メモを剥がすと、粘着が指先に残った。指を擦り合わせると、何かが剥がれ落ちる。僕自身の皮膚かもしれないと思った。
翌朝、管理人室にレコーダーを持って行った。牧野さんは湯飲みを置き、僕の顔とレコーダーを、交互に見た。おもしろがりはしなかった。笑いもしなかった。机の上に静かに置かれたレコーダーの赤い点が、まだ僕の不安を反射していた。
「誰かが部屋に入って、メモを貼ったのかもしれません」
「鍵は」
「玄関のダブルロックはしています。窓の補助錠も閉めてます」
「レコーダーはどこに」
「壁の棚です」
「壁」牧野さんは、壁を見るふりをした。管理人室の壁は、白いペンキが重ねられていて、下のひびが隆起している。「——夜、眠れていますか」
「眠れません。だから録りました」
「録ったものは、聞かないほうが眠れますよ」
冗談なのか本気なのか分からなかった。僕はレコーダーを掴み、部屋に戻った。階段の踊り場の端に、塩の粒が落ちていた。白い。たぶん子どもが撒いたのだろう。隣の一〇一の葵さんの子ども。小さな足音。泣き声。泣き声。耳の中で、単語がこすれ合う。
その晩、僕は二台目のレコーダーを買ってきて、ひとつを壁の棚に、もうひとつを廊下に面した靴箱の上に仕掛けた。自分の部屋の中と、外。二つの耳を持てば、音の位置がわかるはずだ。わかる、はず。録音ボタンを押して、布団に入る。目は閉じるが、脳は開いている。開けたままの脳は、光のないところでも勝手に像を作る。扉の向こうの像。扉の中の像。像は、誰の顔もしている。元恋人の顔にも、母の顔にも、知らない女の顔にも。
鍵の音。二拍目が遅れる。泣き声。今夜は、はっきりと聞こえた。短く詰まる嗚咽。壁がわずかに冷える。僕の喉も、水を飲む前の痛みを覚える。やがて音はやむ。僕は録音を止め、台所へ。冷たい床。レコーダーの再生ボタンを押す。——僕の声が、二つの機械から、重なって溢れた。「そこにいるのは誰だ」「返事をしろ」「僕は聞いている」「僕は君を聞いている」。外に仕掛けたほうは、より遠い。廊下の常夜灯のジジジという微細な振動が混ざっている。けれど、主役はやはり僕だ。二人の僕が、同じ言葉を、時間差で言う。壁のこちらと外側。呼応している。女の泣き声は、どこにもない。鍵の音も、二台目には、拾われていなかった。室内のマイクだけが、微かに拾っている。僕の部屋の空気だけが、その音を抱いていた。
レコーダーの背に、今夜もメモが貼られていた。紙は同じ。字も、同じ筆圧。「録音機を仕掛けたあなたの声です」。同じ言葉。二度目に同じ言葉を読まされると、意味は薄くなるはずなのに、薄くならない。むしろ濃くなる。重さが増す。僕の指は、またしても紙の毛羽立ちを撫でた。そして気づいた。字の癖が、どこかで見たものと似ている。仕事で書いた配達伝票。急いで書いて斜めになった僕のメモ。似ているというだけで、同じだとは言えない。言えないが、似ていると思った瞬間、似てしまう。
隣の老女に、会って話してみようか。そんな考えが、夜が深くなるほどに、明るい解決策に見えてくる。けれど、ここにはルールがある。白百合荘の会、という住人のチャットに固定されたルール。五、二階突き当たりの扉には近づかないこと。六、忘れられない人に、忘れる練習を教えること。誰が書いたのか。僕は指先でスマホの画面をスクロールし、既読をつけるだけで、何も書かない。書いてしまうと、誰かに捕まる。捕まったあと、自分が何を言うのか、僕は信用できない。
昼、コインランドリーで洗濯を回す。隣の機械に、一〇二の結衣さんが洗濯物を入れているのが見えた。彼女は目をやや伏せがちに、柔らかな声で挨拶をする。「夜、眠れていますか」と問おうとして、やめた。代わりに、「この建物、音が意外と通りますよね」と曖昧に言うと、彼女は少しだけ目を上げて、「慣れますよ」と答えた。慣れますよ、という言葉は、ここでは魔法の合言葉だ。慣れないものは、慣れるほうに、こちらが形を合わせる。合わせないでいると、余白に落ちる。
夕方、二〇三の前を通る。扉の前に、白い細かな粒が、薄く輪になっている。塩だ、とすぐに分かった。足を近づけると、匂いがわずかに、焦げを薄める。輪の手前で、小さな足跡が止まっている。子どもの足。誰かが輪の内側に入らないことを、もう知っている足跡。僕はその足跡を跨いで、階段を降りた。輪をしっかり踏んでしまう勇気も、避ける知恵も、持っていない。
その夜、僕は壁を叩いた。軽く、二回。返事はなかった。三回、叩く。今度は、少し遅れて、二回叩き返された。返された、と思った。壁の向こうに誰かがいて、僕のリズムを真似た。僕は喉の奥で声を整え、「そこにいますか」と言った。壁は何も言わなかった。けれど、僕の耳は、壁から離れない。自分の吐息の熱で、壁紙の花がゆっくりと開いて、色を失っていくのが見えるようだった。
朝、ポストの中に、封筒が入っていた。宛名はない。中には、コピー用紙が一枚。「夜中に人の声がするんです」と、僕の筆跡に似た文字で書かれていた。僕は自分の文字じゃない、と一度は思った。けれど、たとえ他人が真似たとしても、僕の肩に落ちる重みは、僕のものだ。封筒の底に、小さな紙片がもう一枚。「録音機を仕掛けたあなたの声です」。同じ言葉。紙片の角が、僕の指先に刺さる。刺さったところから、白い粉のように感覚がこぼれる。
僕は記録を信じるタイプだ。ノートに書いたこと、写真に撮ったこと、録音に残したこと。残せば、そこにある。そこにあるので、安心できる。安心できると思っていた。しかし、残したものが、こちらに正確に戻ってくるとは限らない。戻ってくる途中で、誰かが指で触れれば、音は揺れる。揺れた音は、違う顔をして同じ名前で帰る。僕は二台のレコーダーを並べ、夜の録音を何度も聴き直した。自分の囁き、鍵の音、布団の擦れる音。何度聴いても、女の泣き声は入っていない。あの湿った嗚咽は、僕の耳だけのものだ。僕が耳の内側で作った。——そう考えれば、説明はつく。つくが、その説明は、説明のための説明だ。納得のための納得だ。納得に体温がない。
管理人室に行くと、誰もいなかった。机の上に、鍵束が置いてある。赤い輪、青い輪、そして黄色い輪。黄色の鍵は、ふるい。歯が削れている。触れようとして、やめた。触れてしまうと、負ける気がした。何に。何かに。負けるというのは、こちらが無傷でいられたほうに、あとから痛みが来る種類の負けだ。
背中に、視線を感じた。振り返ると、廊下の突き当たりの扉の前に、葵さんが立っていた。子どもは抱いていない。眼差しが、廊下の白緑の光に薄められている。
「叩いたでしょう」
僕はごまかさなかった。「叩きました」
「返ってきましたか」
「二回、返ってきたような気がしました」
「——叩くと、返ってきます。叩かなくても、返ってくることがあるけど。返ってきたものを、返すと、終わりがなくなる」
彼女の声は驚くほど静かで、言葉の輪郭が柔らかい。
「忘れる練習、していますか」
僕は答えなかった。忘れることは、怖い。忘れてしまった自分を、これ以上嫌いになりたくない。けれど、忘れないでいると、覚えていなくてもいいことまで、覚えたふりをし続けなければならない。ふりは、いつか本当になる。その過程で、誰かが傷つく。誰かは、だれ。
レコーダーの保存フォルダを整理していると、ひとつのファイルにだけ、不思議なラベルが付いていた。録音日時のあとに、「R204」とある。二〇四。白百合荘に、その番号の部屋はない。ないはずだ。僕は一階から二階まで、郵便受けの名札とドアの表札を確認した。二〇一、二〇二、二〇三で終わり。空き部屋は一〇四と二〇三の隣だと、掲示板にあった。二〇四は、どこにもない。どこにもないのに、ラベルはそこにある。ファイルを再生すると、僕の声が出た。「そこにいるのは誰だ」「そこにいるのは僕だ」。最後の文だけ、聞き取れないほど低い。低いのに、刺さる。刺さる先を、確かめる暇がない。
夜、僕は自分の声に気づいた。壁の向こうから、女の泣き声の代わりに、男の低い、擦れた声がした。僕の声だった。録音で聴いたより、肉に近い。僕は立ち上がり、壁に手を当てた。手のひらに汗が戻る。汗の向こう側に、表面張力のような薄い皮膜があり、その膜がふるえている。「聞こえるか」。壁のこちらで僕が言う。「聞こえるよ」と、壁の向こうの僕が言う。時間差は半拍。鍵の音と同じ。僕は、口を閉じた。閉じた口から、音が漏れる。漏れた音が、壁の向こうに入っていく。向こうの僕は、同じ漏れ方で、こちらに返す。返すことに、終わりがない。——叩いたら返ってくる。返ってきたら返してしまう。返すうちに、誰の声が最初か分からなくなる。分からなくなって、ようやく眠れる。
朝、ポストに、透明な封筒。その中に、黄いろい輪の鍵。「返してください」と細い字。僕は鍵を手に取って、表面の傷を眺めた。誰かが何度も差し込み、何度も回した痕。肌の油が薄く染みて、金属の鈍い光に滲んでいる。鍵には、手の温度だけでなく、手の記憶も写るのだろうか。だとしたら、この鍵は、誰の手を覚えているのだろう。僕の手は、まだ覚えられていない。だから、鍵は僕の手の中で居心地が悪そうに冷たい。
僕は、鍵を持って管理人室に行った。牧野さんは机に座っていた。僕が鍵を見せると、彼は一瞬だけ眉を動かし、すぐ戻した。
「返します」
「ありがとう。——誰が届けたか、分かりますか」
「分かりません」
「見覚えはありませんか」
「あります。見覚えというか、見たくないものを見る時の感じ」
牧野さんは鍵を受け取り、引き出しにしまう。引き出しが閉まる時、小さく、カチャリと鳴った。あの音に似ている。似ているだけだ。似ているけれど、違う。違うと思い込むほうが、今は安全だ。
「達也さん」
名前を呼ばれて、背筋がわずかに固くなる。ここに来てから、名前を呼ばれることに慣れていない。
「眠れないなら、録音しないほうがいい」
「録音しなかったら、証拠が残らない」
「証拠が残らないことが、あなたを守ることもある」
守る、という言葉に、抵抗の棘が引っかかった。守られる側に回ると、こちらは疑いの側に置かれなくて済む。その代わり、何かを背負う筋肉が痩せる。痩せた筋肉に、あとから重いものが落ちると、怪我をする。僕はそれを知っている。知っているのに、録音機を仕掛ける。仕掛けるたび、仕掛けた自分の声が戻る。戻ってきた声が、僕の寝床を、狭くする。
夜、一時十三分。鍵の音はしなかった。その代わり、ポストが鳴った。カチャリ。小さな音。僕は玄関へ行き、ポストの蓋を開ける。中に、小さなメモ。「録音機を仕掛けたあなたの声です」。同じ言葉。もう笑える。笑えたふりをして、喉が痛くなるまで笑おうかと思ったが、たぶん実際に笑ったら、泣くより厄介だ。僕はメモをポケットに入れ、部屋に戻る。壁の前に座り、何もしない。耳も塞がない。聴かないようにする努力をやめる。やめると、音は遠ざかることがある。遠ざかった音が戻る時、こちらの準備は整っていない。整っていないまま受ける音のほうが、たいてい正確だ。
眠りに落ちる直前、女の声がした。「達也くん、録れてる?」柔らかい。耳の奥に水を含ませるような声。記憶の引き出しの奥のほうから出てくる声。僕は返事をした。「はい」。自分の声が、自分の喉から出るより先に、録音機の中に入る。朝、レコーダーの背に、またメモが貼られていた。剥がして光に透かす。紙の繊維の影が、稲妻みたいに走る。筆圧の跡。左上がりの癖。——僕の字に、似ている。右手で書く自分の字ではない。左手で書いたときの、不格好で、妙に硬い線に似ている。中学のとき、怪我で右手が使えず、左でノートを取った数週間。忘れたはずの線が、ここに戻っている。僕は紙を握り、指の中でくしゃ、と音を立てた。音は、鍵の音に似ている。似ているが、鍵ではない。
僕は、壁を見た。白い花模様。膨らんだ縁。湿り。それらの向こうに、顔がひとつ、あるいは声がひとつ、あるいは僕がひとり。僕は、叩かなかった。叩かないという選択肢を、選ぶ筋肉を使った。選ぶと、何かが少しだけ、楽になる。楽になると、罪悪感が詰め物のように隙間に入る。その感覚を、忘れる練習の材料にする。忘れる練習は、すぐには効かない。効かないけれど、やめない。
翌日、仕事先から戻ると、二〇三の扉の前の塩の輪が、新しくなっていた。白が濃い。輪の内側に、紙切れが一枚。扉の下から風が出ているように見えたのは、誰かが息をしたからだ、と考えれば説明がつく。説明がつくけれど、説明は、いつもこちらの側に寄る。寄った説明は、薄く伸びる。薄く伸びた説明は、どこかで破れる。破れたところから、笑い声が漏れる。笑い声は、泣き声に似ている。似ているものは、多すぎる。
夜、僕はレコーダーを押入れにしまい、スマホの録音アプリも消した。消す瞬間、親指が迷う。他のアプリに親指を滑らせれば、消さないで済む。滑らせない。消す。消してから、しばらく手のひらが空のまま熱を持つ。持った熱は、壁に移る。壁は、僕の体温を借りて、しばらく生き物みたいに動く。動くのを、見ないふりをする。ふりは、上手くなる。
目を閉じると、鍵の音がした。——した気がした。実際に鳴ったのか、耳の中で鳴ったのか、区別がつかない。つけないことにした。耳が選べる自由を、耳に渡した。耳は、何も選ばなかった。何も選ばない耳は、静かだった。静かの表面で、小さな波が起きては消える。波の音が、誰かの泣き声に似ている。似ているのを、放っておく。
朝、ドアの隙間に、紙が差し込まれていた。折り目もない新しい紙。「録音機を仕掛けたあなたの声です」。僕は紙を丸めて、ゴミ箱に入れた。ゴミ箱は空だった。丸めた紙が、底で開こうとして、やめた。やめ方を知っている紙だ。僕はゴミ箱の上に、別のゴミを載せた。空のレトルトの袋。レシート。使い終えた電池。電池の金属が、紙に触れて小さく鳴った。カチャリ。微かに。
白百合荘の廊下は、今日も白緑だ。誰かの足跡が薄茶色に浮いては乾く。管理人室の引き出しは、今日も鍵を抱えている。二階の突き当たりの扉は、今日も目を開けない。葵さんの子どもは、輪の縁で止まることを覚えた足で、輪の外を走る。一〇二の結衣さんは、洗濯物を干す時に、洗濯ばさみをひとつ余らせる癖がある。二〇一の学生は、イヤホンを忘れて音楽を鳴らし、すぐ止める。僕は壁の前で、何もしない。
録音しない夜は、音が正直だ。正直すぎて、説明が追いつかない。追いつかない説明は、やがて沈殿する。沈殿は、床の塩みたいに白い。白いものの上に、僕は立つ。立った足の裏に、ざらつきが移る。ざらついた歩き方を、僕は学ぶ。学ぶふりだけでも、よしとする。ふりは、上手くなる。ふりが上手くなるほど、本当の割合が減る。減った本当を、僕はたまに確かめに行く。夜、一時十三分。鍵の音は、しない。しないことを、聞く。聞いた記憶を、明日の朝、忘れる練習をする。忘れたふりをする。ふりは、上手くなる。
そのうち、誰かがまたメモを差し込むだろう。差し込まれた紙に、僕は触らない。触らずに、ただ見る。見るだけで、紙は少ししわが寄る。寄ったしわが、文字の縁を別の形に変える。「録音機を仕掛けたあなたの声です」。その文を、僕は別の読み方で読む。——録音機を仕掛けた、そのときの、あなたの声です。あなたは、僕だ。僕は、誰かだ。白百合荘の夜は、そういうふうに、境界を干して、乾かして、また湿らせる。
僕は、壁に背中を預け、目を閉じた。薄い壁の向こう側で、誰かが息をしている気がした。息は、泣き声に似ている。泣き声は、笑い声に似ている。笑い声は、鍵の音に似ている。鍵の音は、メモの紙が折れる音に似ている。似ているものは、多すぎる。けれど、その多すぎる似ているの中で、僕が選ぶ音はひとつでいい。選ばないことを選ぶ。選ばないでいると、音は遠ざかる。遠ざかった音は、いつか、また近づく。そのとき、僕は、たぶん録音しない。録音しない代わりに、耳の奥で、ひとつの音が通り過ぎるのを見送る。見送る練習は、まだ下手だ。下手なままでいいと、初めて思えた。
第3話 封じられた部屋
夫の辞令は、夕飯の味噌汁が沸く音と重なって届いた。三月。まだ冬の匂いが鍋のふちに残る。封筒を開ける音は、味噌の湯気に紛れて、私の耳に優しくなかった。転勤——一年。私は鍋の火を弱め、夫の顔と封筒の紙の白を見比べた。白は、何にでも似る。冷蔵庫のドア、流しのタイル、私が着ているエプロン。夫は「すぐ決めなくてもいい」と言った。けれど、決めることは私の仕事だった。住む場所、段ボールの数、公共料金の解約、子どものいない私たちの荷は軽い、と人は言うが、軽さは、手を抜ける範囲とは違う。
白百合荘に初めて来たのは、転勤先近くの短期賃貸を探しはじめて三軒目だった。駅からゆるい坂道を上がった角に、白くなりそこねた二階建てがある。外壁はかつての塗装が雨で薄く剥け、乾いた苔の色を拾っていた。掲示板に細い紙片——「入居者募集 1K 短期可」。管理人室で大家の牧野さんに通され、空き部屋の話を聞いた。私が「一階の部屋はありますか」と尋ねると、牧野さんは鍵束を見下ろして、目だけで否定した。
「一〇一は埋まっています。——一〇二は、空いていません」
「空いていません?」
「空いていますけれど、空いていません」
日本語は時々、意味を置き去りにする。私は笑ってみせた。「どういうことでしょう」
「一時的に塞いでいます。工事の予定。……二〇一はどうですか。日当たりがいい」
私は二〇一を見た。薄緑の非常灯が昼間でも廊下に影を作り、ドアのノブは丸い。室内は簡素だが、床は新しく張り替えられていて、ステンレスの流しは磨かれている。私は天井の隅の小さな黄ばみに目を止め、「ここで」と言った。短期なら、ここで十分だと自分に言い聞かせる速度が、思っていたより速かった。
引っ越しの日、段ボールが部屋の中心に積まれ、私は最初の夜のために最低限のものを出した。ケトル、マグカップ、歯ブラシ。夫は週末だけ来る。「忙しくなる」と言った。忙しいのはいつも夫で、私はいつも手が空いている——そう見えることに、私自身、慣れてしまっている。手が空いている人間に、時間は重く見える。重い時間が、私の肩に乗る。
白百合荘の住人のチャットに招待された。ルールが五つ。廊下に私物を置かないこと、匂いの強い調理は窓を閉めて行うこと、夜十時以降の洗濯機は控えること、火の元に注意すること、二階突き当たりの扉には近づかないこと。数日後、六つ目が追加された。「忘れられない人に、忘れる練習を教えること」。文の形は冗談に見えて、読み終わると、喉に小さな棘が残る。
暮らしは、すぐに私の手に馴染んだ。朝は夫に弁当を詰めて駅まで持って行き、帰りに商店街で野菜を買う。近所の八百屋の大根は太く、切ると中心が星のように白かった。午後は洗濯をし、夜は窓を少しだけ開けて湿気を逃がす。風が入ると、どこかから焦げた匂いが混じる。古い油の匂い。白百合荘の、壁に染みついた匂いだと牧野さんは言った。「配線は点検済みです」と。私は頷き、匂いに合わせて呼吸を浅くする技術を覚えた。
それでも、気配はある。階段を上がる足音、子どもの笑い声、夜更けに鳴る鍵の音。カチャリ。二拍目が半拍遅れるのを、何度か聞いた。初めてその音を聞いた夜は、うっすら眠りかけていた私の意識を、浅瀬に引き戻すような力が働いた。耳は勝手に覚える。時間も、場所も。やがて、毎夜一時十三分に目が覚める習慣が、私の中に根を伸ばした。
一週間ほどして、私は一階の廊下で足を止めた。二〇一から階段を降り、ポストを確認して、ふと右を見ると、一〇二号室の前に花束が置かれていた。花屋で売っているようなセルフブーケではない。包装紙は白い油紙で、端が丁寧に折り込まれ、透明なテープの角がまっすぐだ。花は白と薄紫。白いのは小さなスプレーマム、薄紫はスターチスだろうか。手に取ると、水の匂いが新しい。今日、置かれたもの。誰かが、ここに手向けた。
「空いていません」と言われた部屋の前に、花。私は花束を持ち上げた拍子に、足元の白い粒を蹴った。塩。扉の前に、薄く輪が描かれている。輪の外側に、花束の影が落ち、影の縁が塩の輪と重なる。私は輪の内側に足を入れないよう、慎重に花を元に戻した。扉の表面には、古い傷が斜めに走っている。鍵穴の周りだけ、金属の色が露になって新しかった。
その夜、眠りの浅い水面に、灯りが落ちた。私は目を開け、枕から顔を離さないまま、視線だけで天井を探る。上から光るのではない。床から、すうっと、薄い光が上がってきた気がした。二階の部屋にいて床から光を感じるのは、不自然だ。私は起き上がり、窓辺に立った。廊下は緑がかった非常灯だけ。けれど、一階——一〇二号室の扉の下の隙間から、黄味を帯びた光が漏れている。あたたかい色。誰かが中で灯りを点けている。耳を澄ますと、足音。小さな足。トタンを爪で擦るような、乾いた足音。その合間に、何かがこすれる音——紙袋の音にも似て、布が擦れる音にも似ているけれど、どちらでもない。
「空いていません」と言われた部屋に、灯りと足音。私は夫に電話をかけようとして、やめた。こんな時間に電話をかけて、何を伝えるのか。「怖いから来て」と言えないかわりに、私は自分の足元に塩の線を思い描いた。部屋の真ん中に立ち、四角く気配を区切る。怖さは線の外に置く。置いたまま、朝まで動かない。
翌朝、管理人室で牧野さんに尋ねた。「昨夜、一〇二号室に灯りがついていた気がします」
「気のせいでしょう」
「足音も」
「猫かもしれません」
猫。白百合荘で猫を見たことはない。私の顔が疑いの形を覚える前に、牧野さんが微笑を乗せた。「工事は来週です。封をする前に、業者が出入りするかもしれない」
「夜中に?」
「昼とは限りませんよ」
言い方の端が、静かに濁る。私は追いかけなかった。追いかけると、同じ速さで逃げられるものがある。逃げられたものは、後ろ姿だけ残す。
その日の午後、私は一〇一の葵さんと廊下で会った。赤ちゃんを抱いている。赤ちゃんは眠っていて、鼻の頭が汗ばんでいた。
「花、見ました?」と葵さんが言った。
「はい。誰が」
「さあ。時々、置いてあります」
「——どなたかが、そこに」
「どなたか、いるときも、いないときも」
言葉は柔らかいのに、意味は布で包まれている。赤ちゃんが小さく音を立てた。葵さんは指で背をとんとんと叩き、「夜は、覗かないほうがいいですよ」と言った。
「覗く?」
「鍵穴から。覗く人は、覗かれるから」
冗談なのか忠告なのか、声の色だけでは判断できない。私は笑った。笑うと、喉が乾く。
夜、私は覗いた。恐怖と興味のどちらが私の手を動かしたのか、自分でもはっきりしない。夫からのメッセージは「明日も遅い」。私は靴下を二重に履き、足音を殺し、一階まで降りた。廊下は非常灯の光で薄緑だ。二〇三の前に塩の輪。二〇一の前の床には、昨日拭き残した水滴の跡が猫の足跡に見えた。私は一〇二の前で立ち止まる。扉の下からは、やはり微かな灯りが漏れている。耳をこらすと、足音——一歩、二歩、止まる。止まった後、布が床を擦る音。私はしゃがみ、鍵穴にそっと目を寄せた。冷たさが睫毛に移る。鍵穴の向こうは、黄味の光に満ちていた。輪郭の甘い光。最初は何も見えない。やがて、影が動く。影は人の形をしていた。細い肩、首、頭。髪は短い。輪郭の柔らかさが、見覚えに変わるのに、そう時間はかからない。私は息を止める。向こう側の“誰か”は、こちらと同じ色の服を着ていた。今日の私の、薄いグレーのカーディガン、紺のワイドパンツ。ポケットに手を入れて立つ癖。肩の傾き。喉の鳴る小さな動き。私自身の影が、鍵穴の向こうにいた。
私は目を離せず、その影も動かなかった。鍵穴は小さく、視界は欠片だ。欠片で人を見ると、人は人でなくなる。影は、ゆっくりと顔をこちらに傾けた。“私”と視線が合った気がした瞬間、扉の内側で、カチャリ、と金属の音がした。鍵の音。二拍目が半拍遅れて、もう一度鳴った。私は飛び退き、走って階段を上がった。二階の踊り場で膝が笑った。笑い声は出ない。笑い声はいつも泣き声に似ている。
部屋に戻っても、喉の乾きが引かない。水を飲み、窓を少し開け、外気の温度を確かめる。夜は、いつも同じ匂いがする。焦げた匂い。私の指は、スマホの画面を開き、白百合荘の住人チャットを確認した。誰も何も書き込んでいない。「覗かないほうがいいですよ」という葵さんの声が、画面の裏側から聞こえる。私はスマホを伏せ、ポストの鍵を持って玄関へ向かった。ポストの蓋を開けると、中に白い封筒。差出人はなし。中身は、黄色いリングの鍵——ではなく、小さなメモ。「覗く人は、覗かれるから」。字は細く、左上がり。誰の字に似ている、とは、言いにくい。似ていると思った瞬間、似てしまうから。
翌日、夫は来なかった。「出張が延びた」とだけメッセージ。私は一人で昼を食べ、一人で洗濯を干し、一人で夕方をやり過ごした。夕方の四時は、埃が光る時間だ。光った埃は、誰かの気配のように落ちてくる。私は、カーテンの裾を整え、床の塩の輪のように掃除機をかける。あらゆる輪郭を丸くする作業は、神経を消耗させる。消耗の形を、私は見ないふりをするのが上手くなった。
夜、一時十三分。私はベッドから起き上がらなかった。鍵の音がした。身体は覚えている。二拍目が遅れる。遅れが、私の心臓と合う。私は目を閉じ、耳に蓋をしない。音は、蓋をすると皮膚から入る。入ってくるものは拒めない。拒めないかわりに、名前をつける。名前をつけると、少しだけ楽になる。鍵の音は、鍵の音。泣き声は、泣き声。足音は、足音。そうやって分類して引き出しにしまう。引き出しは、いつか開く。
数日後、白百合荘の掲示板に、工事のお知らせが張り出された。「一〇二号室内装補修工事 〇月〇日—〇月〇日」。日時は、私が夫の実家に顔を出す予定と重なっていた。私は予定をずらし、ここにいることを選んだ。選ぶたび、自分が何かの当事者に近づく感覚がする。近づきたくない線が、足の裏に触れる。
工事初日、午前中に二人の男が来た。ヘルメット、白い手袋、無駄のない動き。一〇二の扉の塩の輪は新しく描き直され、花束は捨てられていた。油紙だけが、扉脇のゴミ袋に顔を出す。男たちは短い会話を交わし、鍵を差し込み、扉を開けた。中は見えない。私は二階の手すりから、覗かないように覗いていた。男の一人が中に入り、もう一人が外で携帯を耳に当てる。「入ります」「はい、——はい」。風が廊下を抜け、塩の輪の粉をわずかに動かした。輪郭の壊れ方を見ていると、胸がざらつく。ざらつきは、私の中にも輪を描く。
その夜、灯りはつかなかった。鍵の音もしない。静けさは新しいが、落ち着かない。耳は音の不在に敏感だ。私は眠れず、二階の窓から一階の影を眺めた。しばらくして、誰かが廊下を歩く音がした。一定の歩幅。軽い。私の足音に似ている。私は靴をつっかけ、階段を降りた。廊下の角で、影と影が重なった。私と、私の影。いや——違う。私と、似ている誰かの影。背丈、歩幅、足先の向け方。似ているものは、面白いほど似る。似ているからこそ、違いが浮く。違いは、少しだけ内向きの肩。私より、もっと自分の中に戻っていく姿勢。影は、私に気づく前に角を曲がり、一〇二の前で止まった。扉の前にしゃがみ、鍵穴——ではなく、床に手をついた。指先が塩に触れる。塩の輪の内側に、ゆっくり指を滑らせる。塩は音を立てない。影は立ち上がり、扉に背を預け、首を傾けた。私の癖だ。私は声をかけなかった。影も、振り向かなかった。時間が一枚の紙のように薄くなり、私と影の間で折れ曲がった。
翌朝、ポストに封筒があった。中に、写真。一〇二号室の扉の前に立つ女性——私。薄いグレーのカーディガン、紺のワイドパンツ。日付の印字は、昨日。撮られた覚えはない。写真の端に、鉛筆で細く書き込まれている。「空いていません」。私は写真を伏せ、封筒に戻した。指に鉛の粉が薄くつく。鉛の重さは、いつも指先に残る。
夫に写真のことを言うか迷い、結局言わなかった。言葉にすると、写真の中の私が夫の前に現れる気がして、居心地が悪い。夫は出張続きで、電話の向こうの声は常に急いでいる。「どう?」と聞かれて、「大丈夫」と答えるのが、私の仕事になっている。大丈夫、と言った瞬間、私の中の何かが床の下に落ちる。落ちたものは、拾えない。
工事は三日で終わった。扉の下の隙間から漏れていた灯りは、その後消えたままだった。塩の輪は新しい。花束は現れない。夜の鍵の音も、しばらく鳴らなかった。私は、音の不在に慣れる練習をした。慣れるほど、練習の意味は薄くなる。薄くなるときに、練習は私の形を変える。私は変わったのだろうか。変わり方は、いつも自分では分からない。
ある晩、夫が久しぶりに泊まった。夕食に肉じゃがを作り、夫は「うまい」と言った。彼はシャワーを浴び、ベッドに倒れ込むように眠った。私は布団の端に座り、夜の呼吸が廊下を抜けるのを感じた。時計の針は一時を回り、窓の外の緑が濃くなる。——カチャリ。久しく聞かなかった音が、私の耳の皮膚をめくる。二拍目が半拍遅れて、もう一度。私は立ち上がる。夫の肩がわずかに沈むが、目は開かない。私は足音を殺し、一階に降りた。廊下に誰もいない。二〇三の前の塩の輪は、光を跳ね返して白い。——一〇二の扉の前に、花束が置かれていた。白と薄紫。油紙。昨日と同じ形で、昨日より新しい水の匂い。扉の下から、ほんのわずかに、灯りが——光というより、温度が漏れているように感じる。私はしゃがみ、鍵穴に目を近づけるのを堪えようとした。堪える筋肉は、まだ弱い。私は覗いた。
鍵穴の向こうは、前より暗かった。暗さの中に、影がある。影は、前より近い。私と同じ服。けれど、今日は違う服を着ているはずだ。白いシャツと、黒いパンツ。鍵穴の向こうの“私”は、薄いグレーのカーディガンと紺のワイドパンツ。昨日の私。昨日の服。昨日の姿勢。昨日の視線。昨日の息。私は息を止めた。鍵穴の縁が冷たく、冷たさが涙腺を刺激する。涙の気配が、鍵穴の中の光を歪める。——影が、顔を傾けた。こちらを、見た。カチャリ。二拍目が遅れる。私は立ち上がり、扉から離れた。そのとき、扉の内側から、誰かの囁く声がした。声は、私の声に似ていた。「空いていません」。囁きの中に、笑いが少し混じる。笑い声はやっぱり泣き声に似ている。
私は夫を起こすべきか迷い、起こさなかった。夫が見ても、見えないものがある。人は、見たいものしか見ない。私は部屋に戻り、夫の寝息の上に自分の呼吸を重ねた。呼吸の合わなさが、私を安心させた。合わないものが二つ重なると、間に隙間ができる。隙間は、私の居場所になる。私はそこで眠り、朝、夢の輪郭だけを覚えていた。夢の中で私は一枚の写真を焼いていた。写真は燃えず、白くなるだけ。白は、何にでも似る。
翌朝、ポストに封筒。中身は、短いメモ。「封じられた部屋」。その下に、小さく「一〇二」。裏返すと、細い紙片がもう一枚。「覗く人は、覗かれるから」。私は封筒ごと引き出しにしまい、引き出しを閉めた。カチャリ。音は、鍵の音に似ている。似ていると思うことに、私の指先が慣れていく。
その日の昼、私は勇気を出して管理人室に行き、牧野さんに尋ねた。「一〇二号室は、誰が住んでいたのですか」
彼は少しのあいだ黙ってから、言葉を探すように視線を落とした。「昔からの方です。……もう、いません」
「いないのに、灯りが」
「灯りは、人が点けるとは限りません」
返答の形が、私の呼吸の形と合わない。私はさらに聞いた。「花束は、誰が」
「誰かが」
それ以上は、彼の仕事ではなかった。私の仕事でも。仕事の境界は、管理人室の机の端のように、はっきりしている時だけやさしい。
夜、私は鍵穴を覗かなかった。覗かない練習を、繰り返す。練習には報酬がない。報酬のないことを続けると、筋肉は持久力の形で答える。私は自分の中の持久力がどこまで伸びるか、見当がつかない。伸びるかわりに、どこかが切れることもある。切れた音を、私はまだ知らない。知らない音は、恐ろしい。
数日間、灯りも音もなかった。花束も置かれなかった。私の中の恐怖と興味は、舞台から一歩退いて、袖で内緒話をしている。私が舞台に立っていない間に、白百合荘は別の芝居を続ける。二〇一の学生は夜更かしの音楽をイヤホンに閉じ込め、一〇一の葵さんの子どもは輪の縁で止まる足を覚える。二〇三の前の塩の輪は、日に日に粒の角が丸くなる。私は、台所のシンクにうっすら残る水跡の形に意味を求める癖を戒め、タオルで拭きとる。
夫の出張が終わる頃、私は駅まで迎えに行った。改札を出てくる人の波の中に、夫の肩の高さと歩幅を探す。似ている人が何人もいる。似ているのに、違う。夫は最後に現れ、私の目の前で鞄を持ち替えた。その仕草に、安堵の形が明確になる。「どう?」と夫。「大丈夫」と私。帰り道、私は白百合荘の外壁のくすみを夫に説明しかけて、やめた。説明のための説明が、私の中の何かを薄くする気がした。
その夜、夫が眠ったあと、私はどうしても階段を降りたくなった。足が、降りるために作られている夜がある。私は裸足にスリッパをつっかけ、静かに廊下に出た。——一〇二の前に、花束。白と薄紫。オレンジ色の小さな花が一本だけ混じっている。初めて見る色。私はしゃがみ、花の匂いを嗅いだ。水の匂いに、ほんの少し、鉄の気配が混ざる。扉の下の隙間から、今日は光が漏れていない。鍵穴は、黒い点でしかない。私は立ち上がり、扉から離れた。離れることに、成功した。成功は、記録しないと消える。私は心の中のノートに線を引いた。
翌朝、夫が出勤したあと、ポストに封筒。中には、鍵。黄色い輪。古い金属。私は掌に乗せ、重さを確かめる。重い。私の手には馴染まない。私は管理人室に鍵を持っていった。牧野さんは鍵を見ると、一瞬だけ顔を硬くした。
「返してください」と私は言った。言いながら、疑問が自分の背中に積もる。「これ、私のところに」
「間違いかもしれません」
「誰の鍵ですか」
「昔のものです」
昔のもの。昔の鍵は、昔の扉を覚えている。覚えている鍵を、私は持ち歩いてはいけない。私は鍵を牧野さんに渡し、部屋に戻った。戻る途中、二〇三の前の塩の輪に、小さな足跡が二つ三つ入っているのを見た。輪は壊れていない。壊し方を、足がまだ知らない。
夜、眠りに落ちる直前、鍵の音がした。二拍目が遅れる。私は目を閉じたまま、数を数えた。十まで数えて、起き上がらない。起き上がらない自分を認める。認めると、胸の中の小さな火が落ち着く。火は、なにかを焼かないと消えない。焼かれるものを選ぶのは、火ではなく、私だ。
その翌朝、ポストにまた封筒。中の紙に、細い字。「ここだけは空いていません」。最初に言われた言葉。紙の繊維に、指先の汗が吸い込まれる。私は紙を引き出しにしまい、引き出しを閉める。カチャリ。音は、鍵の音に似ている。似ているのに、違うと自分に言い聞かせるのが、少し上手くなった。
私は、鍵穴を覗かない。覗かないでいると、鍵穴の向こうにいる“誰か”と私の距離が、一定に保たれる。一定の距離は、距離の形を学ばせる。学んだ距離は、やがて別の場所で役に立つ。夫の忙しさ、私の空いた手、母からの電話、友人の近況。どれも、距離が必要だ。距離を失うと、鍵穴の向こうから“私”がこちらに出てくる。こちらの“私”が向こうに入っていく。入れ替わる音は、たぶん聞こえない。聞こえない音ほど、長く残る。
白百合荘の春は、薄い。薄い春は、壁の花柄の上にさらに花を描く。私は洗濯物を干し、床を拭き、台所でお茶を淹れる。茶葉が開く音はしない。けれど、湯気の上がり方に、季節の指が差し込まれる。夜になると、ときどき鍵の音がする。しない夜もある。すると思っていると、しない。しないと思ったら、する。生活は、そうやって私を試す。試されることに、私は少しだけ感謝している。試すものがいる間は、私が誰かでいられるから。
——ある雨の夜、一〇二の前に、花束が二つ置かれていた。白と薄紫が、二つ。油紙の折り目は、二つとも同じ手つき。扉の下から光は漏れていない。私はしゃがみ、二つの花束の間に、指の幅で空いた隙間を見る。その隙間に、塩の粒が二三こぼれている。誰かが輪の内側に入ろうとして、やめた跡。私は息を吐き、背筋を伸ばした。鍵穴は覗かない。覗かない代わりに、私は扉に向かって、小さく頭を下げた。花束を置いた誰かに、ではない。封じられた部屋に。封じられたものに。そこにいる“私”に。
部屋に戻ると、ポストから紙が落ちた。拾い上げると、そこにはこう書いてあった。「“録音機を仕掛けたあなたの声です”」。誰かのメモ。だが今夜、録音機はない。録音しない夜に届くメモは、いつもより静かに見える。私は紙を折り、引き出しにしまい、引き出しを閉めた。カチャリ。私は耳を澄まさない。鍵の音に似たあらゆる音と、鍵の音そのものを、少しずつ区別しないようにする。区別しないことが、私を守る夜がある。
夫の転勤は、予定どおり一年で終わるらしい。白百合荘を出る日のことを考える。出るとき、返すもののリストを作る。鍵、契約書、住人チャットの退会、塩の輪の残り、私の部屋に残った輪郭のいくつか。——そして、ここで覚えた練習のやり方。忘れる練習、覗かない練習、距離を測る練習。練習は持ち出せる。封じられた部屋は、持ち出せない。封じられた部屋はここに残り、私はここから出る。出るために、今夜も私は覗かない。鍵穴の向こうの“私”は、私が出ていっても、ここで立ち尽くしているのだろうか。立ち尽くす音は、たぶんしない。しない音に、私はもう少しだけ、上手になる。
第4話 通報
朝の廊下は、床に落ちた水滴が丸い光をつくる。洗濯機の脱水が終わる直前の、回転が弱まる音が二〇一の壁越しに伝わっている。私は乾いたタオルを籠に入れ、白百合荘の外に出た。玄関脇に、白と青の車が止まっているのを見て、足が一歩だけ短くなった。ドアの窓に貼られた紋章。制服の人が二人。もう一人は私服で、首元に紐をさげている。
「通報があったんです。“誰かが閉じ込められている”と」
その言葉は、思ったよりやさしい声で届いた。やさしい声は、こちらに余白をくれる。余白があると、人は考え始める。考え始めた分だけ、喉が渇く。私は頷いて、タオルの籠を体の前に持ち直した。二〇一の結衣です、と名乗ると、警察の人は手帳を開き、「全室、確認に協力をお願いできますか」と言った。
全室、という言葉は、白百合荘にいつもより広い影を落とした。影が濃くなると、普段は見えないものが浮かぶ。土曜日の朝の匂い、古い廊下のワックス、ポストに挟まったチラシ。「白百合荘の会」の固定メッセージが、今朝もスマホの上で目に入る。——五、二階突き当たりの扉には近づかないこと。六、忘れられない人に、忘れる練習を教えること。七、通報は各自の判断で。ただし共有は慎重に。昨夜、誰かが増やしたのだろう。七行目の末尾に、鍵の絵文字。
私の部屋の中は、見られて困るものはなかった。困るものは、見られたくないものと同じではない。見られたくないものは、いつだって言葉のほうだ。机の上のノート、下書きの短い手紙、未送信のメッセージ。画面の中には、消したはずの下書きが、影となって残っている。
「失礼します」
制服の人が、部屋の中を一周する。流し、クローゼット、ベッドの下。窓の鍵。ベランダ側の手すり。私は笑顔に似た表情を持続させる。持続には筋力がいる。筋力は、日々の練習でしかつかない。
「異常なし。——次、いきます」
廊下に出ると、二〇二の達也さんが、壁の花柄の前で腕を組んでいた。まぶたの裏側で夜を輪切りにした人の顔。彼の部屋から出てきた制服は、手の中でなにか小さな黒いものを返し、上着の内ポケットにしまった。ICレコーダー、だと私は勝手に名前をつけた。名前をつけると、少しだけ楽になる。
「二〇三、どうぞ」
突き当たりに近い二〇三の前で、警察の人は動きをわずかに遅くした。塩の薄い輪が白く光る。二〇三の扉の塗装の剥げは、ほかの部屋より古い。中から、鍵の音がしない。二拍目の遅れは、今朝はない。老女がドアを開けるまでの時間が、廊下の空気を薄くした。やがて、チェーンが外れる音。笑わない目の上で口角だけが持ち上がる。
「通報? 私じゃありませんよ」
老女の声は低く、言葉の先を切り揃える癖がある。部屋の中を見た制服が「異常なし」と言う。異常なしは、こちらの感覚とは関係なく、手順の言葉として着地する。
一階。一〇一の葵さんが、赤ちゃんを抱いて出てきた。晴れた朝の匂いとミルクの匂いが混ざる。赤ちゃんは眠っていないのに、目を閉じている。「通報が」と制服が言いかけると、葵さんは首を横に振った。「していません。——でも、気持ちは分かります」
一〇二の前を通ると、制服の視線が鍵穴に吸い込まれる。扉の下の隙間から灯りは漏れていない。花束は今朝はない。油紙の折り目だけが、ゴミ袋の口から顔を出している。管理人の牧野さんが、腰の鍵束を持ち上げた。
「ここは、今は使っていません」
警察の人は、扉の表面を指で軽く押し、耳を当て、ゆっくり首を振った。扉は、何も言わない。「確認はしました」とだけ、手帳に書く。書くことで、扉は「確認済み」になる。確認済みの扉ほど、私たちにとって疑わしいものはない。
一〇二の前を過ぎて、一〇三。若いカップルの部屋。男の人の髭剃りの匂いと、女の人の甘いスプレーの匂いが混ざる。「夜、声がするんです」と女の人が言い、男の人が彼女の肘を軽くつかむ。「やめとけ」。言った瞬間、言葉が空中で転び、二人の間の床に落ちた。
全室、異常なし。制服の人が手帳を閉じる音が、廊下に短く響いた。響いた音は、鍵の音に似ていた。似ているものは、いつも多すぎる。
そのあとで、白百合荘は、ゆっくりと壊れ方を覚え始めた。壊れるのは、構造ではなく、視線の向きだった。
*
午後、チャットが騒がしくなった。通知の数が桁違いに増える。最初に「通報したの、誰ですか」と書いたのは、二〇一の学生だった。すぐに「自分ではありません」と続ける人が三人。「した」と言う人は、いない。「したかもしれない」と書いたのは、私だ。「昨夜、眠れなくて、電話帳を見ました。でも、押してはいません」と。
メッセージの流れの途中で、アイコンが一瞬入れ替わる。達也さんが「録音は違法ではありません」と書いた。誰も「何の話」とは書かない。書かないことが、開示になる。開示されたものの輪郭が、誰のものかは、読む人の心拍と同じ速度で変わる。
『通報があったんです。“誰かが閉じ込められている”と』
警察の人の言葉を、私たちはそれぞれ自分の耳の形で受け取り、自分の記憶の棚に置いた。置いた棚のラベルは、人によって違う。——「閉じ込められている」。誰が。どこに。いつから。誰が閉じ込め、誰が通報した。誰のために。誰に見せるために。
夕方、ポストに封筒が入っていた。白い封筒は、白いままではない。触れた指の油で、薄い灰が滲む。中には、短いメモ。「“通報者”は、あなたです」。細い字。硬い筆圧。はじめて見る文面ではない。その一文は、ここでは何にでも貼り付く。貼り付いた先が私であることに、私は驚かなかった。驚かないふりを上手にする練習は、すでに持っていたから。
*
達也(2〇2)
通報は、僕じゃない。そう言い切れる自信が、昨夜まではあった。朝、警察に「協力を」と言われたとき、僕は嬉しかった。嬉しいという感情が、場違いだと知っていても、嬉しかった。僕は協力の側に立つことが苦手だ。いつも、見ている側だった。見ている側は、見ていることを知られた瞬間、加害者になる。ならないために、録る。録ったものを、誰にも見せない。見せない録音は、その存在だけで罪になる。
制服の視線が、机の端に置いた黒いレコーダーに落ちた。拾われる前に、僕は言った。「仕事で使います」。嘘ではない。配達のメモに使うこともある。あるが、昨夜、壁のほうに向けて置いたのも事実だ。録音の中に女の泣き声はなかった。僕だけが囁いていた。囁きの相手は、僕だ。僕が僕を閉じ込めている。それを証明する音は、警察の手帳には載らない。
通報は、誰だ。チャットは熱を帯びた水槽みたいに泡立ちはじめた。泡は、名前のない視線。視線は、僕の肩に刺さらない。刺さるべき場所を、僕の肩が用意していない。——封筒。ポストに、白い封筒。メモ。「“通報者”は、あなたです」。その字は、僕の字に似ている。左手で書いた僕の字。似ていると認めた瞬間、似てしまう。似てしまった字は、僕の中の誰かが書いたことになる。誰かは、僕かもしれない。僕でないかもしれない。どちらでも、罪の重さは変わらない。
夜、一時十三分。鍵の音は、した。二拍目が遅れる。僕は録音しなかった。録音しない音は、正直だ。正直すぎて、僕は眠れた。
*
麻里(2〇1)
夫は、「警察が来たなら何か言われた?」とだけメッセージをくれた。出張中だ。私は「大丈夫」と返した。大丈夫はここでは合言葉だ。大丈夫、と言った瞬間、私の名前の輪郭が薄くなる。薄くなった輪郭の外側に、別の名前が浮かぶ。——契約書の名義は旧姓だ。管理会社には、夫の転勤ということにしている。嘘は、私を守るための形だ。形は時々、理由と入れ替わる。
管理人室で、牧野さんが言った。「ここは短期ですから」。私は頷いて、鍵束を見た。黄色い輪の鍵は、引き出しの中にある。見たくないものを見ないふりをするのは、上手くなった。見ないふりの上に、別のふりを重ねるのも。
封筒。ポストの白が、今朝はいつもより冷たい。「“通報者”は、あなたです」。あの字は、見覚えがない。見覚えがないのに、胸に覚えだけが残る。——通報。したいと思ったことは、ある。昨夜。一〇二の前に立った誰かの影を見たとき。影は、私の癖と背丈に似ていた。似ているものは、面白いほど似る。似ていると、違いが浮く。違いは、肩を内向きに折る角度だ。私は、ああ、私だ、と思った。思っただけで、電話はしていない。していないけれど、思ったことは、音に似る。音は、どこかに届く。届いた先が「警察」だったとしたら。私は、通報をしたことになるのか。
夜、夫のいない部屋で、私は鍵穴を覗かない練習を続けた。練習は、筋肉のように結果を見せない。見せない結果が、私には必要だった。
*
葵(1〇1)
赤ん坊は、昼のほうが泣く。夜は泣かない。泣かせないようにするのが、私の仕事だ。泣き声と嗚咽と笑い声は、よく似ている。似ているものの区別をつける筋肉を育てるのに、私はもう疲れている。
警察の人に、「通報が」と言われて首を振った。通報はしない。——したいと思う夜はある。二階の突き当たりの前に立つ若い学生の足音を聞いたとき。彼は叩いた。返ってきた。返すのを、彼はやめられないだろう。やめない人を見るのは、つらい。やめる人の背中を見るのも、つらい。どちらも、塩の輪の中に立ち尽くすのに似ている。
封筒が入っていた。「“通報者”は、あなたです」。私は紙を折った。折り目は、鍵の音に似た感触を指に残す。「通報」は、ここでは祈りに似ている。祈りは、たいてい届く場所が決まっている。届かないふりをして、届く。届いたことを、誰も言わない。言わないことが、祈りの形だ。
*
牧野(管理人)
警察に「全室確認」と言われたとき、私は鍵束の重さを、久しぶりに重いと感じた。赤、青、緑、そして黄色。黄色は引き出しの中だ。引き出しが閉まるとき、カチャリと鳴る。あの音は、ここではいつも合図になる。合図にしないと、収拾がつかない。
通報は、どこからかかってきたのか。私が訊ねると、若い警官は「非通知です」とだけ答えた。非通知は、ここでは匿名ではない。誰でもありうる、という意味だ。誰でもありうることは、誰でもないことに近い。近いが、違う。
扉は、開けてはいけない。だから、開けない。開けないために、私は塩の輪を描く。輪は、雨で薄くなる。薄くなるぶん、私は足す。足すことで、ここで暮らす人を守っているつもりだ。つもりは、仕事の半分を占める。半分は、他人のつもりの上に乗る。
封筒。ポストに紙。——「“通報者”は、あなたです」。貼り付けられた字の硬さが、私の指のひび割れに似ていた。私が通報をしたのは、昔、一度だけだ。まだここが、白に近かった頃。火の匂いが新しかった夜。誰も死ななかった。誰も死ななかったから、残ったものがある。残ったものは、閉じ込めるしかない。閉じ込められたものは、ときどき、通報する。自分で。自分の声で。——そう思うのは、仕事のせいだろうか。
*
夕方、白百合荘の階段で、住人同士の目がぶつかった。ぶつかるたびに、目の奥にそれぞれの小さな秘密が電灯のように点いた。点いて、消える。——結衣は、スマホの画面を下向きにして歩く癖をやめられない。画面の中には、名前の出ない通知がある。「会いたい」とも「行けない」とも書かれていないメッセージ。彼女は、夜の一定の時間に、同じ人のプロフィールを開いて閉じる。開いて閉じる。その指の動きが、鍵の音に似ている。似ていることに、本人は気づいていないふりをしている。
達也は、イヤホンをしていないのに片耳に手を当てる癖がある。ICレコーダーは机の中に入っている。もう使わない、と決めた夜から、かえって手は引き出しの取っ手を触るようになった。触るたび、引き出しは小さく鳴る。カチャリ。引き出しの音は、ここでは誰でもない誰かの声に似る。
麻里は、契約書の控えをクリアファイルに挟んで持ち歩く。名義と顔と住所が、一時だけばらばらになる時間を、彼女の指は知っている。ばらばらは、怖い。けれど、ばらばらのほうが安全なときがある。通報があった朝から、彼女は自分の名前を一日に三度、心の中で確認する。確認すると、名前は固くなる。固くなると、落ちにくい。落ちにくくなると、壊れやすい。
葵は、塩の輪を上書きする手つきが速くなった。速い手つきは、迷いを隠す。隠した迷いは、夜に浮く。赤ん坊は、その夜にだけ小さく笑う。笑い声は、嗚咽に似ている。
*
夜、チャットに音声が貼られた。送り主は表示されない。消える前に、私は再生した。——“誰かが、閉じ込められている”。女の声。低い。水を含んだような音色。次に、男の声。高い。震えている。最後に、子どもの声。短い。「ここ」。その三つの声は、同じ文をそれぞれの高さで重ねている。重なるところで、音は一度消え、鍵の音が二度、鳴った。二拍目が半拍遅れる。音声はそこで途切れる。
達也は同じ音声を聴いて、「男の声は自分だ」と思った。麻里は、「女の声が自分だ」と思った。葵は、「子どもの声は自分の子ではない」と思った。思った、という事実だけが、真実に近い。
音声の下に、短いテキスト。「情報提供ありがとうございます。発信位置は特定できませんでした」。チャットに貼った人は、警察ではない。警察なら、こういう貼り方はしない。貼り方にも作法がある。作法は、その人の名前の代わりをする。
その夜、鍵の音はしなかった。しない夜は、床のきしみがよく聞こえる。きしみは、誰かがゆっくり座る音に似ている。座った誰かは、ここではたいてい、こちらを見ない。見ないことが礼儀だと知っている。
*
「通報」は、次の日も、その次の日も、続いた。
午前十時過ぎ、白百合荘の前にまた車が止まる。制服は以前と同じ人ではない。手帳の新しい紙の白さが、こちらの呼吸を少し早くする。「通報が続いています。“誰かが閉じ込められている”。——全室、再度確認させてください」
再度の確認は、初回よりも速い。速い確認ほど、こちらの神経は遅れる。遅れた神経は、見られたくないものを先に連れてくる。——結衣の机の引き出しに、封筒。宛名はない。中の写真は、彼女と彼女ではない誰かが背中を寄せ合っている。背中は、顔より雄弁だ。背中の形は、言い訳を受け付けない。
「これは?」
制服の目が写真に落ちる。結衣は「捨てるところでした」と言った。捨てるところ、という時間は、何にでも貼り付く魔法だ。貼り付けられたものの重さは、貼った人の指の力で決まる。
達也の机の中に、ICレコーダーが二台。片方の背に、メモ。「録音機を仕掛けたあなたの声です」。制服は、「これは何ですか」と問う。達也は「仕事で使います」と答える。警官の眉の動きが、わずかに、鍵の歯のように細かく刻まれる。
麻里のクリアファイルから、違う名義の光熱費の控えが一枚落ちる。制服は拾い、何も言わずに返す。返すことは、優しさに似ている。優しさは、真実を軽くする力を持つ。軽くされた真実は、浮き上がって、あとから落ちる。
葵の部屋は、塩の匂いが強い。床に白い粉。子どもの足跡。制服は、「お子さんに塩を触らせないでください」とだけ言う。言われた言葉が、そのまま塩に吸い込まれていく。吸い込まれた言葉は、夜に少しだけ形を変える。
一〇二は、やはり「使っていません」。扉の下の隙間は、今日は暗い。暗さは、光よりも情報を持っている。情報は、ここでは秘密に等しい。
全室、異常なし。二度目の「異常なし」は、初回よりも白い。白い言葉は、壁に似る。壁は、誰かの背中に似る。
*
夜、住人たちは、互いを疑い始めた。疑いは、最初は軽い。軽い疑いは、会釈のように通り過ぎる。二度目の疑いは、足を止める。三度目の疑いは、声になる。——「通報したのは、あなたでしょう」。その文は、ここでは七つのバリエーションで言われる。言い方が違えば、意味は増える。増えた意味は、夜の床に落ちて、音を立てない。
「違います」と言う声もまた、七種類ある。違います、のあとに続く文は、人それぞれだ。——「違います、でも」。——「違います、やめてください」。——「違います、いい加減に」。——「違います、でも私だって怖い」。——「違います、でも誰かが」。——「違います、でもあなたは」。——「違います」。最後の「違います」だけが、言葉の中で最も重く、最も軽い。
通報は続く。警察は来る。全室は異常なしになる。——その繰り返しが、白百合荘をゆっくりと密室に変えていった。密室は、鍵をかければできるのではない。視線の行き先がひとつに集まるとき、密室は始まる。集まった視線の中心に、誰かが立つ。日替わりで。結衣のときもあれば、達也のときもある。麻里のときも、葵のときも。老女のときも、管理人のときも。誰のときでもない夜も、ある。誰のときでもない夜に限って、鍵の音がしない。
*
ある雨の夜、チャットにひとつの位置情報が投げ込まれた。地図上に小さな赤い点。白百合荘。——「通報の発信位置」。送信者は、名前を隠した。隠し方が下手だった。下手な隠し方は、かえって正確に届く。届いた先では、笑いが少し混じる。笑いは、嗚咽に似ている。
達也が書く。「発信位置は、この建物」。麻里が書く。「ここから」。結衣が書く。「誰が」。葵が書く。「誰でも」。牧野が書く。「非通知です」。老女は、何も書かない。書かないことが、いちばん多くを言う。
その夜、私は夢を見た。夢の中で、警察に聞かされた通報音声を、住人全員で聴く。スピーカーの前に、椅子が並ぶ。声が流れる。“誰かが、閉じ込められている”。その声は、聴く人ごとに違う timbre を持っている。結衣には女の声、達也には男の声、麻里には女の声、葵には子どもの声。老女には、老女の声。牧野には、鍵の音。私には、私の声。——皆が同時に「私だ」と言う。声が重なって、鍵の音になる。二拍目が半拍遅れる。私はそこで目を覚ます。枕は濡れていない。濡れていないのに、濡れたような息が出る。
*
翌朝、警察は来なかった。来ない朝は、白百合荘が少し広い。広さは、疑いを散らす。散った疑いは、床に薄く降り積もる。積もったものを、誰も掃かない。掃かないことを、ここでは暮らしと呼ぶ。
私は洗濯物を干し、台所で湯を沸かした。ケトルが鳴く。笛の音は、鍵の音に似ている。似ていると思うことに、私は慣れている。慣れは、練習の成果だ。練習は、誰のためでもない。
ポストに封筒。白い封筒は、白いままではない。中の紙には、短い文。「“通報者”は、あなたです」。その下に、小さく、部屋番号。「二〇四」。白百合荘に、その部屋はない。私は紙を指に挟んで光に透かす。透けない。透けないことが、何かに似ている。似ているものの名前を、私は知らないふりをする。ふりは、上手くなっている。
廊下に出ると、二階の突き当たりの扉の前に、塩の輪が新しく描かれていた。輪の内側に、足跡がひとつ。小さな足。輪の縁で止まっている。止まることを知っている足跡。——私は足跡を跨ぎ、階段を降りた。降りる途中、一〇二の前で足を止める。扉の下の隙間から、光は漏れていない。花束はない。油紙の折り目だけが、昨日より深くなっている。
鍵穴は、覗かない。覗かないことが、私の「通報」だ。通報は、誰かに届く。届いた先が、誰でもない夜に、鍵の音が二度、鳴る。二拍目が半拍遅れる。私は数えない。数えないでいると、音は遠ざかる。遠ざかった音は、いつか戻ってくる。戻ってきたとき、私たちはまた全室を見せる。見せて、「異常なし」と言われる。——異常は、いつも言葉の外で起きる。
白百合荘は今日も白くない。白くないまま、ここは続く。続くことに、私はうなずく。うなずくことが、いまの私にできる唯一の報告だ。報告は、通報とは違う。違うけれど、似ている。似ているものは、多すぎる。多すぎるものの中で、私たちはそれぞれひとつずつ選ぶ。選んだものが、今夜の鍵の音になる。鍵の音は、扉の向こうとこちらを平等に叩く。叩かれるたび、白百合荘は、ゆっくりと密室になっていく。密室の中心に立たないために、私たちは互いの目を逸らす練習をする。目を逸らす練習は、忘れる練習と同じ場所に効く。
私は部屋に戻り、引き出しを閉めた。カチャリ。引き出しの中で、白い封筒が音のないままこちらを見ている気がした。見るという行為は、こちらではいつも静かだ。静かなままの視線が、私の背中に落ちる。背中は、顔より雄弁だ。私は振り向かない。振り向かないことが、ここで暮らす作法だと、ようやく身体が覚えた。
第5話 閉ざされた扉
警察が帰った夜、白百合荘の空気は薄くなった。廊下の非常灯はいつもと同じ緑を湛えているのに、光の輪郭が脆い。息をするたび、肺の奥に細い紙片が出入りするような感覚がする。誰かが言い出したのだろう——「集まりませんか」。メッセージアプリの通知がほぼ同時に私のスマホにも落ちてきた。差出人は表示されない。固定メッセージの下に、短く「一階、洗濯室」。それだけ。
洗濯室は、窓のない小部屋だ。乾燥機の金属の円が二つ、正面に並ぶ。丸い窓は鏡の代わりになる。鏡は、誰の顔も正確に写すわけではない。写してほしい角度にだけ、誠実だ。
先にいたのは二〇二の達也だった。壁にもたれて腕を組み、目だけがどこか遠くの音を拾う形で止まっている。続いて一〇一の葵が入ってきた。赤ん坊は今夜は抱いていない。赤ん坊の重みのない腕は、落ち着きのやり場を失って、指先が裾を摘まむ。二〇一の私——結衣は、扉の近くに立った。二〇三の老女は最後だった。杖はついていないのに、足音は杖の音に似ていた。管理人の牧野さんは少し遅れて現れ、扉を閉め、上からチェーンをかけた。チェーンの金具が受け座に収まるとき、カチャリと鳴った。二拍目は遅れなかった。
「呼びかけたのは、誰ですか」と牧野さんが言った。
誰も手を挙げない。代わりに、葵が息を整えるように首を振り、「みんな、同じタイミングで『来い』って言われたみたい」と言う。誰かが誰かの名で送り、誰もが自分の意思で来たふりをしている。その両方が、今は本当だ。
静かな時間が、床に薄く広がる。先に破ったのは、達也だった。
「録音を、捨てました」
言葉は思ったより軽かった。軽いのに、洗濯室の壁に当たってから重さを得る。
「壁に向けて置いたレコーダー。二台。今朝、電池を抜いて、ファイルも消した。——でも、残ってる。消したのに。『録音機を仕掛けたあなたの声です』ってメモも、捨てたのに見つかる」
達也の指が空中で小さな四角を描く。ICレコーダーのサイズ。その四角は、彼の喉元に浮かんで、見えないまま戻っていく。
葵が囁く。「私も。塩の輪、何度描き直しても朝には別の指でなぞったみたいになってる。子どもじゃない。——たぶん」
「たぶんは、危険な言葉ですよ」と老女が口を開いた。声に棘はない。けれど、言葉の縁が鋭く切れている。「たぶん、そう。たぶん、違う。たぶん、誰もいない。たぶん、いる。——今夜は、たぶんをやめにしましょう」
私の口から、笑いに似た息が漏れた。笑うには理由が足りず、泣くには水分が足りない夜だった。
牧野さんが壁にもたれて腕を組む。管理人室の机の前でする癖と同じ姿勢。「警察は言いました。『通報があった。“誰かが閉じ込められている”と』。——ここで暮らすみなさん、それぞれの“閉じ込められている”ものに、心当たりはありませんか」
問いは、個人宛の手紙のように、順番に胸に差し込まれる。最初に受け取ったのは、私だった。
「不倫です」
自分の口から出るまで、その単語を使うとは思っていなかった。言葉になった瞬間、隠していたものの輪郭は、私のほうに流れて戻ってくる。達也のまぶたがわずかに動く。葵は目を伏せる。老女は視線を動かさない。牧野さんは目を閉じ、短く呼吸を置く。
「夫ではない人と、ここに来る前から連絡を取っていました。連絡は、まだ切れていない。切れたふりをしているだけ。——“閉じ込められている”のは、私の時間です。終わらせるにも続けるにも、名前が要るのに、名前をつけたら終わってしまう気がして、ずっと『その人』のままで置いている」
言ってしまうと、胸の中の薄い紙片がしわになって落ちた。落ちた瞬間、軽くなる。軽くなった重さが、足元に集まる。足は、重いほうが動かしやすい。
次に口を開いたのは達也だ。「盗聴ではない。盗聴したかったわけでもない。ただ、録って、残したかった。僕の耳は信用できないから。耳の内側で作られたものか、外から来たものか、区別がつかない。だから、録った。『閉じ込められている』のは、僕の聴こえです」
葵は、少し遅れて言った。「私は——母です。母であることに、閉じ込められている。泣いたら抱く。笑っても抱く。眠ったら置く。起きたら抱く。扉の前の輪は、子どもを守るという名目で、私の心を囲うために描いている。ときどき、輪の外に立ってみたくなる。夜は、輪の外に自分の影だけ置いて、部屋に戻りたいと思う。——思うだけ」
老女は、顔を上げた。洗濯室の光が眼球の表面で跳ね、瞬きのリズムに合わせて消える。
「私は、忘れないことに閉じ込められている。昔、ここで火の気があった。誰も死ななかった。だから、忘れていいことになった。忘れていい、と言われたことを忘れないでいるうちに、忘れなくてはいけないものが増えてしまった。塩の輪は、記憶の輪。輪の中に残ったものが、夜に声を出すのだと思ってきた」
言葉が静かに下りていくのを、誰も遮らない。牧野さんは最後まで黙っていて、ようやく「私の番ですか」と呟いた。
「私は、管理に閉じ込められている。管理とは、説明のことで、説明とは、誰かの不安を別の言葉で包むことです。包むために、‘何もない’と繰り返す。何もない、を言い続けるうちに、‘何かある’が形を持ち始める。——『閉じ込められている』のは、ここで起きる“何もない”です」
乾燥機の丸い扉に、五人の肩がぼんやり映る。輪郭は水滴でゆがむ。誰も泣いていないのに、映像のほうが泣きそうだった。
「——本当は、誰もいなかったんですよね」
誰が言ったのか、分からない。口の形はたしかにひとつ動いたのに、声は五人分の高さで同時に響いたように聞こえた。「あの扉の向こうに閉じ込められていたのは、“自分たちの恐怖”だった」
言葉にすると、あまりに簡単で、拍子抜けするほど正しい。正しさは、いつも遅れて来る。遅れて来た正しさは、頷きとともに部屋の四隅に散った。
私は、乾燥機の丸い窓に手をついた。冷たさが掌に移る。その冷たさがどこから来たのか、今夜は説明しないことにする。説明をやめると、息がひとつ分だけ長くなる。
「焦げた匂いも、泣き声も、足音も」達也が続ける。「『通報』も、『録音機を仕掛けたあなたの声です』も。たぶん、全部、僕たちの体から出て、僕たちの耳に戻ってきた」
老女は、いつものように言葉の縁を揃えた。「罪悪感と孤独が生み出した幻です。——そう言っておきましょう、今夜は」
葵が、小さく笑った。笑いは泣きに似ている。似ていると分かって笑うと、笑いは少しだけまっすぐになる。
「扉、開けますか」と、私が言った。自分で自分の提案に驚いた。誰の提案でもよかった。今、誰かが扉の方角を向く必要があった。
「一〇二は、工事のあと鍵を掛けてあります」牧野さんが鍵束を持ち上げる。黄色い輪は見えない。「——でも、開ける権利が私たちにあるのか。封をすることに意味を持たせたのは、私です。開けることに意味を持たせたがるのも、私かもしれない」
老女が、ゆっくりと首を振る。「扉は、閉じていることで役目を果たすこともある。開けないことが、見なかったことになるわけではない。——忘れる練習とは、触らない練習です」
洗濯室の空気が、ようやく湿りを取り戻した。誰かの靴底が床のワックスを軽く鳴らす。カチャ、と。鍵の音ではない。似ているだけだ。似ているからといって、同じではない。
「じゃあ、決めましょう」と葵。「今夜は、開けない。——その代わり、輪を描き直すのはやめる。花束も、もう置かない。録音もしない。通報もしない。忘れる練習を、続ける」
達也が頷く。私も頷いた。老女の目は、やわらかく細くなった。牧野さんは鍵束を静かに下ろした。
「——それで、いいのでしょう」
誰の声だったのか、最後まで分からない。洗濯室の壁が、同意のように冷たかった。
解散のとき、誰も「おやすみなさい」と言わなかった。挨拶の代わりに、乾燥機の丸い窓に各々の指先が一度触れた。触れた跡が曇りになって残り、すぐ消える。消えたからといって、触れなかったことにはならない。
*
翌朝、白百合荘は、しんとしていた。朝の、いつもの騒がしさ——洗濯機の唸り、郵便受けの金具の音、廊下を走る小さな足——が、どれも遅れている。遅れているのに、来ない。私は階段を降りてポストを覗いた。白い封筒は入っていない。管理人室の扉は少し開いている。机の上に鍵束。赤、青、緑。黄色は引き出しの中だろう。牧野さんの椅子は、まっすぐ机に向いて、きちんと引かれていた。椅子の背もたれに、薄い埃。
私の部屋に戻る前に、二〇二の扉に軽く触れた。ノブは冷たい。反応はない。呼び鈴を押すのはやめた。二〇三の前には、塩の輪がない。老女の扉の郵便口に、何も差し込まれていない。一〇一の前に、ベビーカーはなかった。玄関マットに、昨夜の靴の跡だけ。——部屋は、どこも静かだ。静かの種類が、いつもの静かと違う。人が出かけている静かではない。家を空けた静かでもない。家そのものが、自分の輪郭を確かめている静か。口の中に初めて入れた薬の粉のように、舌に広がる種類の静か。
私は二階から一階を見下ろした。光の角度は、いつもどおり。ほこりの舞い方も、いつもどおり。だけど、足音はしない。ふと、掲示板の紙が目に入った。「入居者募集 短期可」。紙は新しくない。角がわずかにめくれている。めくれの内側に、古いテープの黄ばみ。貼り替えた形跡は、ない。
扉をひとつずつ、耳で確認する。——二〇一、二〇二、二〇三、一〇一、一〇三。どの扉も、こちらの呼吸を押し返してくるだけだ。押し返し方は丁寧で、こちらの体温を嫌わない。誰もいない。そう、言える空気だった。
ただひとつ、一〇二号室の前で、私は立ち止まった。昨夜、開けないことに決めた扉。扉の前に花束はない。塩の輪もない。鍵穴は小さな黒い点のまま。扉の下の隙間は、暗い。暗いのに、暗さが押し返してこない。扉に軽く触れる。——内側から、鍵がかかっている感触が、はっきりとした。ノブは、回らない。チェーンの音はしない。ドアの向こうの空気が、こちらの指先の力に一瞬だけ古い呼吸を合わせて、すぐ、拒む。
私は耳をあてなかった。耳をあてれば、何かが聞こえたかもしれない。聞こえないことを、今朝は受け入れる。受け入れた耳の奥で、鍵の音が、一度、した気がした。二拍目は、なかった。遅れるものが、もう、遅れない。
廊下を歩いて掲示板の前に戻ると、「白百合荘の会」の固定メッセージが夜のうちに更新されていた。七、通報は各自の判断で。ただし共有は慎重に。——その下に、八が増えている。「出るときは、返してください」。鍵の絵文字。いつか見た文の反転。誰が書いたのか、分からない。誰でも書ける文だ。誰でも、の中に、今朝は私しかいない。
管理人室の引き出しを開ける。黄色い輪の鍵は、そこにあった。金属には体温が移る。移った熱はすぐ冷める。私は鍵を手のひらに載せ、扉に戻った。——一〇二の前で、足が止まる。鍵は、鍵穴に合う気がする。回せば、たぶん、開く。開いた先に、何もないのだとしても。何かがあるのだとしても。どちらでも、今朝の静かが壊れる。壊れ方を、私の手が決める。
私は鍵を引き出しに戻した。引き出しを閉めるとき、カチャリ。音だけが正直だ。正直な音は、今朝の静かと喧嘩をしない。
外に出る。白百合荘の前の道路は、湿っている。昨夜の雨の名残だ。空は薄く、遠い。坂を下りると、バス停の時刻表の紙が新しくなっていた。時刻の数字は黒く、等間隔に並ぶ。整っているものを見ると、呼吸が整う。整った呼吸の端で、私は振り返らない。振り返れば、扉がこちらを見ている気がするから。
——その日のうちに、管理会社のサイトに「空室」の表示が並んだ。白百合荘・二〇一、二〇二、二〇三、一〇一、一〇三。「即入居可」。写真は古い。どの部屋にも湯気は写っていない。画面の下のほうに小さな文字。「一〇二は掲載しておりません」。理由は書かれていない。理由は、書かれていないときほど、こちらの中で確かな形を持つ。
夕方、私は白百合荘に戻り、部屋の窓を開けて空気を入れ替えた。空気は新しくない。新しいふりをして、古い。古いふりをして、新しい。夜、鍵の音はしなかった。——しないことが、今夜の正しさだった。
翌朝、掲示板の紙が一枚増えていた。「全戸、空室」。太い字。黒いペン。角がまだ立っている。角の鋭さが光を跳ね返す。住人の郵便受けはすべて空いている。管理人室の鍵束は置かれたまま。赤、青、緑。黄色は引き出しの中。私は引き出しを開けない。開けないことに、体が慣れた。
廊下の突き当たりの扉は、目を閉じたまま。塩の輪はない。扉の表面の白は剥がれ、古い指の跡が縦にいくつも走る。——そして、一〇二号室の扉だけが、内側から鍵をかけられたまま。
誰もいない廊下で、私は一度だけ息を深く吸い、吐いた。吐いた息が、扉の前で薄く揺れた気がした。揺れは、すぐ消えた。消えたからといって、そこに何もなかったことにはならない。ここで暮らした手触りだけが、指に残っている。指先をこすり合わせると、見えない粉が少し落ちた。塩かもしれない。埃かもしれない。どちらでもいい。どちらでも、私の生活の粒だった。
私は階段を降り、外に出た。白百合荘は、名前のわりに真っ白ではない。けれど、白でなければ見えないものを、ここは見せてくれた。見たものの名前を、私はもう、急いで付けない。付けないまま持って行く。持って行った先で、鍵の音に似た音がしたら、数えない。数えないで、歩く。歩く練習は、ここで覚えた。
振り返らず、坂を下りる。背中に、扉の気配。気配は、音に似ている。音は、気配に似ている。——似ているものは、多すぎる。多すぎるけれど、今朝の私はひとつだけ選ぶ。選んだのは、鍵を回さないという行為だった。回さないまま、指に残る感触で街に出る。街の角は柔らかく、朝の光は長い。長い光の先で、私は目を閉じ、また開けた。
白百合荘の中で、何も起きなかったことを私は知っている。何も起きなかったことの重さを、今、肩で受け止めながら歩いている。重さは軽い。軽いから、落とさない。落とさないものだけが、私のものだ。
<了>




