第五章 侵食
透は自分の部屋の前で足を止めた。
夜の湿った風が廊下を抜け、わずかにカビの匂いを運ぶ。
鍵を回そうとした瞬間――ドアが、内側から開いた。
「……おかえりなさい」
制服姿の梨花が立っていた。
濡れた前髪が頬に貼りつき、手には透のマグカップ。
その中からは、コーヒーの香りが漂っていた。
「……どうやって入った」
「昨日、傘を貸してあげたでしょ。そのときポケットに鍵が入ってて……ちょっと拝借しました」
悪びれた様子はない。
その無邪気な笑顔に、透は怒りよりも別の感情を覚える。
侵入されているのに、追い出す言葉が出てこない。
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部屋に上がると、キッチンの流しには夕食の痕跡。
冷蔵庫の中の食材が少しだけ減っている。
梨花はまるで自分の家のように窓際の椅子に腰を下ろし、外の雨を眺めていた。
「今日、降ると思ってました」
「……降ってるな」
「だから来たんです。あなたが動く日でしょう?」
透は梨花をじっと見た。
その瞳は雨と同じ色をしている――冷たくて、でも奥に熱を秘めた色。
いつからか、その視線を拒むことができなくなっていた。
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深夜。
透は標的の家の近くに立っていた。
傍らには、フードを被った梨花。
まるで見学に来た生徒のように、静かに透の動きを追っている。
「……怖くないのか」
「怖いですよ。でも、それ以上に……あなたが何をするのか知りたい」
透は一瞬、彼女の首に手を伸ばしかけた。
この場で消してしまえば、また一人の目撃者がいなくなる。
だが、雨音の中で彼女が微かに笑った瞬間――その手は力を失った。
梨花は、透の“雨”に似ていた。
触れるほどに、手放せなくなる。
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二人が戻ったのは明け方。
部屋に入ると、床には雨で濡れた靴跡が二組、並んで残っていた。
透はそれを見て、薄く息を吐く。
自分の世界に、もう完全に彼女の足跡が入り込んでしまった。