第三章 雨の契約
夜。
雨は昼から降り続き、街全体を灰色の膜で覆っていた。
アスファルトに反射する信号の赤と青が、どこか不安定な夢の中のように揺れる。
黒瀬透は、決めていた。
今日も一人、消すべき人間がいる。
表向きは小さな建築事務所の社長。だが裏では詐欺を繰り返し、多額の金を騙し取っていた。
そして、通報した従業員を事故に見せかけて殺したという噂もある。
雨の日は、証拠も足跡も消える。
透にとっては、ただそれだけのこと――少なくとも、表向きの理由はそうだった。
実際には、雨の匂いと殺人は、もう切り離せない中毒になっていた。
⸻
午後十時。
標的がビルの裏口から出てくる。
透は背後に回り、再びあのワイヤーを取り出す。
その時――
「……やっぱり」
雨音に混じって、女の声がした。
透の背筋が強張る。
振り向くと、制服のスカートを雨で濡らしながら、梨花が立っていた。
髪は水滴で重く、瞳だけが真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。
「また……やってるんですね」
「……君、どうして」
「あなたのこと、知りたくなったんです」
透はワイヤーを握りしめたまま、標的を一瞬見失った。
その隙に、男はタクシーに乗り込んで走り去る。
「……邪魔をするな」
「邪魔じゃありません。だって、私……あなたを見て、心が動いたんです」
梨花の声は震えていなかった。
その無邪気さと異常さの入り混じった響きに、透は言葉を失う。
⸻
二人は、雨の中で向かい合った。
透の頭には、すぐにでも彼女を消す選択肢がよぎる。
目撃者は残さない――それがこれまでのルールだ。
だが、梨花の瞳に映る自分を見た時、その衝動は奇妙に弱まった。
恐怖も軽蔑もなく、ただ純粋な興味と熱を帯びた光。
それは透が長らく感じたことのない種類の視線だった。
「……雨の日にしか殺さない」
透は低く告げた。
「それが俺のルールだ。理由は言わない」
「……いいです。私、その時だけ……あなたのそばにいてもいいですか」
透は答えなかった。
ただ、濡れた前髪の向こうから梨花を一度だけ見つめ、踵を返した。
梨花はその背中を追わなかった。
けれど、その瞬間、二人の間には確かに契約のようなものが結ばれていた。