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プロローグ
雨は、街を静かに狂わせる。
その日も雲は低く垂れ込み、灰色の天蓋が世界を覆っていた。
アスファルトに落ちる水滴が、絶え間なく音を刻み、傘を叩くリズムがあらゆる会話をかき消す。
黒瀬透は、傘を差さなかった。
濡れることに不快を感じない。むしろ、雨粒が皮膚を叩く感覚が心地よい。
――雨が降る夜だけ、彼は人を殺す。
理由は言葉にしづらい。
幼少期の記憶、家の中で繰り返された罵声と暴力。
母が倒れて動かなくなった日の窓の外にも、あの冷たい音があった。
血と雨の匂いは、透にとって切り離せないものになった。
雨は全てを洗い流す。
醜さも、汚れも、罪も――そして、生きる理由さえも。
普段の透は、ごく普通の会社員だ。
小さな広告代理店で、黙々と企画書を作る。
冗談を言うこともなく、目立つ趣味もなく、同僚からは「地味で真面目」くらいにしか認識されていない。
けれど雨が降る夜、その平凡さは仮面に変わる。
透は、今日もまた一つ、雨に流すべき命を決めていた。