第1話 氷の副主任
「如月さんって、昔は笑ったことあるのかな?」
昼休み、誰かがぽつりとつぶやいたのを皮切りに、うちの部署では毎月恒例の怪談タイムが始まった。
「ないない。笑った瞬間、氷が溶けて地球が滅びるって噂、知らないの?」
「そもそも、部下を睨みすぎてコピー機が故障したことあるらしいぞ」
「怖すぎて誰もアイコンタクト取れないから、目線会話してるって話も……」
いやいや有り得ん……とは思いつつも、心のどこかでちょっと信じてる自分がいる。
俺の名は相沢祐介、社会人三年目の平社員。営業部所属。
その営業部で**「氷の副主任」**と呼ばれているのが――如月凛である。
30歳。才色兼備。非の打ちどころがない。
そして、俺にだけ明らかに当たりが強い。
「相沢、この資料、三行目の語尾。“〜かもしれません”じゃなくて“〜である可能性があります”でしょ?」
「あ、えっと……はい、すみません!」
「はい、じゃない。もう、社会人三年目でしょう?」
「は、はいっ……!!」
社内会議中。わずか三秒の沈黙で、空気が凍る。
他の先輩がミスったときは苦笑いで済んだのに、俺のときだけナイフのような鋭さで突いてくるのはなぜなのか。
(マジで俺、嫌われてるよな……)
こんな調子だから、如月さんの存在が視界に入るだけで肩がこわばる。
真後ろの席にいることが地獄。朝の「おはようございます」の返事がないと、それだけで一日ブルーだ。
俺が何したって言うんだよ……。いや、何かしたかもしれないけど……何したんだよ……!
******
午後の業務を終えて、夕方。
メール整理をしながら、眠気覚ましにコーヒーを淹れようと立ち上がったその瞬間――
「あっ……!」
手が滑った。カップが倒れ、机の上にコーヒーが広がる。
うわ、やっべ!!書類が!
慌ててペーパータオルを探す俺。そのとき――
「……使って」
低く、落ち着いた声が、すぐ横から響いた。
振り返ると、如月さんが無言でハンカチを差し出していた。
真っ白で、シンプルなデザインのそれは、いかにも如月さんらしいというか、清潔感と圧を兼ね備えた物体だった。
「い、いえ!だ、大丈夫です、自分でなんとか!」
「……捨ててもいいやつだから」
それだけ言って、如月さんはくるりと踵を返し、自分の席へ戻っていった。
その背中には、特に怒りも呆れもなかった。
ただ、少しだけ耳が赤くなっていたような、気がした。
「…………」
(…………怖っっ!!)
なに今の!?なんか地雷踏んだ!?これって新手の叱責!?
それとも“処理が遅いから自分でやれ”的な意思表示!?!?
ハンカチ差し出してくるタイミングが完璧すぎて逆にゾッとしたわ!!
俺はびびりすぎて、受け取ったハンカチをどう返せばいいのか分からなかった。
******
その日の帰り道。
(なんで俺にだけ、あんな厳しいんだろう……)
電車に揺られながら考える。
怒られるようなこと、そんなにしてるつもりないんだけどな。
でも毎回細かいミスを見逃さずに指摘されるのは確かで。
……もしかして、見られてる? 常に?
いやいや、気のせいだ。怖いからそう感じるだけだ。
でも、ふと思い出す。
会議のとき、俺の発言には必ず一言入れてくること。
他の人にはやらない、ピンポイントな指摘。
……いや、でもそれって――
(……まさかな)
俺はひとり、静かに首を振った。
如月凛。氷の副主任。社内最恐の女上司。
あの人の言葉は全部、ただの圧だ。
“好意”なんて、あるわけがない。
そう思い込むことでしか、今日の一日を消化できなかった。
――ただ。
このときの俺はまだ知らない。
あのハンカチが、彼女にとってどれだけ“勇気の象徴”だったかを。
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