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アスターテール~今日から半分、神になったらしいですが~  作者: 小鳥遊一
第二章後編《連合王国》セルビオーテ編
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番外編『王女と在りし日の物語』

【セルビオーテ連合王国:エンブリア中央王宮】


 ───彼女と出会ってから、もうどれくらいの月日が流れたのだろう。


 とある、暑い日の昼下がり。


 幸せそうな表情を浮かべ、目の前でクッキーを貪る従者の姿を眺めながら私はふとそんなことを考えていた。


 従者、とは言っても。私と彼女との関係は単純な主従のソレではない。少なくとも私にとって、彼女はいつの間にか、かけがえのない大切な存在───「従者」などという淡白な言葉では到底言い表し難い、私の日々の暮らしにおいて無くてはならない人となっていた。


「ふふっ……そんなに急いで食べなくても、クッキーは逃げなくてよ? ラスタ」


「んんっ、ソフィ様。でも、これ美味しくて……ソフィ様も、どうぞ」


「あら、ありがとう。美味しいのはわかるけど、一気に食べすぎて喉を詰まらせないよう気をつけなさいな」


「ん……ふぁかった、ソフィ様」


「こら、ちゃんと口の中のものが無くなってからお返事なさい」


 彼女は見ていて飽きない。

 本人に自覚はないだろうが、彼女は私を楽しませてくれる。

 王位を継ぐこともなく、これといってやりたいことがあるわけでもなく。


 かつて退屈で灰色に染まっていた私の毎日に彩りを与えてくれたのが他でもない彼女、ラスタだった。


「んむ、んむっ」


 ラスタはティーカップを傾け、食後の口の中を潤し終えると、


「ごちそうさまでしたっ。今日もとっても、美味しかった」


 と、満面の笑みで両手を合わせる。それからじっと彼女を見つめていた私の視線に気づいた様子で、かくんと小首を傾げてこちらを見つめ返してきた。


「……ん? ソフィ様、ラスタの顔に何か付いてる? しっかり口は、拭いたと思うんだけど……」


「ああ、ごめんなさいね。そういうことじゃないのよ。ただちょっと、あなたと出会った時のことを思い出していたの」


「ラスタが、ソフィ様と出会った時の?」


「ええ。覚えているかしら? あの日、ロズモンドの都市の片隅で───」


【五年前:連合王国 ロズモンド首都】


 ───百年前のこの日。


 キュラスやエルベラントといった外国の脅威に対抗するため、四王国間での条約が締結された今日は、我が国セルビオーテの建国記念日だ。


「───そして、今日という日を迎えられたことを神に感謝致します。エンブリア、ロズモンド、メンティス、ハーツメルト。史上最も偉大なる四人の王によって作られた最も偉大なる連合王国は、今日に至るまで世界に名だたる誇り高き列強の一国として君臨し、三年間にわたり続いた帝国との凄惨なる世界大戦をも勇敢に戦い抜きました。私はこの国を代表する王族の一人として、ここに申し上げます。祖国に永遠の栄光と繁栄あれ、我々セルビオーテに神の祝福あらんことを───」


「───」


 ロズモンドの首都、その中央広場に集まった何千人もの民衆を前に、私は台本通りの祝辞を淡々と述べていく。広場に集められた民衆の顔は皆同じで、嬉しいとも悲しいとも付かないような、微妙な表情を浮かべていた。


 おそらくは、王族の中で最も知名度も人気もないこの私を前にして戸惑っているのだろう。

 ───当然といえば当然、か。


 この人達の中には私を初めて目にするどころか、初めて私の存在を知る人すらいるはずだ。


 王位継承をめぐり熾烈な権力争いを繰り広げ、日夜新聞に取り沙汰される三人の姉とは異なり、第四王女たるソフィア・アリス・セルビオーテはめったに表舞台に姿を表さない。


 それは私が権力争いに興味がないからでもあるし、単にまだ幼い身故に与えられる公務が少ない───町中で、直接市民と接するような機会がないからでもある。


 しかし、今日は建国記念日。

 我が連合王国を構成する四つの王国の各地で記念式典が行われ、王族はそれら全ての公的な記念式典に出席して賛辞を述べねばならない。


 ということで今日はお父様もお母様も、それから姉たちも全員各地の記念式典に出席しており───それでも人手は足りないため、私はここロズモンドの式典に参加することになった。


 正直なところ、気は進まない。

 しかしそれでも公務は公務、王族として任された以上最低限の役割は果たす。


「はぁ……疲れたわ、じい」


「お疲れ様でございました、ソフィア様。ご立派でしたぞ」


 とはいえ。

 王族の役目など、式典の最初で簡単な賛辞を述べる程度。

 それが終わってしまえばもう用済みだ。だから私は早々に会場を離れ、馬車に揺られながらぼんやり外の景色を眺めていった。


 ロズモンドを訪れるのはこれで五回目。五回も来ているのだから、だいたいの風景はすっかり見慣れてしまっている。


「……」


 いつまでも変わらない、景色。


 ───つまらない。本当につまらない日々だ。

 毎日毎日宮殿に軟禁され、やることはといえば勉強と公務ぐらいのモノ。

 勉強も公務も別段嫌いではないが、かといってやって心躍るものでもない。


 お父様もお母様も公務で忙しく、姉たちは飽きもせず常に権力闘争に明け暮れて。


「はぁ……」


「ソフィア様、どうかされましたか。お体の調子が悪いのであれば……」


「いいえ、何でもないわ。ただ少し、気分が落ち込んでしまって」


 憂鬱な気持ちに、ついため息が漏れる。


「そうだわ、じい」


「なんでしょう」


「帰ったら、一緒にお茶でもどう? 先日キュラスから取り寄せた興味深い銘柄が……」


「お気持ちはありがたいのですが、私はお嬢様の執事ですので。そのような恐れ多いことはとてもとても……」


「……そう」


 実質。家族もおらず、友人もいない。


 私は常に一人だった。


 寂しい、とは言わない。民を導く王族は人にそのような弱音を吐いてはいけないと、厳しく教えられているから。


 でも、それでも。

 ───誰でもいいから、私とお茶を飲んでくれるぐらい、してくれないのだろうか?


 ★


「……やけに人気がないというか……静かなのね、今日は」


「ほとんどのロズモンド市民は本日の記念式典に出席しており、広場や城に集まっておりますからな。式典に参加していない市民達も、それぞれ自宅で家族と建国記念日を祝っているようです」


「ふぅん……」


 皆、一緒に過ごす人がいるのね。いいなぁ。


「それにしても人が少ない気がするけれど。まぁ、騒々しいのはセルビオーテには似合わないしたまにはいいかもね」


 そういうのはキュラスやベイル―ニャ人にでも任せておけばいい。セルビオーテ人は上品で礼儀を重んじる、慎み深い者達なのだから。


 しかし、ふと目線を街に移してみる───これほど静かな街を見るのは初めてだった。

 いつもは多くの行き交う人々で溢れかえり、喧騒と活気がごった返しているロズモンドの都市のメインストリート。

 そこは今やガラガラで、客はと言えば数人の主婦が籠を片手に買い物しているくらいだった。


 珍しい───非日常的な風景に、少しだけ胸が踊る。なんだか柄にもなくワクワクしてきた。いつもとは違う、私の知らない景色。私の知らない世界。


 もしかしたら。もしかしたら、ここに行けば、いつもとは違う何かが待っているのではないか───そんな気が、した。


「じい」


「なんでしょう、ソフィア様?」


「少し降ろしてくれるかしら?」


「ええッ!? こ、ここにでございますか!?」


「そうよ。何か言いたいことでもあるのかしら?」


「い、いえしかしここは……特に何もない、ただのロズモンドの通りですが……」


「わかってるわ。でもちょっぴり散歩したいの。式典の堅苦しい雰囲気に疲れちゃって……少しくらい気分転換したいのよ。いいでしょう?」


「か、かしこまりました……」


 じいやに命じると、彼はしぶしぶといった様子で馬車を止めさせた。

 それから私とともに降りると、ロズモンドの大きな通りを連れ添って歩く。


「しかしソフィア様、なぜこの通りに? お買い物でしたら、使いの者に」


「別に大した理由なんてないわ。ただいつもとはちょっと街の様子が違ったから、気になって降りてみただけ。買い物にしたって自分の足で歩かないと、つまらないでしょう?」


「う、ううむ……」


 隣を歩くじいやにそう笑いかけてみせるが、彼は相変わらず渋い顔だ。おそらくスケジュールには余裕があるとはいえ、予定から逸れたことをあまりしたくないのだろう。


「大丈夫よ、気分転換に散歩するだけだから」


「し、しかし……もし仮に、ここでソフィア様に万一のことがあれば私は……」


「全く相変わらず心配性ね、あなたは」


 じいやの心配性は今に始まったことではない。だが、彼も私に仕えるようになってもう長いし、いい加減慣れてはくれないだろうか?


 と、特に行く宛もなく通りをぶらぶらと歩いていると。


「ん? じいや、あの路地はどこに繋がっているの?」


 ふと、視線の先に薄暗い路地が通っているのを見つける。


 建物の間に広がった暗闇は、まるで洞窟の入り口のようだった。私に聞かれたじいやは「んん?」とメガネをかけ直し、指を一本立てて講釈を始める。


「あそこは裏路地の入り口ですぞ、ソフィア様。ロズモンドの裏路地の一部は王国内でも特に治安が悪いとされている無法地帯です。何が起こるかわかりませんのでくれぐれもお近づきにはならないよう……ってソフィア様!? ちょっと、ソフィア様――――!!」


 背後から聞こえてくる慌てたじいやの声に少しだけいい気分になる。ふふ、普段のお返しよ。

 それに……裏路地だなんて、なんだか心躍る場所じゃない。

 本でたまに見る、冒険が始まりそうな場所だ。ミステリーの導入みたいでもある。


 じいやには悪いが、こんなに面白そうな場所をみすみす見過ごすなんてこと───、


「……え?」


 ルンルンの足取りで裏路地に近づいていた私の足が、ぴたりと止まる。なぜなら、そこには───人影があったから。


 否、ただの人影ではない。

 目を凝らし、よく見てみる。入り口から、すぐ近くの場所だ。

 あれは───誰かが、いる?


「───」


 思わず走り出し、裏路地に入っていった。そこにいたのは───。


「……」


「はぁ……はぁ……や、やっと追いついた……ソフィア様! いきなりこのような場所に入っていくなど、何を考えているのですか! もっと、王族としての自覚をですね……!」


「じいや!」


「は、はひッ!?」


 ようやく私に追いついたじいやは、息を切らしながら説教しようとする。だが、そんなじいやに鋭く目配せすると、じいやは一瞬で背筋を伸ばして敬礼した。


「この子は誰?」


「この子……?」


 私の背後から、じいやが身を乗り出して前を見る。


 そこにいたのは───赤い髪をした、少女だった。


 歳は、身体の大きさからしてだいたい同年代。十歳程度だろうか?

 路地裏の壁に背を預け、体育座りの姿勢で身を屈めている。

 身にまとっているのはあちこちがほつれたボロ布で、私が来てからはその場からぴくりとも動いていない。


 手入れされていない様子の髪はぼさぼさに伸びており、少女の瞳はまるで見えなかった。

 生きているのか死んでいるのか、少女なのか少年なのかすら曖昧な存在が、そこにはいた。


「これは……浮浪児ですね。おそらくここで暮らしているのでしょう、あまり関わるべきでは───」


「ねぇ、あなた。ここで何してるの?」


「ソフィア様!」


「黙りなさい、じい。今は彼女と話しているのよ」


「……」


 少女は何も答えない。だが、わずかに顔を動かしてこちらを見た。


「あなた、その前髪で前が見えているの?」


「……」

「おい! 無視とはなんだ貴様、この方を一体誰だと……」


「じい、黙りなさい。恐怖で抑圧するのは統治者としてあるまじき行為よ」


「……」


 少女の態度に声を荒らげたじいやを制する。

 が、少女はやはり、何も答えない。


 何も答えたくないのか───あるいは、答えられないのか。


 私はそっと、少女の髪を撫でる。ふぁさっと柔らかい感触が伝わってきた。


「ねぇ。あなたの目……見せてもらっても、構わないかしら」


「……」


 髪を少し横にやる。抵抗も、拒絶もなかった。私はそれを無言の肯定だと都合のいいように解釈し、ゆっくりと───彼女の前髪を分ける。


「……素敵な琥珀色の瞳ね」


「……?」


 彼女の瞳は、琥珀色だった。

 まん丸く見開かれたその瞳は大きく、そして───今まで見てきた、どんな宝石よりも澄んでいた。

 つい、我を忘れて魅入ってしまいそうになるほどに。


 それほどに、少女は……綺麗な顔をしていた。赤子のように無垢で、可愛らしい顔だった。


 今まで会ったことのない、全く知らない世界の人間───なのかはわからないが。


「あなた、両親は?」


「ぁ……う? ぉ、しん?」


 私の問いに対し、少女はかくんと首を傾げる。


「喃語……? 彼女、言葉が喋れないのかしら……?」


 振り返ってじいやに聞くと、彼は頷く。


「どうやらそのようですな。いや、しかし浮浪児もこのくらいの年齢であればある程度の言語能力はあるはずなのですが……」


「そうなの。まぁ、言葉なんて些細なものよ。絶対に必要なものではないわ」


 じいやが何か言いたげな表情でこちらを睨んでくるが、今は無視だ。


「ねぇ、あなたも───一人なの?」


 気づけば私は彼女に手を差し伸べていた。少女は「……?」とぱちぱち目を瞬かせる。私が何をしているのか、わかっていないのだろう。


 しかし───ややあって彼女は、ゆっくりと私の手を握った。


 わかっていたのかはわからない。ただ反射的に、何気なく私の手を取っただけなのかもしれない。


 けれど、彼女は笑った。にっこりと、私に笑顔を見せて私の手を握った。


「───あったかい」


 人の手って、こんなに温かいものなんだ。


 これが───人間の、ぬくもりなんだ。


「ねぇ、じいや」


「は、なんでしょう」


「彼女を連れて帰るわよ。手配しなさい」


「はッ、かしこまりまし……は? ソフィア様、今なんと……?」


「二度も言わせないで。彼女を連れて帰ると、そう言ったのよ」


「ソソソソソフィア様ッ!? な、何を仰って……そ、その浮浪児をですか!?」


「あなた、聞こえなかったの? いいから手配して。それから、この辺で彼女の保護者がいるのかどうか。それも調査しなさい」


「……し、しかし……いえ、かしこまりました。はぁ……全く、ソフィア様は何をされるのか……」


 困惑した表情で頭を掻くじいやを余所に、私は少女の手を握り返す。


 それからややあって、彼女は正式に王宮に引き取られることとなった。


 ★


「……で、これからどうしようかしらね、あなた」


「あー?」


 あれから数日。

 シティ・オブ・エンブリア、中央宮殿内某所。

 首を傾げる少女を前に、私は腕を組んで思考にふけっていた。


 少女のまん丸い瞳に映る私と、不毛極まりないにらめっこを繰り返すこと数分。脳内王国議会では激しい論議が行われている。議題はもちろんこの少女の処遇について、である。


「なにかやりたい事とかないのかしら?」


「あー?」


「そう、わかったわ」


 そうね……ひとまずは教育を受けさせる必要があるわよね。幸いここは宮殿だし、学ぶ場には事欠かないけれど……まずは言語、それから読み書きを覚えさせてあげましょうか。


 この宮殿で暮らしていくにあたって───この世界で生きていくにあたっては一定以上の教養が必要不可欠。彼女がこの先どう成長するのかまではわからないけれど、まずは基礎的なことを覚えさせないとね。


「いい? これから勉強、頑張るのよ?」


「……? あー」


「あら、いいお返事ですこと」


 その日の夜。雑多な書類仕事に一通りの勉強を終え、ようやく家庭教師から開放された私は部屋でストレッチを行っていた。


「んっ……と。美容だけでなく健康にも気を使わなければならないのが、王女の辛いところよね……」


 いち、に。いち、に。ぐぐぐ、もう少し、もう少し上体を伸ばして。いち、に、いち、に……コンコン。不意に、部屋の扉がノックされた。


「ん?」


 誰だろう? 家庭教師が忘れ物でも取りに戻ってきたのかしら? 首を傾げつつ、扉を開くと───。


「んっ」


「あなた……どうしてここに?」


 そこに立っていたのは、例の少女だった。ボサボサに伸びていた赤い髪は左右に分けられ、なんとか顔が見える程度にまで整えられている。服装もメイドのような可愛らしいものを着させられており、どうやら彼女は意外と従者たちから可愛がられているらしい。


「私に会いにきたの?」


「ん」


 扉を開き、彼女を部屋の中に入れてあげる。すると少女は突然、手に持っていた何かをぐいっと私に差し出してきた。


「あら、それは……」


 少女の手に握られていたのは、私お気に入りのティーカップだった。エンブリアのとある職人の手づから作られた特注品で、カップには鳥の意匠が刻まれている一品だ。

 しかし、これをなぜ彼女が持ってきたのだろう? と疑問符を浮かべながら中を覗き込む。すると、中にはほかほかと湯気を立てる淹れたての紅茶が入っていた。


「んっ」


 少女は手に持ったカップを再度私に差し出す。


「まぁ……まさか、紅茶を私に持ってきてくれたの?」


 こくりと頷く少女。あらあら、気が効くじゃない。まぁ、メイドがお仕事の練習として彼女に持ってこさせたのだろうけれど。


「あら、ありがとう。ちょうど疲れていて、喉が乾いていたところよ」


 私は少女の手からティーカップを受け取ると、中の紅茶をそっと口に含む。

 うん、最高の出来だ。香りも味も申し分ない。私も一応セルビオーテの王女なので、紅茶にはちょっぴりうるさいのだが───この一杯には文句なしだった。


「ふぃあさま、おいし?」


「ええ、とっても美味しいわ……って」


 今、喋ったの彼女よね? 


「ふぃあさまって、もしかして私のこと?」


「ん」


 自分の顔を指差して問いかけると、少女は短く首肯する。


「まぁ! もうここまで喋れるようになったのね! すごい!」


 驚くべき成長速度だ。王宮に引き取られてからたったの数日で、既に言語を使いこなし始めている。もしかしたら天才かもしれない。頑張って勉強すれば、将来はセルビオーテの名門大学を首席で卒業する……って、それは話が膨らみすぎか。


「でも、これは将来有望ね……そうだ!」


 良いことを思いついた。

 私は急いで部屋の済に移動し本棚を漁ると、その中から数冊の絵本を選び抜いて出す。

 表紙をテーブルの上に並べ、少女を側に呼ぶ。


「見てご覧なさい」


「ふぃあさま……こぇは?」


「私が昔、お母様によく読んでもらっていた絵本よ」


「えほん?」


「そう。色々な物語があって、とっても楽しいのよ。読み聞かせてあげる」


 そして私は少女をソファへと座らせると、その隣に腰を降ろして適当な一冊を開く。

 ふふ、絵本の読み聞かせ……なんて、始めての経験だ。私は末の妹だったから、本音を話せばこういうのには少し憧れていた。


「それじゃあ、この絵本を読んでみましょうか。途中で寝ちゃだめよ? ごほん。むかしむかし、あるところに───」


 そうして私は、少女に絵本を読んであげた。一つ一つ少女の知らない単語が出てくるたびにそれを説明しながら読んでいくので、結果的にかなり時間がかかってしまった。


 私は読みながら内心、少女が退屈して寝てしまわないか気が気ではなかったのだが───幸いにもこの物語は彼女のお気に召したようだった。


「───こうして、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。おしまい」


 やりきった達成感とともに本を閉じ、ちらりと少女の様子を伺うと。


「……!」


 少女は目をキラキラ輝かせてこちらを見ていた。


「ふふ、どう? 楽しんでもらえたかしら」


「……それ、えほん?」


「そうよ、絵本」


「えほん! えほん! ふぃあさま、えほん!」


「あらあら、随分と気に入ったみたいね」


 絵本を読み終えた少女は満面の笑みを浮かべ、ソファの上でぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶ。にっこりと笑う少女の表情に、私は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。


「そんなに気に入ってもらえたのなら、私も読み聞かせた甲斐があったわね。じゃあ、次は……」


 ───それから、これが私の日課になった。


 毎晩勉強が終わったころに少女は私の部屋に紅茶を運び、私はそれを飲んだ後、少女に絵本を一冊読み聞かせる。


 途中からはもう読み聞かせる絵本がなくなってしまったので図鑑や詩集といった別ジャンルの本まで読んであげたのだが、少女はどんな本も嫌な顔一つせず喜んで読書した。

 知的好奇心が高いのだろう。ますます将来が楽しみだった。


 そして───少女の成長速度には、やはり目を見張るものがあった。


 絵本を読み聞かせていく中で少女はいくつもの単語を習得していき、今ではまだ幼さが残るものの、基本的な会話であれば成立する程度には既にこの世界の言語を話せるようになっていた。


 もっとも、まだ私の名前を完璧に呼ぶことは難しいようだけれど。


「ふぃあさま」


「ソフィア様、よ。言ってごらんなさい?」


「あさま」


「短すぎるわね」


「そあさま」


「まぁ、これまでのと比べると近いわね」


「そふぃさま」


「うーん……ちょっと惜しいけれど、及第点ね。今日のところは合格よ」


「そふぃさま! そふぃさま!」


「ふふっ、そうよ、ソフィ様よ」


 そして───少女を引き取ってから半年が経つ頃には、少女はすっかり成長していた。


「ふぅ……今日も一日、疲れたわね」


「失礼します」


 そんな挨拶とともに部屋に入ってきたのは、赤い髪に琥珀色の瞳をした少女。いまだ可愛らしい従者の服に着られている感は若干拭えないもの、それでも当初と比べれば見違えるほどには着こなしている。


「あら、今日はちょっと遅かったじゃない。何かあったの?」


「ご、ごめんなさい。お勉強が長引いちゃって……」


「ふふ、大丈夫よ。たしかあなた、最近はメイドになるための勉強もしていたわね」


「う、うん! お仕事とか勉強とか、色々やらせてもらってる。全部、とってもたのしい」


 あの少女が、今では宮殿の様々な仕事をやっている。随分と立派になったものだ。

 もし私に妹がいたらきっとこんな気持ちになったのだろう。


「そう、それはよかったわ。仕事も勉強もちゃんとやるのよ。でも無理はしないでね。身体は資本だから」


「うん! ……えとえと、あの。ソフィ様、今日も本……読んで、くれます、か?」


 そう少女は、顔を隠すようにして持っている本をぐっと近づけてくる。


 照れながらもチラチラとこちらを伺う視線に、思わず頬が緩む。


「ええ、もちろん。今日は何を読んでほしいのかしら?」


 私は───どうやら、もう一人ではないらしい。


 ★


「はぁ……退屈ね。早くエンブリアに帰ってあの子と遊びたいわ」


「そう仰らず、ソフィア様。これも王族の大事な公務ですぞ」


 あくる日。私とじいやは、再びロズモンドを訪れていた。もちろん公務───記念式典への出席のためである。ちなみに今日は、対帝国戦争───世界大戦の『停戦』による終結を祝う日である。


「この国、少々記念日が多すぎるのではなくて?」


「そんなことを言わないでください。それにお祝いする日が多いのは喜ばしいことではありませんか」


 別に誰が何を祝おうとその人の勝手だ。

 とやかく言うつもりはないがしかし、『記念式典には必ず王族が参加しなければならない』という謎の慣習はどうにかならないものだろうか?


 伝統を重んじることといつまでも過去に囚われ続け、変化を拒み続けることはイコールではないということにこの国のトップは気づくべきではないだろうか。


 まぁ、この国のトップは私なのだけれど。ちなみにセルビオーテは立憲君主制であるため、私達王族に政治的な権力は少なくとも書類上は存在しない。


 と、そんなことを思いながら歩いていると。


「さて、ここが会場かしらね」


 本日の記念式典を行う会場まで到着したようだ。

 古びた劇場だ。国を挙げて祝う式典の会場になるだけあって、大きさはかなりのもの───しかし、こう言っては失礼にあたるのだが、ボロい。なんといってもボロかった。


 床に広がったカーペットはさすがに掃除されており綺麗なものだが、ちらりと壁を見るとあちこちにひび割れや錆が見える。


 それに、人の気配がまるでない。たしかに式典の開始時刻は数時間先だし、市民がまだ集まっていないというのも納得が行くけれど、それにしても誰もいない。会場を間違えたのか? と隣のじいやに視線を送ると、彼はあわてて首を横に振った。


 場所はここで合っているらしい、が。


「こんな場所でイベントを……?」


 この会場に来るのは始めてだっただけに、ちょっと衝撃的だ。ロズモンドの財政がうまく行っていないのだろうか? 今度、中央から行政視察させたほうがいいかもしれない。

 と、考えていると。


「───これはこれはソフィア様! ようこそいらっしゃいました。ささこちらへ、ステージ裏まで案内いたします」


 やがて奥から現れたのはこの劇場の支配人……らしき男性だった。両手をすり合わせ、劇場の奥へと案内してくれるらしい。


「あなたがここの責任者かしら?」


「ええ、その通りでございます。すいませんねぇ……こんなみすぼらしい劇場で。私共も頑張ってはおりますが何分、資金繰りが厳しいもので。っとソフィア様、あの奥に見えるのが今回ソフィア様に立っていただくステージです」


 と、男は暗闇を指差す。奥? 奥も何も、彼の指差す先には真っ暗な暗闇しか広がっていない。


「……? どこかしら? 何も見えな───ッ」


 衝撃───閃光。

 突如見える世界が白黒に切り替わり、激しく点滅する。


「ふっ……へへ、うまく行ったぜ」


「な……ッ」


 何が起きて……まさか、後頭部から何かで、殴られた……? 熱い、身体が、頭が熱い。

 視界がぼやけ、徐々に暗くなっていく。ふと気がつくと、隣にいたはずのじいやもその場に倒れ伏していた。


「まさか、あなた、たちは……!」


「お察しの通りでさぁ、王女サマ」


 身代金目的で私を狙う、盗賊───あるいは、それに近しい類の者。これは、まずい。


「ぐっ……!」


 倒れているはずなのに、頭がぐわんぐわんと揺れているような気がする。

 これ以上意識を保っていることはできそうにもない。


「こんな、ところで……!」


「よし、王女は拘束して連れて行け。そこのジジイはここに置いておくぞ」


 ふと───今もエンブリアで、私の帰りを待っているあの子のことを思い浮かべた。

 それを最後に、私の意識は深い闇の底へと沈んでいった。


 ★


 次に目を覚ました時、私がいたのは暗い洞窟に作られた牢屋の中だった。


「ここ、は……」


 手足を動かそうとするが、鉄の鎖によって縛られ、天井に吊るされていることに気づいた。動けない。

 ぴちょん、ぴちょん、と水滴が落ちる音が洞窟に反響している。寂しい場所だ。


 牢屋越しに見える外には私を見張るためだろう、腰に剣を差した二人の男が立っている。


 状況を鑑みるに、どうやら私は賊に捕まってしまったらしい。


「くっ……不覚ね。王族ともあろう者が……!」


「やっとお目覚めか、王女サマ」


「あなたは、あの時の……ッ!」


 ニタニタと不愉快な笑みを口の端に浮かべ牢の向こう側に現れたのは、あの劇場の支配人らしき男だった。やはり賊の一員───いや、リーダーだったか。


「まさかこんなに上手くいくたぁ、思ってもなかったぜ。こりゃ我らの神に感謝だな」


「私を、どうするつもりなの?」


「ふむ。そうだなぁ、ハーツメルトで暴れてる『独立派』共に高値で売り飛ばしてもいいし、海外の好事家相手にオークションでも開いてやろうか。なんにせよ儲かるだろうからな」


「そんなことをするよりも、王国に直接身代金を要求したほうが手早く儲かるのではなくて?」


「それも一つの選択肢としては悪くない。だが、王国との交渉にはリスクがある。俺はいつ崩れるかわからん危ない橋を渡るより、堅実に稼げる橋を渡るぜ」


「……ッ!」


「おお、怖い怖い。そう睨むな、せっかくの美少女が台無しだぜお嬢ちゃん。言っとくが、お前が泣こうが喚こうが時間稼ぎしようが、ここに助けは来ない。なぜなら……ここはどこだと思う?」


 肩をすくめ、おどけた仕草で男は語りかけてくる。だが、無視を極める私を見ると、心底気に食わない様子で唾を吐いた。


「……」


「けっ、愛想のねぇガキだ。ここはメンティス、それもとんでもない山奥の洞窟だ。つまりどれだけお前があがこうと、衛兵も近衛兵もすぐにはやって来れない。この意味がわかるか? 俺たちに大人しく従っておけってことだよ、わかったか?」


「……」


 私は何も言わず、ただただ無言で彼らを睨み続ける。こういう時、相手に少しでも隙を見せてはならない───屈してはいけないと、セルビオーテの王族は教育されている。


「なんだ、その目は! チッ、生意気なガキだ。気にいらねぇ、反吐が出るぜ。なるべく大事な商品に傷は付けたくねぇが……仕方ねぇな。ちったぁ痛い目見せてやらねぇとなぁ」


「……」


 男は部下に命じ、グローブを持ってこさせるとそれを手に嵌める。さしずめ、あれで私を殴るつもりなのだろう。殴るならば殴ればいい。


 たとえ殴られようとも、私はお前たちのような下賤には決して膝を折るつもりはない。


「よーし、一発目行くぞ───歯、食いしばれやァ!!」


「っ……!」


 ぎゅっと目をつぶり、痛みに耐える準備をする。だが───その瞬間。

 突如洞窟に爆発音が鳴り響き、振動で地面が揺れる。まるで何かが近くで爆発を起こしたかのような───そんな衝撃だ。


「な……爆発!? 一体何が起きて……」


 あわてて辺りを見回す男。そこに部下らしき人物が、青ざめた表情をして駆け込んできた。


「ボス! 緊急事態です!」


「なんだ、何事だ! メンティス軍の砲撃か!?」


「いえ、この爆発はメンティス軍でも衛兵でも、近衛兵のせいでもなく……入り口付近で、突如一人のガキが見張りをぶっ飛ばし、ここに近づいてきています!」


「……は? ガキ?」


「ええ、赤い髪をして、ボロボロの服を身にまとったスラム街みてぇな身なりのガキで……男なのか女なのかどうかもわからないようなガキに、うちのメンバーが次々襲われています!」


「はぁ!? どういう事だよ!? 何が起きてやがんだ!?」


「───」


 騒然となる洞窟の中、私は彼らの会話を聞いてぴくりと反応する。なぜなら、その特徴に少しだけ心当たりがあったからだ。


「……赤い髪、の……?」


 いや、そんなはずはない。一体、今ここで何が起こっているのかはわからないが……まさか、あの少女であるはずがない。エンブリアとメンティスは、少なくとも数百キロは離れているのだ。それに男は言っていた、ここはメンティスの山奥であると。


 少女が単身で、それもこんな遠く離れた地の山奥までやってきて、さらに何人もの男を相手に戦っている、など───常識的に考えればありえない話である。

 絵本にしたって無理のある展開だ。


 けれど。けれど私は───いまだその可能性を、心のどこかでは捨てきれずにいる。

 少女がすぐそこにいるのではないか、と。


 そう、願ってしまっている。


「野郎共は何をしてんだ! たかが多少腕の立つガキ一匹相手だろ!」


「そ、それが例のガキ、とんでもなく強く……ああっ! お、音が少しずつ近づいてきて……ここは危険です、ボス! さっさと王女を連れて撤退しましょう!」


「はぁ!? ガキ一匹に、そこまで……」


 部下の進言に対し男はプライドが許さないのか、撤退を渋っている様子だった。だが───時折響く部下の断末魔や剣が落下する音が徐々に大きくなってくると、ついに覚悟を決めた様子で、


「……クソ、何が起こってやがる! 仕方ねぇ、ここは退くぞ! 王女の拘束を外せ! さっさと逃げるぞ!」


 と、部下に命じる。そして私の手足を自由にし、今度はロープで拘束しようと───した、その瞬間。


「ぐ……はっ……!」


 ───男は少女の飛び膝蹴りを顔面に喰らっていた。


 赤い髪に、琥珀色の瞳をした───美しい、少女の。

 男は白目を剥くと、そのまま無様な表情を浮かべて倒れる。どすん、という衝撃が牢に響きわたり、ソレを目の当たりにした部下たちは、次々と顔を青ざめさせていく。


「ボ、ボスが……!」


「もうここは終わりだ! 全員逃げろ!」


「クソ、こんなことになるならこんな奴に付いてくるんじゃなかった! ああ、畜生!」


 と、思い思いの台詞を口に、散り散りになって逃げていく。そして彼らはあっという間にいなくなり───気づけば、その場にいるのは私と彼女の二人きりとなっていた。


「はッ……はッ……ソフィ……様? よかった、無事で……ッ!」


 少女は私の姿を見るなり心の底から安堵した様子で、私の側へと駆け寄る。

 そして、ぎゅっと抱きついてきた。

 温かく、柔らかいものが私の身体を包み込む。


 だが私は、なんとかして喉から言葉を絞り出すのがやっとだった。


「あなたは……!」


 そこにいたのはやはり、あの少女だった。


 毛量の多い、ふさふさした赤い髪に澄んだ琥珀色の瞳。


 着ていたのはいつもの従者服───だったの、だろうか。

 裾、肩、腹部。あちこちが破れており、少女の白い肌が露出している。服は泥と砂に塗れて真っ茶色に染まっていて、元々の色がわからなくなるくらいに変色していた。


「ソフィ様っ、無事でっ……よかったぁ……ううッ……」


 少女は私の肩に頭を乗せ、嗚咽しながらぽろぽろと涙をこぼす。


「あなた、どうやってここに……一人で、来たの?」


「うん、ソフィ様がいなくなって、王宮……大騒ぎになってた、から。ソフィ様の匂い辿って、走って、ここまできた……」


「匂い……? それって、どういう……」


 それにそれにエンブリアからメンティスまでは、少なくとも数百キロは離れている。

 少女どころか、大の大人でさえ走って辿り着くことはできないような距離だ。


 そこで私はようやく、彼女の服がボロボロである理由に気がつく。よく見てみれば、どこかで怪我をしたのか、腕には切り傷ができていた。


「それにあなた……ボロボロじゃない。どうして」


「あ、えとえと、これはソフィ様追いかけてるとき、色々あって……でも、大丈夫。ラスタ、へっちゃら、だよ?」


「───馬鹿ッ!」


 気づけば私は───大声を出していた。


「どうして、どうして一人で、こんな危ないことをボロボロになってまで……! なぜ? どうして、なんで……!」


 自分の頬を伝う熱いモノに気づく。私は、理解できなかった。なぜ少女はこれほどまでに傷ついて、それでも自分を追ってきたのか。助けてもらったにも関わらず、まるで子供のように泣きわめいて少女を責めていた。


 ───ああ、せっかくこれまで、お姉さんとしてやってきたのに。


 こんな泣きわめくようなところを見られては、今までの苦労が水の泡だ。


 いきなり私に泣かれた少女はきょとんとした表情で私を見ている。

 そうよね、そう思うわよね。

 いきなり私が、こんなことを言い始めて少女もさぞ困惑し、失望したことだろう。それが普通だ。少女は何か言おうと、ゆっくり口を開く。


 どんな言葉が飛び出すのか。私は、もう───、


「───だってソフィ様、大切な人、だから」


 ───少女は笑った。それは汚れなどまるで知らない、無垢な笑みだった。


「私が、大切な人……?」


「あ、こういう時の言葉、最近教えてもらった。ええと、ええと───そう、友達。ソフィ様、私の友達、だから」


「───」


 にっこり笑う少女と、対象的に呆気に取られる私。

 対照的でちぐはぐで、でも不思議と嫌な気はしない。


 ああ、そうか。そうだったんだ。

 私はようやく、手に入れたのかもしれない。


「ふっ」と、思わず笑いが溢れる。

 それは愚かしく馬鹿げた自分に向けたものであり、そんな自分と友達だと、そう宣言した少女に向けたものであり、そしてこれまでの過去に向けたものでもあった。


「ふっ───あはっ、あははははっ!!」


 笑いが止まらない。そうか、そうだったのか。ああ、愉快だ。最後にこれほどまでに愉快な思いをしたのは、いつだったろうか。

 いつしか心の底から笑うことさえ、忘れていたような気がする。


 清々しい、気分だった。ひとしきり笑い終えると私は立ち上がり、前を向きながら彼女に告げる。


「ああ、そうね───その通りよ、ラスタ」


「ラスタ……? それ、誰のこと……?」


「あなたの名前よ。ラスタ。いつまでも名前がないままじゃ、あなたも不便でしょう」


 少女の名前そのものは、ずっと前から考えていた。少女が名前を欲しがっていることも、ずっと前から知っていた。

 けれど───私は怖かった。恐れていた。名前などというこの上なく大事なものを、血の繋がりも何もない赤の他人である私が与えてしまっていいものなのか。


 私は、彼女にそれほど関わってしまっていいものなのか。


 けれど、今日その意識は変わった。少女は、ラスタは、私の友人になった。


「ラスタ……! 私の、名前……!」


「それに───」


 そこで、くるりと彼女の方を向いて振り返る。


「私の初めての友人は、名前で呼びたいもの」


「……」


 ぽかーんと口を開けているラスタ。だが、ややあってその言葉の意味を理解すると───。

「……はいっ!!」と、満面の笑みを見せてくれたのだった。

 ちなみに余談だが、じいやは無事だった。


 ★


 私の従者、そして友人であるラスタにはどうやら、特別な才能があるらしかった。


 エンブリアから遠く離れたロズモンドまで、馬車並の速度とスタミナで駆け抜ける身体能力。そして、無尽蔵といっていいほどの体力。

 武装した大人の数人を同時に相手にし、瞬く間に制圧できるほどの戦闘力。

 彼女をこのままメイドにさせるのは勿体ない───かもしれない。


 宮殿に務めるメイドの一部にはラスタを「気味が悪い」と疎む者もいるが(更迭した)、彼女の類まれなる才能を活かすべく、彼女には私のボディーガードとして常にそばで仕えてもらうこととなった。


 まぁ、そんなのは建前で、結局のところは───私がそばにいてほしいだけなのだが。


「カンパニュラ……は、感謝。カランコエ……は、あなたを守る」


 ラスタは今、私の隣で花図鑑を食い入るように読んでいた。


「あら、花に興味があるの?」


 彼女はこくりと頷く。


「なら、今度宮殿の庭園の管理でもやってみない? きっとあなたなら気に入ると思うわよ」


 すると、ラスタは嬉々として頷いた。


「───はい! ソフィ様、カンパニュラ!」


 あれからもう、五年もの時が経ったのか。


 気づけば私は十九歳になっていた。あの頃と比べれば随分と背も伸びたし、身体も成長したものだ。そしてそれは、ラスタも同じこと。


「でもそれ以外は本当に……変わらないわよね、私達は」


「え? ソフィ様、どうかした……の?」


 クッキーを頬張り、飲み込み終えた愛しき従者の不思議そうな眼差しに、私はなんでもないとかぶりを振ると喫茶店の席から立ち上がる。


「いいえ、何でも。ただクッキーを食べるあなたの姿が、そう、くっきりと見えたものだからついおかしく……ぷぷっ……クッキーを、くっきり……ぷぷぷ……」


「……ソフィ様、それやめて」


「あら、失礼。さて、ベイル―ニャのお茶も、なかなか悪くはなかったわね───さぁラスタ、そろそろ行きましょうか。エンブリア行きの便に乗り遅れてしまうわ」


「……うんっ!」


 結局のところ、ラスタが何者なのかということを、私は知らない。


 けれど、それでも。


 自分が、彼女が何者であるかなどという命題に、今すぐ答えを求める必要はない───これから二人で行きていく中で、のんびり探していけばいい。


 たとえ彼女が何者であろうとも、私の友人であることは変わらないのだから。


 あの日路地で出会っただけの少女にそんなことを思いながら、私は大きく一歩を踏み出す。

 ───冬の寒さは既に過ぎ去り、暖かな陽の光が進む私達を照らしていた。


 番外編『少女ソフィアと赤の従者の物語』


《了》


 あとがき


 ということで今回はちょっと本編から外れた番外編、第二章のヒロインであるソフィアとラスタちゃんの過去編です。あの二人がどのようにして出会い、どのようにして成長してきたのか……というのをちょこーっとだけ書くつもりが、ちょっと想像以上に長くなりましたね。

 わりと本編での掘り下げが控えめなまま第二章が終わってしまったのでこの二人にスポットライトを当てたアスターテール初の番外編を書き下ろしてみたわけですが、ソフィア&ラスタの意外な一面や魅力といったものを少しでも感じていただければ幸いです。

 それではご機嫌よう!セルビオーテ連合王国に栄光あれ!

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