第67話『とりあえずの大団円』
───レイナにエルシェ、それからソフィアの三人が脱出に成功し、表で待機していた近衛兵と合流してから既に十分以上の時間が経過していた。
「少年とラスタ……まだ、出てきませんね。大丈夫でしょうか」
「……見るに、そろそろ屋敷の崩壊は近い。いい加減出てこなければ……あるいは、そうね」
「アオイ様……ラスタ……どうかご無事で」
近衛兵の協力もあって、既に三人は屋敷から数十メートル離れた場所に避難していた。
ここはオズボーン領全体、特にオズボーン邸が見渡せる小高い丘の上である。三人はここで、近衛兵とともに一人屋敷に残り、ラスタとともに逃げると宣言してみせた少年───アオイとラスタの帰りを待っていた。
丘の上から見えるオズボーン邸は既に限界が近い様子で、時折地響きのような轟音を鳴らしつつ、屋根の端からポロポロとこぼれ落ちるようにゆっくりと崩れ始めている。
完全に倒壊するまでもう時間がないことは、この場にいる誰の目にも明らかであった。
だからこそ、少女達は皆───若干一名の黒髪の少女を除いて、不安げな色をその瞳に宿して事の行く末を眺めていた。
こうしてここで待っていても、いつまで経ってもアオイがラスタとともに出てくる気配はない。既に崩れ始めている屋敷の屋根の一部が地面へと落下し、その衝撃によってズシンと轟音を鳴らすたび、少女らの不安はますます強くなりつつあった。
ちなみに補足すれば、この場にいるのはあともう数人存在している。この事態を引き起こした元凶であるハリス・オズボーンと、その私兵たちである。
彼らはレイナ達が逃げる際、さすがに見殺しにすることはできないとのことで、拘束を一時的に解いて屋敷から脱出させていたのだ。
もっとも案の定屋敷から逃げることに成功すると彼らは態度をコロリと変え、レイナ達から逃げようとしたのだが───外で待機していた近衛兵は彼らの逃走を許さなかった。
結果、再度簀巻き状に拘束され、今は全員そろって仲良く地面に転がっていた。
つまり今屋敷に残っているのはアオイとラスタの二人きり、なのだが。
「まだ……来ない、ですね」
「ま、まさかアオイ様に想定外の事態があったのでは……!? 道が瓦礫や倒壊した柱で塞がれてしまい、退路を絶たれてしまっているとか……」
「……ッ!! やっぱり、私が助けに行かなきゃ……!! どいてください! 私が……」
しびれを切らし、木剣を構えて再びオズボーン邸に戻ろうとするのは青髪の少女、エルシェだ。
彼女はいつまでも帰ってこないアオイとラスタを助けるべく、颯爽と自慢のマントをはためかせ走り出───そうとしたところで、傍らに立つ黒髪の少女にその腕を掴まれる。
いつも通りの無表情。喜びも悲しみも、怒りも不安も見せないその表情で、エルシェを止める黒髪の少女の名前は───レイナ。
アオイとエルシェとは、成り行きで旅を共にしている最中なのだが───実際、アオイが彼女に申し出たのはセルビオーテ連合王国までの道のりの同行であって、彼女が二人といる理由は実は既に存在しない。
にも関わらず、レイナはエルシェと共にいた。
「気持ちはわかるけれど───駄目よ。行ってはいけないわ、騎士さん」
「レイナ!? ッ、手を放してください! まだ少年とラスタが中にいるんですよ!? このままじゃ二人とも崩れ落ちるオズボーン邸の下敷きになって……!!」
「けれど、もう時間がない。あの屋敷はもはやいつ崩壊するかもわからない状況、貴女が今近づくのはあまりに危険よ。貴女まで巻き込まれてしまう」
「でも!! もしここで二人を助けられなかったら、私はきっとこの先一生後悔します!! 『騎士』として……誇り高き《騎士団》の一員として、胸を張って団長に会えません!! そうなったら私はもう、何も……」
「……ごめんなさい。けど、行かせるわけにはいかないわ。もし貴女まで巻き込まれることになったのなら……彼もきっと、悔やむでしょうから」
「……っ!」
腕を振り払おうと懸命にもがき、しかし体格差もあってはレイナままるでびくともしない。せめてもの言葉の抵抗でレイナに言い返そうと、そう振り返ったエルシェ。
だがエルシェは、その時レイナが浮かべていた表情を見て思わず押し黙った。
彼女は、レイナは───どこか寂しそうな、いつもとは違う表情をしていた。
いつもの凍りついたような無表情ではない。もっと何か言いたいことがあって、いつもは理性と冷酷な仮面で抑え込んでいる彼女の心の栓を抜いて、溢れてしまいそうな感情があって、それでもすんでのところで決壊を堪えているような。
悲しい、寂しい表情だった。
「レイナ……」
「おい! あ、あれを見ろ!」
だが、その時。三人の近くで、また彼らと同じようにアオイの帰りを待っていた近衛兵の一人が大声を挙げて屋敷を指差す。
その声に釣られてオズボーン邸を見てみれば、屋敷の壁に入った、一際大きな亀裂。
それが徐々にピシピシと音を鳴らして、広がりを見せ始めていた。
───完全崩壊が、始まる。
そう誰しもが思った瞬間、まるで二人の帰還を祈る全員の思いを嘲り笑うように、オズボーン邸は轟音とともに───崩れ落ちた。
一瞬だった。一瞬で全ては、今終わった。
まるで山火事のように大量の砂煙が立ち上り、あっという間にオズボーン邸はそれに巻かれて何も見えなくなる。
屋敷が、完全に崩れた。
それは文面にしてみればそれだけのことに過ぎなかったが、しかしこの場にいる全員にとってはそんな短い一文を遥かに超える思いを抱かせる事実であった。
アオイとラスタは───屋敷の中に残っていた、二人は。
これでもう、この世からいなくなってしまったのだ。
オズボーン卿という一人の男の浅ましい野望と共に跡形もなく崩れ去った屋敷は、残酷にも最後に二人の少年少女の尊い生命を奪っていった。
「あ……え……?」
目の前で起こった事態をまるで飲み込めず、エルシェが困惑した声をこぼす。
何が起こったのか、わからない。わかりたくない。脳が理解を拒んでいるのだ。
「嘘、ですよね……? だって、こんなことが……二人は、どこに……?」
「そんな、どうして……アオイ様と、ラスタは……!!」
「……」
ソフィアは口に手を当て狼狽し、レイナは誰ともなしに俯く。エルシェはあまりのショックにただ、ただ立ち尽くして崩壊したオズボーン邸を眺めていた。
「なん、で……」
視界がみるみるうちに暗くなっていき、頭がぐわんぐわん揺れ始める。
───これは現実なのだろうか? あるいは、悪い夢なのではないだろうか?
そんな思いが脳裏によぎり、エルシェは自らの頬をつねる。
痛かった。しかしそれでも、これが夢であると証明できるのなら、このくらいの痛みどうでもよかった。だが───目は、醒めない。これは現実だった。
不幸にも、夢ではなかったのだ。
「うう……あ……」
そう理解した途端、何かが込み上げてくる。
自分はどうして、こんなにも泣いているのだろう。もちろん、アオイとラスタはエルシェにとって大切な友人だ。友人を失った経験など、平和なレーヴェで生まれ育ったエルシェにはなかった。だからなのだろうか。
悲しくて当然だ。ショックで当然だ。だけど───、
「あ、うぁああああああああ…………っ!!」
───どうしてこんなにも、凄まじい喪失感に襲われるのだろう。
悲しい、辛い、怖い、信じたくない、虚しい、寂しい。
これまで過ごしてきたほんの数日間の、けれど色濃く彼女の心を彩る思い出が、幾度もフラッシュバックする。
笑う姿。働く姿。戦う姿。───これは、アオイか。
ああ、自分は───なんと愚かだったのだろう。こんなことになるのなら、やはりレイナを振り切ってでも向かうべきだった。彼とラスタを、助けに行くべきだった。
もし、レイナの言う通り犠牲になったとしても。あそこへ行っていれば───こんな気持ちになることはなかったのに。
こんなことに気づくことは、なかったのに。
丘の上にはただ、エルシェの悲痛な慟哭だけが響き渡る。
それからソフィアがすすり泣く声と、周りの近衛兵が鼻をすすり出す音がやがて聞こえ始めた。
───終わった。全てはもう、終わってしまったのだ。
それからしばし時間が経つと、やがて数人の近衛兵がせめてもの形見を見つけようと瓦礫の山となったオズボーン邸へ行こうとする。
───だが。だが、その時。
「……待って」
悲痛に満ちた空気を不意に打ち破ったのは、レイナの声だった。
「……え?」
その声に目を泣き腫らしたエルシェが顔を挙げる。レイナは、真顔でオズボーン邸の方を指差していた。
「音が聞こえる」
「……音、ですか?」
「ええ。足音が聞こえる。小さいけれど……でも、一歩一歩こちらに近づいてきている。誰かがここに、向かってきているわ」
「……?」
屋敷の中はもぬけの殻になっていたはずだが、あるいは逃げ遅れた使用人でもいたのだろうか。それとも───武装した賊か。
自然と場の空気が変わり、近衛兵達が武器を手にとって身構える。
最初はレイナにしか聞こえていなかった足音だが、やがてザッ、ザッ、ザッとそこにいる誰の耳にも聞こえてくるようになる。
足音の主はどうやら丘を登り、ここまで来ようとしているらしい。丘の下からザッ、ザッと聞こえてくる足音はだんだんと大きくなっていき───。
「ッ、何者だッ!」
「……」
そしてついに、人影が丘の上へと姿を現し、足音の正体が明らかになる。
「はぁ、はぁ……ッはぁ……ッ」
「……貴方は」
そこに立っていたのは一人の、少年だった。
紫がかった紫黒色の髪に、紫紺の瞳。唯一右端の髪だけが藍色に染まっており、しかしそれ以外にはこれといって特筆すべき特徴もない少年は───激しく息を切らし、服のあちこちを砂や泥で汚しながら、しかしそれでも抱きかかえた赤髪の少女には傷一つ見られず───そこに立っていた。
少女ラスタを抱きかかえる、紫黒色の髪の少年。
それは紛れもなく、エルシェの───そしてレイナの、ソフィアの見知った人間の姿で。否、人間ではない。曰く神の力『神格』を持つ、半人にして半神。
アオイ、それが彼の名前だった。
「しょう……ねん……?」
「……エルシェか。はは……お互いに生きて会えてよかったよ。レイナに、ソフィアも……みんな無事みたいだな。よかった」
「アオイ様ッ!!」
「少年!!」
「おお、どうしたそんな顔して。死んだかと思ったか? 言ったろ、ラスタを生きて返すって。約束は守る……とは言い切れないけど、でもできる限りは努力する半神だよ、俺は」
途端に近寄る二人の顔を見て、アオイは笑ってみせる。
だがその笑顔にももはや力はなく、彼自身も傷こそ見えないものの───歩き方も、片方の足を引きずっている、既に限界が近い人間のそれだった。
そんな彼を見て、ハッと近衛兵の一人が前に進み出る。
そして、「お疲れ様でございました、アオイ様。この者は……ラスタのことは、後は我々にお任せください。裏に天幕がございます、アオイ様はそこでお休みになってください」と、彼の腕からラスタを受け取った。
アオイはラスタを近衛兵に受け渡すと、
「ああ……お願い、しま───」
ようやく。ようやく全てが終わったことを、きっと悟ったのだろう。
彼はまるで力尽きるように、支えを失ったようにふらりと後ろに倒れた。
「アオイ様!?」
だが───その表情は、心なしか達成感に満ち溢れた、笑みを浮かべているように見えたのだった。




