第59話『魔獣殺しvs赤の従者』
「───え?」
目の前に広がる風景に、俺の口から気の抜けた声が漏れる。
なぜならそこに立っていたのは───俺の、俺たちのよく知る人物だったから。
「なん、で……お前が、ここに……!」
無造作に伸ばされた赤い髪に、琥珀色の瞳。伸びた前髪の下に見える黒い眼帯。
背負った大剣は少女の身の丈ほどもあり、服は露出度の高い鎧のようなコスチューム。
ソフィアの従者であり一番の友人でもあるはずの少女、ラスタは息を荒げ、俺たちのことを睨みつけていた。
「フーッ……フーッ……!」
「……ラスタ? お前どうして、いや、それよりも……!」
───様子がおかしい。一目見ればそれは明白だった。
「ラスタ!?」
「……はーッ……はーッ」
両肩を激しく上下させ、息遣いはまるで獣のように荒い。それに、俺たちを睨めつけている瞳はよく見れば猫のように細くなっており、さらに───。
「少年、あれを見てください!」
「なん、だアレ……犬の、耳……?」
エルシェが指差した先。ラスタの頭の上部、両脇に───犬や狼に生えているかのような耳が生えていた。
「フーッ……!」
ラスタは犬歯を剥き出しにして、俺たちに敵意をぶつける。誰がどう見ても、俺の知っているラスタとは別人のようだった。
「ラ、ラスタ!? お前、どうしたんだ……大丈夫か!?」
「ああ……うぅ……ッ!」
「ラスタ!? 聞こえてるのか!?」
俺の呼びかけにも彼女は一切反応しない。ただ頭を不快そうに震わせ、低く唸るだけだ。
正気を、失っているのか。
ラスタの様子は明らかに異常だった。自意識があるのかどうかすら、わからない。
一体彼女の身に何があったというのだろうか。
「まさか、オズボーン卿が何かしたのか……!?」
「私はその人のことをよく知らないけれど、その可能性は大いにありそうね」
「ラスタ! しっかりしてください! どうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
「フーッ、フッ……あ、ああ……!」
レイナが剣呑な目つきでラスタを見つめ、エルシェが必死に呼びかける。そこで突然ラスタは頭を片手で押さえると、体勢を崩し、大剣を地面に突き刺してバランスを取った。
「う、うう……!」
ラスタは苦しそうな声を漏らし、頭を激しく振り始めた。まるで、頭痛に苦しんでいるかのように。
「大丈夫か、ラスタッ」
居ても立っても居られず、俺は走り出す。地面を蹴り出し、とっさに彼女の元へと駆け寄ろうとすると───。
「あ、あああああ───!!」
「なッ!?」
突如吠えたラスタは大剣を地面から抜き、構える。
そして跳躍すると、俺に向かってその巨大極まりない刃を空中で振り下ろし───避け、られない。
しまった。これは、これはまずい。
神格を呼び出して、『障壁』で防御を……ダメだ。この一瞬で右腕を押さえることはできない。間に合わない。
───死ぬ、のか?
目の前には、ゆっくり、ゆっくりと振り下ろされてくるラスタの大剣が迫りつつある。正気を失っていながらも狙いは正確なようで、寸分違わず描かれた死の軌道が俺の脳天を叩き割る───ことはなかった。
大剣が俺の頭へと振り下ろされる直前。その直前に、目にも止まらぬ速さで横から割り込んだ、黒い影。
刹那、世界の時計が再度動き始める。そして目の前で飛び散ったのは火花と閃光。
「……っ」
「私は、ベスタ専門の殺し屋なのだけれど───貴女は一体、何者なのかしら?」
「レイナ!」
俺の眼前に飛び込んできたのはレイナだった。
彼女は空中で大剣に自らのタガーを衝突させて刃の軌道を逸し、すんでのところで俺を助けてくれたのだった。
直後、真横で爆発が発生し、砂埃が巻き上がると同時にドオン、という轟音が森に響きわたる。狙いを逸らされた大剣が地面に到達───否、もはや着弾とでもいうべきか。
ラスタの大剣が地面に着弾し、砂埃を巻き上げたのだった。
「レイナ、ありがとな。危ないところだった。俺、お前がいなかったら普通に死んでたかもしれない」
「不快極まりない勘違いはやめなさい。私はただ───仕事につながりそうだったからやっただけよ」
「仕事?」
「ええ。だって、そこの彼女」
そう言うとレイナは真横を指差す。砂埃が晴れていく中、ラスタは「フーッ……!」と耳を逆立てて剣を構え直していた。
「……貴女、ベスタでしょう?」
「……は? 何を言って……レイナ、こいつはソフィアの従者だぞ。お前もルフトヴァールで、ソフィアにご馳走してもらった時会っただろ」
「その時から違和感は感じていたわ。彼女、目が不自由なようだったけれど。あれは隠していたんでしょうね。あれだけ前髪で目を隠して、さらに眼帯をつければ───視界は必然と悪くなる。元々の目の悪さに理由を付けて、誤魔化すことができる。それに、その耳」
レイナはラスタの耳を指差し、続ける。
「スフィリアで、ああいう獣の耳をした人は少数民族なら珍しくない。クティノ人とか、ガロア人とかね。けれど、あの子は違う。飛行船で会った時、あの耳は付いていなかった。耳が後から生えてくるなんて……聞いたことがない。何よりも」
彼女は目を細め、ラスタに鋭い眼差しを送る。
「この森に漂う、濃密なベスタの気配───それは貴女から発せられている。私はこの気配に誘われて、森まで入ってきた。貴女からはベスタの……いいえ、そこらのベスタよりもずっと強いベスタの気配がする。黒く醜悪で、禍々しい気配がね」
黒光りする刃のダガーをラスタへと向け、レイナはそう言った。
「ちょ、ちょっと待て! 相手はラスタだぞ! 戦うのか!?」
「ほかに選択肢があるとでも? さっき彼女に声をかけたでしょう。でも、彼女は答えなかった。自我があるにせよないにせよ、彼女はベスタ……魔獣よ。戦わないとこちらが皆殺しにされる。ベスタに話は通じないということを覚えておきなさい」
「な……でも、ラスタは人で……! 現に、俺やエルシェと喋ってただろ」
「人である証拠はないわ。人の姿をしたベスタだなんて……さすがに私も、初めてお目にかかるけどね。でも、話を聞いたことはある」
「話って……」
「──上位種、セラフィム。極稀に、ベスタの中から発生すると言われているその存在は人の姿になり、人間と動揺の知性を得る」
「セラ、フィム……?」
「単なる噂話だと思っていたけれど……まさか実在するなんてね。これでまた、『黒い竜』に一歩近づいた。彼女には感謝しなくてはならないわね」
「うぅ……ああッ!!」
そこで大剣を構えたラスタが再度跳躍し、レイナに飛びかかる。
「レイナ!」
「下がって」
またもや空中で鋼と鋼が衝突し、甲高い音を奏でると同時に激しく火花が散る。
「ああ……あああッ……!!」
「私は私の主義に則り、全てのベスタを殺す。たとえ貴女が、何者だろうと───ベスタであるのなら、私の取る行動は一つだけ」
───そして『魔獣殺し』と『赤の従者』の戦闘が幕を開けた。
ラスタは大剣を自在に振り回し、暴力的な剣閃を描いてレイナへと牙を剥く。
レイナは踊るようにラスタへと接近すると、大剣の間合いを掻い潜りラスタの喉元目掛けてダガーを刺突し───すんでのところでラスタが大きく飛び退く。
そして、再び「あああああああああッ!」大剣を叩きつけ、砂埃が二人を包み込む。視界不良の中では視覚以外の五感に優れているであろうラスタに対し不利になると判断したのか、今度はレイナが後ろに跳躍して距離を取った。
「レ、レイナがラスタと……! と、止めます!」
「待て、エルシェ! 下手にあの中に飛び込んでいくつもりか!?」
「ぐっ……!」
そう───一度二人の戦いが始まってしまった以上、俺たちが割り込むことは難しい。
あの二人ほどの身体能力と戦闘力を持たない俺たちがあの場に入り込んで戦いを止めようとしてもレイナの足を引っ張ってしまうかもしれないし、レイナと俺たち三人の命を危険に晒すことになってしまう。
「それに……止めたとしても、ラスタを元に戻さない限り、事態は解決しない」
どうする? なにか、なんでもいい。手はないのか?
「ッ、俺が神格化して、ラスタを鎮圧する……か?」
先のユーリエン戦を回想する。レイナと連携し、彼女が隙を作ったところに渾身の一撃を叩き込み、彼女を気絶させて無力化することはおそらく可能だ。
「だがラスタを気絶させても、その後はどうする? レイナはラスタを殺そうとするだろうし、万が一説得できたとしても、ラスタの身柄をどうすれば……」
クソ、どうにかならないか!? 考えろ、まだ手はあるはず───と、その時。
「───おや。これは驚きましたね」
「ッ、誰だ!?」
不意に背後から発せられた声に、俺とエルシェは振り返る。
「『赤の従者』を放ってから森が騒がしいので様子を見に来てみればこれはこれは。彼女が戦っているのは……近衛兵ではなく……まさか、彼女だとは。全く、何の因果なのか……」
一人の青年───否、男がそこには立っていた。
まるで色素が中途半端に抜け落ちたかのような灰色の髪に、ぴっちりと着こなされた紳士服。線の細い整った顔立ちは一見まるで女性のようだが、声は紛れもなく若い男のものだった。
男は肩をすくめると、やれやれという風に首を振る。
「これはどういう状況なのでしょうか?」
いや、それはこっちの台詞だ。
「あ、あなたは一体、誰なんですか!」
そこでようやく男は俺たちの存在に気がついたらしい。「ん? 貴方がたは……」と顔を向けると、ふっと微笑んでみせた。
「ここに来て戦っているのは、第四王女の近衛兵だと思っていましたが。はてさて貴方がたは一体何者なのでしょう? わかりませんね、初見です」
「わ、私の質問に答えてください! あなたは一体誰なんですか!?」
「……ふむ。まぁ、自己紹介は国際社会の礼儀。第一印象は交渉の場においても大変重要ですし、ここは一つご挨拶されていただきましょうか」
かくんと腰を折ると、男は恭しく頭を下げる。
「はじめまして。クラウス・クラインロートと申します。そして、そちらにいらっしゃるのが」
「ひッ!?」
そこで彼はおもむろに向こう側を指差す。
男の指差す先には───森の中に身を潜める、小太りの男の姿があった。
どうやらレイナとラスタの戦いに怯えているらしく、頭を低く下げて森の中から出てくる気配がない。
「この領地の主であらせられるハリス・オズボーン卿です。まぁ……あのザマですがね」
「ハリス・オズボーン……だと!?」
ハリス・オズボーン。ルフトヴァールでの事件に関わる重要人物であり、ベスタや私兵を俺たちに差し向け───そして、おそらくラスタの失踪と、現状にも少なからず関与しているであろう男。
「ええ、そうですよ? その反応からすると、あなた方もオズボーン卿を追ってこちらにいらっしゃった王国の近衛兵のお一人でしょうか?」
クラウスは平然と俺たちに声をかけてくる。
その声音や言動からは敵意や害意といったものは感じられない。ただ町中でばったり出くわした友人に、気安く声をかけているだけのような───だからこそ、歪だった。
この男は近衛兵がハリス・オズボーンを追っていることを知っていた。そして、オズボーン卿と行動を共にしているらしく───つまりは、俺たちの敵である可能性が高い。
にも関わらず、男は俺たちのすぐ近くでレイナとラスタの戦いを見物しながら話しかけてきている。
怪しい。あまりにも、怪しかった。
ちらと隣を見てみれば、エルシェも考えていることはやはり同じのようだ。
剣に手をかけ、いつでも抜ける体勢に入って男を見ている。
「お前……何者なんだ」
「私ですか? ふふ、大した者ではありませんよ。そう露骨に警戒なさらないでください。傷ついてしまいます」
そう言うも彼は、傷ついた素振りなどまるで見せず今も尚レイナと激戦を繰り広げるラスタを指差すと、
「どうです、彼女。いいベスタでしょう? あれだけ戦えるベスタなど、連邦に出回っている個体ではほとんどいませんよ。あれなら、目覚めるのも時間の問題でしょう」
「目覚める、って……」
どういう意味なんだ、と続ける間もなくクラウスは応える。口元に薄い笑みを浮かべ、
「わかりませんか? ベスタの上位種───セラフィム。その一体として、ですよ」
───事態はどうやら、悠長に構えている暇はなさそうだ。




