【短編】ら抜き言葉の「ら」を知らないぼくは。【738字】
さとしは勉強が嫌いではなかったが頭が弱く、問題が解けないために苦手であった。勉強をして賢くならないといい学校に入れず将来苦労することがわかっているのに頭が悪いために理解したことをすぐに忘れたり再び理解できなくなってしまったりするので頑張って勉強しても身につかないので嫌気がさしてきた。親も勉強には縁がないような人種で、さとしも遺伝子には逆らえないのだと自分に言い聞かして生活してきた。
24歳になったころ、国立大学出身の彼女と付き合うことになった。彼女はさとしの書いた社内新聞の文章を見て「ら抜き言葉が気になる」と言う。さとしは「ら抜き言葉」とはなんだと調べると、食べられるを食べれる、来られるを来れると「ら」を省略している言葉をら抜き言葉だということを知る。間違った日本語の使い方に気づかず使っていたことと、これは中学生レベルの知識であること、またそのことを彼女に知られたさとしは自分がどうしようもないくらい恥ずかしく、自分の無知と知能の低さに怒りと絶望が湧き上がってきた。さとしは学歴や知能の差は関係ない、だから俺たちは付き合えてるんだと思っていたが、この常識の差で「あいつは元々頭が良いから、いいよな脳の遺伝子設計図が恵まれてるやつは」と嫉妬をしてしまい自分自身でこの考えを否定してしまう。
思い返すと、さとしの人生そのものがら抜き言葉のようだった。さとしは〜した「ら」どうなるか?と考え予測し情報収集・検証してから実行する彼女のようなことはできなかった。〜した。と行動して経験して理解するタイプだった。自分がこの「ら」を入れられる賢さという知能があればよかったのに。そうすればこんな気持ちにならず、彼女の才能を嫉妬したり、己の馬鹿さに絶望することはなかったのかもしれない。