9.孤独には慣れていたのに
結局、少しも眠れなかった。朝までずっと、泣き通した。そのせいで頭はぼんやりするし、目ははれぼったくなってしまった。
だから今日は一日、この客間に引きこもることにした。体調が悪いからということにして。本当は、この泣きはらした目を誰にも見せたくなかったからだけど。
ザンドラ様には使いをやって、今日の勉強を休むと伝えておいた。
返ってきたのは「あなたはもう一人前の令嬢と呼べるでしょう。ちょうどいい機会ですし、わたくしとの勉強も終わりにしましょう」という言葉だけだった。
これ幸いと、寝台で丸くなる。窓の外に見える空は気持ちよく晴れていて、ちょっぴり恨めしく思えてしまう。
私はこんなにも落ち込んでいるのに、どうして空はあんなに清々しいんだろう。窓の外を見たくなくて、勢いよく寝返りを打つ。今度は、がらんとした部屋の中が目に入ってきた。
普段なら、ザンドラ様の部屋で勉強している時間だ。
彼女はいつも私のことを冷たくあしらっていたけれど、必要な事項はきちんと教えてくれた。それがフェリクス様の命だからと、彼女は言い切っていたけれど。
「……ザンドラ様でもいいから、一緒にいたい……かも」
不思議なくらいに、一人きりでいるのが辛かった。生まれて十八年、ずっと一人で過ごしてきた。寂しさも辛さも、感じなくなっていた。死ぬまで一人きりなのだろうなという事実を、受け入れつつあった。
子供の頃は、毎日寂しくて泣いていた。でももう、その程度のことで泣いたりしない。私も強くなったなと、そう思っていた。
それなのに。フェリクス様の手を取ってここヒンメルに来てから、私はすっかり弱くなってしまった。
フェリクス様に会えないことを寂しいと感じて、ザンドラ様と仲良くなれないことを辛いと思って。そして、エーリヒ様がこちらを向いていないことを知って、ここまで落ち込んで。
いけない、昨夜のことを思い出したら、また涙がにじんできた。枕にぎゅっと顔を押し当てて、ため息を押し殺す。
余り余った時間のつぶし方なら知っている。でも、寂しさの癒し方は分からない。
ここに来てから、分からないことだらけなのだと痛感させられてばかりだ。
私はたくさんの本を読んできたから、たくさんのことを知っていると思っていた。でもそうやって蓄えてきた知識が、少しも役に立ってくれない。
……駄目だ。こうしていても落ち込むばかりだ。考えないようにしないと。
涙を寝間着の袖でぐいと拭って、毛布を頭まですっぽりかぶる。見えるのはただ、柔らかな毛布だけ。
そのままぼんやりしていたら、自然とまぶたが下がってきた。ふわふわした眠気に身をゆだねて、そっと目を閉じた。
次に目を開けたら、夕暮れの空が飛び込んできた。どうやらあのまま、ずっと眠っていたらしい。いつの間にか、顔までかぶっていた毛布は外れて、胸の辺りまで下がっていた。
ゆっくりと身を起こして、窓の外を見る。空一面に広がるオレンジ色に、きゅっと胸が切なくなった。
と、窓辺に何かがあるのが見えた。いつもの贈り物だ、最初にそう思った。けれどすぐに、首をかしげる。
あの贈り物は、エーリヒ様がくれたものだとばかり思っていた。
でも彼は、誰か他の女性のことを好いている。ただの親切で贈ってくれているのだろうか。それとも、贈り主は他の人なのだろうか。
それに、置かれている時間も違う。いつも私が贈り物を見つけるのは朝だった。他の時間も窓を見張っていたけれど、贈り物が置かれることは一度もなかった。
不思議に思いながら、今回の贈り物を手に取る。赤くてみずみずしい、小さな木の実だ。図鑑で見たことがある。これはとっても栄養があって、弱った体に滋養を与えてくれるとされているらしい。
実物を見たのは初めてだけれど、とてもおいしそうだ。顔を近づけると甘い香りがする。
私は今日、体調を崩したことにして引きこもっている。もしかしてこれの贈り主は私のことを心配して、この赤い実を持ってきてくれたのだろうか。
急に、気分が上向きになるのを感じた。我ながら単純だなと思いつつ、手の中の赤い実をじっと見つめる。その一粒を、そろそろと口に運んだ。
甘い。すっごく。自然と笑みが浮かんでくる。私はひとりぼっちではない。少なくとも誰か一人は、私のことを気にかけてくれている人がいる。そう思ったとたん、勇気がわいてきた。
エーリヒ様のことは残念だし、とても悲しくてたまらない。でもいつまでも、こうして引きこもっている訳にはいかない。
「私、エーリヒ様のことがちょっと気になってた。でもそもそも、私はフェリクス様の妻になるかもしれないんだ。……私の返事次第、だけど」
側室になるというのがどういうことなのかぴんとこないし、正妃のザンドラ様のことは苦手だし、それに何よりフェリクス様にほとんど会えていないこともあって、ずっと返事は保留のままになっていた。
もしかしたら私がエーリヒ様に惹かれつつあったのは、それらの問題から顔を背けようとしていたからというのもあったかもしれない。
けれどそろそろ本気で、その話をどうするかについて考えなくてはいけない。赤い実を一粒ずつ大切に食べながら、決意を固める。
ここからまた、ゆっくりと頑張っていけばいい。会えないのなら、会いにいこう。
そうやってフェリクス様のことをもっともっと知って、そうして彼にきちんと返事をしよう。そう思った。
けれど、すぐにそれどころではなくなってしまった。
その日の夜、フェリクス様が倒れてしまったのだ。
「ザンドラ様、あの、フェリクス様は今、どうなって」
その知らせを聞くなり、私はザンドラ様の部屋に駆け込んだ。エーリヒ様の部屋に行く勇気はまだなかったし、フェリクス様の部屋は今立ち入り禁止らしい。
エーリヒ様は、私があの逢瀬の場に出くわしてしまったことを知らない。でも、私はどんな顔をして彼に会えばいいか分からなかった。
それに彼は、フェリクス様のことをあまりよく思っていないような気がした。あのパーティーの時の、普段とはまるで違うエーリヒ様の表情を思い出すと、背筋がすっと冷たくなる。
寝間着にガウンのまま、しかも全速力で走ってきた私を、ザンドラ様はとがめなかった。彼女もまた同じような、しかし私より遥かにきちんとした格好で、深刻そうに目を伏せている。
「……まだ、何とも言えません。先ほど血を吐いて倒れられ、そのまま眠り込んでしまわれたということしか」
「な、治るんですよね!?」
「分かりません。今、医師や薬師たちが手を尽くしているところです。わたくしたちが邪魔をしてはなりません。待つしかないのです」
淡々とそう語る彼女の緑の目には、いつになく複雑な感情が浮かんでいた。苦しそうで、悲しそうで、でもほっとしたような、そんな感じだ。
「ヴィオレッタ、あなたもフェリクス様の客人だというのなら、客間でおとなしくしていることです。何かあれば、あなたのところにも知らせが行きます」
どうやらザンドラ様も、詳しいことは何も知らないらしい。彼女の部屋を出て、少しだけ迷ってからエーリヒ様の部屋へ向かった。
彼に会いたくはないけれど、フェリクス様の容態について少しでも情報が欲しい、その思いが勝っていた。
「ああ、ヴィオレッタでしたか……大変なことになりましたね」
そう答える彼は顔色が悪く、いつになく落ち着かない様子だった。前にフェリクス様に向けていたような冷ややかさはどこにもない。
でも、何かひっかかるものを感じる。彼の顔に浮かんでいる感情は、ただ弟を心配している、それだけではないような気がするのだ。
そんなことが気になりつつも、フェリクス様の様子を尋ねる。心ここにあらずといった様子のエーリヒ様もまた、ザンドラ様と同じようなことしか知らないようだった。
すぐにエーリヒ様の部屋を出て、とぼとぼと客間に戻る。けれど自然と足取りは重くなっていって、廊下の途中で立ち止まってしまった。
フェリクス様が倒れた。これからフェリクス様との距離を縮めていこう、前を向いて頑張っていこうと、そう思っていた矢先にこんなことになってしまった。
「……きっと、治るよね……大丈夫、だよね……」
そうつぶやいたら、泣きそうになってしまった。何も分からないまま、このまま待っているだけなんて、絶対に嫌だ。
「会えないのなら、会いにいけばいい……」
夕方に、赤い実を食べながら思った言葉がよみがえってくる。そうだ、他の人から聞くことができなくても、フェリクス様本人に会うことができれば。
くるりと向きを変えて、走り出す。ザンドラ様に言われた「邪魔をしないように」という言葉は、もう頭からすっぽりと抜け落ちていた。