8.裏切られた期待
「ザンドラ、そんな怖い顔をしているとあなたの魅力が台無しですよ」
おびえて何も言い返せずにいると、エーリヒ様がおっとりと言った。その言葉に、ザンドラ様の目がすっと冷たくなる。憎悪の炎から、軽蔑の氷へ。
そしてその目は、まっすぐに私に向けられていた。
思わずたじろいだ私を見かねたのか、フェリクス様が口を開こうとする。しかしそれを制するように、エーリヒ様が愉快そうに言った。
「フェリクス、君はいつも無責任ですね。たわむれに人を拾ってきては、適当に放置するのですから。こちらのヴィオレッタも、一人きりで寂しそうにしていましたよ?」
その柔らかな声には、どこか勝ち誇ったような響きがあった。あの離れで、いつも私に自慢話をしていた姉のカテリーナ。その声を思い出さずにはいられなかった。
怖い。そう思ってしまう。エーリヒ様はカテリーナとは違う。それが分かっていてもなお、半歩後ずさらずにはいられなかった。
「……そうだな。だが俺は、この行いを改めるつもりはない。エーリヒ、彼女の相手をしてくれて助かった」
苦しそうな顔で、フェリクス様が答える。葛藤しているようにも見える。ザンドラ様が進み出て、私の前に立った。
「エーリヒ様、少しヴィオレッタをお借りしてもよろしいでしょうか? パーティーが始まったばかりの今くらいしか、話す時間が取れそうにありませんから」
「ええ、もちろんです。どうぞ、女性同士の交流を深めてきてください。私たちも、兄弟……王太子である彼を弟と気安く呼んでいいのか、悩ましいところですが……で親しく語り合うことにしますから」
あくまでもにこやかなエーリヒ様に対して、フェリクス様は切なげに目を伏せている。この二人の間にも色々あるんだろうな、そう思える表情だった。
しかし二人の会話を聞くことすらできずに、私はザンドラ様に手を取られてその場から連れ出された。
そのまま彼女は、私を大広間の片隅に引っ張っていく。ちょうど大きな柱の陰になっていて、他の人たちの視線がさえぎられていた。
「……わたくしの言葉を忘れましたか? 身の程を知りなさいと、そう言ったはずですが」
いずれフェリクス様には捨てられるのだから、浮かれてはならない。ザンドラ様はそう忠告してきた。その言葉を忘れてはいない。
けれど、私がこうしてエーリヒ様のエスコートでパーティーに出てきたということは、身の程をわきまえていないと思われても仕方のない行為だ。
本当なら、私は一人で出てくるべきだったのだ。あの悪夢の婚約パーティーのように。
一応私はフェリクス様の客人ということになっているけれど、周囲はそうは見ていない。それはメイドたちの視線からでも明らかだった。
どこの誰とも分からない馬の骨。みんな、私をそんな風に見ている。エーリヒ様は、たぶん違うけれど。あと、もちろんフェリクス様も。
「……身の程を知るべきだ、ということは分かっています。でも今だけは、ちょっとだけ夢を見ていたいんです。それすらも、駄目……でしょうか」
おずおずとそう言って、それから頭を下げた。
「その、エーリヒ様はとても親切にしてくださっているので、つい甘えてしまいました。今後は気をつけますから、あの、今日だけは……」
やがて、頭の上からため息が降ってきた。
「……そうですね。自分の立場を忘れていないのであれば、今日だけは大目に見ましょう」
顔を上げると、ザンドラ様と目が合った。その緑の目に浮かんでいるのは、いら立ちだろうか。彼女はほとんど表情を変えないから、とても分かりにくいけれど。
そうして二人、フェリクス様とエーリヒ様のもとに戻る。ザンドラ様はフェリクス様の隣に立ち、私はエーリヒ様の隣に寄り添った。
「おや、もう話は終わったのですか。それでは行きましょうか、ヴィオレッタ」
柔らかく微笑んで、エーリヒ様が手を差し出してくる。その笑顔は、どこかいつものものとは違っているように思えた。
はっきりとぎこちなさの漂う空気を振り切って、エーリヒ様と共にその場を離れる。さっきまでの浮かれた気持ちが、少ししぼんでいるのを感じながら。
その日の深夜、私は眠れずにいた。
パーティーは、楽しかった。エーリヒ様にエスコートされて、一緒に踊って。本当に夢のような時間だった。
でもフェリクス様は体調がすぐれないとかで、しばらくして退場されてしまった。ザンドラ様も一緒に。
フェリクス様のことが気にならないと言ったら嘘になるけれど、それ以上にザンドラ様と離れられるのが嬉しかった。
彼女が近くにいると、緊張してしまう。というよりも、私は彼女のことを恐れているのかもしれない。
カテリーナとはまた違った形の脅威、そんな風に感じられてならないのだ。たぶん、あの冷たい緑の目のせいだろう。
ともかく私は、存分に踊ることができた。エーリヒ様以外にも、パーティーに招待されていたたくさんの殿方と。客人である遠方の使者の方とも踊った。
みんな、私のことを褒めてくれた。あの離れにいた頃は、想像もしなかった状況だった。
そんなこんなで、きっと私は舞い上がってしまっていたのだと思う。少し心を落ち着かせないと、眠れないまま朝を迎えてしまいそうな気がする。
「……こんな時間に出歩くのは、よくないけれど……少しだけなら」
そうつぶやいて、寝台から降りる。忍び足で、客間を出た。
廊下は明かりもまばらで薄暗かったけれど、たじろぐことなく進んでいく。
まだリッツィの離れにいた頃、私にはろうそくが与えられなかった。だから日が落ちると、離れは真っ暗になっていたのだ。夜は月明かりだけを頼りに、手探りで過ごしていた。
それを思えばこの廊下は、とっても明るく感じられる。これなら、余裕で歩き回れる。
迷いのない足取りで、いつもの裏庭を目指す。木の葉が風でさわさわとなる音を聞いていれば、きっとじきに浮ついたこの心も落ち着いてくるだろう。
今日はよく晴れていて、月も綺麗だ。しばらく空を眺めるのもいいな。
軽い足取りで裏庭の入り口にたどり着いたその時、人の気配を感じた。誰かが、裏庭にいる。
とっさに近くの柱の陰に隠れて、耳を澄ませた。裏庭にいる誰かに気づかれないように。
こんな時間にこんなところにいるなんて、怪しい者だろうか。いくらなんでも賊は、王宮には入り込まないと思うけれど。
けれどやがて、私は顔を赤らめることになった。そこにいる誰か、声からして若い男性は、それはもう熱烈に愛をささやいていたのだ。ちょうど死角になっていて、その相手が誰なのかは分からない。
「ね、だからもう、機嫌を直してもらえませんか。今日のパーティーは、仕方のないことでしょう」
柔らかくて優しい声。私はこの声を、知っている。柱にかけた手が、驚きに震えた。
「……ええ、大丈夫ですよ。僕が愛しているのは、ただあなただけですから」
「え……エーリヒ、さま……?」
呆然とつぶやき、そろそろと下がる。血の気が引いていくのを感じながら、大急ぎで客間に戻っていった。
エーリヒ様が、誰かに愛をささやいていた。しかもこんな深夜に、こっそりと。
あれはきっと、密会というものなのだろう。相手を確かめてくれば……ううん、知ってしまったら、もっと打ちのめされるような気がする。
私はついさっきまで、思い上がっていた。もしかしたらエーリヒ様は、私のことを好いてくれているんじゃないかって。
でもそれはただの勘違いだった。彼の思い人は、他にいる。
「エーリヒ様はいつも、とても優しかった。いつも私のことを気にかけてくれた。彼のおかげで、寂しくなかった」
寝台の上に上がって、大きく息を吐く。
「……私がフェリクス様の客人だから? だからエーリヒ様は、私に親切にしてくれたの?」
でもパーティーの時のエーリヒ様は、お世辞にもフェリクス様と仲がいいとは言えない様子だった。
「違う。だったらどうして? 分からない、もう何も分からない」
ふかふかの枕をしっかりと抱きしめて、つぶやき続ける。頬を伝う涙が、絹の布地を濡らしていった。