6.落胆、失望、優しい声
ザンドラ様は、とても優しく微笑んでいた。今までの無表情が嘘のように。
「フェリクス様は、気まぐれに誰かを連れてきては、またどこかに追いやってしまう方」
ゆったりと静かな、どことなく古風な雰囲気の言葉がゆるゆると流れ出る。
「あなたもそういった人間の一人でしかないのです。もっとも、わたくしがそのような人々の相手を任されたのは初めてですけれど。本当にあの方は、気まぐれでいらっしゃる」
彼女の言葉を、否定できなかった。気が向いた、フェリクス様はあの時確かにそう答えたから。どうして私をさらったのか、どうして私を助けたのか、その理由を尋ねたあの時に。
「わたくしがあなたにこうして話しかけるのは、フェリクス様の命だからです。それがなければ、わたくしはあなたの存在を気にかけることすらなかったでしょう」
今までで一番優しい声で、彼女は語る。その緑の目は、きちんと私を見ていた。
「いずれあなたも、飽きて捨てられる身。あの方に会いたいなどと、そんな身の程をわきまえない望みは持たないことです。ゆめゆめ、浮かれてはなりません。これは忠告ととらえてもらって構いません」
そうしてまた、ザンドラ様は表情を消した。聞こえるかどうかの声で、彼女はささやく。
「……あなたはあの方から、逃げられる。わたくしと違って」
それはどういう意味でしょうか、と尋ねることはできなかった。長いまつ毛が、悲しげに震えているように思えたから。
この日はもう、勉強は終わりになった。ザンドラ様が、気分がすぐれないと言い出したのだ。次は明後日にしましょう、と彼女はこちらを見ることなくそう言った。
あてがわれた客間に戻って、椅子に座る。クッションを抱きしめて、一人ため息をついた。
ここはとっても豪華な部屋だけれど、私しかいない。
フェリクス様は一度も顔を出してくれないし、ザンドラ様は取りつく島もない。そしてこの王宮に、他に知り合いはいない。
これでは、あの離れにいた頃と同じだ。ううん、あの頃よりも辛いかもしれない。
人といる温かさを知ってしまったせいで、寂しさを思い出してしまった。小さな頃に、胸の奥に厳重にしまいこんでいた感情が、よみがえってしまった。
いっそ、フェリクス様を探しにいってしまおうか。そう考えて、思いとどまる。
客人でしかない私が勝手に王宮をふらつくのはよくない。もしかしたら、フェリクス様に迷惑がかかってしまうかもしれない。
それに、とうつむいてクッションに顔をうずめる。さっきのザンドラ様の言葉が、頭を離れなかった。いつも冷静で、ほとんど表情を変えない彼女が、はっきりと微笑んで口にしたあの言葉。
フェリクス様は気まぐれに人をさらってきては、飽きて放り出す。私もいつか、同じ目にあう。
本当にそうなのだろうか。そうではないと信じたい。彼は私を妻にするつもりだと言っていた。ならば、私を放り出すことはないだろう。
でもそもそも、どうして彼がそんなことを考えたのかすら分かっていない。だから、どうなるか分からない。
私を遠ざけてきた、虐げてきた家族。私を使い捨ての妻にしようとしたアッカルド伯爵。
そんな人たちしか知らなかった私には、フェリクス様は輝いて見えた。この人についていこう、この人なら信じられると、そう思った。
でも、その判断が正しかったのか、それもやっぱり分からない。私は生まれてこのかたほとんど人と関わってこなかったから、当然人を見る目もない。
「……駄目……頭がこんがらがってきちゃった」
考えれば考えるほど、気持ちが落ち込んでいく。
「寂しいな……辛いなら声を上げろってフェリクス様は言っていたけれど、言いたい相手がそこにいないのに……」
大きくため息をついたら、また涙がにじんできた。頭をぶんぶんと振って、椅子から立ち上がる。クッションを置いて、そのまま部屋を出る。
「気分転換、してみよう。少し外の空気を吸うくらいなら、たぶん大丈夫……」
私の客間からザンドラ様の部屋に向かう途中に、裏庭があった。裏庭といっても、私が生まれ育った屋敷の庭よりもずっと大きくて、遥かに手の込んだものだけれど。
少しあそこで、外の空気を吸ってこよう。そう思ったのだ。
広い廊下をせっせと歩き、裏庭に足を踏み入れる。そこは思った通りとても静かで、みずみずしい緑の香りに満ちていた。
そこにあった大きな石のベンチに座り、またため息をつく。
目の前には花壇があって、その向こうには水路もある。甘い花の香り、さらさらという水の音、そのどちらも私の心を慰めてはくれなかった。
気晴らしに来たはずなのに、気づけば私はぎゅっと唇をかんで、うつむいてしまっていた。泣きそうになるのを必死でこらえていたら、いきなり後ろから声がした。
「こんにちは、愛らしいお嬢さん。泣きそうな顔をしてどうしたのですか?」
柔らかな声に振り向くと、いつの間に近づいてきたのか、すぐ近くに若い男性が立っていた。
「あ、あの、その」
突然声をかけられてしどろもどろになっている私に、彼は優しく笑いかけてくる。
「自己紹介がまだでしたね。僕はエーリヒ、フェリクスの兄です」
フェリクス様の、お兄様。あれ、でも王太子は弟のフェリクス様だ。どういうことだろう。
「年は僕のほうが上ですが、僕は第二王妃の子なのです。なので、第一王妃、正妻の子であるフェリクスが王太子なのですよ」
なるほど、そういうことだったのか。納得しながら、エーリヒ様を見上げる。
髪の色も目の色も、そして顔立ちも体格も、何一つフェリクス様には似ていない方だった。
フェリクス様よりも暗いくすんだ茶色の髪、つややかな黒い目。フェリクス様よりもがっしりしていて、雰囲気はずっと温和だ。
エーリヒ様は黒い目をまぶしそうに細め、まっすぐに私を見つめてくる。
「フェリクスも薄情ですね。こんなに魅力的な女性を、こんなところで一人きりにして放り出すのだから」
「あ、あの、私がちょっと気晴らしにここに来ただけで……普段は、ザンドラ様のところにお邪魔しています。その、一人きりで放り出されている訳では、ありませんから」
あわてて、そう言い訳をする。けれど私の頭の中には、彼の言葉がぐるぐるとめぐっていた。
魅力的。そうなのだろうか。やっぱり、よく分からない。もし本当にそうなら嬉しいけれど。そもそも自分に魅力があるかどうかなんて、考えたことがなかったし。
私はうっかり、難しい顔をしてしまっていたのだろう。エーリヒ様が苦笑しながら、私のすぐ前にひざまずいた。
「美しい小鳥を思わせる、繊細ではかなげな容姿。粉砂糖をまぶしたような淡い金の髪に、すみれ色の目。自信なさげに視線をさまよわせている様を見て、守ってやりたいと思わない男はいませんよ」
彼が小首をかしげたその時、聞き覚えのある音がした。あの鈴の音だ。
見ると、彼は銀の鈴を一つ、鎖に通して首にかけている。その大きさから何から、フェリクス様が腰に下げていたものとそっくりだ。
「おや、これが気になるのですか?」
「は、はい。その……綺麗な飾りだな、と思いました」
あの鈴については知らぬふりで通せ。そんなフェリクス様の言いつけを守って、あいまいに言葉をぼかす。
「飾り……ですか」
何やら意味ありげな言葉に、無言で小さくうなずく。目の前にある鈴から聞こえる、ちりんちりんという音に気づかなかったふりをして。
エーリヒ様はひざまずいたままじっと私を見ていたが、やがてにっこりと笑って手を差し出してきた。
「ところでヴィオレッタ、君はさっき気晴らしと言っていましたね? 僕でよければ、お付き合いしましょうか」
思いもかけないその言葉に、すぐに返事ができなかった。ぽかんとしたまま、近くにあるエーリヒ様の黒い目を見つめる。吸い込まれそうなくらいに暗くて、深い。
「……君のような女性がいてくれれば、間違いなく素晴らしい一時を過ごせると思うのです。どうか、この哀れな男を救ってはくださいませんか?」
そうして彼は、いたずらっぽくウインクする。王子とは思えない、茶目っ気たっぷりのしぐさだった。
そんな表情に背中を押されるようにして、手を伸ばす。気づけば、彼の手を取っていた。初対面の相手にいきなり触れた自分の動きに、自分で驚いてしまう。
「それでは行きましょうか、ヴィオレッタ」
エーリヒ様はとても嬉しそうに、私の手を引いて立ち上がらせる。その人懐っこい笑顔が、今はとてもありがたかった。