5.静かなる正妃
さらにもう数日旅をして、私たちはついに隣国ヒンメルの王都にたどり着いた。その間私は、フェリクス様の言葉を幾度となく頭の中で繰り返していた。
私は一人の人間だ。理不尽な仕打ちに耐える必要も、幸せをあきらめる必要もない。
そんなフェリクス様の言葉は、私の胸の奥深くに灯っていた。
その明かりが、凍りついていた心をゆっくりと解かしてくれるのを感じていた。そうして、希望の光がきらきらと、その中から生まれ出てくる。
フェリクス様は、私の命を救ってくれた。そうして、私の心も救おうとしている。
どれだけ感謝しても、し足りない。ヒンメルの王宮についたら、新しい暮らしが始まったら、きっとこの恩を返そう。
決意を胸に、馬車の窓の外に目をやる。そこには、どんどん迫ってくる王宮の姿があった。
あそこには、たくさんの人がいる。フェリクス様の正妃だという女性も。どんな人なのだろう。
馬車が王宮の門をくぐる時、ふとフェリクス様が身を乗り出してきた。私の耳元で、声をひそめてささやく。
「一つだけ、守ってもらいたいことがある。この鈴のことは、今後絶対に口にするな。君は俺がこの鈴をつけていたことに気づいていないし、ましてや音など聞いていない。いいな」
「は、はい……」
いつになく厳しい雰囲気のフェリクス様に驚きながらも、こくりとうなずく。
「そもそもこの鈴は、鳴るはずのないものだ。俺を含めたほとんどの人間には、ただの銀の飾りでしかない」
「あの、でも私には今も、その鈴の音が聞こえていますが……」
「その理由については、いずれ機会があれば話す。とにかくこれからは、聞こえないふりを続けろ。もし同じものを見たとしても、知らぬふりで通せ。……これから先、穏やかに暮らしていきたいと思うのであれば」
神妙にもう一度うなずいたまさにその時、馬車が止まった。
フェリクス様はもう一度視線だけで念を押すと、手を差し出してきた。アッカルド伯爵の別荘から、私を連れ出した時のように。
彼の手を取り、二人一緒に馬車を出る。石畳に降り立って、大きく開かれた目の前の扉を見上げた。今まで見た中で、一番大きな扉だ。
「おかえりなさいませ!」
たくさんのメイドたちが二列に並んで、きっちり同じ角度に頭を下げている。メイドたちの列の間を、一人の女性がゆったりと歩み寄ってきた。
華やかに結い上げた銀の髪と、ため息が出るほど豪華なドレス。長いまつ毛が、物憂げな緑色の目に影を落としている。
彼女はやけに優雅に、そしてのろのろと歩いている。床に触れるほど長いドレスのすそが、さらさらと衣ずれの音を立てていた。
そうして彼女は、フェリクス様の前でぴたりと止まった。手を伸ばしても届かないくらいの距離で。
「……おかえりなさいませ、フェリクス様」
「ああ、今戻った。ザンドラ、正妃じきじきの出迎え、いたみいる」
「いえ、夫を迎えるのは妻の務め。ご無事のお戻り、何よりでございます」
王太子とその正妃。そんな二人の会話はとても礼儀正しくて、そして恐ろしくよそよそしいものだった。
愛のない政略結婚だとフェリクス様は言っていたけれど、ただ愛がないだけでなく、もっと何か別の、凍りつくような何かが二人の間には流れているように思えた。
「ザンドラ、こちらはヴィオレッタ。隣国ガッビアの娘だ。気が向いたから連れてきた」
前置きもなく告げられたそんな一言に、ザンドラは眉一つ動かさずにうなずく。
「あなたが誰かを連れてくるのは、これが初めてではございません。とがめだてなどいたしません」
どことなく気だるげに思えるほどゆるゆると、ザンドラ様は話している。あまり抑揚のない静かな声を聞いていると、頭がぼうっとしてくる。
「彼女は俺のそばに置いておこうと思う。一応貴族の生まれだが、貴族らしいことは何一つ知らない。ザンドラ、すまないが彼女に色々教えてやってくれ。ついでに、話し相手になってくれると助かる」
「はい、うけたまわりました。……よろしくお願いします、ヴィオレッタ」
「あっ、えっと、よろしくお願いいたします、ザンドラ様」
返ってきた視線は、氷のように冷たかった。はっきりとした拒絶に満ちたその視線に、心がしぼんでいくのを感じていた。
この人とは、きっと仲良くなれない。そう悟ってしまったのだ。
助けを求めるように、フェリクス様を見る。けれど彼もまた、何とも言えない複雑な目で私を見ているだけだった。
幽閉されていた離れから生まれて初めて出られたと思ったら、恐ろしい家に嫁がされそうになった。これでもう終わりだと絶望していたら、フェリクス様が救い出してくれた。
でも、また私のことをよく思っていない人がここにいる。やっぱり私は、幸せになんてなれないのかな……。
気分が思いっきり落ち込んだその時、ふと頭の中に響く声があった。馬車の中で、フェリクス様が私に言い聞かせた言葉。
もうこれ以上、あきらめるな。
そうだ。ここでひるんでいじけていたら、一生幸せになんてなれない。だから、あきらめるんじゃない。つかみ取るんだ。
フェリクス様が救ってくれた命、これからの人生を、もっと満たされたものにしたい。一人の人間として、生きていきたい。そのために。
そんな決意を込めて、もう一度ザンドラ様に頭を下げた。なけなしの勇気をかき集めて、口を開く。
「私には、本で得た知識しかありません。きっと、何度もあなたを呆れさせてしまうと思いますが……頑張りますので、どうそご指導よろしくお願いいたします」
お腹に力を入れて、さっきよりも力強くそう言葉を紡ぐ。顔を上げると、驚いたのか目を丸くしているフェリクス様と、ほんの少し目を見張ったザンドラ様の姿が見えた。
そうして、私の王宮暮らしが始まった。今のところ、私はフェリクス様の客人という扱いになっている。
これからどうするか、フェリクス様の妻になるかどうかについて、ちゃんとした返事は保留にしていた。
あまりにも色々なことが急に変わりすぎて、ついていくので精いっぱいだったのだ。落ち着いてからゆっくりと考えさせてください、とそう答えてある。
ドレスなど身の回りの必要なものは、フェリクス様が手配してくれた。好みがあるなら聞くが、と言われたけれど、正直よく分からないので、そこはフェリクス様に全て任せた。
お礼を言いたかったけれど、なぜかフェリクス様には会えなかった。王宮に来たあの日以来、彼とほとんど顔を合わせていない。王太子としての仕事が忙しいらしい。
しかし私には、しょんぼりしている暇すらなかった。フェリクス様の客人、あるいは妻として恥ずかしくないように、貴族として必要な教養や礼儀作法、様々な立ち居ふるまいなどを身につけなければならないのだ。
そうして毎日ザンドラ様のもとに通い、様々なことを学ぶ。フェリクス様に会えない寂しさをごまかすように。
あっという間に、一週間が経っていた。今日も今日とてザンドラ様の部屋に押しかけていた私は、固唾をのんで彼女の言葉を待っていた。
「この一週間、あなたに色々と教えてきましたが、教養……については、もう問題ないでしょう。ずっと本を読んで育ったからか、基礎の知識は持っていたようですから」
ゆったりと落ち着いた声で、ザンドラ様はつぶやく。その視線は、すぐ目の前にいる私を通り過ぎて、どこか遠くを見ているようだった。
「それでは今後は、様々な場面で必要になる作法や立ち居ふるまいを教えます」
そうして、新たな勉強が始まった。説明しながらゆるゆると動く彼女を見つめて、その言葉や動きを一生懸命に覚えていくのだ。
このヒンメルの王宮に来るまで、こんな風に誰かから何かを習ったことはないから、とても新鮮だ。
ザンドラ様はやはり私と目を合わせることなく、それでいてとても冷静に、落ち着き払った様子で淡々と説明を続けている。
二人きりの静かな時間がしばらく続いてから、ザンドラ様が静かに言った。
「……それでは、少し休憩にしましょう」
そうしてザンドラ様は長椅子に座り、ベルを鳴らす。すぐにメイドたちがやってきて、二人分のお茶の用意をした。そうして彼女たちは、またすぐに去っていく。
ザンドラ様の向かいの長椅子に腰を下ろし、お茶を飲む。さっき彼女に教わった内容を思い出しながら。
ティーカップの持ち方、お茶の飲み方、そういった細々としたことの一つ一つに、作法があるのだ。本で読んだことはあったけれど、実践するとなると勝手が違って緊張する。
彼女はやはり私のほうを見ることなく、優雅にお茶を飲んでいた。勉強中は気にならなかったけれど、こうしてほっと一息ついてしまうと、この沈黙がどうにも落ち着かない。
あの離れで、ただ一人で過ごしていた頃は、こんな風に感じることはなかった。人といると、様々なことを感じるようになるのだな、と心の中で小さく笑う。
それはそうとして、何か話したい。でも、何を話せばいいのだろう。そもそもザンドラ様は、私のことをあまりよく思っていないように思えるし。
「ヴィオレッタ、先ほどからそわそわしているようですね。何か、聞きたいことでもあるのかしら」
「その……」
気が散っていたのが、ザンドラ様に悟られてしまったらしい。ため息交じりに、彼女はそんなことを言ってきた。
聞きたいこと。山ほどある。
ザンドラ様は私のことをどう思っているのか。ザンドラ様はフェリクス様のことをどう思っているのか。フェリクス様はザンドラ様に指一本触れていないと言っていたけれど、それは本当のことなのか。
そんな疑問の数々を、そっとのみ込む。ずっと一人で生きてきて、他人との関わり方があまり分かっていない私にも、そんなことを尋ねたら失礼だと、そう感じられたから。
だからもう少し考えて、そろそろと口を開いた。
「あの……フェリクス様は、お忙しい……んですよね。いつになったら会えるのか、ザンドラ様はご存じないですか?」
ザンドラ様は答えない。けれどその緑色の目は、ゆっくりと動いて私をとらえた。何の感情も浮かべていない緑色が、ひどく恐ろしく思えた。
カテリーナの悪意に満ちた視線には慣れていた。でも、こんな目で見られることには慣れていない。
いつまでも続くかに思われた沈黙の後、ザンドラ様が綺麗に赤く塗られた唇を開いた。
「身の程をわきまえなさい」