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4.希望の目覚め

 そうして、私たちは馬車に揺られ続けていた。そうしているうちに、おかしなことに気がついた。


 フェリクス様の口数がどんどん少なくなっていったし、表情も険しくなっていったのだ。


 アッカルド伯爵の屋敷では、彼はもっと快活な雰囲気を漂わせていた。それが嘘のように、押し黙ってしまっている。


 でも、彼が私に対して不快感を抱いているとか、あるいは何か怒っているとか、そんな感じではないように思えた。


 自分に向けられる敵意であれば、すぐにそれと気づける自信はある。長いこと、悪意にさらされながら生きてきたのだから。


 だったらどうして、彼はこんな表情をしているのだろう。少し迷って、おそるおそる口を開く。


「あの、フェリクス様。……もしかして、ですけど……お腹でも痛いのでしょうか」


 するとフェリクス様は、綺麗な青い目を真ん丸に見開いて私を見つめた。どうやら私の言葉は、まるきり見当違いだったらしい。あわてて、説明を足す。


「あ、その、なんだかさっきから、フェリクス様のご機嫌が悪いような……そんな気がして。でも、どうやって尋ねたらいいのか、分からなくて」


 自分の声が、どんどん弱くなっていく。最後のほうは、フェリクス様の耳に届いていたかどうか。


 一つ深呼吸して気持ちを落ち着かせ、さらに言う。


「……私、そもそも他人と話したことがろくになくて……どんなことをどう話せばいいのか、見当もつかないんです……知識だけなら、たくさん本を読んで覚えたんですが……」


 どうにかこうにかそこまで言って、しょんぼりとうつむく。視界のはじっこのほうで、フェリクス様がふうと大きく息を吐いて腕組みをしているのが見えた。


「君はこれから、他人と関わって生きることを望むか? それとも一人、静かに生きていきたいと思っているのか?」


 いきなり、そんな二択を突きつけられた。思いもかけない言葉に顔を上げ、呆然とフェリクス様の顔を見つめてしまう。


「他人と関わりたいのなら、そういった機会を得られるよう手配しよう。一人でいたいのなら、静かに暮らせる環境を用意しよう」


 フェリクス様は堂々と、そう言い放った。それからふっと、かすかに笑みを浮かべる。


「まあどちらにせよ、君は俺のそばにいてもらうことになるが。俺は君を、手放すつもりはないからな。君は俺のものだ」


 気が向いたから、たったそれだけの理由で私は彼にさらわれた。けれど彼は、私に執着しているようにも見える。本当に彼の考えていることは、よく分からない。


「……ああ、そうだ。どうせなら、俺の妻になるか?」


「ふえっ!?」


 いきなりとんでもないことを言われて、ついおかしな声が出てしまった。フェリクス様が苦笑しながら、私の目をのぞき込んでくる。


「そうすれば、アッカルド伯爵が難癖をつけてきても簡単に突っぱねることができると思ったんだが……そこまで驚くことか?」


「だって、いきなり妻だなんて……」


 どきどきする胸を押さえて言い返すと、フェリクス様が気まずそうに目をそらした。


「そこまで深く考えなくてもいい。既に俺には正妃がいるからな。君の祖国ガッビアでは一夫一婦制だが、我がヒンメルでは側室は珍しくもない」


 正妻と側室。そんな風に、一人の男性が複数の女性を妻とすることもあるのだと、本で読んだから一応知っている。


 でもまさか、自分がそんな立場になるかもしれないなんて、考えたことすらなかった。そもそもあの離れに押し込められていた私は、結婚することもないだろうとそう考えていたのだし。


 フェリクス様は困ったように目を細めて、ぼそぼそとつぶやく。


「……とはいえ、実は俺と正妃は政略結婚でな。指一本触れたことはない。ああ、このことは内密にしてくれ。ばれると周囲からせっつかれる。世継ぎはまだか、と」


 かつて読んだ本の中には、政略結婚の夫婦について書かれた物語もあった。その夫婦のあまりに寒々しい関係に、まるで私と家族たちのようだと思ったものだ。


 どうやらフェリクス様にも、色々事情があるようだった。気になったけれど、聞くことはできなかった。やけに暗い彼の目は、それ以上の質問を拒んでいるようだったから。


「ともかく、これからどうするのか、今すぐ決めなくてもいい。だが君が王宮に来て、俺の近くで暮らすことだけは確定だ。それ以外は好きにしろ」


 ちょっとぶっきらぼうに言い放ったフェリクス様の横顔を見ながら、私は一生懸命に涙をこらえていた。といっても、悲しかった訳ではない。


 私がこれからどうするか、選ぶことができる。しかも彼は、私のことを気遣ってくれている。たったそれだけのことが、とても嬉しくて。


 私は物心ついた時にはもう、あの埃っぽい離れに押し込められていた。勝手に離れを出ることは許されなかった。みんなが寝静まった深夜だけが、外の空気を思う存分吸える唯一の時間だった。


 どの本を読むか決める。夜に裏庭に出るか決める。私に決めることができたのは、そんなささいな事柄だけだったのだ。


「……それでは、お言葉に甘えて少しだけ考えようと思います。ありがとうございます、フェリクス様」


「俺は君をさらって、おまけに自分の妻にしようとしたんだが……礼を言われるようなことをした覚えはないぞ」


「それでも、嬉しいんです。そうやって自分の行く先を少しだけでも選ぶことができるのが。今まで、そんな機会はなかったので」


 期待に高鳴る胸をそっと押さえて、フェリクス様にそう告げる。


「あ、でも、あの、一つだけ……私、もう一人きりで引きこもりたくはありません。それだけは、確かです」


「そうか。分かった」


 それきり彼は口を閉ざして、また窓のほうを向いてしまう。困ったようでいて、それでいてどことなく嬉しそうな、そんな笑みが口元に浮かんでいた。




 それから数日、ずっと馬車に乗ったまま旅をした。フェリクス様がだいたい大きさの合うドレスを手に入れてくれたので、それに着替えた。


 フェリクス様によると、この新しいドレスはかなり簡素なものらしい。


 それでも私にとっては、この上なく美しいものに思えた。今まで私は、カテリーナのお下がりしか着たことがなかったから。


 汚れもほつれも虫食いもないドレスに浮かれている私とは対照的に、フェリクス様はどことなく不機嫌そうな顔をしていたし、口数も少なくなっていた。


 けれどやはり、そんな彼と一緒にいても苦痛を感じることはなかった。


 笑顔で悪意たっぷりの自慢話を垂れ流すカテリーナとは違って、彼は不機嫌な顔をしているけれどこちらに悪意を抱いてはいない、そう思えたのだ。


 居心地のいい沈黙の中に、馬車のがたんごとんという音が小気味よく響いている。それに合わせるように、フェリクス様の腰に下がった鈴がちりんちりんと鳴っていた。


 不思議なことにあの鈴は、ひとりでに鳴り続けているのだ。しかもその音は、フェリクス様には聞こえていないらしい。


 その音を聞きながら、窓の外をひたすらに眺める。外の風景はとても目新しくて、一日中眺めていても飽きなかった。


 本の中だけで見た光景が、次々と目の前を流れていく。広い草原、驚くほどたくさんの木がある森、目の前いっぱいに立ち並ぶ家々、町の中を行きかう人々。


「……そんなに、珍しいか」


 今日も今日とて窓に張りついている私に、フェリクス様が戸惑ったような声をかけてくる。


「はい。私、アッカルド伯爵の別荘に向かう時に、生まれて初めて馬車に乗って外に出たんです。外の世界をこうやって見るのは、初めてのようなものなんです」


「……君は、自分を閉じ込めていた家族に怒りを感じないのか。悲しみは、寂しさは?」


「……子供の頃は、感じていたように思います。でももう、忘れました。自由こそない暮らしでしたが、住むところも、食べるものにも困りませんでした。その点は感謝すべきなのかな、って思っています」


「姉がさんざん着倒したぼろぼろのドレスを着せられるような暮らしに感謝、か」


 フェリクス様の声が固い。何だか少し、腹を立てているような声音だ。


「いいんです。きちんと着られましたから。ああ、いつもの嫌がらせなんだろうな、とは思いましたけど」


「しかも、自分の婚約パーティーなのに?」


「実は当日まで、そのことを知らされていなかったんです。いきなりアッカルド伯爵と引き合わされて、私は彼と婚約したのだと聞かされて……とっても驚きました」


「……だろうな。しかし、あくどいやり口だ」


「あれは、私にとって初めてのパーティーでした。何かいいことがあるかもしれないなって少しだけ期待して、家を出ました」


 嫌がらせだと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。


「でも、状況はどんどん悪くなるばかりで。やっぱり私にはいいことなんて起こらないんだろうなって、あきらめていました」


 あの時はもう、生きることすらあきらめかけていた。それを思えば、今はもう天国のようだ。


 素敵な馬車、綺麗なドレス、そして、もしかすると私の夫になるかもしれない人。


「……でもこうして、フェリクス様に出会えました。あの状況から助けてもらえました。今でもまだ、夢を見ているんじゃないかって思ってしまいます」


 しかしフェリクス様は、また険しい顔に戻ってしまった。じれったそうな、もどかしそうな色が、その表情には混ざりこんでいた。


「だが、君にとって我がヒンメルは未知の場所だ。きっと、夢というにはほど遠い場所だろう」


「独りきりのあの離れよりも、怖いアッカルド伯爵のところよりも、ヒンメルは絶対にいいところです。それに」


 言葉を切って、上目遣いにフェリクス様を見る。ちょっと恥ずかしいけれど、絶対に言っておかなくては。


「こうしてフェリクス様が私のことを気にかけてくれる、それだけで十分に幸せなんです」


「……そうか」


 にっこりと笑ってみせると、フェリクス様はさらに悲しそうな顔になって目を伏せた。どうして、そんな顔をするのだろう。


「……怒りを忘れ、幸せをあきらめて、か……」


 聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声でつぶやいて、それからフェリクス様は顔を上げる。驚くほど真剣な表情に、思わず目を見開く。


「君をさらって王宮に閉じ込めようとする俺が言うのはお門違いだとは思う。だが、それでも言わせてくれ」


 フェリクス様が、今までの不機嫌そうな雰囲気をかなぐり捨てて言う。


「君は俺のものだと、そう俺は言った。だがその言葉は忘れてくれ」


 どういうことだろう、とぽかんとしていると、彼はさらに続けた。


「君は誰かの所有物ではない。君は、一人の人間だ。進む道を自分で選び、理不尽には怒れ。辛いのなら、声を上げるんだ」


 そうして彼は、私の両肩をしっかりとつかむ。とても大きな手の温かさに、胸がじんとする。


「もうこれ以上、あきらめるな」


 私はただ、フェリクス様の海色の目をじっと見つめることしかできなかった。頬を流れる涙を拭うことすら、忘れていた。


 子供の頃から、ひっそりと夢見ていた。いつか白馬の王子様が、私を助けにきてくれるのだと。


 かなうはずもないと分かっていながら、そんな夢を手放せずにいた。


 そうして今、王子様が私を助けてくれた。もっともその王子様は、人さらいの王子様だったけれど。


「……ありがとう、ございます。私をさらってくれて。私、ようやっと人間として生きていけそうです」


 何だか奇妙な言葉だなと思いながらも、そう言わずにはいられなかった。フェリクス様は優しく目を細めて、ゆっくりとうなずき返してくれた。

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