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32.眠り姫

 ヒンメルの王宮の、とある一室。大きな窓から優しい日差しが降り注ぐ、暖かくて明るい部屋。


 そこに置かれた大きな寝台に、乙女が一人眠っていた。


 砂糖をまぶしたような淡い金の髪が寝台の上に広がり、日の光を受けてきらきらと輝いていた。長いまつ毛に縁どられた目は閉ざされている。


 と、部屋の扉がゆっくりと開いた。そこから、一人の青年が入ってくる。明るい赤茶の髪に、海を思わせる見事な青の目の、繊細な面差しの青年だった。


 彼、フェリクスは寝台に歩み寄ると、隣に置かれた椅子に腰を下ろした。


「ヴィオレッタ……今日は、いい報告がある」


 悲しげに微笑んで、青年は乙女に語りかける。


「聖女を守るための法律は、無事に制定された。エーリヒの反乱において君が懸命に怪我人を癒していた姿に、みな心を打たれたらしい」


 ヴィオレッタは目覚めない。その胸が静かに上下しているのを見て、フェリクスはほっと息を吐く。


 彼女が毒に倒れてから、彼は幾度となくこうやって彼女が生きていることを確かめて、そのたびに安堵のため息をついていたのだ。


「……そして、聖女といえど人であることに変わりはなく、こんなにも簡単に倒れてしまう。そのことを、君が身をもって俺たちに教えてくれたからだ。……本当に、君には助けられてばかりだ」


 そうして、フェリクスはヴィオレッタの手を取る。彼女の手首には、細い紐が結ばれていた。そこに通された銀の飾り物が揺れる。


「君が倒れてから、もう三か月……か」


 彼女はここで、ずっとこうして眠り続けているのだった。水も食物も取らずに、少しも衰えることなく。どうしてこんなことになっているのか、医者たちにも分かっていなかった。


 ナイフでつけられた背中の傷は、じきに癒えた。けれどそれでも、彼女が目覚めることはなかった。


 毒の種類も分からないままだった。その毒の作り方を知っていたのは、今は亡き第二王妃ツェツィーリエただ一人だったから。メイドが持っていたナイフを調べた薬師たちも、毒の正体を突き止めることはできなかった。


 誰も、ヴィオレッタを目覚めさせられない。彼女が目覚める予兆すらない。そのことに、フェリクスは心を痛めていた。彼はこうしてしばしばここを訪れては、ヴィオレッタに話しかけていた。


「……君には、この鈴の音が聞こえているのだろう? あの日、君を俺のもとに導いてくれた音だ」


 フェリクスの視線は、ヴィオレッタの手首に注がれている。そこに下がった銀の飾りは、かつて彼が身に着けていたものだった。


 聖女やその卵にしか聞こえない音を出す鈴であり、同時に王族としての証しでもある、特別なもの。本来であれば、他者に貸すことすら許されないものだ。


 どうやっても目覚めないヴィオレッタの手首に、彼はこの鈴を結びつけた。彼女には、きっとこの鈴の音が聞こえているはずだ。わらにもすがる思いで、彼は鈴を彼女に貸したのだ。


「……一生このまま、なのだろうか」


 ふと、フェリクスの口からそんな言葉がもれる。親兄弟にすら見せたことのない、泣きそうな顔をしていた。


「頼む、ヴィオレッタ、起きてくれ。俺はまだ君に言っていないことがたくさんあるんだ」


 ヴィオレッタの手を両手でしっかりとつかみ、頬を寄せながらフェリクスは話す。眠る彼女に、呼びかけているかのように。


「俺は前に、気が向いたから君をさらったと、そう言った。そしてのちに、君が聖女の卵だと気づいたらからさらったのだと、そうも言った。でもそれは、正しくない」


 ヴィオレッタは動かない。身動き一つしない。けれどフェリクスは、さらに熱っぽく語り続けた。


「初めて会ったあの時、俺は君が欲しいと思った。この虐げられた乙女を自由にしてやれば、どれほど美しく、幸せそうに笑うのだろう。俺はそのさまを、見たくてたまらなくなった」


 フェリクスは、じっとヴィオレッタの顔を見つめている。もしかすると、自分の声が届いているのではないか、そんな期待をしているようだった。


「そうして俺は、君を連れてここにきた。あれから色々なことがあったが、君は泣きながら、戸惑いながら、それでも必死に俺についてきてくれた。一生懸命に、頑張っていた」


 泣いたり笑ったり、かつてはくるくると表情を変えていたヴィオレッタ。しかし今の彼女は、かすかに微笑んだような表情のままぴくりとも動かなかった。


「そんな姿を見ていたら、思いがさらにつのっていった。君の笑顔が欲しい、君の涙が欲しい、君の喜びも悲しみも全部欲しい。そうして俺は、君に返事を迫った。離宮の、あの夜の海で」


 苦しさに耐えかねたように、フェリクスの言葉が途切れる。


「……君から色よい返事をもらえた時は、嬉しかった。この身の全てをかけて君を大切にすると、そう誓ったのに」


 彼は彼女の腕をしっかりと抱きしめる。前髪に隠れてその目元は見えなかったが、彼の声には明らかに涙がにじんでいた。


「君の声が聞きたい、君の笑顔が見たい、もう一度、俺の名を呼んでくれ、ヴィオレッタ……」


 血を吐くような悲痛な声でつぶやいて、フェリクスは彼女の胸にそっと寄り添う。かすかに聞こえる鼓動だけが、彼の苦しみをわずかに和らげてくれていた。


 フェリクスは目を閉じて、じっと耳を澄ませ続けていた。






 ちりん、ちりんと音がする。懐かしい音だ。私を呼んでいる。目覚めなさいと、そう言っている。


 ああ、体が重いなあ。まだ眠たい。もうちょっとだけ、眠っていたら駄目かなあ。


 そんなことをぼんやりと考える。鈴の音が、少し大きくなった。まるで叱っているような、そんな音色だった。


 分かったから、今起きるから。そう答えたとたん、眠りの底からふわりと浮かび上がるような感じがした。体の感覚が戻ってくる。あれ、左手が温かい。なんだろう、これ。


 ゆっくりと目を開けると、見慣れた客間の風景が飛び込んできた。


 窓から夕陽が差し込んでいて、部屋の中は全て綺麗なオレンジ色に染まっている。私の左手をしっかりと握ったまま突っ伏しているフェリクス様のミルクティー色の髪も、今はもっと温かな色をしていた。


「え、フェリクス様!?」


 どうして彼が、こんなところにいるのだろう。あれ、そもそも私はどうして、こんな時間に眠っていたのだろうか。


 戸惑いながらも、空いた右手をそろそろと伸ばす。彼の髪にそっと触れると、思いのほか柔らかかった。ゆっくりと、髪をなでてみる。


「ん……はは、うえ……」


 どうやらフェリクス様は寝ぼけているらしい。面白いなあと思いながら、さらに彼の頭をなで続けた。いつ気づくかなあ、気づいたらどんな顔をするのかなあ。


 どれくらいそうしていただろう。フェリクス様が身じろぎし、顔を上げた。まだ寝ぼけているのか、目の焦点が合っていない。


「……ヴィオ、レッタ……?」


「はい、私です。ふふ、フェリクス様ったら、私のことをお母様と間違えていましたよ」


 そう指摘した次の瞬間、フェリクス様が勢いよく立ち上がった。そのまま寝台の上にひざをつき、私を抱きかかえるようにして助け起こす。


「やっと……やっと目覚めてくれた……ずっと、君がいなくなるのではないかと、もう二度と目覚めないのではないかと、それが恐ろしくて……」


 しっかりと私を抱きしめて、フェリクス様は泣きそうな声でつぶやいている。


 その言葉を聞いて、ようやく思い出した。そうだ、私はあの時玉座の間で倒れたんだった。何が起こったのかは分からないけれど、ひどく眠くて……。


 どうやら私は、それきりずっと眠っていたらしい。ここまでフェリクス様が心配するのだから、結構長い間眠ってしまっていたのかもしれない。


「失いそうになって、ようやく分かった。俺は君のことが、どうしようもなく好きでたまらない」


 フェリクス様の言葉に、頭が一気に真っ白になった。心臓がどきどきして、胸から飛び出しそうだ。


「好きだ、離れたくない、愛している。どんなに言葉を重ねても、俺の思いはうまく形になってくれない。ああもう、もどかしくてたまらない」


 いつになく熱心に、フェリクス様は語る。嬉しいけど恥ずかしいし、応えたいのに言葉が出ない。もどかしいのは私もだ。


 そろそろと手を伸ばして、フェリクス様を抱きしめ返す。そうしたら、フェリクス様の腕にさらに力がこもった。彼は私を力いっぱい抱きしめたまま、無言で肩を震わせている。


 私、愛されてるんだなあ。ずっと一人で育った、虐げられていた私のことを、ここまで愛してくれる人ができた。そう感じたら、こっちまで泣きそうになった。


 くすんと鼻を鳴らして、そっと目をそらす。その拍子に、妙なものが見えた。部屋の入り口の扉が薄く開いて、そこから何組かの目がのぞいているのだ。


「……どうした、ヴィオレッタ?」


 私がぽかんとしていることに気づいたらしいフェリクス様が、そろそろと腕の力を緩めた。そのまま、私の視線を追いかけるようにして入り口を見る。そうして、絶句していた。


「なっ…………」


 さっきとは違う感情に肩を震わせて、フェリクス様が入り口をにらんだ。扉が大きく開いて、そこにいたらしい人たちがぞろぞろと入ってくる。


 陛下、ナディア様、ロルフ、それと医師と兵士が一人ずつ。


「も、申し訳ありません、フェリクス様。のぞき見など……」


「なに、私がいいといったのだ、気にするな」


 すっかり恐縮してしまっている医師と兵士に、陛下がゆったりと笑いかけた。それから、フェリクス様と私に向き直る。


「目が覚めて、本当に良かった。これであの反乱は、犠牲者を出すことなく終わることができた」


「フェリクスも、大切な人を失わずに済んだわ。……この三か月で、フェリクスはすっかりやつれてしまって。私たちも、ずっと心配していたの」


 目元に涙を光らせながら、ナディア様が続ける。え、と驚いてフェリクス様のほうを見ようとすると、またがばりと抱きしめられてしまった。ちょうど、彼の胸元に閉じ込められるような形で。


「……見るな」


 彼の声には、また涙がにじんでいた。でも今度は、喜びの涙のようだった。


 彼の腕の中でじっとしていると、離れたところから小さな声がいくつも聞こえてきた。良かった、本当に良かった。そんな声だ。みんな、ちょっぴり涙ぐんでいる。


 全身を包んでいる温もりと、聞こえてくる優しい声。幸せが胸を満たすのを感じながら、そっとフェリクス様にもたれかかった。

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