3.人さらいの王子
「あ、あの。失礼ながら申し上げます、フェリクス様。ヴィオレッタはアッカルド伯爵の婚約者ですわ」
静まり返った広間の中、カテリーナの焦った声がする。
「ほう、そうか。それにしてはずいぶんと、彼女はみすぼらしいなりをしているな? しかも、たった一人で放置され、所在なげにしているようだ。これが、このパーティーの主役たる女性の姿だろうか?」
ふてぶてしいほど堂々と、フェリクス様は答えた。それも、私の腰を抱いたまま。
「彼女は明らかにないがしろにされている。みな、彼女には興味がないのだろう。ならば、私が連れ出したところで問題ないと思うが?」
そんなフェリクス様の言葉をさえぎったのは、低くてざらざらした不機嫌な声だった。
「……そうはいきません。私の婚約者を持っていかれては困ります」
アッカルド伯爵が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。彼はフェリクス様から数歩離れたところで立ち止まり、私たちをじっと見つめていた。
その顔に浮かんでいたのは、わずかないらだちだけ。今彼は、私の婚約者を『持っていく』と言った。彼にとって私は、ただの所有物の一つでしかない。それが確信できる口調と表情だった。
思わず身震いしてしまった私の耳元に、フェリクス様が「大丈夫だ」とささやきかけてくる。それから彼は、奇妙なくらい快活に言い放った。
「おや、伯爵か。君はどうせ彼女のことも使い捨てにするつもりだろう? 君の所業は、俺の耳にも届いている。これ以上妻をめとることなく、残りの人生を独り身で過ごすことを強く勧める」
「王子とはいえ、あなたは隣国の人間です。私のすることに、口を挟まないでもらえますかな。だいたい、他人の婚約者をかすめとるなど……外交問題になりかねませんが」
「そうか。で、それがどうかしたのか? 我がヒンメル王国はたくさんの国と交流がある。このガッビア王国との国交が断絶したところで、痛くもかゆくもない。万が一戦争になっても、我が国のほうがずっと強い。だから」
しれっとそう言い切って、フェリクス様は声を張り上げた。どこか楽しそうな、場違いに明るい声だった。
「この女はもらっていくぞ! 文句があるなら、力ずくで奪い返しに来るがいい!」
あまりにもめちゃくちゃなその言葉に、アッカルド伯爵も、カテリーナも何も言えないようだった。静まり返った大広間を見渡して、フェリクス様は小さく鼻で笑う。
「みな、異論はないようだな。それでは行こうか、ヴィオレッタ」
フェリクス様は、大きくうなずいて私の腰から手を放す。そして改めて、こちらに手を差し出してきた。
いつの間にか、私は彼にさらわれることが決まっていた。しかも彼は一度も、私の意思を確認していない。
そういう意味では、勝手にアッカルド伯爵との婚約を決められた時と似た状況ではあった。
けれど私はそれが嫌だとは思えなかったし、不安でもなかった。
それは彼が、私にまともに向き合ってくれたからかもしれない。カテリーナやアッカルド伯爵のような、嫌な感じがしないからかもしれない。
はっきりした理由なんて分からないけれど、私はフェリクス様に信頼を寄せているようだった。こんな風に誰かに心を動かされたのは生まれて初めてだから、確信は持てないのだけれど。
それにどうせここにいたら、私は遠からず死ぬことになるだろう。既に二人の妻を死に追いやってきたアッカルド伯爵の、三人目の犠牲として。
だったらもう、答えは一つしかない。
「はい、よろしくお願いします」
にっこりと笑って、フェリクス様の手を取った。彼はほっとしたような笑顔で、それに応えてくれた。
フェリクス様に手を引かれて、アッカルド伯爵の別荘を出る。意外なことに、誰一人追いかけてはこなかった。
そうして二人で、どことなく異国風の装飾がされた馬車に乗る。
ガラスのはまった窓がある、箱形の馬車だ。ため息が出るほど美しくて、座席はびっくりするくらいにふかふかだった。こんなぼろぼろのドレスで座っていいのか、ためらうくらいに。
すぐに馬車が走り出し、アッカルド伯爵の別荘がどんどん小さくなっていく。窓に張りついたまま、そちらを食い入るように見ていた。そうしていると、後ろから声がかけられる。
「大丈夫だ。もし追っ手がかかったとしても、俺なら簡単に蹴散らせる。……ヒンメルの王宮まではしばらくかかるから、楽にしているといい」
深々と座席に腰かけたフェリクス様は、何だか少し疲れているようだった。さっきまでの朗らかで楽しそうな様子は、どこかにいってしまっている。
どうしよう。聞きたいことがあるのだけれど、今聞いていいのだろうか。
悩んでいると、フェリクス様の腰に下がったあの鈴がひときわ大きく鳴った。その澄んだ音色に、勇気がわいてくるのを感じる。思い切って、口を開いた。
「あの……フェリクス様は、どうして私を連れていくことにしたのですか? その、人さらいのような真似までして」
「気が向いたからだ」
「気が向いた……って、たったそれだけですか? そのために、隣国の伯爵の婚約者を連れ去るんですか?」
「ああ。君にとっても、悪い話ではないと思うが。あの伯爵については、とにかくいい話を聞かなかったからな」
そう切り返されてしまっては、もう反論のしようがなかった。フェリクス様の言う通り、私はこうやって逃げることができて、大いにほっとしていたからだ。
「ところで、俺も聞きたいことがあるのだが」
フェリクス様が、ふと困惑の色を顔に浮かべた。その視線は、私にじっと注がれている。ぶしつけなくらいにまっすぐな強い視線は、やはり私にとっては不快なものではなかった。
「君はどうして、そんななりをしているんだ。あのパーティーは、一応君にとっての晴れ舞台だったのだろう。しかも君の姉も、君の異様な姿を全く気にしていないようだったし」
「あの……それは……」
どう答えたらいいのだろう。少しだけ迷って、結局ありのままを答えることにした。きっとフェリクス様は、私が置かれている状況を知っても、私のことを蔑んだりはしない。そう思えたから。
「私、家では『はずれの子』って呼ばれているんです……家族はみんな、私のことを嫌っていて……それで、ずっと離れに押し込められていました」
そんな告白に、フェリクス様が片方の眉をつり上げる。明らかに、不快に思っている顔だった。
やっぱり、どうにかごまかしたほうがよかったのかな。そう思いながら、そろそろと話し続ける。
「えっと、なので屋敷の外に出たのは生まれて初めてなんです。それに、ドレスを作ってもらったこともなくて……このドレスは、姉の……カテリーナのお下がりです」
「なるほど。つまり君は家族に虐げられ、あげくに売られたんだな。あのアッカルド伯爵のところに。彼は人柄こそ最悪だが、家柄と財力は中々のものだ。格下の子爵家である君の実家としては、彼とつながりを持ちたいと思ってもおかしくないだろう」
フェリクス様の声ににじんでいたのは、蔑みや呆れではなく、ただ純粋な同情だった。こんな風に優しく声をかけてもらったのは、生まれて初めてだ。
そう気づいたとたん、目頭が熱くなってくる。あっという間に、涙があふれてきた。早く、拭わないと。この綺麗な馬車の中を、涙で汚してしまったら大変だ。
けれど私は、ハンカチなんて持っていない。だからとっさに、服の袖で目元をぐいと拭った。
「……そんな拭い方をしたら、化粧が落ちてしまうだろう」
「いえ、化粧はしていないので大丈夫です。そもそも私、化粧の道具は持っていません」
そう答えたら、フェリクス様は目を丸くした。身を乗り出して、まじまじと私の顔を見つめてくる。ちょっと恥ずかしい。
「化粧をせずにこの美しさか。きちんと装えば素晴らしい美姫となるのだろうな」
「えっと……そ、そうなのですか? よく、分かりません……」
「だが、そのおどおどとしたところをどうにかしたほうがいいだろう。君の特殊な育ちからすれば、無理もないのだろうが」
私は、自分がどんな性格なのか知らない。他の人からは、どんな人物に見えているのか知らない。
でも今、一つ分かった。フェリクス様の目には、私は弱々しく、頼りないものに映っているのだということが。
「あの……やはり、いきなり泣き出したら……困りますよね。気をつけます」
「気にするな、仕方のないことだろう。君はつい先ほどまで、生きるか死ぬかの瀬戸際にいたようなものだからな」
そう答えるフェリクスの声はやはりぶっきらぼうだったけれど、カテリーナのように冷たくも、アッカルド伯爵のように恐ろしくもなかった。やっぱり彼は、今まで出会った誰とも違う。
自然と笑みが浮かんでいくのを感じる。こんな感覚、生まれて初めてだ。
「……なぜ、笑う?」
私が急に表情を変えたのが理解できなかったのか、フェリクス様がぎゅっと眉間にしわを寄せた。
「嬉しいからです。フェリクス様と一緒にいられて、こうして話していられることが」
「……そうか」
フェリクス様はそれっきり黙り込んでしまう。あごに手を当てて、難しい顔で何やら考え込み始めた。
私は向かいの座席にちょこんと座ったまま、そんなフェリクス様の姿を眺めていた。
彼は隣国の王太子だけれど、どんな人なのかはよく分からない。私はどうやら彼の国、隣国ヒンメルの王宮に連れていかれるらしいけど、そこがどんなところなのか想像もつかない。
そして、これから私がどうなってしまうのかについても、やはり何一つ分からなかった。
でも、おかしなくらいに私は落ち着いていた。根拠なんてないけれど、彼と一緒なら大丈夫だと、心の底からそう思えていたのだ。
生まれて初めての、外の世界。そこで何があるのだろうか。どんなできごとが、私を待ってくれているのだろうか。
今まで心の奥にしまいこんでいたたくさんの思いや夢が、ゆっくりと浮かび上がってくるのを感じていた。