21.前を向くために
「せ、正妃、ですか!?」
「ああ。君は俺の妻になることは了承してくれただろう? あの時は側室となるという約束だったが、正妃の座が空いてしまったのでな」
フェリクス様はひざまずいたまま、そう言った。その顔が、苦しそうにゆがんでいる。
「……ザンドラ、それにエーリヒのことを考えれば、複雑な思いではある。だが俺はこのヒンメルの王太子だ。私情より優先させなくてはならないものがある。正妃の座を、いつまでも空席にしてはおけないんだ」
彼の妻になってもいいと思ったのは確かだ。でも正妃となったら、また話が別だ。
それに正妃になってしまったら、私はきっと自分がザンドラ様を追い落として、蹴散らしてしまったような、そんな後ろめたい気分になると思う。
「でも、私……私には、その座は荷が重すぎます……」
背中を丸めて、視線を床に落として。とっても嬉しいその言葉に素直にうなずけないことが悲しくて。
「フェリクス様のことが嫌いとか、そういうことじゃないんです。でも、でも、やっぱり私……はずれの子だから……側室ならまだしも……」
「その言葉は、もう二度と口にするな」
いつになく厳しい声音に、思わずびくりとしてしまう。怖い。
「ご、ごめんなさい。私、正妃になるって、そう言わないといけなかったんですよね」
「違う」
あわてて言い訳をすると、またばっさりと切り捨てられてしまった。
どうしてフェリクス様は、こんなに厳しい声をしているのだろうか。きっと私が怒らせてしまったに違いない。でも、何が悪かったのか分からない。
困り果てて、うつむいたまま震える。フェリクス様が近づいてくる気配がした。
「……君がそうやって自分を卑下するようになってしまったのは、君のせいではなく、君を虐げていた家族のせいだろう。だが君は、ずっとそのままでいいのか?」
両肩に、温かな感触。フェリクス様が、しっかりと私の肩をつかんで支えている。弾かれるように顔を上げると、海の青が目に飛び込んできた。
「君は、一人で生きることを強制されていた。自分が無力な、価値のない存在と思い込まされてきた」
まるで刺し貫くような鋭い目で、フェリクス様は私を見つめている。
「だが、いい加減君も気づいているはずだ。君は無価値でも、はずれでもない。君の力がなければ、俺はとうの昔に死んでいた。だがその聖女の力がなくとも、俺は君のことが気に入っている。ずっとそばに置きたいと、そう思うくらいには」
彼の言う通りだった。でもやっぱり、私はうなずくことができずにいた。
「……いや、今のはあまり適切ではないな」
フェリクス様が、気まずそうに目をそらす。張り詰めていた空気が、ふっと和らいだ。
「俺は……君のことを愛している。離したくないと、そう思うくらいに」
そう言った彼の声は、とろけるほどに柔らかかった。
彼は私のことを気に入っていると、前からそう言っていた。でもこんな風にまっすぐに思いを伝えられたのは初めてだった。
驚きと喜びと、あと何だかよく分からない感情がごちゃごちゃになって、頭の中いっぱいにあふれる。
言いたいことがある気がするのに、何も考えられない。くらくらする。あわてている私の耳に、フェリクス様の涼やかな声が舞い込んでくる。
「俺にとって君は、この上なく大切な存在だ。だが君は、自分で自分をおとしめ続けている。子供の頃からすりこまれた、間違った言葉にしがみついて」
言葉の意味が、ちゃんと頭に入ってこない。でも、彼が私のことを気遣ってくれている、そのことだけは理解できた。
懇願するような声で、彼は続ける。
「これからの君を変えられるのは、君だけだ。どうか、自分自身から目を背けないでくれ。……俺の、ためにも」
「フェリクス様の、ため……」
「……ヴィオレッタ。もう一度、君に求婚する。俺の正妃になってくれ」
「……はい」
今度は素直に、答えが口をついて出た。フェリクス様が私の肩からぱっと手を離した、と思った次の瞬間、がばりと抱き着いてくる。
「ああ、よかった! どうも俺は、素直に思いを表すのが苦手でな、そのせいで損をしていると周囲によく言われるんだ」
そういえば、ロルフが前にそんなことを言っていたような。フェリクス様は、大切な人に対してはなぜか無愛想になりがちだ、と。
フェリクス様は、私をさらってきてからずっとよそよそしかった。それは、私が聖女の力に目覚めないための配慮だと、後で知った。
でもその後も、フェリクス様は私に対してどう接していいか分からないような態度を取っていることが多々あった。
嫌われているのではないと分かっていたから、気にはしていなかった。けれどまさか、フェリクス様がこんなに熱い思いを秘めていたなんて。
あけっぴろげに喜んでいる彼の声が、すぐ近くで聞こえる。幸せだな、と微笑んでいたら、ふと彼がぴたりと動きを止めた。
「っと、しまった。一つ、忘れていたことがあった」
何だろう、と小首をかしげていると、彼は私の耳元でささやいた。いたずらっぽく、甘やかに。
「君の家族に、あいさつにいかなくてはな」
それから数日後、私はフェリクス様と二人、馬車に乗っていた。フェリクス様にさらわれてきた時とは逆に、ヒンメルからガッビアに向かって。
もう一台、荷物を積んだ馬車が後に続いている。そちらの馬車には、身の回りの世話をしてくれるメイドも乗っている。さらに少し離れて、馬に乗ったロルフが警備を兼ねて追いかけてくれているらしい。
陛下と第三王妃ナディア様はもう離宮から戻ってこられていたから、私たちが少しくらい留守にしても大丈夫だ。
でも私が心配しているのは、そのことではなかった。
「……本当に、行くんですか?」
「ああ。君をもらいうけると、君の両親にきっちりと話しておかなくてはな。それが、人として最低限の礼儀だと思う。」
さらりとそんなことを言っていたフェリクス様が、ふと目を伏せた。
「……この旅は、君がきちんと過去から決別するための旅だ。もちろん、これだけで君の心の傷が癒えるだなんて思ってはいない。だが、前を向いて進むきっかけになるだろう」
「はい……」
「怖いか?」
「……怖い、です。私にとって家族とは、私を一人きりにして、寂しくさせて、でも反抗はできなくて……とても近くにいるのに、とっても遠くにいる人たちでしたから……」
ずっと、考えないようにしてきた。世の中の『家族』と、私と血のつながった『家族』とは、あまりにもかけ離れているということを。そのことに正面から向き合ってしまったら、みじめになるだけだから。
だからきっと、私とカテリーナたちとは血がつながっていないんだって、そう思い込もうとしていた。幸い、私は家族の誰とも似ていなかったし。
「大丈夫だ。これからは、俺が家族だ。何があってもそばにいる、君の支えになる。家族とは、そういうものだ。……ザンドラやエーリヒが聞いたら、鼻で笑うだろうが、な」
私の肩を抱いて優しく言うフェリクス様。その声には、ほんの少しだけ涙のようなものがにじんでいる気がした。
そうして、馬車は国境を越えて、さらに突き進んでいった。旅は拍子抜けするくらい順調で、私の緊張もじきに薄れていった。宿に泊まって、夜遅くまでお喋りしたり、時々町の中を散歩したり。
ついこの間まで毒殺事件に振り回されていたなんて思えないくらい、平和な日々だった。
あっという間に数日が過ぎて、フェリクス様が重々しく切り出してきた。
「明日になれば、いよいよリッツィ子爵家の屋敷にたどり着く」
「……はい」
「だが、心配するな。話すのも説教するのも、何なら喧嘩を売るのも、全部俺がやってやる。君は見守ってくれていればいい」
「け、喧嘩って、いったい何をしにいくつもりなんですか、フェリクス様は」
「仕方ないだろう。俺としては、一発がつんと言ってやりたくてならないんだ。なんでまた、自分たちの子供を一人きりにして放置するなんて外道な真似ができたんだ、この人でなし、とな」
「……なんだか、追い出されそうですね」
「かもしれないな。だから俺は、できるだけ短い時間で言いたいことを言い切れるよう、頭の中で予行演習しているところだ。身分を振りかざせば居座れるだろうが、そういうのは好かん」
とても真面目に、たいそう珍妙なことを言っている。その落差がおかしくて、ついくすくすと笑ってしまう。
「そうやって笑えるなら、きっと大丈夫だ。肩の力を抜いていこう、お互いにな」
フェリクス様の顔をじっと見つめて、うなずく。この素敵な人が、私の夫になる人なのだ。たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。




