2.鈴の音に導かれて
何を言われたのか分からずにぽかんとする私を置いて、アッカルド伯爵はすぐに立ち去ってしまった。現れた時と同様に、唐突に。
そんな私の耳に、カテリーナがひそひそとささやきかけてくる。今までで、一番楽しそうな声だ。ああ、嫌な予感しかしない。
「アッカルド伯爵は、前の奥様と、さらに前の奥様とも死に別れていらっしゃるの。……これは噂だけど、どちらの奥様も伯爵とそのご両親がいびり殺したらしいわね」
「……ねえ、妻って……どういうこと、なの……」
呆然とつぶやくと、カテリーナはうふふ、と笑って言葉を続けた。獲物をなぶる猛獣のような笑いだと、なぜかそう感じた。
「ああ、言い忘れてたわね。このパーティーね、あなたとアッカルド伯爵の婚約パーティーなのよ」
信じられない言葉に、耳を疑う。誰と、誰が、婚約?
「ほんといけない、私ったら。うっかりしてたわ。ごめんなさいね、ヴィオレッタ。でもよかったでしょう? これであの離れからは出られたし、格上の家に嫁げるのだから」
さらに混乱する私を楽しそうな目で見つめてから、カテリーナもあっという間に周囲の人ごみの中に消えていった。
私は何も言えないまま、カテリーナが去っていった方向をじっと見つめていた。他に、何もできなかった。
血の気が引いていくのを感じて、思わずふらりと後ろに下がる。その拍子に、背中が壁についた。そのまま壁にもたれかかって、さっきの会話を思い出す。
私は、いつの間にやらあのアッカルド伯爵と婚約させられていたらしい。私は何も聞かされていなかったから、婚約を決めたのはきっと両親とカテリーナだ。
家族たちは、私のことが本気で邪魔になったのだろうか。それとも、他に何か理由があるのだろうか。
ああ、分からないことがどんどん増えていく。それに、もう夢を見ることすら許されなくなってしまった。
いつか誰かが助けにきてくれる、そう思いたくても、私が人妻になってしまってはそれも難しいだろう。
いや、今はそんなことを嘆いている場合ではない。いつの間にか震えていた手を、胸元で組み合わせた。
アッカルド伯爵は、妻を二人もいびり殺した。カテリーナの語った内容はとても信じられないものだったけれど、さっきの伯爵本人のあの様子からすると、それも十分にあり得ることのように思えた。
恐怖に走る心臓を押さえながら、周囲の声に耳を澄ませる。
辺りの人たちは私を見ながら、こそこそと噂していた。みんな、同じことを言っていた。あれが三人目の被害者か、かわいそうに、と。
このままでは、私も殺されてしまうかもしれない。逃げなくては。でも、どこに。
こうして婚約が成立したのなら、あの離れにはいずれ戻れなくなる。もしかしたら、このままここに置いていかれるのかもしれない。
自分の力ではどうしようもない。助けを求めようにも、頼れる人なんてどこにもいない。隙をついて、逃げ出すしかないのだろうか。でも、どこに行けばいいのだろう。どうやって生きていけばいいのだろう。
あの離れで飼い殺しにされていた私は家畜のようなものなのかもしれないと、ふとそんな思いが浮かぶ。いずれ殺される運命で、でも逃げ出して外で生きていくこともできなくて。
悔しい。こんなことになるのなら、もっと早くから逃げる準備をしておけばよかった。私はたくさん本を読んできた。その知識を生かして生き延びる方法を、本気で探せばよかった。
両手をぎゅっときつくにぎりしめて、泣き出したいのをこらえる。目の前には、美しく着飾った人の波。
パーティー。小さな頃から、ひそかに憧れていた。ずっと離れから出られない自分だけれど、いつか美しいドレスを着てたくさんの人たちに囲まれてパーティーを楽しむのだ。そんな夢を抱いたこともあった。
でもやっぱり、その夢はかないそうになかった。おそらく自分の人生で、最初で最後となるこのパーティー。けれど私は古びてぼろぼろのドレスを着て、ただ一人壁際で立ち尽くしている。
生きることをあきらめたくなんてない。私だって、幸せになりたい。なのにどうして、私だけ。
ちりん。
浮かんできた涙をそっと拭ったその時、澄んだ音が聞こえてきた。にぎやかなその大広間でも、その音はやけにはっきりと私の耳に届いていた。
不思議なくらいに優しいその音が、やけに気になった。あの音は何だろう。顔を上げて、音の出所を探す。
その音は、人でざわめく大広間の中央から聞こえているようだった。
そちらに向かって、ふらふらと歩き出す。生きるか死ぬかについて考えていたことも、周囲の人たちからの無遠慮な視線も、もう気にならなかった。
ただ、あの音の出所を知りたい。私の頭の中は、そのことでいっぱいになっていたのだ。
そうやって進んでいった先で、カテリーナと知らない青年が話しているところに出くわした。
二人は仲良く話しているようだった。というより、カテリーナが一方的に言い寄っていた。それも当然だろう。彼女が話している青年は、それは魅力的な人だったから。
ミルクティーのような淡く明るい赤茶色の髪、海の青を宿した目。
面差しはどちらかというと繊細で柔らかい雰囲気だったけれど、内側からあふれる生命力が彼を生き生きと、強く見せていた。むしろ彼は、見る者を圧倒するような迫力さえ備えていた。
そして彼が着ているのは、どことなく異国風の装束だった。確かあれは、隣国の正装だったかな。
少し離れたところで立ち止まり、話す二人を眺める。二人は私の視線に気づいているようだったが、話を止めることはなかった。
その間も、さっきの鈴の音は聞こえ続けていた。できることなら、この鈴の音をずっと聞いていたい。そう思いながら、そっと音の出所を探り続ける。
そうしていたら、カテリーナが近づいてきた。悠々とした足取りで。
「あら、あなたは今日の主役でしょう? アッカルド伯爵のそばにいなくていいのかしら?」
カテリーナは勝ち誇った笑みを向けてくる。それから、背後に立つ青年に視線を向けた。
「そうだわ、あなたにもこちらの方を紹介してあげないとね。彼はフェリクス様、隣国の王子なんですって。なんでもアッカルド伯爵の知り合いの知り合いだとかで……」
そう話すカテリーナの目は、獲物を狙っている時の猫の目にそっくりだった。その後ろから、フェリクス様が歩み寄ってくる。
その時、ようやく音の出所を見つけることができた。それはフェリクス様のベルトから下がっている銀色の鈴だった。親指の爪より二回りほど大きく、細かな模様の浮き彫りが美しい。
あいさつをすることも忘れて、ついまじまじと鈴を見つめてしまう。その視線に気づいたのか、フェリクス様がわずかに目を見張った。あわてて背筋を伸ばして、何事もなかったふりをする。
その間も、カテリーナはやけに可愛らしい表情でフェリクス様に話しかけ続けていた。彼女がこんな顔をしているのは、初めて見た。似合っていなくて、ちょっとむずむずする。
「フェリクス様、こちらが私の妹にして、アッカルド伯爵の婚約者の」
「君は、もしかしてこれが気になるのか?」
カテリーナの言葉をさえぎって、フェリクス様は私に話しかけてきた。腰の鈴にそっと触れながら。
突然のことに戸惑ってしまって、すぐに返事ができない。はずれの子と呼ばれて離れに押し込まれていた私を蔑むことなく、こんな風に朗らかに話しかけてくれたのは、彼が初めてだったから。
「……は、はい。さっきからずっと、その鈴の音が聞こえていて……とても、綺麗な音ですね」
しどろもどろになりながらもそう答えると、フェリクス様がはっと息をのんだ。その顔に、ひどく真剣な表情が浮かんでくる。
とても強い光をたたえた青い目が、まっすぐに私を見すえていた。その青から、目を離せない。立ちすくむ私に、彼はこわばった声で尋ねる。
「君、名前は?」
「あの、ヴィオレッタ……です」
それきり、フェリクス様は黙り込んでしまう。なおも私をじっと見つめたまま。すぐ隣でカテリーナが何か騒いでいるようだったけれど、そちらに目をやる余裕すらなかった。
フェリクス様は動かない。私は動けない。フェリクス様は真剣そのものの顔で、私はいつの間にかかすかに震えていた。
と、フェリクス様がいきなり動いた。彼は流れるような動きで私の隣に立つと、そのまま私の腰をしっかりと抱いたのだ。カテリーナが、驚きに目をこぼれんばかりに見開く。
そうして、フェリクス様が朗々と叫んだ。
「みな、聞くがいい! これよりこのヴィオレッタは、俺のものだ!」
その叫び声に、大広間にいた人々が一斉にお喋りを止めた。何が起こっているのか分からないといった顔を、私たちに向けている。
隣を見上げると、フェリクス様は力強い笑みを浮かべていた。思わず目を細めてしまうくらいに、まぶしい笑顔だった。