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16.初めてのことばかり

 ヒンメルの王宮に残されていた記録を読んで、私は知った。そして、フェリクス様からの言葉を改めて実感した。


 この国の繁栄は、たくさんの聖女たちの犠牲の上に成り立っている。聖女たちは戦の最前線に駆り出され、ただひたすらに力を使い続けることを強要された。


 彼女たちに、拒否権はなかった。ヒンメルに連れてこられた聖女たちは、みな王族の所有物、奴隷のようなものだったのだ。


 そうしてヒンメル王国は、周囲の国を飲み込んでどんどん大きくなっていった。聖女たちは力の使い過ぎで、ほんの数年で亡くなっていた。


 聖女が倒れるまでの間にどれだけ国を大きくできるか、ヒンメルの王族たちはそんなことを競っていた。その記録を読んでいるだけで、気分が悪くなった。


 聖女たちがいなかったら、ヒンメルの領土は今の半分もなかっただろう。ヒンメルの王族が血眼になって聖女を探しているのも、無理のないことだった。


 そんなことを思い出しながら、向かいに座ったフェリクス様にそろそろと尋ねる。


「……フェリクス様は、聖女が王族の奴隷として戦いに出なくてもいいように、法律を整えようとされているのですよね」


「その通りだ。もうヒンメルは十分すぎるほどに大きい。周囲の国を侵略するのではなく、友好的に手を組んでいくべきだ。国の方針を転換させるには、聖女が戦に関われないようにするのが一番早い」


 きっぱりと答えたフェリクス様が、ふっと切なげな目をした。


「だがそれ以前に、聖女たちも一人の人間だ。少しばかり、特殊な力を持っているだけで。国のために犠牲になるなど、あってはならない」


 一人の人間だ。その言葉に、聞き覚えがあった。アッカルド伯爵の別荘から飛び出して、ここヒンメルの王宮に向かっている途中の馬車の中で、彼は戸惑う私にそう言った。


 長く続いた孤独に、怒りも悲しみも忘れ去って、幸せな未来なんてないのかもしれないとあきらめかけていた私に投げかけられた、強くて頼もしい言葉。


 その言葉が、きっと私を変えてくれた。勇気を出して前を向いて、少しずつでも進んでみようという、そんな思いが心に芽生えたのは、きっとあの時だ。


「……フェリクス様は、お優しいんですね」


「別に、優しくなどない。人として当たり前のことをしようとしているだけだ」


「でもその『当たり前』に私は救われました。そうして私の未来も、守ってくれようとしています。だからやっぱり、フェリクス様は優しいんです」


「……そうか」


 難しい顔をしていたフェリクス様が、すっと立ち上がる。それから私の隣に座り直して、そっと肩を抱いてきた。


「その……大切な人を守りたいのは、やはり当然のことだ。君はいずれ、俺の妻になるのだし……」


「でしたら、私はあなたを守りますね。はずれの子である私が唯一持っていた、聖女の力で」


「…………無理だけは、絶対にするなよ」


「はい」


 肩にかけられたフェリクス様の手に、そっと自分の手を重ねる。そうして二人、黙ったまま寄り添う。


 こうして守り守られる相手ができるなんて、思いもしなかった。


 人並みの幸せを手に入れることは難しいのだろうなとずっとそう思っていたし、あのアッカルド伯爵に引き合わされた時、私は生きることすらあきらめ始めていた。


 それが、こんなことになるなんて。胸にこみあげるこの思いは、きっと『愛しい』だ。人と関わった経験が少ない私には、はっきりと断定できないけれど。


 生まれて初めての愛おしさを抱えて、じっとフェリクス様の温もりだけを感じていた。




 そんな話し合いがあってから、数日後。私はフェリクス様に連れられて、王宮の中を歩いていた。何でも、ぜひとも私に見せたいものがあるのだとか。


 人通りの少ない、静まり返った一角をひたすらに歩く。角を曲がって、また曲がって、部屋に入ったかと思えば、別の扉から出て。


 道が複雑すぎて、あっという間に私は自分がどこにいるのか分からなくなってしまっていた。ここ、何階なんだろう。


 不安に思いながら辺りを見渡している私に、前を行くフェリクス様が立ち止まって笑いかけてくる。


「心配するな、もうじきたどり着く。ほら、そこだ」


「そこ……って、部屋の角ですか? 何もありませんが」


「まあ、見ていろ」


 そう言ってフェリクス様は、壁の装飾に手を触れて何やらいじっている。と、壁の中からいきなりがこんという音がした。


 壁の一部が奥へめり込むようにして動き、そのままするりと横に滑っていく。元々壁があったところには、暗い穴がぽっかりと空いていた。


 どうやらその先には、さらに道が続いているようだった。きっとこれは、隠し通路というものだと思う。物語なんかにはよく出てくるけれど、実物を見るのは初めてなのでわくわくする。


 二人並んで、薄暗い道に足を踏み入れる。うっすらと光る不思議な石が天井や壁に使われているから明かりがなくても歩けるけれど、それでも暗いことに変わりはなかった。


 道の先は真っ暗だ。この道は、いったいどこに続いているのだろう。


「怖くはないか? 手を引こうか」


「大丈夫です。離れで暮らしていた頃はいつも、夜にこっそり散歩していましたから。ろうそくはもらえなかったので、月や星の明かりを頼りに、夜の庭を歩く……私が自由に動けるのは、その範囲だけでした」


 おんなじ暗がりでも、全然違う。ここは王宮の隠し通路、普通に暮らしていたらまず一生お目にかからない珍しい場所。隣には、大切な人。


 ただ、そのフェリクス様の表情がちょっと優れない。なんだろう、怒ってはいないのだけれど……残念そう?


「えっと、だから暗いのには慣れているんです。……でも、手はつなぎたいです」


「ああ。ほら」


 差し出された手を取って、少し浮かれた気持ちで進む。


 心配してもらえて、手をつないでもらえて、それだけで十分なくらいに嬉しかった。どこに行くのか分からない不安も、きれいに吹き飛ぶくらいに。


 隠し通路はやはり曲がりくねっていたけれど、一本道だったし迷うようなことはなかった。やがて、行く手が明るくなっていく。どこかは分からないけれど、外に出たようだ。


「……あれ、お城はどこでしょう?」


「あちらの木々の向こうだな。目的地は反対側だ。少し足場が悪いから、気をつけろ」


 そう言ってフェリクス様は、先に立って歩き出す。よく見ると、木々の隙間を縫うようにして、細い道のようなものがある。フェリクス様がぎりぎり通れるくらいの、とても細い道だ。


「これって……獣道、ですか? 初めて見ました……というか、森の中を歩くのは初めてです」


 細い木の枝がスカートに引っかかって、ぺきぺきと折れていく。足元には小さな野の花が咲いている。スカートをつかんで引き寄せ、花を踏まないようにしてそろそろと歩く。


「そうだろうな。貴族の令嬢はこんなところを歩きはしない。だが、目的地に馬車で行く訳にはいかなくてな。歩くのが嫌なら、背負っていこうか」


「あ、いえ、その、自分で歩きます」


 思いがけない提案に、つい力いっぱい否定してしまう。あわてて首をぶんぶんと横に振った。前を行くフェリクス様に見えるはずもないのに。


「えっと、フェリクス様に背負われるのが嫌だとか、そういうのではなくて、自分の足で歩きたくって」


 すぐに、おかしそうな笑い声が返ってきた。


「……君がそういう女性でよかった。俺は何としても聖女を、聖女の卵を保護するつもりでいた。幸い、このヒンメルでは妻を複数持つことが許されている。だから聖女の卵を妻として、手元に置いておこうと思った」


 目の前の広い背中を見ながら、彼の声に耳を傾ける。


「だが俺は、この通り少々……変わり者だ。それに俺は、聖女の卵が目覚めてしまわないように距離を取るつもりでもあった。だからきっと聖女の卵には、大変な思いをさせてしまうと思った。……実際、妻であるザンドラには大いに嫌われてしまったしな」


 前にザンドラ様がフェリクス様のことを話していた、その時の彼女の姿が脳裏をよぎる。とても冷ややかなあの目を思い出したら、寒気がした。


「だから、こうして君が嫌な顔一つせずに俺と共に来てくれることが嬉しいんだ。……これからもよろしく頼む、ヴィオレッタ」


「は、はい!」


 とっても優しい声に、自然と頬が熱くなる。両手で頬を押さえたかったけれど、あいにくとスカートから手を離せない。仕方なく、足元に意識を集中した。


 それからもう少し歩いたところで、フェリクス様が立ち止まった。振り返った顔には、とっても楽しげな笑みが浮かんでいる。


「ほら、着いたぞ。あそこが目的地だ」


 道の先は開けていて、そこに木でできた小さな小屋が建っている。ぐるりと眺めてみると、同じような小屋があちこちにたくさん並んでいるのも見えた。


 小屋の間には、畑のようなものもあるようだ。そこで何やら作業をしていたらしい素朴な服装の人たちが、私たちに気づいてこちらに向き直り、手を振る。


「ようこそ、隠れ村へ。ここは、俺の大切な場所だ」


 隣でささやくフェリクス様の声は、いつになく弾んでいた。

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