15.一転した日常
辺りには、ただ波の音だけが満ちている。寄せては返す波が、足をくすぐっていく。
月の光を受けてきらきらと輝いているはずの水面はちっとも見えない。私の目の前には、ただフェリクス様だけだ。
フェリクス様が今しがた告げてきた言葉が、頭の中をぐるぐると回る。波の音も水の感触も、私の頭を冷ましてはくれなかった。
「……フェリクス様は、私のことを守りたいと……そう思っているんですか」
結局自分の口をついて出たのは、そんな言葉だけだった。
「ああ。ずっと遠くから君を見ていて……ずっともどかしかった。君に近づけないことは承知の上で君を連れてきたというのに。寂しそうにしている君のそばにいてやれないことが、悔しくてたまらなかった」
私を抱きしめているフェリクス様の腕に、力がこもった。
返事をしなくては。ずっと保留にしていた、その答えを言わなくては。私は、どうしたいのだろう。
けれど悩むまでもなく、答えは決まっていた。それも、ずっと前に。彼に避けられているのかもしれないと思っていたせいで、考えないようにしていただけで。
「……私を救ってくれたのは、あなたでした。あなたが望んでくれるのなら、私……あなたの妻になります。側室でも構いません」
だからためらいなく、そう答えた。けれどフェリクス様は、それ以上何も言わない。ちょっと不安になり始めたその時、フェリクス様は深々とため息をついた。
「…………良かった……断られなくて」
心底ほっとしたようなその声音に、ついくすりと笑いがもれる。つられたように、フェリクス様も笑い出した。私をしっかりと抱きしめたまま、とても明るく。
私たちの笑い声は波の音とまざり合って、夜の闇の中に消えていった。
それから、私の生活はがらりと変わってしまった。
ひとまず、フェリクス様と陛下、それに第三王妃ナディア様と一緒に、離宮で十日ほど過ごした。
陛下もナディア様も話がとても上手で、聞いているとつい引き込まれてしまう。それに二人とも、私にとても良くしてくれた。
フェリクス様はちょっと困ったような顔をしていたけれど、ナディア様によればあれは照れ隠しらしい。普段堂々としているフェリクス様は、実は女性の扱いについてはさっぱりなのだそうだ。
「ザンドラとは少しも打ち解けないから、ずっと心配していたのだ。かと思えば、さらってきた聖女の卵に思いを寄せるとは……全く、面倒な息子だ」
「まあまあ、陛下。フェリクスがザンドラに対して一歩引いてしまっているのは確かですけど、ザンドラはザンドラで、フェリクスをかたくなに拒んでいるのですから」
難しい顔をしている陛下を、ナディア様が苦笑しながらなだめる。
「ザンドラ様が、フェリクス様を拒んでいる……」
心当たりは山のようにあった。フェリクス様について語る時のザンドラ様はひどく冷ややかな顔をしていたし、パーティーの時、フェリクス様と並んだ姿には親しさなどかけらもなかった。
あれ、でもザンドラ様はあのパーティーの時だけ、不思議なくらいに感情をあらわにしていたような。あれはなんだったのだろう。
首をかしげていると、陛下が静かに声をかけてきた。
「ヴィオレッタ、お前はガッビアの貴族の出、しかし虐げられていて人との関わりはほとんどなかったと聞いた。ならばフェリクスとザンドラの関係についても、理解しがたいだろう」
私の事情について陛下が知っていて、そして同情してくれていることに驚いた。思わずフェリクス様のほうを見ると、困った顔で視線をそらした。
「フェリクスはね、こまめに手紙を送ってくれたのよ。だから陛下も私も、王宮で起こっていることはそれなりに知っているわ」
くすくすと笑いながら、ナディア様が説明をしてくれる。
「うむ。……大体において、王族の結婚というものは政略結婚が当たり前なのだ。どこの国でもな」
それは、昔本で読んだような気がする。平民の多くは好きな相手と結ばれるが、貴族、それも位が上になればなるほど、自由に相手を選べなくなるのだと。
「だが、政略結婚も悪くはない。……私とアガーテもそうやって結ばれたが……私は、彼女のことを愛していた。誰よりも」
陛下の声が、震えてひび割れる。フェリクス様とナディア様も、悲しげに目を伏せていた。
「……アガーテ様というのは、陛下の正妃……フェリクスの母君よ。病弱な方で、十年前に亡くなられたわ」
「私はこのナディアも、そして第二王妃であるツェツィーリエのことも愛している。だがやはり、アガーテは……特別だった」
その言葉に、部屋がしんと静まり返る。少しして、陛下がまた口を開いた。さっきまでとは違う、明るい口調で。
「そういえば、ヴィオレッタ。お前は少し、アガーテに似ているな。そのはかなげな雰囲気、弱々しく見えるのに思いのほか芯の強いところなど」
「ふふ、そうですわね。男の子は母親に似た女性に惹かれがちだと聞いたことはありますけど……案外、本当だったのかもしれませんわ」
陛下とナディア様が、楽しげに笑う。フェリクス様は頬を赤らめながら、ふてくされたように顔をしかめていた。何だか、子供みたいだ。
実の親である陛下と、母親のように思っているナディア様の前だから、こんな表情ができるんだろうな。
そう思ったら、不意に胸がきりりと痛んだ。私は両親の前でも、きっとあんな顔はできない。あんな風に、心を許し切った顔は。
普通の親子の姿を目にしたことで、自分の置かれていた環境がどうしようもなくおかしかったのだと、改めて実感してしまった。
だから私は、もしかするとこの家の子供じゃないのかもしれないと、そんな風に思うようになってしまった。そしてそう考えることで、さらに家族との距離は広がっていった。
ひとりぼっちの十八年を、私はそんな風に過ごしていた。
きっと私は寂しげな顔をしていたのだろう。フェリクス様がこちらを見て、元気づけるように微笑みかけてくれた。
彼に笑い返していたら、胸の痛みがちょっとだけ和らいだ、そんな気がした。
そうして、私とフェリクス様はまた王宮に戻ってきた。
けれどもうザンドラ様の部屋に通うことも、エーリヒ様に会いにいくこともない。私は一日のほとんどを、フェリクス様のそばで過ごすことになったのだ。
私が聖女として目覚めたことは、まだ内緒だ。もしかしたら、一生秘密かもしれない。でも、それでいいと思えた。いざという時、大切な人を守れる。それだけでいい。
とはいえ、何もせずにぼんやりしている訳ではない。私はこっそりと、過去の聖女たちについての記録を読んでいたのだ。
はずれであれ何であれ、私が一応聖女としての力を使えることに変わりはない。過去の聖女がどんな風に生きていったのか、それを知るべきだと思ったのだ。
もちろん、フェリクス様も同意してくれた。「俺と父上が聖女を保護するための法を作ろうと思った、その理由を知ってほしい」と言って。
フェリクス様の執務室の奥の部屋で、積み上げた資料を順に読んでいく。
あの離れでよくこうやって本を読んでいたから、読むことは全く苦にならなかった。それに、扉一枚向こうにフェリクス様がいて、時々物音や話し声が聞こえるから、少しも寂しくはない。
けれど私の心は、どんどん重くなっていった。聖女たちについて知れば知るほど、泣きたくなった。
ある日、私は夜遅くにこっそりフェリクス様の部屋を訪ねた。
「そろそろ、話に来てくれると思っていた」
寝間着にガウンという姿の私を見てフェリクス様はちょっと恥ずかしそうに目を見張ったけれど、それでもすぐに部屋に入れてくれた。
「……聖女の話だな?」
「……はい」
向かい合ったソファに腰を下ろして、すぐにフェリクス様はそう尋ねてきた。膝の上に置いた手をぎゅっとにぎりしめて、こくりとうなずく。
「……あれを見て、ようやっと分かりました。フェリクス様と陛下が、法を作ろうとした理由を。私のことを秘密にしようとした理由について」