13.家族たちの密談
部屋の中に、また沈黙が戻ってくる。けれどすぐに、陛下が大きくうなずいた。
「そうか、目覚めてしまったか。となると……ヴィオレッタ、お前がフェリクスを助けてくれたのだな?」
フェリクス様とよく似た海色の目をこちらに向けて、陛下が言った。
あの口ぶりからすると、どうやら陛下は私が聖女の卵だったということを知っているのだろう。
そういえばこないだフェリクス様は、「俺が死んだら父上のところに行け」なんて縁起でもないことを言っていた。
それはそうとして、いきなり国王に話しかけられるなんて。とっさに言葉が出てこなくて、こくこくと小さくうなずく。
「まあ、そうだったのね。ありがとう、ヴィオレッタ。あなたには感謝しかないわ」
陛下の横の女性が、笑いじわが寄った目元をほころばせて微笑みかけてくる。とても優しい、ほっとするような笑顔だった。
「そうそう、私はナディアよ。こちらの現王の第三王妃。静養についてきたの」
そう言って、ナディア様は陛下と微笑み合う。とても仲のいい夫婦なのだなということが、すぐにうかがい知れた。
正妃である第一王妃と、もう一人の側室である第二王妃はどこでどうしているのかな。そんなことがふと気にかかる。
しかしすぐに、フェリクス様が声をかけてきた。
「ヴィオレッタ、君は以前『俺の胸元に暗い雲のようなものが見えた』と言ったな。あれと同じようなものが父上にもまとわりついていないか、確認してもらえないだろうか」
「あ、はい。……その、失礼します」
進み出て、寝台のそばに歩み寄る。好奇心むき出しの目をしている陛下に一礼してから、その全身をじっくりと見てみる。
何もおかしなものは見当たらない。しかしそれを伝えようと口を開きかけた時、ふと何かがきらりと光ったような気がした。
もう一度陛下に目を止めて、さらに見つめる。さっき光った辺りを……。
「あっ、ありました! 雲です! ……でもやっぱり、一部が灰色です」
陛下の胸元に、きらきら輝く雲があった。大きさは、フェリクス様の胸にあったものと同じくらいだ。でもその三分の一ほどが、くすんだ灰色に染まっている。
「そうか。俺の時と同じように、それに触れてはもらえないか?」
フェリクス様が重ねて言う。陛下も重々しくうなずいていた。
「でしたら、その、改めて失礼します……」
ガッビアの子爵家の、それも離れにずっと押し込められていたはずれの子の私が、隣国ヒンメルの王のこんなに近くにいるなんて。人生って、分からない。
緊張を紛らわせるためにそんなことを考えながら、そっと雲に触れる。前と同じように、私の手が触れたところだけ雲が輝きを取り戻していく。
やがて、雲全体が美しくきらきらと輝きだした。いつの間にか止めていた息をふうと吐いて、一歩後ろに下がる。
「あの、できました……」
「なんと……どうにも治りきらなかった体の重さが、見事に消え去ったぞ。この上なくすがすがしい気分だ」
陛下は驚きに目を見開き、隣のナディア様に話しかけている。ナディア様はちょっと涙ぐみながら、私に頭を下げた。
「良かったわ……本当に良かったわ。ありがとう、ヴィオレッタ」
手やら肩やら首やらを次々と動かしながら歓喜の声を上げていた陛下が、ふと動きを止めた。それからフェリクス様に向かって、小声で尋ねる。
「ところでフェリクス。彼女が聖女の力に目覚めたことは……」
「もちろん伏せています。エーリヒに気づかれるのではないかと心配していましたが、おそらくは大丈夫です」
「そうか。エーリヒはおっとりしているようで、野心にあふれる男だからな……聖女が目覚めたなどと知れば、何をするか分からん。フェリクス、彼女をしっかりと守ってやるのだぞ」
その言葉に、フェリクス様は黙ってうなずいた。珍しいことに、ちょっぴり頬を赤い。それを見た陛下とナディア様が、二人そろって嬉しそうに微笑む。
陛下とナディア様、元の顔立ちはあまり似ていないように思えるのに、そうやって笑ったところはそっくりだ。仲のいい夫婦は似てくると本で読んだけど、あれは本当のことだったんだなあ。
そんなことを考えていたら、陛下がふっと表情を消した。そうして厳かにつぶやく。
「そして、もう一つ。お前、もしかして毒を盛られたのではないか? 私と同じように」
突然飛び出したとんでもない一言に、叫びそうになって口を押さえる。
しかしフェリクス様は落ち着き払っていた。ナディア様も、顔色一つ変えていない。
「ああ、父上もそうでしたか。普段頑強な父上がいきなり具合を悪くされたので、もしやと思っていましたが」
フェリクス様が陛下のすぐ隣に立ち、何やら小声で話し始めた。なんだか大切な話をしているようだし、私はここにいていいのかな。
戸惑っていたら、ナディア様がそっと手招きしてくれた。彼女に従い、部屋の隅に移動する。そこに置かれたソファに、二人向かい合って腰を下ろした。
「あの二人がああやって熱心に話し込み始めたら、もう他の人間は割って入れないの。終わるまで、こっちでゆっくり待っていましょう」
こくんとうなずいて、ふと気になったことを尋ねてみる。ちょっと失礼かなとも思ったけれど、ナディア様は怒らないような気がした。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「ええ、どうぞ」
「フェリクス様はあなたのことを『ナディア叔母上』と呼んでいましたが……血のつながりは、ありませんよね?」
私の問いに、ナディア様はくすぐったそうに笑う。
「そうね。でもフェリクスは『俺の妹の母君なのだから、母とは呼べないにしろ叔母のようなものだろう』と言い張っているの。子供の頃から、ずっと」
なんだか、その光景が浮かぶような気がする。堂々としていて強引で、でも人懐っこくて憎めないところのあるフェリクス様なら、それくらいやってのけそうだ。
「……特に、十年前に正妃である第一王妃様が亡くなられてからは、私に甘えてくるようになったの。フェリクスも、陛下も」
「フェリクス様のお母様は、もう……」
「ええ。そうなの。元々体の弱い方で、二十歳まで生きられるかどうか、って言われていたみたい。もっとも、それよりも長く生きて、しかもフェリクス様という御子まで授かった。きっと最初に見立てた医者が、やぶだったのね」
そこまで喋って、ナディア様がふと私の顔を見つめた。まじまじと見つめられると、どんな反応をしていいか分からない。肩をすくめて背中を丸めて、彼女の視線をやり過ごす。
「ヴィオレッタ、あなたはちょっと第一王妃様に似ているかもしれないわね。顔立ちとかよりも……雰囲気が。浮世離れしていて、純粋で、はかなげな……雪の妖精みたいなところが」
「そう……なんでしょうか。自分ではよく分からなくて……あの、でしたら第二王妃様も、フェリクス様からすれば叔母のようなものなのでしょうか」
突然褒めちぎられたことが恥ずかしくて、話をそらす。ナディア様はちょっと困ったような顔になって、声をひそめた。
「いいえ、ツェツィーリエ様……第二王妃様ね、彼女は私たちとは打ち解けていないの。いつも王宮の奥深くにこもっていて、自分の息子であるエーリヒ以外はろくに近づけない。……彼女は陛下の前に姿を現すことすら、ほとんどないのよ」
会ったこともない第二王妃の姿が、ザンドラ様の面影に重なって見えた。自室からほとんど出ることもなく、誰とも打ち解けることなく。
「それって……寂しいですね」
「私もそう思うわ。だから折を見て声をかけてはいるのだけれど……私、たぶん彼女に嫌われてしまっていて。順列でいえば私のほうが下になるから、そんな相手に気安く話しかけられたのが気に食わないみたいなのよ」
「ナディア様とこうして話しているのは、とっても楽しいです。順列なんかを気にするなんて、もったいないです」
ついそんな不満と本音をもらしてしまうと、ナディア様はくすくすと嬉しそうに笑った。
「本当に、フェリクスは面白い子を見つけてきたのね。『聖女の卵を見つけたのはいいが他人の婚約者だったから、力ずくで奪ってきた。ガッビアとの国交に影響が出るかもしれないので、先に謝っておく』なんて手紙をよこしてきた時は、陛下と二人大笑いしたものだけれど」
彼女の思い出し笑いは止まらない。ひとしきり笑ってから、彼女は私の耳元に口を寄せ、とびっきり優しい声でささやいた。
「どうか、フェリクスをよろしくお願いね。残念だけどザンドラは、あの子のことを嫌っているの。彼女はお飾りの王妃になるつもりだと、私たちにはっきりと言い放ったわ。……でもフェリクスにも、心の支えが必要だから」
真剣なその声に、またこくんとうなずく。ザンドラ様にも、誰か心の支えになる人はいるのかな。そんなことが、ふと気になった。