12.馬車で二人きり
あれ、何だろう。温かい。それに、何だかちょっと暗くなったような。
目元に当てていたハンカチをずらして、前を見る。すぐ近くに、フェリクス様の胸があった。
涙を拭くのに一生懸命だったせいで気づくのが遅れたけれど、どうやら私はフェリクス様に抱きしめられているらしい。温かくて、いい匂いがして、胸がどきどきする。
「……好きなだけ泣くといい。君にはその権利がある。あれこれと心配させて悪かった」
頭のすぐ上から、そんな声がする。聞いているだけでほっとするような、そんな声だ。
「驚いて、涙が引っ込んでしまいました……あの、でも、もう少しだけ、こうしていてもいいですか……?」
「ああ、構わない。昔はよく、こうやって妹たちをなだめていたものだ」
「妹さん、ですか?」
「そうだ。父上の子供は四人。第二王妃の子であるエーリヒと、第一王妃の子である俺。そして、第三王妃には娘が二人いた。もっとも二人とも、もう嫁にいってしまったが」
「王妃が、さんにん……」
フェリクス様の胸にそっと額をつけたまま、ぼそりとつぶやく。前にもそう聞いていたけれど、やはりちょっと納得がいかない。
そんな私の気持ちを声音から聞き取ったのだろう、フェリクス様が小さくため息をついた。吐息が私の髪を揺らして、くすぐったい。
「だから言っただろう。ここヒンメルでは当たり前のことなんだ。……そういえば、俺の妻にならないかというあの言葉の返事を、まだもらっていないな?」
急にそんな話を振られて、飛び上がりそうになる。フェリクス様から離れようとしたけれど、逆にしっかりと抱きしめられてしまった。
「えと、あの、その、それは」
「はは、からかっただけだ。気にするな。俺としては、君が妻になってくれれば嬉しいが」
楽しそうに笑っているフェリクス様。きっと彼は本当に、私を妻にしたいと思ってくれているのだろう。けれど私は、素直にその言葉を喜べなかった。
「……それは、私が聖女だから……ですか?」
「いいや」
彼はすぐに否定して、腕の力を緩めた。そうして真正面から、私の顔をのぞき込む。顔が近い。身じろぎして逃げようとしたら、またしっかりと捕まえられてしまった。
「正直に言ってしまうと、俺は君が気になっている。あのパーティーで一人、どうしようもなく浮いたぼろぼろの格好でいた君は、それでも……美しいと思えたんだ」
フェリクス様はそう言って、ちょっと照れたように目をそらした。
「君が聖女の卵と判明した時は嬉しかったな。これでさらう口実ができたと、そう思った」
さらう口実、って。あんまりな言葉に、思わず黙り込む。そういえばフェリクス様は今までにもちょくちょく人をさらっているのだと、ザンドラ様やエーリヒ様はそんなことを言っていた。
「……気が向いたからさらったなんて、どう考えてもおかしいと思ったんです。やっと、本当のことを知ることができてよかったですけど」
「そうか? 俺は本当に『気が向いたからさらう』こともあるぞ?」
フェリクス様は堂々と、そんなとんでもないことを言っている。思わず、口がぽかんと開いてしまった。
「ザンドラ様やエーリヒ様が、フェリクス様は気まぐれに人をさらってくるって言ってましたけど、本当だったんですか……」
「まあな。いずれ、そのことについても説明する。ところで、さっきの話の続きだが」
呆れたような私の視線を、フェリクス様は肩をすくめてやりすごしている。
「そうして君をヒンメルに連れてきたのはいいものの、君の安全を考えるとうかつに近づけなくてな……かなりもどかしい思いをした」
私が聖女として目覚めてしまわないように。そんな事情がなかったら、きっと彼は私のもとにしょっちゅう顔を出して、一緒に過ごしてくれたのだろう。
そう確信できるような優しい表情で、フェリクス様は自信なげにつぶやいている。
「……君が心細そうだったから、こっそりと贈り物をしたのだが……それには、気づいてくれただろうか」
「もしかして、窓辺のあれは……」
「俺だ。名乗り出ることはできないが、君を見守っている。そんな思いを込めてはみたんだが……」
可愛い花。綺麗な石。おいしい木の実。そんな子供のような贈り物をくれたのが、フェリクス様だったなんて。
「……ごめんなさい、私てっきりエーリヒ様がくれたものとばかり……」
素直にそう白状すると、フェリクス様は困ったように目を細めた。
「君はずいぶんとエーリヒになついていたようだったからな。そう思うのも無理はない。俺としては、エーリヒが君の正体に気づいてしまうのではないかと冷や冷やしたが」
そう言って、フェリクス様が不意に言葉を切る。
「……まあ、俺と違ってエーリヒは、命を狙われるようなこともない。君が目覚める危険性は、さほど上がりはしなかっただろう」
「フェリクス様?」
急にフェリクス様の様子が変わったことに戸惑って、彼の海色の目をのぞき込む。彼は我に返ったように目を見張ると、苦笑して首を横に振った。
「ああ、こちらの話だ。君は気にしなくていい。今のところは」
「本当にもう、フェリクス様は隠し事ばっかり」
ちょっとすねた声でそう答えたその時、馬車ががたんと揺れた。前につんのめって倒れそうになったところを、フェリクス様がすかさず受け止める。
気がつけば、私たちは馬車のふかふかの床に、二人並んで寝転がっていた。
「いずれ夫婦になるのだし、こういうのもいいかもしれないな?」
「わ、わたし、まだ返事をしてませんから!」
「おや、ならば俺はふられるのか? それは予想していなかった」
フェリクス様はそんなことを言いながら明るく笑い、その隣で私は動けずに固まっている。そんな私たちを乗せたまま、馬車はまた軽やかに走っていた。
そうして、やがて離宮にたどり着いた。海のそば、入江の岸辺にぽつんと建った、平べったい感じの建物だ。
王宮に比べるとずっと小さいけれど、それでも今まで見た貴族の屋敷のどれよりも大きかった。
「まずは、父上にあいさつしにいこう」
ガラスのはまった窓があちこちにあるおかげで、離宮の中はとても明るい。少し前を行くフェリクス様のミルクティー色の髪が日の光を受けて、きらきらと輝いている。
廊下を歩いて、突き当たりの扉の前で立ち止まる。フェリクス様が扉をこつこつと叩いた。
「父上、フェリクスとヴィオレッタです。ただ今、参りました」
「どうぞ、開いているわ」
返ってきたのは、朗らかな女性の声だった。フェリクス様はためらうことなく、扉を開けて中に入る。私もそのまま、後に続いた。
そこは明るくて広い部屋だった。奥の壁際に大きな寝台が置かれていて、左右の壁には大きな窓がある。さわやかな風が、カーテンを揺らしていた。
寝台の上には中年の男性が上体を起こして座っている。その隣には、ちょっぴりふっくらした同世代の女性が付き添っていた。
「お久しぶりです、父上、ナディア叔母上」
「お前が倒れたと聞いて心配したのだが……誤報か?」
中年の男性は、おそらくフェリクス様の父親であるヒンメル王だろう。フェリクス様と雰囲気がよく似ている。
「いえ、確かに俺は一度死の淵に追い込まれました。……そのことについて、相談が」
フェリクス様の言葉に、王が真剣な顔になる。女性が心得たという顔で寝台のそばを離れ、扉に鍵をかけた。それから全ての窓を閉めて、また元の位置に戻ってくる。
その間、誰も何も言わなかった。さっきまで波の音とさわやかな風が満ちていた部屋に、張り詰めた空気が広がっていく。
そうして、フェリクス様がゆっくりと口を開いた。
「……父上、ナディア叔母上。まずはヴィオレッタを紹介します。彼女は……聖女です」