1.はずれの子
「この女はもらっていくぞ! 文句があるなら、力ずくで奪い返しに来るがいい!」
呆然とした私の肩を抱いて、凛々しい青年がそんな言葉を高らかに言い放つ。
彼は蛮族でも人買いでもなく、れっきとした王子だった。
私はずっと、独りぼっちだった。リッツィ子爵家の当主の娘として生まれた私は、子供の頃から独りきり、物置がわりの古い離れで暮らしていた。
母屋に足を踏み入れることは禁じられていたし、両親が離れに顔を出すこともほとんどなかった。離れに山と積まれていた本だけが、私の友達だった。
どうして自分がそんな扱いを受けているのか、ずっと不思議だった。
小さな頃に勇気を出して尋ねてみたものの、返ってきたのはお母様の怒鳴り声だけだった。「ヴィオレッタ、あなたは『はずれの子』なんだから、そこにいるのが当然なのよ」という。
私の身の周りについては、メイドたちが世話をしてくれていた。けれど彼女たちはあてがわれた仕事をこなすと、またすぐに母屋に戻っていってしまった。泣いても叫んでも、誰も来てくれなかった。
家族が暖かくて明るい母屋で幸せに過ごしている間、私は隙間風の吹く薄暗い離れで一人、古ぼけた毛布をかぶって震えていた。
どうして私だけ、こんな目にあうんだろう。誰も、答えてはくれなかった。
そうして私は、十八歳になっていた。白に近い金の髪と、野に咲くすみれのような紫の目。離れの古ぼけた鏡に映るのは、そんな乙女の姿だった。
髪の色も目の色も、そして顔立ちも、家族の誰とも似ていない。
お母様が私を『はずれの子』と呼ぶのは、きっとこのせいなのだろう。確かめる機会はなかったけれど、他に理由は思いつかなかった。私はたぶん、この家の本当の子ではないのだろう。
そう考えたら、少しだけ気分が軽くなった。私を疎んじているのは、虐げているのは赤の他人。そう考えるほうが、まだましだった。
とはいえ、私がずっと離れに幽閉されていることに変わりはなかった。いっそここを飛び出していこうと思ったことも一度や二度ではない。
けれど、外でどうやって生きていけばいいのか分からない。
たくさんの本のおかげで知識だけはあるけれど、私には他人と接した経験がほとんどないのだ。仕方なく、私はここに留まり続けていた。
小さな頃から何一つ代わり映えのしない、ただ苦しいだけの日々。でも私の胸には、小さな希望のかけらがまだかすかに輝いていた。
いつか、誰かがやってきて、私を救い出してくれる。それはもしかしたら、実の親かもしれない。それとも。
「……白馬の王子様って、本当にいるのかな。とらわれのお姫様を助けにくる、素敵な王子様」
古い絵本に触れながら、そっとつぶやく。こうやってあれこれ空想している時だけ、自分の置かれた境遇を忘れられた。
もちろん、そんなことが起こるなんて、本気で信じてはいなかったけれど。
そうやってただ静かに暮らしていたある日、騒がしい声が離れにやってきた。
「ヴィオレッタ、あなたに素敵な話を持ってきてあげたわよ! ええ、とっても素敵な話! ……ああもう、ほこりっぽいわね、ここ」
わざとらしくせき込みながら、姉のカテリーナがやってきた。
私より一つ年上の彼女は、お父様と同じオレンジ色の髪に栗色の目で、お母様とよく似た顔立ちをしていた。当然ながら、私とはまるで似ていない。
彼女は月に一回くらい、この離れにやってくる。何かの自慢話をするために。
それだけならまだしも、離れにあるものを勝手に持っていってしまったり、壊していったりすることもあるのだ。それも、やけに楽しそうに笑いながら。
要するに彼女は、嫌がらせをするためだけにここに来るのだ。
彼女は明らかに私のことを嫌って、見下していた。あなたはいたぶられて当然の存在なのよと、ことあるごとに彼女はそう言っていた。
けれど今さっきカテリーナは、何だか妙なことを言っていた気がする。素敵な話を、持ってきてあげた? 彼女の口からそんな言葉を聞いたのは初めてだ。
それに彼女は今、自分の婿選びに忙しいはずなのだ。このリッツィ子爵家は、カテリーナが婿を取って継ぐことになっている。そのことは、二か月前に彼女からさんざん聞かされた。
ほら見て、この書類の束。これみんな、お見合いの申し込みよ。私と添いたいって殿方が、こおんなにたくさんいるのよ。あらごめんなさい、たぶん一生結婚できないあなたの前で言うことじゃなかったわね。
カテリーナはそう言って、高らかに笑っていた。
ふっとこみあげてきた何かの感情を力ずくで胸の奥に押し込んで、何もなかったようなふりをする。この感情をはっきりと自覚してしまえば、もっと辛くなるから。
「聞いてるの? ヴィオレッタ、相変わらずあなたはぼうっとしてばかりで、本当にどうしようもないんだから」
そうして黙り込んだ私に、カテリーナが追い打ちをかけてくる。やけに弾んだ、でもいらだたしげな声で。
「あなた、パーティーに招待されたのよ。アッカルド伯爵のパーティーよ。伯爵は、どうしてもあなたを招きたいんですって」
「……どうして、私を?」
「それは、伯爵に直接聞いてみるといいわ。パーティーは来週だから。それじゃあね、当日を楽しみにしていて」
それだけ言って、カテリーナはさっさと母屋に帰ってしまった。離れにまた、元通りの静けさが戻ってくる。
そもそもアッカルド伯爵って、誰だろう。生まれてこの方この離れを出たことのない私を、どうして招待しようと思ったのだろう。
それを言うなら、いつも嫌がらせしかしてこなかったカテリーナがいい話を持ってきたということ自体がおかしい。
分からないことはたくさんある。けれど一つだけ、確かなことがあった。この話は、絶対にいい話なんかじゃない。
「生まれて初めてのパーティー……どうなるのかな。何だか怖い」
そんな私のため息交じりのつぶやきは、誰に聞かれることもなく消えていった。
そうして、パーティー当日。カテリーナのお下がりのドレスをまとって、会場であるアッカルド伯爵の別荘に向かう。
とはいえ、ドレスはあちこち虫が食ってしみが浮いた古くぼろぼろのものだし、髪は自分で見様見真似で結ったものだ。化粧品も装飾品も持っていないから、あんまり華やかにはなっていないかもしれない。
しかも、私が乗っているのは屋根も壁もない荷馬車だ。座席なんてないから、わらくずが散らばる板の床にじかに座っているのだ。
これは明らかに嫌がらせだ。それは分かっていたけれど、それでも楽しいと思えてしまった。こんな風に乗り物に乗って外を移動するなんて、初めてだったから。
生まれて初めての外の風景にわくわくしているうちに、目的地に着いてしまった。嫌な予感しかしないパーティーになんて出たくないし、できるならずっとこのまま、馬車に揺られていたかった。
ため息を押し殺して、馬車から降りる。本で読んだことを思い出しながら、精いっぱい優雅に、別荘の中に向かっていった。
そうして私は、パーティー会場である大広間に通された。
高い天井、驚くほど広い部屋、和やかに語り合う着飾った人たち。絵本で見たのと同じ、貴族のパーティーの風景がそこにあった。
でも大広間に私が足を踏み入れたとたん、戸惑ったようなざわめきがわき起こった。その理由は、すぐに分かった。私の服装が、あまりにも場違いだからだ。
私にとっては生まれて初めてのドレスは、周囲の人たちのものと比べるとぼろきれのようなものでしかない。
なんとなくそんな気はしていたけれど、こうして実際に他の人たちと顔を合わせてしまうと、身なりの違いはあまりにもひどいものだった。
急にこみあげてきた恥ずかしさにうつむきながら、そろそろと壁際に移動する。大きな柱の陰に、隠れるようにしてたたずむ。
そうやってじっとしていると、やがて大広間は元の穏やかな雰囲気に戻っていった。周囲の人たちは私のことを遠巻きに見ているだけで、話しかけてはこない。
そのことを残念だと思うと同時に、ほっとしてもいた。
私は他人とまともに話したことがない。物語の本ならたくさん読んだけど、こういう場でうまく話せる自信がない。失礼にならない適切な話題を選んで、言葉をやり取りして話をつなげていく。それは今の私には、とっても難しいことのように思えたのだ。
でも、できることなら、少しだけ誰かと話してみたかったな。
きっと私は失敗してしまうけれど、ここにいる人たちとはたぶんもう二度と顔を合わせることなんてないのだし、失敗してもたかが知れている。
アッカルド伯爵が何を考えて私を招待したのか分からないけれど、このありさまを見れば、今後招待しようなんて思わないだろう。
寂しいな。ふと、そんなことを思ってしまった。
あの離れで独りきりでいる間は、寂しさなんて感じなかった。でもこうしてたくさんの人たちのそばにいると、不思議なくらいに寂しさを感じる。
大広間の人々から顔を背けて、目を伏せる。その時、人の波の向こうからカテリーナが姿を現した。つかつかとこちらに歩み寄ってくる。
彼女はとっても綺麗で豪華なドレスをまとっていた。高々と髪を結い上げて、耳にも指にも宝石を飾っている。
その顔には、この上なく嬉しそうな笑みが浮かんでいた。いつも離れで自慢話を語っている時と同じ、奥底に悪意をひそませた笑み。
「ああ、ここにいたのねヴィオレッタ。アッカルド伯爵が、あなたに話ですって」
彼女のすぐ後ろから、中年の男性がやってきた。どうやら彼が、このパーティーを開いたアッカルド伯爵なのだろう。年の頃は四十ほどか、しかしとても顔色が悪く骨ばっていて、もっとずっと年老いて見えた。
「あ、あの、初めまして……ヴィオレッタ・リッツィと申します」
行儀作法の本で読んだ内容を思い出しながら、スカートをつまんで礼をする。そっと上目遣いに様子をうかがうと、アッカルド伯爵と目が合ってしまった。離れの庭にいるトカゲを思わせる、表情の読めない目だ。
胸がざわざわする。心のどこかが危険だと叫んでいるような、そんな感覚だ。他人と関わった経験はほとんどない私だけれど、敵意や悪意ならたくさん見てきた。この感覚はきっと正しい。早く、彼から離れたい。
たじろぐ私に、彼は無機質な目を向け続けている。そして不意に、口を開いた。
「私は妻を甘やかすつもりはない。君が私の妻となったあかつきには、身を粉にして存分に働いてもらう」
低くてざらざらした不快な声が、そんな言葉を紡いでいく。その意味が、私にはすぐに理解できなかった。