第八章
第八章
気付くと大きな建物の外にいた。
巨大な神殿。
人の営みと神を礼賛する用途が高次元で融合した多目的建造物。
時刻は昼間。
天空に燃える太陽が日中を示す。
カビールとスフィル。
二人はお互いの無事を確認しあった。
お互いに抱き合う形で地面に倒れていた。
「あわわわ!」
慌てて飛び上がりながら、カビールはスフィルに向かって後方へ後ずさる。
赤くなった顔と頭を、急いで左右に振り回す。
スフィルの目と鼻と、瑞々しい唇がすぐ目の前にあった。
唇同士が接触してしまいそうな近距離。
近い、近すぎた。
緊急時でない限り、眼前に惚れた女性がいる状態は若人には刺激が強すぎた。
カビールの心臓が飛び出しそうなほどに高鳴る。
(スフィルはやっぱり綺麗だな)
少女の美しさに再びときめくカビールの心。
人が造り出した最高峰の美貌。
スフィルの美しさを前にして、カビールは取り乱してしまいそうな気分に陥る。
逆に、スフィルは冷静そのもの。
「ここどこ?」
地面に座った姿勢で、疑問を口にする。
静かに場所の確認をとる。
思い出すのは絶叫したアヌビスの姿。
神の作り出した穴へ吸い込まれた二人。
たどり着いた場所に見当がつかない。
元が時空を超越した集合的無意識の海だけに、場所だけでなく時間すら移動した可能性がある。
「どこだろうね」
「帰れるといいんだけど」
スフィルは帰還の心配をした。
すると、再びスフィルの腹が鳴った。
「……お腹空いた」
恥ずかしそうに目を伏せたスフィルを、カビールは笑いながら眺める。
「ご飯も食べないとね」
カビールが赤い顔を冷ましてからスフィルへ近寄る。
伸ばされた手を、スフィルは掴み返しながらその場から立ち上がる。
こんな時でもお腹を空かせたスフィルの可愛らしさに、カビールの心は冷静さを取り戻した。
むしろ自分が率先してスフィルの助けにならねばと奮起する。
それから二人は辺りを見回した。
見たところ、彼らがたどり着いた神殿は現代の建築様式から外れている。
素材は主に切り出された石材。
滑らかに研磨された石が、巨大な建造物を形作っている。
これだけ見ると歴史の古い過去にも思えるが、そうとも言えない。
もしかしたら人類とは別の霊長類が暮らす超未来の可能性もなきにしもあらず。
彼ら以外の人類がここにいるかは保証がない。
こればっかりは神に祈るしかない。
(その神様の機嫌を損ねた結果、ここにいるんだけどね……)
あの時、闇の神アヌビスが放った絶叫。
あれは怒りだったのか、それとも嘆きだったのか、一般人にすぎないカビールにはわからない。
もしかしたらスフィルにならその神の気持ちを汲み取れたかもしれないが、今は聞かないでおく事にした。
(今は少しでもスフィルの負い目を減らしてあげたい。君は生きていいんだとわかってほしい)
正直、神様の想いを人間一人が抱えるなんて重荷がすぎる。
スフィルの肩にかかる負担を少しでも減らすべくカビールは言葉を選ぶ。
なので、思考を再びこの場の探索へ切り替える。
建築様式の他にも、時代そのものに宿る空気の香りの違いなど。
「場所は、エジプトのようね」
「へーわかるんだ」
「匂いで大体ね」
場所そのものはさほど移動していないとスフィルは鋭敏な五感で察する。
人間として優れたスフィルの五感ならば、その精密さは人類最高峰であろう。
問題は時間的座標。
遠い過去か、または遥かな未来か。
その証明はすぐになされる事となる。
砂を踏み締める足音が彼らの耳に届く。
「誰かいるのか?」
その呼び掛けに、カビールとスフィルは同時に声のした方向へ振り向く。
神殿の外。
二人の立っている場所。
おそらく観賞用の中庭。
流れる水と石で構築された庭園は、見る者の心に母なるナイル川を連想させる。
そして外と内を繋ぐ連絡路。
歴戦の王者がそこにいた。
姿からこの時代が人類の繁栄する時空なのだと察する事が出来た。
その高級そうな着衣から、一目でこの神殿の主と判別がついた。
「なんとも珍しい客人が来ておるな」
性別は男性。
年齢は三十歳程度。
筋骨隆々の肉体を選び抜かれた装束で彩っている。
蓄えられた顎髭は、豪快な本性を雄弁に語る。
何より特徴的なのが、その双肩から立ち上る勇壮なる気配。
数百、いや数千人の兵士が束になっても敵わない王者の気風がカビールとスフィルの前で両腕を前に組んでいる。
あるいは、あの集合的無意識の海で誕生しようとした神にも匹敵する存在感。
存在そのものが魔法のような人物。
(……もしかしたらスフィルと同じくらい凄いかも)
カビールはすぐ隣の美少女と目の前の王者を見比べた。
単純な美しさでは語れないが、両者はどこか似た部分があるかもしれない。
もしかしたら、目の前の王者もスフィルのように人工的に作られた存在なのかもしれない。
スフィルの身の上は、セベク社長から聞かされていた。
それは錬金術の極致。
人工的に生み出された救世主。
黄金比の魂を持つホムンクルス。
その彼女と比べて遜色ない人間。
こんな人物は人類史に二人といない。
そんな覇王が自らを明かす。
「我が名はアレクサンドロス三世。いずれ世界を征服する王の名である」
双角王。
ズルカルナイン。
数多の異名をその人物は持っていた筈。
その中でも広く流布された呼び名。
アレクサンドロス三世。
エジプト随一の港町であるアレクサンドリアの地名の元となった人物。
歴史上屈指の偉人の名が語られる。
孤児のカビールでも名前ぐらい聞いた事のある大偉人。
カビールは緊張で唾を飲み込んだ。
同時に、スフィルのお腹がまた鳴った。
気まずい空気が三者の間を流れる。
その空気を断ち切ったのは覇王。
「とりあえず、食事でもどうだ?」
◆
カビールとスフィルが通されたのは巨大な神殿の一角。
覇王の私室。
この私室へ通されるまでに、カビールとスフィルは多くのモノを見た。
例えば、覇王にかしずく衛兵や神殿で働く神官等。
他には、現代では風化して見れない調度品や装飾の数々。
壁面に彫られた象形文字から、ここが太古のエジプトなのだとわかる。
どんな神威が作用したのかしれないが、二人は過去のエジプトに飛ばされたらしい。
「存分にくつろいでくれ」
来客の歓迎用の長椅子に二人は座った。
そして時を置かずに運び込まれる料理の数々。
うわあとカビールは驚いた。
ごくりとスフィルは唾を飲んだ。
世界征服を目指すアレクサンドロス三世が美味いと豪語する食事の数々。
一説には、アレクサンドロス三世は支配した土地の美味ばかりを食べ過ぎて痛風になったと言われている。
今のところ目の前の本人に不摂生の気配は感じられない。
「美味しい、美味しい」
スフィルは神官達から出された料理を、美味しそうに平らげていった。
「そこまで美味しそうに食べて貰えると歓迎した甲斐がある。そちらの少年はどうだね、あまり手をつけてないようだが」
「俺は十分です。スフィルが嬉しそうに食べてるのを見てるだけで胸がいっぱいで」
「そうかそうか」
覇王が二人を眺めながら顎髭を撫でる。
そして唐突に質問する。
「二人は恋人同士なのかな?」
カビールはその質問に吹き出した。
「違うのかね?」
「いやその」
スフィルは食事に夢中で話を聞いていない。
覇王は面白そうな話題だと飛びつく。
「最終的にはそうなりたいけど、まだ友達からかなと。スフィルも、俺の事をそこまで男性として見ていない感じなので」
「おいおい、男なんだからもう少しぐいぐいと攻めていかんと。若い時は短いんだから」
「あははは」
カビールは笑って誤魔化す。
そして話はカビールとスフィルの身の上話に移る。
「それで君達は」
「話すと信じて貰えないかもしれないけど、嘘はつきません」
遠い過去へ時間移動した二人は、とりあえず原住民との接触を希望した。
何が現代帰還に作用するか。
とにかくやれる事は全部やってみようの精神。
スフィルが食事を済ませてから、カビールは自分が話せる限りの事情を目の前の王様に説明した。
説明の間、幾つかの質問があったが覇王は基本的に静かに聞いていた。
話を終えると、大きくため息が覇王の口から漏れた。
「そうであるか、遠い未来から」
理解が速いのは、偉人の証か。
覇王は二人の身の上話を、静かに飲み込む。
アレクサンドロス三世。
東方のオリエント文明を制覇し、エジプトにおいてはファラオの位を得た希代の大偉人。
「神の威に導かれてここに」
だが覇王の私室は、不思議なほど簡素であった。
最低限の調度品は置かれているものの、覇王自身の個性を表す品物は驚くほど少ない。
これはカビールが感じたスフィルと近しい何かに直結していた。
世界征服を目指す覇王の真実。
「納得だな、貴様達からは余に対する恐怖や畏敬の年が薄い。別の時代を生きる人間に、余のカリスマは作用せんのだろう」
ここから想像されるアレクサンドロス三世の身の上は、おそらく生まれながら敷かれたレールを歩いてきた人生で、趣味と呼べるものも三大欲求等の基礎的な代物。
頼れる戦友はいても、戯れる友人は少ないか絶無なのかもしれない。
共に語り合う友のいない生活。
それはスフィルの人生と一致している。
「共に食事をする友が欲しかったのでな」
覇王自身が自らの悩みを口にした。
誰にも語った事のない悩みを。
「長年の願いが叶って晴々しい気持ちである」
刹那。
すべてが静止した。
最初は何かの勘違いと思い、すぐにそれが現実だとカビールは実感した。
隣にいたスフィルに目配せすると、少女も静かに頷いている。
空気は凍りつき、空中を飛行していた羽虫は固定され、景色は時の牢獄の静止画と化す。
そして再び動き出す。
しかし、それも通常の時間の流れとは異なる。
今度は時間が加速していた。
時間が高速で流れていく。
覇王の私室に人が入っては出ていく。
瞬きの間に、日が陰り、月が天に昇って、地平線が朝日に輝く。
時の歯車が加速する。
二人だけが通常の時間の流れから逸脱している。
次第に、カビールとスフィルのいる場所も変化していく。
神殿から別の神殿へ。
時には海の港街。
場合によっては鬱蒼としげる樹林等。
複数の場所を転々とした。
まるで旅する覇王の足跡をたどるように。
そして二人はその結末にたどり着いた。
薄暗いのは空気が澱んでいる為。
そこは暗い幕舎の中。
「死にたくない」
変わり果てた声が闇に響く。
声に力はなく、かすれた音が吐き出される。
おそらく時間は、東方遠征の最中。
数々の難題や障壁を乗り越えて旅してきた覇王が直面した絶対的な断絶。
歴史に記された話によると、覇王はその地域特有の熱病にかかり床に伏したとの事。
それは死の間際。
それは臨終の瀬戸際。
彼らの目撃している光景は、大偉人の最期。
アレクサンドロス三世の晩年。
熱病に侵された身体からおびただしい汗を流して苦しみ喘ぐ。
眠るのが恐ろしいと痩せ細った顔が苦悶で語る。
明日が来ないのではないかと覇王は恐怖に支配されていた。
喘ぎ、さまよう覇王の意識。
苦悶の断末魔の叫び。
「まだやりたい事がたくさんあるのに。ここで終わりたくない。消えたくない」
誰もが迎える死の瞬間。
覇王は己の願う限りの言葉を、死の淵に瀕した床の上で叫び続ける。
そして叫びは次第に、一つの方向へ集約されていく。
「教えてくれ。余の死後はどうなるのか」
スフィルは直感した。
自分はこの為にこの場に呼ばれたのだと。
「頼む、教えてくれ」
求められて、応じる。
スフィルが答える。
貴方の築き上げたモノは、多くの人々へ受け継がれていくと。
スフィルは語った。
語られた未来を、死に瀕した覇王は一語一語飲み込むように受け入れていく。
まるでそれが痛みをやわらげる万病に効く霊薬のように。
「そうか……余の人生は無駄じゃなかったのか」
アレクサンドロス三世はそうして自分の最期を受け入れる準備をした。
瞳に力が戻る。
僅かながら声にこもる意思も復活する。
「ありがとう、未来の迷い人達よ」
残された力の一つを、覇王は他者への感謝の念に使った。
その顔に後悔の念は見当たらず、まるで神と一体化したような晴れ晴れとした面持ちで幕舎の天井を眺めている。
「そなた達は自分の時間に帰るがよい」
その言葉が鍵となったのか、カビールとスフィルの前に再び黒い大穴が生じた。
再度、転移していく情景の中でカビールとスフィルはお互いの片手を繋ぐ。
覇王の絶命と共に、二人は帰るべき時空へ歩を進めた。
◆
カビールとスフィルは再び聖域の奔流に飲み込まれていた。
全ては神が見せた幻覚か。
はたまた現実の歴史の一場面か。
「カビール」
スフィルが少年の名を呼ぶ。
何かに気づかせるように、少女は少年に呼び掛ける。
「すぐそこにいる」
何がとはカビールは問わない。
それは一目瞭然だから。
巨大なる意思。
神話に語られる超越存在。
聖域に戻った彼らは、再び神の前で身を寄せ合う。
相手は、狂える暴風の権化。
死と冥府を司る神体。
「これが闇の神、アヌビス」
カビールは戦慄する。
神と呼ばれた存在に、ちっぽけな人間程度がどうにか出来ると思えるほど事態は軽くない。
まさに台風に飲み込まれた木の葉の気分。
自分一人ではどうにも出来ない。
少年一人では無謀。
「ーー勘違いしないで」
しかし少年は一人ではない。
この場には、カビールと互いを支え合う隣人がいた。
つい先程まで神楽を捧げていた少女が、カビールへ囁く。
スフィルは神と相対する術のスペシャリスト。
「神は敵じゃない」
的確なアドバイスをスフィルは口にする。
「俺はどうすれば」
「それは、彼にお祈りを捧げるの」
「祈る? それだけでいいの?」
「うん、だって彼ら神は、人の祈りによって生まれ、そして時に滅びる。別の形で復活する事もある。全ては祈り次第」
スフィルは神という存在の根幹を語る。
神とは崇めるモノ。
神とは願うモノ。
人の意思が形作る偶像。
それ故に、どんな人間の言葉でも、どんな祈りだろうと、誠意は通じる。
人が神を生み、神が人を見守る。
その相互関係が、この場において重要になる。
「さあ、貴方は彼に何を望むの?」
「俺は」
カビールは一度、胸に手を当てながら静かに息を整える。
胸の奥にある、心の奥底にある願いを、祈りを確かな形にすべく胸に当てた手を握り締める。 カビールは確かな意思と共に言葉を紡ぐ。
「俺は、スフィルと一緒に生きたい。ずっと隣で生きて行きたい。だからーー」
おそらく大勢の人間がこの神の出現を待ち望んでいるのだろう。
だが、それにはスフィルの命が必要ならばカビールはその未来を否定する。
無限に広がる集合的無意識の聖域において、選べる未来は一つのみ。
少年は、己の祈りを形にする。
「神様、お帰り願う!」
瞬間、アヌビスの神体が一際大きく震えた。
闇と死の塊が、浮上を止めて停止する。
そしてゆっくりと沈下を開始する。
再び人の意思の織り成す海の底へ戻っていく。
少年の祈りは聞き届けられた。
少女の命は、神の贄からまぬがれた。
同時に、煌めく光の粒子が二人を取り囲む。
海の底へ落ちていく神とは反対に昇る光の柱。
それは現実へ通じる道。
現実と空想の境界線に開かれた門。
その先にはまだ見ぬ未来が二人を待つ。
「行こう」
少年の呼び掛けに少女は応える。
光輝く軌跡を昇るように、カビールとスフィルは現実へ帰還した。