第六章
第六章
スフィルは真っ白な空間にいた。
漂う、と表現した方が正しい。
純白に満たされた虚構の海。
虚数の津波が、頭上の海原で寄せては返す。
かつて彼女が学習用のテレビ映像で見た深海を漂うクラゲのように、ゆらゆらと漂流する。
(……私は……)
自己を再定義する。
ほどけかけた自身を認識して、あやふやなこの場に確たるモノとして固定する。
彼女は自分がここに至る経緯を思い返す。
あの時、スフィルが導師達の下へ帰還してすぐに儀式は再開された。
人気のなくなったピラミッド周辺で、スフィンクスの像に見守られながら再開された儀式は、以前の神獣に生け贄を捧げる方法とは別の代物になっていた。
導師曰く、時間と空間が違えば必要とされる儀式も変化するらしい。
今回は呼び出すのではなく、こちらからあちら側へ干渉する。
そうやってスフィルは今ここにいる。
この無限に広がる虚構の海で、目的地へ向かう。
それは夢を見る感覚に近い。
意識と無意識の狭間で、脳内の情報を整理する。
あるいは明確な映像として投影する。
この領域は無にして有。
夢が現実になる神秘的な空間。
道は在るのではなく、自らの意識が作り上げる。
ゴールを認識して、そこまでひたすら潜り続ける自分をイメージする。
そこで障害が発生する。
物理的に何もない筈のそこにわだかまる神秘的な力の奔流。
凝固した光の結晶体。
行く手を阻む拒絶の意思。
それは門である。
不思議な事にこの場には意識と呼べるモノが確かに存在している。
だが、それはスフィル等の一個人の代物ではない。
より大勢。言ってしまえば全人類。
曰く、集合的無意識。
天国や地獄は、人間の認識で再定義された異界の通称。
人の認識の数だけそれらは存在する。
それを統括するべく人は宗教を生み出した。
広く認知された異界は、それだけ強固な幻想として君臨する。
そしてあらゆる宗教観において、異界には現実との境となる門が登場する。
(……欲しているの……私の……)
今回の場合は、エジプト神話。
アヌビスの裁決と呼ばれる神話の再現。
鮮血が迸った。
それは赤黒い臓器。
人体の重要な器官。
心臓と呼ばれる命の中枢が、光で編まれた天秤の片側に捧げられる。
スフィルの胴体に大きな空洞が出来た。
捧げられた心臓は、その人間の罪の証。
この心臓の重みが、罪の重さが神の創りし羽根より軽ければその者は神の国へ招かれる。
古代よりエジプトで言い伝えられてきた神話が、宗教が、行く者の歩みを阻む。
そもそも罪を抱かない人はいない。その上、文字通り羽毛の如き軽さの神の羽根を超越するなど普通なら無理な話。
もしかしたら太古の人間はこのように考えていたのかもしれない。
この難問を乗り越えられる人間なんていない。
人間は必ず重い罪を抱いて死ぬと。
だが、
「欲しいなら幾らでもあげる」
ここに例外が存在した。
スフィルの胸の空洞が、瞬く間に修復されていく。
ここは意識と無意識の、有と無の世界。
そこで生じた傷も痛みも、強き魂の力であれば有から無へと変換が可能。
そして彼女はホムンクルス。
フラスコの小人。人の原罪にまみれていない無垢なる魂の持ち主。
「通して貰うよ」
致命傷は完治した。
神秘はより強い神秘に。
より強固な精神性に屈服するように出来ている。
無彩色の扉が、錠前を下ろす。
門は開かれた。
人間にとって最大の難関が突破される。
スフィルは命じられたままに先へ進む。
途方もなく永い時間が経過したようにも、瞬きの刹那にも感じられる次元潜行。
そこは奈落にして頂点。
零にして無限大。
始まりと終わりが同居した円環の中心。
闇の神アヌビスの座す深奥。
巨大な神威の塊がスフィルを迎え入れる。
『小さき者よ』
声無き声がスフィルの耳朶に響く。
人が神と定義した超存在が、来訪した客人を迎え入れる。
神は問う。
人が生み出した原罪無きホムンクルスへ。
『汝、我に何を望むか』
「その力のすべてをお貸しください」
スフィルの目的は、導師の命令。
「私のすべてを捧げます。どうかそのお力をお貸しください」
スフィルは、舞を踊り出す。
今まさにスフィルの認識によって、この場は再定義されていく。
くるくると廻る。
舞い踊る。
再定義された異界は、魔法にも影響をもたらす。
反対に、魔法によって異界に影響を与える事も出来る。
神は見た。
小さき者の全身から放たれる魔力。
空間を波及する魔法の旋律。
それが神自身に形を与えていく。
スフィルは神への生け贄。
その極上の魂が、冥界を司る闇の神アヌビスを現実へ召還する。
魔術師達の悲願。
神がこの世に現出する時が近づいた。
◆
襲撃を受けたカノープスは、組織として甚大な被害を受けたがその機能は保っていた。
スフィルが保護されていたビルで、この未曾有の大災厄と戦う為に守護者達は準備に勤しんでいた。
忙しく駆け回る構成員。
他の拠点から音信不通の連絡を受けたカノープスは、カイロのビルを中枢として動き続けている。
今、このビルは世界を守る最前線。
その最前線の一室に、叱責に近い言葉が、周囲に木霊する。
「今はどうなっている」
彼はカノープスの首脳陣の一名。
アヌビスの兵士の襲来からどうにか逃げ延びた人間の一人。
その問いかけに部下らしき人物が答える。
「現在、施設内のアヌビスの兵は撃退を完了。第二波に備えて防衛ラインの構築に動いております」
「部隊長の容態は?」
「傷を負ったものの最前線で指揮を行っております」
「スフィルとその集団の様子は?」
「ピラミッド周辺から動く気配はありません」
「そうか」
おそらく中断した儀式の再開を行っているに違いないと彼は判断した。
今の状態でも危険極まる状況が、さらに悪化すると理解がおよんだ。
現在進行形で人類の危機的状況。
「決まりだな」
その言葉は首脳陣の一員としての宣言。
こうなれば手段を選ぶ余裕はない。
彼らの肩には世界の命運がかかっている。
最悪、大勢の犠牲が出ても構わない。
「あの少女を、スフィルを殺せ」
最悪の中の最善。
最低限の犠牲ですべてを救うには、それしかない。
儀式の中核は、スフィルの命と密接に繋がっている。
「全員に通達せよ、スフィルの殺害を最優先課題として認定すると」
彼は部下に命令を飛ばす。
しかし、部下は気まずそうにその場を動こうとしない。
「どうした早くしろ」
「それが」
部下が言外に物語る。
命令を下す指揮系統に問題が発生している。
誰かが彼の、首脳陣の一員の指令を邪魔している。
「誰だ」
「正義の味方登場」
冗談のようにも、本気とも取れる声が場の空気を震わせた。
「そうは行かせないぜ」
そこには平時と変わらない笑顔。
威風堂々とした立ち振舞い。
セベク社長がこの場に介入していた。
「貴方か」
「おいおい見知った顔同士、もっと親しく行こうぜ」
「状況による。今回はその中でも最悪のタイミングだ」
【セベク社】はエジプトの広大な国土を一社で発展させた一大企業だ。
その手は裏社会にも精通しており、さらには表沙汰されていない魔術師の世界にも影響を持っている。
カノープスをエジプトの守護者とするならば、セベク社長はエジプトの王者と呼べる。
王者の意向には、民草は逆らえない。
それが裏社会の住人であろうと、カノープスの一員だとしても。
なので、社長の人脈は幅広い。
彼もセベク社長とは顔見知りである。
しかし、それが親しい関係とは言い難い。
片やエジプトの安寧を祈り、片やエジプトの発展を願う。
噛み合う事もあるが、そうならない事の方もある。
むしろ反目する方が多い。
お互いが睨み合う関係と言えた。
今回もその一環なのだろうと彼は考えた。
この騒動をビジネスチャンスと考えたのかもしれない。
普段なら嫌々ながらも、まともに相手にするだろう。
だが、状況が悪すぎる。
何故なら、今は世界の危機なのだから。
「話はついた筈だ。貴方はこれ以上でしゃばらないと約束した筈だ」
「それは相手が無関係……ただのお客様の場合に限っての話」
世界と一人の少女。
選ぶならどちらか?
その選択肢に疑問を抱く人間はいない。
ただ一人を除いて。
「うちの息子が惚れた相手だ。それなら俺の家族も同然だ」
まるで恋と愛は、あらゆる障害をものともしないと言わんばかりの発言。
「甘い事を言う」
「人間、余裕がなくなったらおしまいだぜ?」
「あんなどこの馬の骨とも知れない子供を」
「だからあいつに、坊主に賭けてみる事にした」
セベク社長の言葉は力強い。
その言霊の力は、実体験によるモノか。
スフィル殺害に傾きかけた現場を押し戻す。
「案外、侮れないぜ。人の心の力ってのはよ」
◆
「大丈夫ですか、坊っちゃん」
坊っちゃんと呼ばれて、慣れない様子でカビールは振り替える。
心配されたほどの動揺は薄い。
ただ、やっぱり慣れないので実感が湧かない。
「その坊っちゃんて言うのは止めて貰えませんか? なんだかむず痒い」
「何を言うんですか。貴方はセベク社長のご子息になられたんですから、これは当然の事」
カビールが【セベク社】の社長の息子となった。
それは少年の今後を激変させた。
カビールはもう路上や路地裏で物乞いをする必要はなくなった。
加えて上納金の件は、セベク社長が何とかしてくれたらしい。
裏社会の組織とセベク社長の間でどのような取引が行われたかは定かではないが、とにかくこれでカビールは組織から狙われる事はなくなった。
良いことずくめで、逆に怖くなりそうたが、カビールは不思議と安心していた。
もしかしたらカイロから始まったエジプト横断ツアーの最中に目の当たりにしたセベク社長の人となりが、少年に人を信じる事を、または頼る事を学ばせたのかもしれない。
「そこまで言うならいいですけど」
とりあえず慣れない事は横に置いておいて、カビールは周囲を見回す。
カビール達がいるのはカノープスが保有する軍事拠点の一つ。
広大な整備ハンガーに精密機械や搬送用のクレーン車等がところ狭しに並んでいる。
現在、整備ハンガーを占拠しているのはカノープスの人間ではなく【セベク社】の従業員。
中にはカビールが見知った顔も、少年が短くも長い旅路で出会ったツアースタッフや旅の最中にスフィルにもよくしてくれた旅行客の姿もあった。
あれは慰安旅行でもあったらしい。
後になって聞かされたカビールであったが、今は不思議に思う暇もない。
正直に言えば、今すぐにでも飛び出したい気持ちにかられる。
一秒でも早くスフィルの下へ。
だが、今の生身のままでは彼女へ近づく事すら叶わない。
カイロは今、黒い砂嵐と白い半球状の空間で覆われている。
現実が幻想に侵食されている。
その一端がアヌビスの兵士。
街どころか国全体で異常気象が起こり、無数の化け物が我が物顔で闊歩する修羅の地獄。
アヌビスの兵士以外の魔物の存在も確認されている。
外に出れば命はない。
そんな危険な領域に飛び込まねばならない理由がカビールにはある。
その為に、カビールを無事にスフィルの居所へ送り届ける為の装備。
目的地はスフィルがいると思わしき白い半球状の空間。その中心。
「動作はオートで補助してくれます。坊っちゃんの意のままに操作可能な人型機動兵器……ロボット好きにはたまりませんよ」
その兵器は、古代の鉄鎧を彷彿とさせる。
あるいはアメコミ映画に登場するスーパーヒーローの金属製変身スーツ。
カビールの全身をくまなく覆いながらも運動性と機動性は生身を遥かに凌駕する。
「坊っちゃん、どうか無事に帰還してください。社長の物言いじゃないですけど、命さえあれば人生上手く行くもんですから」
「うん」
「あと、これは開発者の一人としてのお願いなんですが、出来ればこの機動兵器のデータを無事持ち帰ってくれると嬉しいかなーと」
「ありがとう。頑張ってみるよ」
「ご武運を」
整備ハンガーの隔壁が開かれていく。
最後まで解放されていた変身スーツの顔面部分が閉じられて、裸眼と変わらない視界で外界がモニター越しに見れる。
闇のカイロへカビールは出撃した。
少し移動すると、無人と化したカイロの街並みが変身スーツのモニター越しで目に入る。
割れたガラスは路上に散乱していた。
人気はないのに辺りには少なくない血痕が残されている。
傷ついた人間が見当たらないのは、彼らは無事に怪物から逃げたか。あるいはその身体ごと補食されたのか。嫌な想像が脳をよぎる。
すでにカイロは人間のいるべき場所からはかけ離れていた。
その危険は、カビールにも当てはまる。
だが、少年は怖じ気づかない。
カビールは決めたのだ。
例え先に死が待ち構えていようと、この一瞬を生きる。
生きてスフィルに再会するのだ。
さらに今度こそ彼女と添い遂げる未来を勝ち取るのだと。
少年は走る。
目的地は一目瞭然。
ピラミッドとスフィンクスの像が見守る半球状の空間が遠目にも確認中出来る。
建物に阻まれているが、直線距離はさほど遠くない。
セベク社長ーー今ではカビールの父親になった男が少年に次のように説明した。
「生命力さえあれば誰でも魔力をコントロール可能な一品。うちの会社で開発中の最新鋭機材を坊主に預けた」
説明を思い返しながら、カビールは最短距離を直行した。
跳躍したのだ。
二階建てや三階建ての建造物を一瞬で頂上までジャンプして即座に別の屋根を伝っていく。
生身では考えられない運動を軽々と成し遂げる科学技術は、魔法によって身体強化がなされているのも関係している。
そしてカビールはカイロの大通りに出る。
あと少しでスフィルのいる半球状の空間にたどり着けるその直前で。
「……まあ簡単には行かせないよな」
少年は緊急回避した。
刹那、カビールのいた大地が削り取られた。
敵がいる。
前方に転がるように回避したカビールは、即座に右膝を立てながらその障害を認識した。
敵は死者の都でカビールが遭遇したモノと同種。
アヌビスの大蠍。
長大な石像を思わせる威圧感。
硬い甲殻と鋭い爪と尻尾で構成された凶器の塊がカビールの前に立ち塞がる。
お互いに出会った瞬間が開戦の合図。
初撃は大蠍の側から。
再び大地が削り取られる。
高速で交差する大爪。
さらには舗装された道路に無数の穴が開いていく。
鋭い爪の連撃と巨大な尻尾によるコンビネーション攻撃がカビールを襲った。
回避に徹するカビールだが、途中で足を止めてしまう。
こんな事をしている場合ではない。
すぐにでもスフィルの下へ行かなければ。
カビールは短期決戦に挑むべく足を止めて敵を迎え撃つ。
冷たい殺意が、カビールへ覆い被さる。
その時。
巨大蠍が浮いた。
重い、最新鋭の重戦車に匹敵する重量が突如宙を舞った。
敵は強大。
だが、強力な武器を装備しているのはカビールも同様。
「オシリス・エンチャント」
天空の神の名によって、大気が鋭い穂先を強化外骨格の右腕に形成する。
絶叫する空間へ収束する暴威の螺旋。
「射抜け! オシリスの槍!」
敵の中心部を螺旋する死神の一撃が貫通した。
存在の核を貫かれて、原子レベルで崩壊していく。
巨大な蠍型の神獣が、人の技術によって砂と化す。
それは魔法と科学が合わさったまったく新しい技術体系。
あえて言葉に表すならば魔科学。
カビールはその意思で、最先端の扉をこじ開けた。
そして終着点にたどり着く。
現実と幻想の境目。
カビールは恐れずに近寄る。
白い半球状の壁は、近くで見ると光輝く繭のように外と内をわけている。
スフィルのいる場所は目と鼻の先。
「誰か警戒ラインを突破したぞ!」
「侵入を許したのか!」
「俺達の悲願が!」
どこからか叫びが聞こえてくる。
このままでは魔術師達の妨害が入る。
躊躇している暇はない。
カビールは純白の半球内へ突入した。