第四章
第四章
その列車は、砂漠の大地を問題なく運行していた。
日が落ちた地平線。
冷たい砂の海を泳ぐ走行音。
鉄の線路をよどみなく渡る高速車両。
月の下で、内部に昼間の如き明るさを秘めた生存領域。
アブシンベルからカイロまでをエジプト横断する列車が、夜の闇を引き裂いていく。
(どうしよう……)
室内は空調が効いたきらびやかな空間。
客室の一つで、一組の男女が静かに腰をすえていた。
その男女の片方は、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせている。
「あ」
相手と視線が合う。
「ごめん」
思わず謝罪の言葉がもれた。
そして視線を相手から、スフィルからそらす。
うつむくカビール。
先程からこの繰り返し。
ツアー五日目の夜。
カビールとスフィルは列車の一つ屋根の下で同じ客室をあてがわれている。
死者の都から脱出後、他の旅行客と合流した彼らはバスから列車に乗り換えた。
スフィルは現在追加の旅行客の扱い。
彼女の旅費は、カビールの持ち込んだ大金の余りで支払えた。
そして今はこの有り様。
具体的に言えば、せっかく手に入ったスフィルとの二人っきりの場面で踏ん切りがつかない。
無論、何か行動に移そうとはする。
「あの、その」
カビールは何か喋ろとして、その度に言葉に詰まる。
しどろもどろに話題に困窮する。
意識を刈り取る薬香の効用から目覚めたばかりの時は、混乱していたスフィルだが、今では静けさを保っている。
今は静かだが一度、スフィルからカビールに対して言葉が投げ掛けられた。
「どうして私を助けたの」
一族の悲願を台無しにした相手への言葉は、それは叱責ではなく純粋な疑問の声。
「それは」
助けた者としてカビールにはスフィルへ答える義務がある。
例え義務が無かったとしても、少年の律儀さが答える事を自身に求める。
頭に思い浮かんだ言葉を口にする。
「君に居なくなってほしくなくて」
会話はそこで止まる。
お互い喋るのが得意と言う訳でもないので話題が尽きれば言葉も出てこない。
沈黙が室内を満たす。
列車の走行音が、静かに場を彩る。
車窓から見える夜の景色は、空と大地が、星や白亜の砂粒でキラキラに輝いていた。
カビールは相手に気付かれないように、再びスフィルの様子を観察する。
まるで触れただけで砕けてしまいそうなガラスの透明さ。
均整のとれた美しい横顔。
そのすべてが手を伸ばせば届く距離にありながら、どこまでも遠く感じさせる。
こんな時、どうすればいいのか。
そもそも女子と会話した経験の少ないカビールにはわからない事ばかり。
それは人生経験とも言い表せる。
なので、わからない事は他にもある。
それはこれからどうすればいいのか。
全然考えていない。
スフィルを助けてから、それから、どうすればいいのかまったく思ってすらいなかった。そもそもこの旅事態がカビールの予想を上回る経験の連続である。次に何が起こるのか、それは誰にも分からない。
すると。
トントンと扉を叩く音がした。
ツアースタッフが何かを伝えに来たのだろうか。
「どうぞ」
カビールの応えに、扉が開かれる。
入ってきたのは、スフィル救出でも最大の手助けをした【フューチャートラベラーズ】の社長であった。
カビールとスフィルの両方に視線を送りながら社長は口を開く。
「どうだ。その後の調子は」
どうやら二人を心配して声かけに来たようだ。
旅行客の精神的ケアも仕事の内なのか。
あるいは別の目的のためか。
「どうにか話をしているつもりです」
「そっちの嬢ちゃんは何か不都合はないか?」
社長の言葉にスフィルは静けさを保ったまま。
沈黙する相手の代わりにカビールが答える。
「たぶん無いそうです。話を聞く限りだと」
「まあ人間生きてりゃどうとでもなる」
社長は目撃した生け贄の儀式について言っているのかもしれない。
あれだけの異常事態の中に飛び込んで平然としている社長も、カビールにとってスフィルに比肩する謎多き存在だ。
「とにかくだ。お前さんは目的を果たした。この嬢ちゃんに会いたいって目的をな。そしたら次だ。次の段階へ進むべきだと思うけどな」
すると社長は耳打ちするようにカビールにだけ聞こえる小声で話しかける。
「好きなんだろ。告白しちまえよ」
「そう言われても」
改めて他人から言われると、むず痒い感覚に陥るカビール。
好きと、言葉にすれば短い単語だが形にするにはカビールはまだ奥手と言えた。
「まだ出会ってそれほど経っていないし。そもそも好意を抱いた切っ掛けが偶然、スフィルを目にしただけで」
「そう言う偶然は大切だぞ。坊主」
気楽な声色とは逆に真剣な雰囲気が、社長の言葉には滲み出ていた。
もしかしたら社長もカビールと似た経験をしているのかもしれない。
それが今の社長をどのように形作っているのかはカビールの知るよしもない。
だが、その真剣な雰囲気から聞き流す事だけはためらわれた。
「日本にはわらしべ長者と言う話があるらしいが、坊主、お前さんは最初のわらを掴んだ。あとは進んでいくだけだ。それと」
社長が固い空気をパッと和らげて客室の外の通路を指差す。
「夕食だ。みんな待ってる」
スフィルを見るカビール。
丁度、お腹が減ってきた頃合い。
「行ける?」
カビールの問いかけにスフィルは無言だが、うなずく仕草をする。
スフィルの賛意は得られた。
「じゃあ行こうか」
「期待しとけ。今日もご馳走だからな」
社長が先導して食堂に案内される。
食事によって自然と場の空気が暖められる。
他の旅行客は既に席についている。
食卓には空の皿と未使用のナイフとフォーク。
料理はこれから運ばれてくるようだ。
同じテーブルを囲み、同じ食事を口に運ぶ。
家族がいたら、こんな感じなのだろうかとカビールは考える。
カビールに家族はいない。
父親は知らない。
母親の事も、朧気にしか記憶していない。
カビールを置いて、どこかに去ったとしか聞かされていない。子供心に、もう生きてはいないと何となく察していた。
なんとなくスフィルの姿が脳内で再生された。
彼女と家族になって過ごす食事。
カビールは赤くなった顔を左右に振って、その妄想を払う。そんな彼らに親しげな声がかけられる。
「あらーもう動いて大丈夫なの女の子」
「元気になってよかったわ」
スフィルは他の旅行客に受け入れられた。
特に年配の客からは、我が子同然に扱われる。
音が鳴った。
腹の鳴る音が食堂に響く。
音源は、美しい肢体を持つスフィルの中心から。
夕食が始まって空気は一変する。
具体的にはスフィルの身にまとう空気が。
「何これ。美味しい」
スフィルは食べた。
とにかく沢山食べた。
その細い身体のどこに詰め込めるのか、傍目からは不思議過ぎる驚異の大食いでホッコリと身にまとう空気を和らげていた。
それでいて少しも下品にならないのはスフィルの持って生まれた気品のお陰か。
口の端に食べかすをつけながら静かだった唇が大きく広げられる。感嘆の言葉がもれる。
「こんなの食べた覚えがない」
「そりゃそうよ」
旅行客の一人が嬉しそうに応える。
「一人何十万円の旅行ツアーで出される絶賛料理よ。他の地元料理じゃ天地が逆さまになったって食べられない豪華ディナーをしっかり堪能しなさいな」
「美味しい。美味しい。美味しい」
スフィルの凄まじい喰いっぷりに、カビールは食事の手が止まる。
なんと言うか、好きな子の意外な一面を見つけて少し嬉しいようだ。
ピタリとスフィルの動きが止まる。
何か困ったように眉をひそめている。
不安そうに止まったナイフとフォークを置いてカビールと目線を合わせる。
「こんな時、どうすればいいか。わからない」
ドキリとカビールは高鳴った心臓を片手でおさえる。
それはスフィルがカビールに初めて見せた気弱な様子。
頼るべき相手としてカビールに示した疑問の提示。
対してカビールは、
「笑えばいいと思うよ」
自分の出来る最低限のアドバイスをスフィルに贈った。
◆
朝。
一日の始まりを告げる鐘の音が、アブシンベルを駆け巡る。
太陽が地平線を越えて空を昇る。
灼熱の大地が陽炎に包まれる。
どれほど過酷な環境でも、人が居ればそこに営みが発生する。
営みはカラクリ仕掛けの時計のようにチクタクと時間を刻む。
そして人々は都市を稼働させる歯車として回り続ける。
自分に与えられた役割をまっとうする。
使命を果たす。
そうやって日常が生まれる。
だから危ないテロは起こるとしても、それでも同じ日常がやってくる。
アブシンベルは今日も変わらない一日を送る筈だった。
異変は、都市の一角で始まった。
都市開発を担う作業現場。
複数の重機と作業員がいる工事現場。
「はいこっちーこっちーはいいいよーもっともっと」
大声の呼び掛けで、【セベク社】と車体に記載された大型車両や重機が辺りを周回している。
巨大なショベルが大地をえぐる。
運び込まれた土砂を載せた大型トラックが砂ぼこりをたてて移動する。
緻密に組み立てられた動きが工事現場を安全な環境に近づけている。しかし、今日はその動きに乱れが生じていた。現場を指揮する班長の言うことを聞かない複数の人間が作業を乱れさせる。
「お前ら何遊んでんだ!」
班長は注意しようとその数名に近寄る。
どうせ若い者達が面倒臭がって作業を遅れさせているに違いないと沈黙するその数名を叱りつけようと歩み寄った。
それが間違いと気づかずに。
「ボーと突っ立ってないでーー」
ーードサリと。
重たいモノが落ちる音がした。
最初は、急に相手の身長が縮んだように班長は感じた。胴体から離れる楕円形の球体。それが何であるのか班長は知るのに数秒かかった。
転がったのは、頭。
ヘルメットをつけた頭部。
首なし死体。
「ひいい! ひやあああっ」
物言わぬ肉の塊に、班長は絶叫した。
それは合図だったのかもしれない。
これから起こる異変の。
異変は広がる。
徐々に、広まっていく。
とあるケバブ屋は、食肉に大量の鮮血が混じっていた。
とある土産物屋は、内装が破壊されて半壊した商品が床に幾つも転がっていた。
とある民家は、悲鳴が上がる度に血染めの床を切断された人体が転がる。
「なんだあれ」
疑問の声は叫びに消える。
誰かが言う。あれは化け物だと。
化け物と呼ばれた存在は、鋭い口角を吊り上げて三日月状に形どる。
喜んでいた。
殺戮の余韻に、ドップリと浸かる化け物。
血で濡れた路上に、力無く倒れ伏す住民。
日常を回す筈の与えられた使命も責務も、死と滅びを前にしては儚く崩れ去った。
「助けて、たすけ」
なす術もなく崩壊する都市。
悲鳴はどこにも届かない。
生ある者は、黒い装束に身を包んだ者のみ。
「すれ違ったか。ここにはもうスフィルはいない」
黒き魔術師の一団。
彼らの目的が果たされるまでこの虐殺は続く。
どこまでも広がっていく。
「滅ぼせ」
黒き嵐が、観光都市の全域を覆い隠した。
◆
朝の微睡みから目覚めたカビールは、再びスフィルと一緒に食事を終えた。
穏やかな時間が過ぎていった。
騒がしくなったのは電車が終着駅に到着した頃。
電車は線路を軋ませながら予定の時刻に、カイロの駅へ到着した。
電車内から大量の利用者が下りてくる。カビール達もそれに混じって駅に下り立つ。
カイロの駅に到着した一行を再び観光バスが出迎える。
その筈であった。
様子がおかしい。
既に電車内の乗客はすべて下車を終えている。今度は乗車の時間なのに、誰も一向に電車へ乗り込もうとしない。そもそも駅構内の利用者の姿が誰一人として影一つ見当たらない。
無人になったカイロの駅。
その異常に、カビール達は時間を置かずに気づかされる。
「結界だ」
声がした。
人影が一つ。
カビール達の前に現れる。
「外と内を区切る境界。それでこのカイロ駅を包み込んだ。我々以外は誰もこの領域を侵せない。標的の近くにいる君達を除いてだがね」
話す相手は、白い装束。
闇の一族とは正反対の純白の衣服。
太陽を反射する眩しい白。
説明を終えた白い姿の男が目的を語る。
「我らはカノープス」
その姿に、カビールは覚えがあった。
一昨日前に、スフィルの一族を強襲したあの一団。
カビール達に逃げる突破口を与えた謎の襲撃者と同じ姿をしていた。
「我らは守人。古来から魔と人の境界を守護してきた」
カノープスは男一人だけではない。
大勢の人間が、この場の結界を維持するのに集結している。
男はそのリーダーと呼べる存在。
「太陽神ラーの加護を受けて我らは幾つもの災厄からこのエジプトを守ってきた」
リーダーがこれまでの一族の歴史を物語る。
そして過去から現在、未来と状況は繋がっていく。
「古代から受け継がれし災厄。その中で、かつてアレキサンダー大王が用いたアヌビスの軍勢が復活しかけている」
アレキサンダー大王。
それは一度世界を征服しかけた大偉人。
その人物が行った歴史の裏側が、闇と戦い続けた防人の口から語られる。
「アヌビスの軍勢の復活を阻止せねばエジプトに、いや世界に未来はない」
世界の危機と語る男は、続けて部下に指示を出す。
「この少女は我々が連れていく」
スフィルが強く肩を掴まれた。
この状況に激しく反応したのは二人。
一人は、スフィルを掴んだ白い集団の手を強く掴み上げた。
「うちのお客様になにしてくれるんじゃボケ」
だが数の利には敵わない。
社長は人の渦に飲み込まれる形で、スフィルから引き離される。
「先に連れていけ。私はこの男と話をつける」
もう一人は無論カビールであった。
カビールは連れ去られていくスフィルにすがりつきながら懇願する。
「行かないで」
カビールの願いは、スフィルと一緒にいる事。
その願いが形となって言葉として吐き出された。
スフィルは、少年の願いに答えられない。
「ごめんなさい。私は魔術師に創られた存在だから、彼らの命令に従う使命があるの」
「だったら俺も魔法使いになる!」
微かに、スフィルは困ったように微笑んだ。
カビールには痛いほど理解出来てしまった。
それが別離を告げるスフィルなりの別れの合図なのだとわかってしまった。
嫌だ。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
連れてかれる痩身。
消えていく彼女の背中。
黙って見ていられるのは、スフィルが望んでの結果であるから。その我慢は、彼女が駅の外に停車された護送車に乗せられて、車体の扉が閉まった時点で限界が来た。
走る。
カビールはカノープスの一団の制止を潜り抜けて街中へ飛び出した。当然、生身の足では機械仕掛けの車に敵う筈もなく、スフィルを載せた護送車が、街中へ消えていく。
息が荒く、心臓がハジけそうになる。
護送車の形が見えなくなってもカビールは走り続けた。
唇を噛む。
限界まで走り回った身体が休息を求めて、肺に酸素を取り込む。
「くそっ!」
地面に悪態を吐く。
カビールにはどこに護送車が向かったか検討もつかない。それでも駆けるのを止められない。止まらない心拍を平常に戻すにはスフィルと一緒でなければ収まりがつかない。
再び走りだそうとする。
途端に激痛が走る。
視界が揺れた。
覚えがある。これで二度目。
後頭部を強く叩かれた衝撃。
二度目のお陰か、意識を失わずに済んだ。
後ろを振り返ると、見知らぬスーツ姿の男。
「こいつです。こいつが金を持ち出して」
そのスーツ男と一緒にいた薄汚れた衣類の人間。
そっちには見覚えがあった。
それはカビールと同じ乞食で、つい数日前までは同じグループに属していた仲間。
「ようやく捕まえたぞ。裏切者」
エジプトの裏社会の魔手が、カビールを捕らえた。