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赤煉瓦の喫茶店

 西から雨雲らしき厚い雲が立ち込めて来た夕刻、佐伯はいつも通り会社帰りの喫茶店に向かっていた。


 第二次大戦後、まだこの辺りに闇市が林立していた時代、ジャズ喫茶としてオープンした煉瓦造りの二階建ての喫茶店だ。とうに過ぎ去ったジャズブームは今ではこの店を平凡な喫茶店に変えた。


 佐伯は毎日仕事が終わるとここに立ち寄って一杯のコーヒーを頼み、愛読の書を読みながら1、2時間ほどゆっくりとした時間を過ごした。


 『いてる?』

「いらっしゃい。佐伯さん!今日はいつもの二階席に団体さんがお見えで、、送迎会とやらで。少し騒がしいですが、佐伯さんの席は空けときましたよ。今日もお見えになるかと」

佐伯は本を静かに読みたかったのだが、店長に「空けといた」と言われてしまうと断るすべがなかった。


「ブレンドでよろしいですか? すぐに運びますね。」


 佐伯は二階に続く階段を上るといつもの席に向かった。煉瓦の仕切りで区切られた4人席が4つ。10人は座れる席が一つ。自分がいつも座る席以外は、この団体客で埋まっていた。


(わー、騒がしい。)


 元々がジャズ喫茶だったこの店は、お酒のたぐいもより取り見取り、バーや居酒屋と何ら変わらぬチャンチキ騒ぎであった。


「すみませんねえ。騒がしくて。ご本もゆっくりとは読めぬ雰囲気で」

 『いや、いいよ。たまにはこんな日もないと店長だって。』

そう言って佐伯は右の人差し指と親指で丸を作った。


 佐伯は角砂糖を二つほどコーヒーカップに落とすと少し茶色がかった銀のスプーンでクルクルと掻き混ぜた。


本を開いたが一向に頭に入ってこなかった。


 その席の窓は当時としては珍しい出窓だ。そこに今では使っていない錆びた蓄音機と幾種かの蘭の鉢植えが置かれていた。


『雨だ、、』

その出窓をポツポツと雨が叩き、水滴が下に流れた。



 「すみません!」

階下から店長が駆け上がって来た。

 『申し訳ございませんが、相席をお願いしたいのですが。雨宿り程度のお客さんだと思うのですが。何しろ突然の雨で傘も持っていないとかで」


佐伯はまたも断るすべを持ち合わせていなかった。


 『いいよ。』

「ありがとうございます! ではお連れしてまいります。」



「では、こちらへ。」

店長が連れて来たのは目も覚める様な絶世の美女であった。


 背中までの長い黒髪、黒いタイトなスカートにサテンらしきブラウス。

しかし、その全部がずぶ濡れであった。


その女はスカートのポケットからハンカチを取り出すと髪と肘の辺りを拭き、

「椅子が濡れちゃうわね」と言って腰掛けた。


佐伯は見て見ぬ振りをしながら、本に目をうつした。


「ご注文のブラックです」


 「あっ、サンドイッチも頼もうかしら。えっと、、ハムサンド。 辛子って入ってます? 入っているのなら抜いてください。今朝の占いで黄色は凶って言ってましたから」


「は、はい」


 佐伯は占いではないと思った、この女はただ辛い物が苦手なだけだ。それが証拠にさっき持っていたハンカチは黄色だ。


(もうよい、本に集中しよう。どこまで読んだっけ)


本を読み始め2ページめくった時であった。


「それ、大江健三郎ですね?」

 『あ、はい』(大江を知っている、、)

「他人の足。」

 『そうです、そうです』(これ短編集だぞ。なぜわかる)

「一行でわかりますわ。私、熟読してますから」

 『お好きで?』

「全作、目は通しましたわ」


 こんな女に出くわしたのは初めてであった。

二人は意気統合し、しばらく大江について語り合った。

周りの団体客の騒ぎも耳に入ってこないくらいの、久しぶりの楽しい時間であった。


 階下から大きな声が響いた。

「お客様お帰りでーす!」

団体客が帰るのだ。


 「おトイレってどこかしら?」

目の前の女が佐伯に聞いた。

『階段の下ですよ』

 「では、失礼して」

彼女は団体客の後ろを付いて行くように階下に下りて行った。


佐伯はしおりを外しまた本を開いた。


(あれ?戻って来ないな。席が空いたから移ったのか? サンドイッチもコーヒーもたいらげてあるけど、お会計票は置きっぱなしだ)


店長が上がってきた。

「あれ?こちらのお客様は?」

『トイレに行くとかで』

店長は何も言わず一階に駆け下りて行った。



すると、またまた階下から大きな声がした。

  「食い逃げだ~!」


その瞬間、佐伯は咄嗟に彼女の会計票を手に持つと、階段を駆け足で下りて行った。


 『はい、これ。二人分まとめて。』

店長は少し引いた。

「本当ですかぁ?」

 『ホント、ホント。気が合って。私が支払うことに』

「だって、佐伯さん。さっきのお客さんのこと、トイレに行ったって?」

 『いいんだ、いいんだ。そういう事にしておいてくれ。』

佐伯は悪い女に加担しているようで気が引けたが、久しぶりのひと時についお金を支払ってしまった。


彼が金よりも、悪と時間を選んだのは生涯この一度切りであった。


(占いは当たらないな、黄色いハンカチは小銭運を運んだようだ)


 もう、雨は止んでいた。











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― 新着の感想 ―
[一言] 主人公は気持ちの良い男ですね。 女性のしたたかさがドラマチックです。 佐伯という名前の知り合いがいるので、ちょっと感情移入してしまいました。
[一言]  大抵の男の人って美女に弱いですよね。笑  本読みながら、めちゃくちゃ関心湧いてるのが面白いなあと、なんだか人間ウォッチングしているような気がしました。  そしてラスト、美女に弱い男の哀しさ…
[良い点] 食い逃げをした女性は佐伯さんをターゲットにしていたのでしょうか? 女性との楽しい時間にお金を払ったんですね。 このお話はハッピーエンドでいいんですよね? だって佐伯さんは楽しかったんで…
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