五、箱根湯本の冒険
なんと前回の更新から年単位になってしまいました。きちんと続きますよ。
明治末年に路面電車から始まった小田原電鉄沿線は、喧騒に満ちた都心部のビル街から遠く離れ、観光名所である湯の町・箱根湯本へ至るまでの風光明媚な山野へひた走る、旅情を誘う実にのどかな光景が広がっている。
そんなロケーションの中間地点にあたるS川河原の高架橋は、周囲に大きなビルなどがなく、対岸からも降りやすく整備された土地柄ということもあり、電鉄自慢の特急列車・ロマンスカーの撮影にはうってつけの場所としてよく知られ、平日・休日の区別なく、さかんにシャッター音が鉄橋下へこだましている。
「……おいゆきよ、そろそろ閉めてくれないか。いったい、どこで誰が見ているか、わかったものじゃない」
「――人を数日幽閉しておいて、その言いぐさはないんじゃないのかしら。せめて明るい陽射しくらい浴びたいものだわ」
そういいながらも、明緑色をしたカーテンを素早く引くと、佐島ゆきよはコンパートメントの窓辺に据え付けられたリクライニングの背もたれを下ろし、あえぐような声で軽く伸びをしてから、向かいに座った岡一証券社長・岡逸郎の渋い顔を、上目遣いに眺めるのだった。
「すまなかったよ、ゆきよ。なにせ今度は、ちょっとばかり厄介な相手と対決をせねばならないからね。あの探偵、うまく動いてくれればよいが」
「――逸郎さん、いったいどこの探偵に頼んだの」
ゆきよが上半身を起こし、窓辺の小さなスペースへ置いた冷凍みかんの食べ差しを口へ入れると、岡はこともなげに、山藤悠一さ、と、どこか嘲るような表情を浮かべてみせる。
「――山藤悠一って、連続高校生殺人を解決したあの山藤悠一?」
「ああ。まあ、この頃なにかと名前をあげているとはいっても、所詮は少年探偵、子供の浅知恵さ。うまい具合にひっかきまわして、事を荒立ててくれればそれでいいんだ」
「……ふうん」
赤いネットの中に入った、まだうっすらと霜の残るみかんを岡へ渡すと、ゆきよはカーテンの向こうを流れていく架線柱や木陰を眺めながら、薄く口紅を引いた唇へ、そっと人差し指を当てた。
……逸郎さんが思っているほど、単純な子なのかしら?
鉄橋を過ぎ、小田原目指して線路を突っ切るロマンスカーから、軽快なメロディホーンが鳴り響いたのは、そのすぐ直後のことだった。
「探偵長、箱根湯本の駅を張ってた連中から連絡が来ましたよ。佐島ゆきよと岡社長らしい二人連れが、特別改札から降りるのを駅前のコンビニのバイトが見かけたそうです」
手配書をまわして三日ほどたったある日の午後。経過報告を兼ねて銀座へやってきた法条やつぐみと打ち合わせをしていた山藤悠一は、いったん席を外していた猫目がしわの寄ったメモ紙を持ったまま戻ってきたのを見て、思わず息をのんだ。
「でかした――で、いったい奴さん方、どこへどうして……?」
「それが、二人は岡社長の持ち物らしい黒のベントレーに乗ったところで、そのバイトのお兄さんは店長に呼び出されちまったらしくて……。目下、周辺の商店なんかに聞き込みをさせている最中です」
そこまで報告を終え、元いたソファへ猫目が座る。山藤悠一はまくったワイシャツの袖を神経質に指先でなでながらしばらく腕を組んでいたが、
「――児玉さん、箱根湯本の周辺で一番大きな旅館といえば、明鏡荘くらいですね」
「その通り。だが、そんな目立つところにどうぞ捕まえてください、とばかりにやつらがいるとは思えない。これはもちろん、西へいったほうにある別のホテルでもそうだろうね」
「よほどの馬鹿じゃなきゃ、わざわざ小田原電鉄ホテルなんかにゃ泊まらねえだろうよ。そうなると探偵長、こりゃあひょっとすると……」
つぐみと法条が思案を巡らせているうちに、山藤悠一は部屋の隅に置かれた、専用の棚に収まった関東圏の地図を取り出した。そして、箱根湯本の周辺をめくってから、
「このあたりだろうな」
と、ある場所を指さした。
「――箱根観音! なるほど、そう読んだか」
つぐみが山藤悠一の顔を覗き込み、にやりと笑う。
「岡社長の神経から察すると、愛人との逢瀬にはこのあたりのひなびた別荘地がちょうどよいような気がしましてね。もしかすると、人目をくらませるために近場の小田原電鉄ホテル辺りにチェックインはしているかもしれません。まさか、佐島ゆきよだけが株主ということもないでしょう」
得意げに地図を閉じる山藤悠一へ、さすがだねぇ、と、今度は法条が賛辞を送ってみせる。
「子会社の小田原電鉄バスに援助をしてから、岡一と小田原電鉄グループはかなり密な関係らしいぜ。株主でなくたって、ちょいと岡のやつが指を動かせば、あれよあれよと特等席が取れる、宿も上等の部屋へ……ってわけさ」
「そうなるってぇと、我々のゆくべき場所は……」
猫目が足を組みなおしながら、山藤悠一の目をじっと見つめる。
「ああ、そういうことさ。猫目、ひとつ箱根観音そばの別荘地に小田原から人を回すように伝えてくれ。明日朝いちばんのロマンスカーで出撃だ」
勝鬨こそあがらなかったが、物言わぬ強烈な熱気が探偵長室の中にじわり、と満ちていった。
さつき探偵社神奈川支社・小田原支局から箱根湯本へ秘密裏に探偵員たちが送り込まれたのを確かめると、山藤悠一一行も後を追って動き出した。革のトランク、慣れたリュックサック、今時珍しい柳行李等々――めいめいの荷物を抱えて新宿駅に集まった一行が、箱根湯本へ向かう始発のロマンスカーで東京の街を出発したのは、まだ夜明け前のことである。
「――ショウバイでなきゃあ、気楽な旅なんですけどねぇ」
父親のお下がりだという、サイズのややゆるいポロシャツを着た猫目が、向かいへ座った山藤悠一へけだるげに話しかける。
「まぁ、そう言うな。本当なら、四人そろって普通の指定席というところを、児玉さんの計らいでこんな特等席にいられるんだから、それで十分じゃないか」
「そりゃあそうですけど……」
事件のことを愚痴りながらも、三畳ほどのコンパートメントに収まった二人は、レースカーテン越しにじわじわと照り付ける太陽を横目に、悠々たる調子で通勤客や普通列車を追い抜いていく、この走るサロンの中でつかの間の憩いを楽しんでもいた。その証拠に、二人を挟んでおかれたテーブルの上には、駅の売店で買った冷凍みかんや、ちまちまと箸を使っている幕の内弁当が堂々と広げられているのである。
「お二人さん、入るよ」
ドア越しに聞こえた涼やかな声に、山藤悠一が近寄ってロックを外す。すると、白地に淡く朝顔を絵付けした結城紬に紺の羽織といういでたちの、かんざし代わりに赤いバレッタを留めたつぐみが、眼鏡越しにゆったりとした笑みを浮かべながら入って来、部屋の隅の小さなポーチへ腰を下ろした。
「児玉さんのおかげで、思いがけずロマンスカーの旅を楽しめてますよ。そちらは?」
山藤悠一が礼を述べながら、箱根方向のコンパートメントに収まっているつぐみと法条の様子を尋ねると、彼女は渋い顔をしてたまったもんじゃないよ、と返す。
「あのバカ、朝っぱらからジョニ黒開けだしてね。ぎゃあぎゃあ言わないからいいけど、酒臭いし、絡み酒になるから面倒で……こっちに避難してきたってわけさ」
「ハハハ、あの酒豪が一緒じゃ大変でしょう。しばらく、こっちでトランプでもしてましょうや」
暇つぶしに持ってきたんですよ、と、猫目がボストンバックの中から使いさしのあちこち擦れたトランプを出してみせると、つぐみはそれよりこっちのほうがいいかもよ、と言って、手に下げた巾着袋の中から、真新しいバイシクルのトランプを出して、二人へ見せつけた。
「トランプでも花札でも、勝負の時は真新しいのに限るって言うじゃないのさ。ひとつ、これで正々堂々と……なんてね」
「面白い、これでもガキの頃はこの手の勝負で負けたことがないってんで評判だったんですよ。猫目大作、ここで受けずしてなんとする……てなとこです」
そんな風に息巻いて、意気揚々とつぐみに挑んだのはよかったが、結果は哀れ惨敗、箱根湯本へ向かう道中を、罰ゲームと称して今までの失敗談を話す羽目になり、猫目はひどくムクれることとなるのだった。
ひとまず無事に箱根湯本でロマンスカーを降りると、山藤悠一一行は関係者用の改札口からホームを降りた。そして、迎えに来ていた箱根支局の車へ二台に別れて乗り付け、秘密裏に駅を発ったのであった。
「――で、様子はどうだい」
開口一番、山藤悠一が岡社長の動向を尋ねると、助手席へ控えていた支局員はバックミラー越しににやりと笑って、
「奴さん方の宿が分かりましたよ。表向きは明鏡荘に止まっているように見せかけて、果たしてその実態は観音奥のバンガローの中。こっちにツツヌケとは知らずに、二号としけ込んでましたよ――」
と、耳年増な物言いを探偵長へと返す。山藤悠一はそれを苦笑しながら、
「――まあ、これでどうやら、佐島ゆきよの無事も分かったことだし、ひと段落といきそうじゃありませんか、児玉さん」
「まったくだね。ちょっとの間、温泉にでも浸かってのんびりしようじゃないのさ」
「そうしましょう。まあ、あまりこっちは派手に動けないから、猫目なんかは観光ができないとやかましく言うかもしれませんが……放っておきましょうか」
岡の不穏な動向を追うつもりだったのが少しハズれ、都会の喧騒に疲れた心身をいやすことになったつぐみの笑顔を横目に、山藤悠一もつかの間の命の洗濯を楽しめそうだと、唇の端へ笑みを浮かべるのであった。
だが、岡社長とその愛妾・佐島ゆきよは不穏な動きを見せることもなく、バンガローから迎えの車で移動し、箱根湯本の街を月並みな観光客として回るばかりを三日続けているきりだった。そのせいで、張り込みに出ていた支局員や、山藤悠一ら東京本社の人間はただただ、むなしく時間が食いつぶしていた――。
「――まさか、今度の一件はすべて我々の目算違いだった、なんてこたァないでしょうねぇ」
三日目の晩、つぐみの計らいで取れた小田原電鉄ホテルの和式の特等室で、食後の気晴らしに碁を打っていた猫目は、白の行く手を考えあぐねていた山藤悠一へぼそり、と胸の内を吐いた。
「もしそうだったらどうする気だ?」
山藤悠一が黒を塞ぐ形で石を置きながら答えると、猫目は丹前の袂をゆらして、
「温泉入ってお土産買って、さっさと東京に戻りますね」
「――僕もそうしたいね。なにせ仕事とはいえ、目の前にあんな楽しいものがあるのをお預け、というのはちょっと辛いよ」
窓の外から見える温泉街の町明かりに、山藤悠一も肩をすくめてみせる。待ちのほうが多いうえに、観光地を前にしてろくろく動けないのだから、無理多からぬ話ではある。
「――まあ、そのうち決着がつくでしょうよ。今しばらくは、待って、待って……」
「――待ち続け、というわけだね。猫目、いさぎよく諦めな」
弱いところを突かれ、石を持ったままの猫目の顔がみるみる青くなる。
「あ、そこに置くのは……」
「悪いがこっちに待ったはナシ、でね。――おや?」
猫目の顔の青くなるのを見届けたところへ、不意に部屋の電話が鳴りだした。
「今頃誰だろう」
「探偵長ォ、出ないと切れちゃいますよ。――ハイ、六〇三号室。なんだ、法条か。え?」
猫目の応対から妙なものを悟った山藤悠一は、ちょっと貸して……と、受話器を奪い取った。法条はどこか外からかけているらしく、電話越しに聞こえる声には屋外特有の反響がついていた。
「法条、どうしたんだ。部屋で飲んでたんじゃなかったのか」
『そのつもりだったんだが、ちょっと厄介なことになったんだ。つぐみのやつがどっか行っちまいやがった』
「なんだって――で、今どこにいるんだよ」
『宿をすぐ出たとこにある喫茶店だ。ケータイ忘れちまって、そっから宿の交換台越しにつないでもらってるんだよ。悪いけど、すぐ来てくれるか――』
「わかった、すぐ出る。――猫目、一大事だ。つぐみさんが行方をくらましたらしい」
電話を切るなり叫んだ山藤悠一の言葉に、碁盤の方へ戻っていた猫目はそのまま崩れ落ちてしまった。猫目の背中で、落ちた碁石がじゃらじゃらと音を立てる。
「あんにゃろう、一緒にいながらなんつーことを!」
「いまはどなってる場合じゃない。ひとまず、宿の外の店へいってみようじゃないか」
浴衣を脱ぎ去り、かけてあった服へ着替えると、二人はそのまま宿をあとにした。
件の喫茶店「サキ」へ入ると、夕食時のすっかり酔った色味が抜けた法条が、悄然とした顔で隅のテーブルに控えていた。
「法条、いったい何があったんだ。話してくれるか」
酔い覚ましのコーヒーをすすっていた法条は、山藤悠一の問いに威勢なくこう答える。
「あいつが甘いもんが飲みたいっていうから、ここへ入って、クリームソーダを頼んだんだ。そうしたら、ちょうど五分くらい前に、店の前に中型トラックが止まってよ。アイドリングの音がやかましくて二人でブツクサ言ってたら、いきなりあいつ、立ち上がって外へ出てってな。で、トラックの出て行ったあとになっても戻らないから外へ出たら……」
「つぐみさんがいなかった、というわけか」
「お前、一緒にいながらどういう了見だ! もしなにか事件に巻き込まれてたりしたら……」
山藤悠一と猫目に責められて、法条はますます青い顔になってゆく。しばらく、運ばれてきたコーヒーをすすりながら、山藤悠一は神経質そうに額を指でつついていたが、やがて、
「調べてみるしかないな。――ご主人、すいませんが懐中電灯を拝借願えませんか。それから猫目、お前は箱根支局に頼んで、車を出すよう連絡しておいてくれ」
手際よく指示を投げると、懐中電灯を片手に、山藤悠一と法条は店の外へと飛び出した。数日来天気のよい箱根のことで、道にはありありと、問題のトラックの痕跡が残っている。
「――タイヤの幅からして、たしかに中型車だな。ブリジストンの、あまり普通の運送会社じゃ使わないタイプらしい」
「普通の会社じゃ使わないってえと、どんなのが使うんだ」
懐中電灯でタイヤ痕を照らして様子を伺っていた山藤悠一へ、法条が尋ねる。
「こいつは普通のやつより、湿っぽい路面なんかに向いてる種類なんだ。わかりやすいとこじゃ、港の岸壁で使うようなトラックや、散水車なんかが履いてるよ」
「へえ。じゃ、ただならぬ相手に気付いて、つぐみのやつ……」
「後を追いかけたらしいね。タクシーなんかが出て行ったのは覚えがないか?」
山藤悠一の問いに法条が首を振ると、
「――そうなると厄介だな。トラックの荷台か、架台の小さなステップに飛び乗っていった可能性もある。いったい、どういうつもりなんだ?」
つぐみの行方を案じる山藤悠一と法条保美の二人。遠くから全速力で近づく箱根支局のコンフォートの音が、温泉街にこだましていた。
湯煙の街で忽然と消えた相場師つぐみの行方や如何に?
名探偵山藤悠一ははたして事件の真相を追えるのか?