二、「大アゲハ」児玉つぐみ
お待たせしました、最新話です。
その日のうちに会う約束を取り付けた二人は、会社がハネてから高島屋で法条の好物であるジャックダニエルの大瓶を購うと、そのまま神田神保町の古書店街へと向かった。戦前から続くこの愛書家の街の一角にひっそりと建つ雑居ビルの地下が、情報屋・法条保美の根城なのだ。
「やっこさん、珍しく起きてましたね」
近くのパーキングメーターに車をとめ、まだうっすらと赤みのさしている西の空を一べつしながら、てぶらの猫目大作は、包装紙でくるんだジャックダニエルを抱えた山藤悠一へ話を振る。
「ああ。しかも、背後で台所を使う音がついてな。誰か来ていて、そこへかけたのがあたったんだろう」
「台所! するってえと……」
下衆な笑いを浮かべる猫目に、山藤悠一は襟足を軽くつねる。
「あの男に限って、そういう浮いた話はなさそうだがなあ。世にいう『3S』とはまるっきり縁のない男だからね」
「なんでしたっけ、それ」
猫目の問いに、山藤悠一はスポーツ、スクリーン、セックスと三拍子で言ってから、
「権力が大衆をおだてて重要事項から目をそらせるために必要なモノさ。運動しない、映画もテレビもあまりみないやつに、浮いた話がついてるとも思えないが……」
と、ため息交じりに地下への階段を駆け下りた。やがて、どん詰まりにある法条の部屋まで来ると、いつ鳴らしても調子の悪い電磁ブザーのボタンを、山藤悠一は化粧箱をかかえた二の腕で押し込んだ。
しばらくの沈黙ののちにドアが開いたとき、山藤悠一は驚き、猫目大作はやはり……と言いたげな顔で相手の顔を見た。そこにいたのは、外にはねたショートカットの髪が映える、アンダーリムの赤い眼鏡をかけた色白の、やや小柄な少女だった。
「――どなた?」
たすき掛けにしたたもとから伸びる白い腕に一瞬みとれていた猫目は、法条さんの知り合いのモンですけど……と、すっかりかしこまって返答する。
「ああ、さっきの電話の人ですか。ちょっと待っててください。――おい法条、お客様だぞ」
うなじをのぞかせて奥の方へ彼女が叫ぶと、お通ししてくれぇ、と聞き覚えのある法条の声が二人の耳へかすかに飛び込んできた。
「さ、どうぞ」
普段から表情が乏しいのか、少女は笑うでもなく、かといって無下に追い返すでもない、場合によってはどちらとも取れそうな顔でもって二人を招き入れ、重いドアを閉じた。
「法条よォ、スミに置けないねえ。こんなかわいい子連れこんじゃってさあ――」
自分の放った茶々に答える間もなく、法条の拳が軽く額にあたったので、猫目はギャッ、と声を上げてのけぞった。
「なにすんだっ」
「探偵長、飼い猫のしつけはきちんと頼むぜ。こちとら、このおしかけメイドに朝からたたき起こされて、機嫌が悪いんだから……」
けだるげな眼で猫目をにらみ、山藤悠一の手からジャックダニエルの包みを取り上げて乱暴に封を切ると、法条は愛用の江戸切子のグラスへ瓶の中身をなみなみ注いで、グイと飲み干した。
「おしかけでもしないと、部屋中地獄絵図になるからなあ、お前は……」
台所の瞬間湯沸かし器からたちこめる湯気の中から、先刻の少女がひょいと顔を出す。
「うるせぇなあ、時期ってもんがあるんだよ、時期ってもんが」
「その時期をいつまでも伸ばしてると、いまに東京都からごみ貯めにされちまうぞ。――はい、お待ちどうさま」
法条家の定番になっている、バヤリースのホットオレンジが耐熱グラスのカップに入って運ばれてくると、山藤悠一はま、いったん休戦ってことで……と間をとりなし、簡単な自己紹介ののち、彼女のことを法条へ尋ねた。
「――こいつは児玉つぐみって言って、このビルの四階のフラットに住んでるムスメだよ。表向きは親の遺産の株式配当やら外貨投資のあがりでつつましく暮らしている有閑令嬢だが、はたしてその実態は、伝説の女相場師・児玉ミツ、人呼んで『兜町の大アゲハ』の三代目。こいつも相場師なんだよ」
「なにィ、あんた、児玉のばあさんの孫なのか」
おもいがけない猫目の反応に、山藤悠一は手からカップを落としそうになり、逆の手でかろうじておさえてから、お前知ってるのか、と聞き返す。
「知ってるもなにも、児玉のばあさんはウチのお得意だったんですよ」
猫目の実家が浅草では名うての文房具問屋であることを思い出すと、山藤悠一と法条は納得がいったような顔で猫目を見つめた。考えてみれば、兜町のある中央区と浅草のある千代田区はさほど離れている場所でもない。仲見世にいけばそば屋も寿司屋もあるから、取引をしたあとにふらりと寄っても不思議ではない話だ。
「いつも正絹の黒い羽織をりゅうと着こなした、背筋のシャンとしたばあさんでさあ。オレが小学校に上がる前の話だから、もうずいぶん前になるけど……。うちによっちゃあ帳面や鉛筆、領収証やら朱肉を買っていって、よくオレや姉貴にお土産だよ、なんて言って、サイダー味の飴玉やら、クリスマスには長靴に入ったお菓子やおもちゃなんかをくれたっけなあ。――確か、五年ぐらいまえだったかな、老衰でポックリ逝ったってえのは……」
「驚いた――あなた、おばあちゃんのことを知ってる人だったんだね」
たすきをほどき、そばのハンガーにかけてあったセルの羽織を着てホットオレンジをすすっていたつぐみは、猫目からもたらされた祖母との思い出話を感慨深く聞いていた。
「でも、相場師だったなんて今知ったとこだぜ。親父とお袋も、何をしてる人なのかまでは突っ込んで聞いたことなかったからなあ。たぶん、どっかの金持ちのおばあさんなんだろう、って具合の認識だぜ」
「きっと、そういう風に自分のことを突っ込んでこない人たちだったから、お菓子を送ったり、お土産をくれたりしたんだろうね。おばあちゃん、頼み込まれて人にお金を貸したりすることが多かったみたいだけど、踏み倒されたりしたもののほうが多かったみたいだから……」
つぐみの顔に暗い表情が差したのを見ると、山藤悠一は軽く咳払いをしてから、
「ところで、お祖母さまはなんの取引をなさってたんですか。さしつかえなければ、児玉さんのほうもちょっとお尋ねしても……」
甘さを加えようとシュガーポットから粉砂糖を注いでいたつぐみは、山藤悠一の質問に軽い調子で答えた。
「――おばあちゃんと同じで、もっぱら先物取引。赤いダイヤ専門ね」
「なるほど、小豆相場の……。かなり経験がモノを言うと思いますが、どうですか」
小豆のような農作物は基本的に、収穫量が先読みできないものである。それを見込んで、こうした商品に先に売買の価格や数量を決め、取引を行うのがいわゆる先物取引なのであるが、その中でもことに小豆は「赤いダイヤ」と呼ばれるほどの価値を秘めており、一喜一憂、下手をすれば天国と地獄がそこかしこで繰り広げられているというありさまなのだ。
さて、山藤悠一の問いに対するつぐみの反応はと言えば、子供をあしらうようにケラケラと笑ってから、
「あいにくと、その辺は企業秘密でしてね。ま、強いて言うなら、健康的に過ごすことが勝利の秘訣、ってとこかな」
という具合で、山藤悠一はすっかりはぐらかされてしまっていた。
「しかし、こうして相場に強い人もいればありがたい。法条、電話じゃざっくりとしか言えなかったんだが、この頃兜町界隈で妙な動きがあったりしなかったか」
「さあてねえ、そんな話は聞いた覚えがないが……」
「珍しい、きみのところにも話が入ってきていないなんて」
法条の網に情報が入っていないことを珍しがると、山藤悠一は改めて、
「――岡一の社長がうちに、日欧汽船の株にからんで内部取引があったんじゃないか……てなことを言ってきたんだよ。たしかに今度の一件、株で大損をしたって話は聞かないし、妙だなあ、とは思っていたんだが……」
と、かしこまった調子で説明をして見せたが、その途端、隣でホットオレンジをちびちびとなめていたつぐみが、腹を抱えて笑い出した。
「どうしたんだい、いきなり笑い出して……」
猫目の問いに、つぐみは涙を指でつまんでから、
「ごめんなさい、あんまり話がおかしかったもので……。岡一の青坊主、少しはましになったと思ったら、ますます馬鹿に磨きがかかったらしいや、フフフ……」
と、つぐみの笑うたびにゆれる黒セルの羽織のたもとをじっと見つめていた猫目は顔を上げて、
「――探偵長ォ、どうもこちらさんのほうが今度の一件にゃ詳しそうですよ」
「どうもそうらしい。――児玉さん、もし詳しい事情をご存知でしたら、説明していただけませんか。なに、とって食おうというわけじゃありませんから」
するとつぐみは息を整えてから、いきなりこんなことを言いだした。
「おかしくって当たり前だよ、なんせ、倒産前の日欧の売りは、きっかけはあたしなんだもの……」
以下、次回。




