一、株価大暴落
東京の兜町というところには東京証券取引所を筆頭に、各種証券会社が軒を連ね、兵どもの夢の悲喜こもごもを見下ろしているともうします……。
梅雨の長雨が続く、ある金曜日の午後のことであった。近所の中華料理屋から取り寄せた餃子定食を食べ終えた山藤悠一と猫目大作は、食後特有の眠さをこらえながら、インスタントコーヒー片手に、各部署から送られてきた報告書へと目を通していた。
「今年もあと半年かあ。早いですねえ」
読みさしに物差しを栞代わりに挟むと、猫目は目元を指でつまんでまぶたをしばつかせる。
「気の早いやつだなあ、まだ海開きもしてないのに……。そんな調子だと鬼が笑うぜ」
「探偵長ォ、いくらなんでも僕ァ来年の話まではしてませんよ」
万年筆の脇腹についているレバーを下げ、インキ壺から真新しいブルーブラックのインキをを吸わせていた山藤悠一は、猫目の抗議するさまがおかしく、開襟シャツの胸元を盛大にゆらしながら笑う。
「たしかにそうだったな、悪かったよ……」
「ケッ、いじわるだなあ」
猫目が山藤悠一をにらむと、そこへ割って入るようなせわしないノックとともに、総務の女の子が姿を見せた。
「失礼します。探偵長、号外が届いたので、お届けに参りました」
「――号外だって、珍しいな……」
三つ編みのおさげをゆらしながら歩いてきた女の子から、丁寧にビニールでくるんだ号外を受け取ると、山藤悠一は彼女が出てゆくのを見送ってから、手近にあったハサミで袋のてっぺんを切った。
中から出てきた号外は探偵社でとっている新聞のひとつ、東京日日のもので、見出しには「日欧汽船破産 平成最大の倒産か」と大きく載っていた。日欧汽船と言えば、欧州方面への貨客輸送で鳴らしている大手の船会社である。
「ありゃ、日欧がハジけたんですか。――いつでしたっけ、一緒に晴海で出港するのを見たのって」
「地震の前の年の秋だよ。まだちょっと暑い時期だったはずだ……」
かつて、晴海の埠頭で日欧の豪華客船『りひてんしゅたいん丸』が出港するのを見送ったことのある猫目は、感慨深そうに腕を組み、売却予定が未定のままになっている貨物船、客船の一覧を眺めながらため息をつく。
「大震災で三陸のドックに入港してた『いたりあ丸』と『ふらんす丸』が廃船になってから、かなり右肩下がりだったからなあ……。この分だと、今頃株式市場は大荒れなんじゃないか?」
「そうでしょうよ、なんせ、明日からは証券価値がゼロになっちまうんですから……」
肩をすぼめて手を上げる猫目に、ふたたび山藤悠一はカレンダーへ目をやる。
「暗黒の金曜日か……。こりゃ、兜町辺りは今頃大騒ぎだろうね」
うちは非公開株でよかったねえ、と安堵すると、山藤悠一は椅子へ戻り、ほどよくぬるくなったコーヒーを口に含んでから、ふたたび書類へと目を落とし始めた。
「……シケてやがらぁ」
どこか遠くで雷の落ちたのに気づくと、猫目は窓を打つ雨音をぼんやり聞きながら、挟んだ物差しをペン立てに戻し、続きを読み始めた。なんということはない、いつも通りの午後であった。
さて、山藤悠一の言葉通り、午後の東京証券取引所は狂騒状態に陥った。日欧汽船に関連する企業の株価は秒刻みで価格を落とし、終値はここ一年で一番の底値を記録してその日の相場は幕を閉じた。このことを帰りの車の中で知った山藤悠一は猫目にそっと、こんなことをもらした。
「――首吊りするような人がいないといいがなあ。今のご時世、株だけでどうにか食ってる人っていうのが結構いるから……」
道路工事で長引く渋滞を待ちながら、小さく流れるラジオニュースをBGMに、山藤悠一と猫目大作は、銀座を覆う黒雲の去るのをじっと見つめていた。
「暗黒の金曜日」からしばらく経ち、ようやく株式市場も恐慌から抜け出したころ、銀座の探偵社をある筋の訪問客が現れた。
「探偵長、岡一証券の岡社長がいらっしゃいました。至急の用事とのことですが……」
珍しく晴れ間の出たその日、昼に取った冷やし中華の余韻を楽しんでいた山藤悠一と猫目大作は、受付からの内線に顔を見合わせた。思えば、あの大暴落は昨日の今日の出来事ではないか――。
「なにかあったらしいぞ。――第七応接室にお通しして。すぐ行く……」
ネクタイをなおし、詰襟のカラーを直すと、二人はすぐさま、二階の第七応接室へと急いだ。ちょうど人数分の飲み物をもってやってきていた総務の女の子と鉢合わせ、一緒に部屋へ入ると、よく経済新聞のコラムなどで写真が載っている財界の寵児・岡一証券の岡社長が同行していた秘書と共にすっと立ち上がった。
「突然押し掛けて申し訳ありません。何分、ことは急を要するものでして……」
ロイド眼鏡越しに、今にも泣きだしそうな目を覗かせている細身の岡社長は、山藤悠一と猫目大作が座ると、弱気な口調で事情を打ち明け始めた。
「実は、先だって倒産した日欧汽船にからんで、不正取引があったようなのです」
日欧汽船、不正取引、という字句に、山藤悠一の眉がぴくりとひきつる。
「――くわしく、お話ししていただけますか」
「実は、あの大暴落の二週間ほど前に、日欧汽船の株の売りが相次いでいたのです。このことは、破産の一報が入った後になって発覚したのですが……」
「でも、先行き怪しい会社の株でしょう? そういう売りが相次ぐのはない話じゃあなさそうですけど……」
猫目がなにをそんなに……とも言いたげな顔で言うと、岡社長は食い気味に、
「大口の株主がほんの数人ならまだわかります。しかし、今度のはどうも、そうではないようなのです。ほんの数十株持っているきりの投資信託銀行の預金者から、配当金で生活を成り立たせているような投資家の方まで、ずらりと並ぶと数百人という人数になるのです」
それを聞いた猫目は、さすがに顔色を変えて驚いてしまった。いわゆる「虫の声」で株式売買をする策士は古今東西数多といるが、いちどきに数百人というのは少し不自然である。
「たしかにそれは妙ですね。大震災以降、あまり株価はよくありませんでしたが、倒産の予兆は今の今までなかったわけですし……」
「そうなってくると、考えたくはありませんがこういう結論になるのです。――インサイダー取引が行われた、というほかに、思い当たる節はありません」
インサイダー取引、という言葉に、山藤悠一と猫目大作は顔を見合わせる。インサイダー取引というのは、未公開の内部情報を事前に利用して行う取引のことで、情報を知らない投資家へ著しい損害を与えるものであることから、法律で固く禁じられている行為である。
「そういえば、今度の日欧汽船の騒動で、肝心の株主が首をくくった、なんて話は耳に入ってきませんね」
山藤悠一の言葉に、そうでしょうとも、と岡社長はくどいくらいに頷く。
「見ようによっては善行ですが、やはり、株取引に関する情報というのはフェアーでなければなりません。ひとつ、内部取引などという悪しき裏口取引をそそのかした輩を、証券界の健全化のためにひっとらえていただきたいのです」
「――なるほど、理由はしっかり整ったわけですね。わかりました、お引き受けいたしましょう。兜町の岡一証券に近い、日本橋支局のほうに連絡をしておきますから、前線部隊として彼らになんなりとご用件はお申し付けください」
かくして、とんとんと話のまとまったのち、岡社長の乗ったタクシーが出て行ったのを見送ると、山藤悠一はぼそりと、
「――引っかかるなあ」
「なにがです」
正面玄関へ続く階段をあがりながら、後を追う猫目が尋ねると、
「なにか重大取引をしようという矢先の出来事ならいざ知らず、倒産直前の会社の情報っていうのは、あまり有益な方には転がらないもんなんだよ。だいいち、インサイダー取引っていうのは、値崩れする前に売っぱらって、値段が戻ってから買い戻しをして利鞘を稼ぐもんなんだから……これじゃ、利益らしい利益なんて出やしないじゃないか」
「そういやァ、そうですねえ……」
長い階段を一段一段、丁寧に踏みしだく山藤悠一の後ろで、猫目大作は彼の指摘した点と、岡社長の言動を照らし合わせながら目をぐりぐりと動かしていたが、先頭の山藤悠一がいきなり歩みを止めた反動で、その背中に顔を打ち付けてしまった。
「――なにするんですかっ」
「――やっぱりなにかおかしい。だいいち、関連会社でもない、一介の証券会社がなにか言ってくるのがそもそもおかしいんだ。――ちょっと法条に聞いてみよう。何かつかんでいるかもしれないぜ」
懇意の情報屋にして、職業ハッカーである青年・法条保美の名前があがると、途端に猫目はやる気を失ってしまった。もっとも、彼が法条に対していだいているのは、人を食ったような一挙一動が気に入らない、というしょうもない感情なのだが、山藤悠一が法条を信頼している以上、野暮なことは言いようがない。
「あんまり急ぐとコケますよ。待ってくださいな……」
二段飛ばしで階段を駆け上がり、部屋に置かれた黒電話へ急ぐ山藤悠一の背中を、猫目はあわてて追うのだった。
怪しいのはどっちなのか? 次回へ続く……。