第9話 記憶
薮中とベルは、宛ても無く深夜の街をさまよい歩いた。
どれだけ歩いたのであろう、曙埠頭の大型コンテナ専用船を停泊させ、
荷役などを行うための突堤を歩いていた。
昼間は世界各国から来る貨物コンテナや輸出用のコンテナが行き交い、海辺の物流拠点として
賑わっているはずだが、深夜ともなるとオレンジ色に輝く街灯が、
静かでひっそりとした埠頭を見守るかのように輝き照らし続けているだけだった。
辺りには誰も居ない突堤の先に、船を太いロープで係留するための係船柱(ビットとも言うらしい)がある。
薮中は係船柱の上にゆっくりと腰掛けた。ベルは薮中の顔を窺いながら隣に座った。
薮中は膝の上にほおづえを突きながら、沖に停泊している貨物船の微かな明りを見つめて静かに語り出した。
「なぁベルよ」
「はい」
「お前が死んだ時、私は本当に辛かった……愛する母親が死んで、
身寄りのない私に残された家族は、お前だけだったのにあんなことになって……」
「私が初めてご主人様と出逢った時、私は死にかけていました。
ラブラドール・レトリバーと柴犬の血が混じった雑種で、何の取りえもない私を
ご主人様は自分が住んでいる寮に連れ帰り、献身的な看護をしてくださったばかりか、
私を寮の番犬として住めるようにして、家族の一員としてもお母様と一緒に毎日優しく
接してくださいましたね。……本当に幸せでした」
「……なぁ、一つ聞きたい事があるんだが」
「何でしょう?」
「私の母親が末期の肺ガンで死んで、私は母親の勤めていた会社の寮に居づらくなり、
お前と二人で寮から家出した時の事を覚えているか」
「はい、無茶な方だと思っていました」
薮中はうつむいて微かに微笑んだ。
「そらそうだ。あの時、私は小学五年生だった。身寄りが無くなって、
お前と本気でどこか暮らせるところがないか探そうと思っていたんだ」
「はい。私もその気持ちは理解していました」
「私は洋服をしこたま詰めたリュックを担いで、行く宛ても無いまま歩き続けた。
お前がいてくれたから不安はなかったんだがお腹が空いてな。車道の向こうにおでんの屋台が見えて、
臭いに誘われるようにお前を連れて車道を渡ろうとした。リードを引く私にお前は突然吠えて、
私の足に噛み付いたよな」
「はい。ふくらはぎに、がぶりといかせて頂きました」
「私はその痛さによろけて歩道側に倒れて転がり、お前は車に跳ねられて、…死んだ」
ベルはうつむいてしまった。
「お前がいなかったら、私は十一才までしか生きていなかった気がするんだ」
「………」
「なぁベル、お前が身を呈して、私を守ってくれたんだろ」
「……いいじゃないですか、そんな昔の事は」
「成仏していない、こんな中途半端な存在で、辛くなかったのか」
「いいえ、いつもご主人様の側に居たので、辛くはなかったです」
「お前はいい奴だな」
薮中は優しくベルを抱き寄せ頭を撫でた。ベルはうれしそうにしっぽを振った。
「いったいあの世は、どんな所なんだろうなぁ〜」
「私もまだ行った事がないので、詳しいところは分かりません」
二人はしばらく沈黙したまま海を眺めた。
薮中がうつむき小さなため息をついたのでベルが心配して声をかけた。
「どうしたんですか?」
「私は、この世から犯罪をなくしたいと思って警官になった。なのにこんな姿になってしまった。
…まだ平和のために尽くしたかったのに、死んでしまった」
「ご主人様は死んでいるのに、生きている女性を助けたじゃないですか。
死んでいるのに世のため人のために尽くしましたよ、このままでもいいんじゃないですか」
「このままかぁ……なぁベル」
「はい」
「身は死すとも、正義の魂は死なず、だな」
「ご主人様、うまい!」
薮中は唐突に思い付いた決め台詞のカッコ良さにうれしくなって微笑みながら、
ベルと共に暗い海をじっと見つめた。
どれだけの時間が経ったのだろう、波間に浮かぶ船の明かりが動きはじめた。
そしてだんだん日の出と共に辺りが明るくなってくると、どこからともなくヘルメットに作業着姿の
港湾職員たちが集まって来て仕事をはじめた。
薮中は、屍のように身動き一つせずにうつむきながら係船柱に座っていた。
ベルはというと、久々の再会とやっと語りあえた喜びからなのだろうか、
安心しきった様子で薮中の足元に凭れながらうずくまり寝ている。
貨物船の汽笛が鳴った。その音でベルは起きてしまった。
「はぁ〜あ、よく寝た…あれ、ご主人様は寝ていないのですか?」
「あぁ、このまま起きていたらどうなるのかと思ってな」
「何も変わりませんよ」
「みたいだな。なぁベル、幽霊はみんな夜になると活発に行動するものなんじゃないのか」
「それは生きている人たちが勝手に作った迷信です。
ほら、現に私達はここで大人しくしていたではありませんか」
「死んでも足があることは嬉しいが、私の中で死ぬという概念が、がらがらと音を発てて崩れてしまったよ」
「ご主人様、悩んでばかりいるとハゲますよ」
「私の頭は形がいびつだから、ハゲたくないなぁ」
港湾労働者たちが薮中たちに気づくことなく前を通り過ぎて行った。
「ここに居たら邪魔になりそうだから、他へ移動しよう」
「はい、ご主人様」
薮中とベルは、曙埠頭を後にして再びさまよいはじめた。
ただただ街の中をさまよい、やがて夕日ケ丘駅の脇にある、夕日ケ丘商店街のアーケードまで
たどり着いていた。朝の通勤通学ラッシュも一段落して、多くの商店ではシャッターを開けはじめ、
店員たちが開店準備をしている。もちろん薮中とベルに気付く人など居る訳もない。
薮中は何気なくお茶屋の店主が店の前で薮中に背を向ける格好で読んでいた新聞を覗き込んだ。
記事には、薮中刑事死亡の記事が一面で大きく扱われ「敏腕刑事謎の死」と大きな見出しが書いてある。
薮中は新聞記事を覗き見しながらつぶやいた。
「敏腕刑事か…的確な表現だ」
すぐ脇に薮中が居ることを知らない店主が独り言をつぶやきはじめた。
「薮ちゃん」
「何だ?」
「どうして、俺より若いあんたが先に死んじまうんだよ…本当に寂しいよ」
「おっちゃんは、長生きしてくれよな」
薮中が店主の肩をぽんと軽く叩いて歩き出だした。
微かに誰かが肩に触れたような感覚を感じた店主は、辺りを見渡して首を何度も傾げていた。
薮中は思った。なぜ死んでいるにも関わらず、意識もあり行動もできるのだろう。
このはっきりしない現実の中、悶々とした思いを抱きながら晴らすすべがないことに悩みながら、
たださまよい歩いていた。ベルはそんな薮中を心配そうに時折仰ぎ見ては、寄り添って歩いていた。
書店の店主である文具(ぶんぐ)が、時折、ため息をつきながら暗い表情で雑誌の荷解きをしていると、
その隣にある肉屋トン吉のシャッターがガラガラと大きな音を発てて開いた。
中から暗くげっそりとした表情の肉屋の店主である武谷(ぶたに)が出てきて文具に話しかけた。
「おぅ、薮ちゃんのこと、知ってるだろ」
「知ってるよ。昨日のニュース見たから……」
薮中は自分の名前に反応し、文具と武谷の前で立ち止まると二人を力無く見つめた。
武谷が文具に薮中への思いを語りはじめた。
「薮ちゃん、見た目はヤクザみたいであんまり良くなかったけど、街のためによく尽くしてくれたよな」
「そうだったなぁ〜。見た目は確かに悪かったけど、商店街で万引きが増えた時――」
それは六年前の五月、暖かい日の出来事だった。
この頃、夕日ケ丘商店街では、本屋、ドラッグストア、カジュアル服の店などで万引きの被害が多発し、
商店主たちは頭を悩ませていた。そこで商店主たちは、商店街の常連客でもあり、
曙警察署の刑事でもある気心の知れた薮中に相談した。
薮中はすぐさま地域課に連絡をとり、駅前交番に勤務する制服警官に警備の強化するよう手配した。
するとパトロールは強化されたが、制服警官たちの目を盗んで万引きをするやからは、一向に減らなかった。
そこで商店主たちは再び薮中の元を訪れ、何か妙案はないか相談してみた。
薮中は腕組みをしてうつむき、じっと考えて小さなオナラを一つこいてこう言った。
「非番の日に行くから」
商店主たちは薮中には何か考えがあるのだろうと期待し、その日は帰って行った。
三日後、商店主たちが開店準備を終えて、集まりながら話をしていると、
薮中がグレーのトレーナーに着古したジーパンというラフないでたちで現れた。
「おぅ薮ちゃん。非番なのにすまないね」
と書店の店主、文具が声をかけると薮中は、
「ホントは勤務中に来るのが筋なんだが、警察は万年人手不足でな」
とやるせない話をした。その言葉を聞き肉屋の武谷は、
「勝手なことをして大丈夫なのかい」
と問い掛けてきた。薮ちゃんは少しすまなそうな顔をして
「警官の成り手が少なくてな」
と警察の内状を教えてくれた。武谷がつぶやいた。
「警官の仕事はきついからなぁ〜」
薮中は微笑みながら胸を張り、思いを伝えた。
「まっ、その分私ががんばるよ。早速そこらへんをパトロールしてくるから」
「薮ちゃんすまないねぇ〜」
薮中は商店主たちに背を向けたまま手を降って歩き去って行った。
薮中の休日を返上したパトロールが三回目を迎えた日のことだ。
文具書店の前で辺りを気にしつつ店内に入る男子高校生がいた。
薮中はその男子高校生の行動を何げなく見て直感した。
そして男子高校生との距離を見計らって店内に入った。
レジの前では文具が立っていた。
「おぉ薮ちゃん。お疲れさん」
薮中は右手の人指し指を立てて口の前にあてがった。
「しー」
薮中は、店の奥に消えて行った男子高校生が居るであろう方向をそっと指差した。
文具は一瞬驚いた様子ではあったが事態が予測できたのか、黙ってレジの前に立っていた。
薮中は男子高校生が立ち読みをする位置から右側に三メートル程の距離をおいて、
辺りにあった専門書を手にして読んでいるふりをしながら、男子高校生を観察していた。
男子高校生が英語の参考書を手にしながら辺りをしきりに気にしている。薮中はその場を移動した。
男子高校生が辺りに誰もいないと確認すると持っていたバックの中に参考書を数冊入れた。
だがその光景を薮中は本棚の隙間からしっかりと覗いていた。
「はぁ〜やれやれ」
薮中はぼやきながらレジの方へと向かった。
男子高校生はあたかも立ち読みしただけという素振りで店内から出て行った。
薮中は店の外に男子高校生が出たことを確認すると後ろから小声で呼び止めた。
「おい」
「えっ、なっ何だよ……」
「警察だ。何で呼び止めたか分るよな」
男子高校生は急にうつむいてしまった。
「万引きは犯罪だ。償いはしてもらうぞ」
店内から文具が出てきた。
「薮ちゃん……」
「万引きだよ」
「そうか…」
「盗んだ物を早く出せ」
男子高校生は戸惑う様子もなくバックから参考書を取り出すと、無言で文具に手渡した。
薮中は男子高校生の目を見据えて問いただした。
「何で万引きをした」
男子高校生はうつむいて黙り込んでしまった。薮中は問いつめた。
「遊びか、スリルを味わいたいだけだったのか、それとも転売して小遣い銭にでもする気だったのか」
男子高校生は両手の拳を握りしめ、薮中の目を見据えて語りだした。
「親父の経営していた金属加工工場が倒産して、借金返済のために働き詰めだった親父が倒れたんだ。
……だから、うちは貧乏で、金がないんだ」
「だったら自分でバイトをして自由に使える金を稼げばいいだろう!」
薮中は高校生を一喝し、文具に頭を下げた。
「なぁ文ちゃん、すまないが今回は私に免じて、こいつを許してくれないか」
「えっ、薮ちゃんがそう言うなら、実害も無かったし、俺は構わないけど」
「もう万引きなんて、絶対しないよな!」
「はい……」
「私は警官としてお前を正しい方向へ向ける。お前は将来、多くの人を正しい方向へ向ける職業に就け。
私との約束だぞ!」
男子高校生は深々とうなずき、すすり泣きだした。
商店街を行き来する人たちがすすり泣く男子高校生に目を向けはじめた。
薮中は男子高校生に恥をかかせたくないと思ったのか、男子高校生の肩に右手をそえた。
「男が人前で泣くな。家に帰って勉強でもしろ」
「はい。すみませんでした」
「早く行け」
男子高校生は深々とお辞儀をすると走り去って行った。
去り行く男子高校生をただじっと見つめている薮中の横顔を見て、
文具が微笑みながら軽い気持ちで問いただした。
「警官が犯人を逃がしてもいいのかい?」
「いけないねぇ〜。犯人隠避、逃亡ほう助ってとこか…バレたらクビかもな」
文具は軽いノリの冗談で聞いたつもりが、薮中が神妙な面持ちで返してきたことに
困惑して考え込んでしまった。
「なぁ文ちゃん、私はこの町から犯罪をなくしたい。人々が助け合って笑顔の絶えない街にしたいんだ。
ただそれだけなんだよ」
「薮ちゃん……」
薮中の発した飾り気のない本音を聞けたことに文具は心の底から感動しことを
今は亡き薮中を追悼するように、肉屋の武谷に熱く語った。
幽体離脱中の薮中は、文具と武谷を目の前で見つめている。
だが二人に見えるわけがなかった。文具は尚も薮中について熱く語っていた。
「非番だったのにわざわざ張り込みしてくれてさ。捕まえた犯人、まだ高校生だったから、
事を荒立てないで諭してさ。あの子も今じゃ立派な中学校の先生だぜ。今朝、家に電話掛けてきたよ。
薮ちゃんがいなかったら今の自分はなかったって、泣いてたよ……」
「罪を憎んで人を憎まず。顔からは想像できない、良い警官だったぁ〜」
「まったくだ」
と二人は大きく頷いていたが、薮中は納得できないでいた。
「褒められているはずなのに、嬉しくないなぁ」
ベルが薮中の足元を右前足でつっ突いた。
「いいところだけ受け取りましょう。ご主人様」
武谷は街の行く末を心配していた。
「薮ちゃんが居なくなっちゃったこの街の治安は、どうなっちゃうのかねぇ〜」
「そうだなぁ〜」
と文具も同じ思いでいたようだった。ベルはご主人様である薮中の人望厚き人柄に感動した。
「ご主人様は商店街の人達に愛されていたんですね」
薮中は少し照れくさそうに早足に歩き出してしまった。
「あっ、ちょっと待ってくださ〜い」
ベルは薮中に走り寄った。
ベルと薮中が寄り添いながら夕日ケ丘商店街を歩いていると、店のシャッターを固く閉ざした、
薮中がひいきにしていたどら屋が見えてきた。どら屋の前には改装中の工事看板がある。
薮中はどら屋のシャッターの前で立ち止まった。シャッターの脇に貼り紙がある。
そこには、「Yummy Cakes近日オープン」と書いてある。薮中はこの事実に衝撃を受けた。
「今度は洋菓子屋か。この世の移り変わりは早いな」
そう言ってうな垂れてしまった。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
「……行こう」
薮中はうつむきながら歩きはじめた。
ベルは現実を受け止めきれていない薮中を心配しながら、寄り添って歩き続けた。